大罪まとめ1

◆大罪
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◆怠惰
灯室(希望は希望に消されてしまいました)
悪魔化の後、時任と離れ契約した少女との話
優しい悪魔
彼の噂話は明かりを伝う
夜にやってくる暖かな驚異
御主人について

目の見えないあなたの為に
御主人の目について
宗教からめつつ
今日聞いてきたことを話す灯室
その話を笑いながら、時折咳込みつつ聞いて
くれるご主人
背中をさすりながらいると足音が聞こえてく

人型に変わりつつふすまの奥をみつめる
男たちがやってきて御主人を連れていく
抵抗しようとしてもだめ
とある宗教の教祖様
千里眼で未来を予知する
だが信者の前に出るのは体力のいる行為
このままではご主人の体力は削られる一方
だがしかし灯室には何もすることがない
ただ契約してその魂をむさぼりたいという衝
動を抑えるしか

優しい景色を抱いていて
御主人を守るためには魔力が必要
灯室狩りをする
御主人はその日夜になってやっと青い顔をし
て帰ってきた。
明らかに衰弱している
粥を食べさせて横にすると、荒い息の音と必
死に上下する胸が目立った
必死にひむろを呼ぶ少女
だが灯室も消えかけそうな自分のともしびを
感じていた。
彼女を守るためにはどうしたらいい、灯室は
考える
そんなことは弱い自分には不可能だ、せめて、
せめて隣にいる時間をほんの少しでも長くし
てあげたい
そして灯室は決意する
公演に住む男性を数人食べた
自分に優しくしてくれた、慕ってくれた人の
体温がゆっくりと消えていく。その光景に酷
く涙した。そしてこれが自分の主人にも起こ
ると思うと怖くなった。
そして灯室は泣きながらさらに人の魂を食べ
た。
生きるために。

朝に還るための冷たい手
狩りが終わった後かえってなく灯室
それを迎える御主人
帰る途中も灯室の涙は止まることはなかった。
あの冷たくなっていく感触が抱きしめた手、
腕、胸に残っている。
それを思い返すたびに涙が止まらなかった。
歩くたびに眦から滴が落ちる
帰ると御主人は起きていた。
布団から体を起こし、ただ灯室の名前を呼ぶ。
灯室には彼女を抱くことが出来なかった
抱いてしまえば彼女も彼らと同じくなってし
まうのではないか
そう思うと出来なかった。
応えるものの、姿はそこにない。
少女は年相応に泣いた。寂しい、触れてくれ、
そう求めた。
求められたのは初めてではない、だが彼女が
そうすると灯室のあるかわからない心が騒い

やっぱりあなたは俺のご主人だ
灯室はまた泣きながら主人を抱く。
彼女は温かいままだった

泣いた悪魔はこう諭す
御主人の容体はどんどんと目に見えて悪くな
っていた。
青い顔はさらに青く、細い腕はさらに細く、
信者どもはそれを気にも留めない。
灯室はついに信者たちの前に姿を現すように
なった
主人の世話役だと、護衛だといった
信者と会う時間を減らしても主人の容体はよ
くならなかった
灯室は困り果てた
そして一人の男に頼ることにした。
地獄へ下り時任に会う
それは一種の呪い、病魔の進行を早める
解くことは今の灯室には不可能、契約をする
しかない。
だがその呪いを説いた瞬間お前は死ぬだろう
時任は見捨てることを進める
だが灯室はそれを承諾しない
君のところにいた時とは、僕の目は変わった
ろう
自分でもわかるのだと、鏡で見るのだと
彼の目は爛々と子供のように輝いていた
それは、あの主という少年に酷似していると
灯室は思った
僕はもう、悪魔じゃないのかもしれない
もう好きにしろといった彼は、ほんの少しだ
け泣いていた。

抱かれて貴方は涙を呑んだ
地獄から帰還する。
もう彼女は体を起こすことすら苦であるよう
だった。
苦悶の表情を浮かべて、それでも灯室を視界
にいれた彼女は灯室に手を伸ばす
声の出ない唇を必死に動かして「おかえり」

その様子に灯室が感じたのは間違いなく愛し
さであった
悪魔に似つかわしくないその暖かな感情が、
今灯室の胸を満たしていた。
そして灯室は覚悟を決める
契約をしよう
そう灯室は主人に願った
怠惰の悪魔であった彼が、その悪魔の本文に
逆らいながら決心した結果。
さぁキスをしよう。僕があげることのできる
小さな祝福を。
そして彼女の意識は沈んでいく。
その意識が改めて登ったとき、そのとき、彼
女のもとにあの優しい蝋燭の光はなかった。

まさに悲劇と誰かが言った
いなくなった灯室について語る面々
彼女は健やかな身体を手に入れた
自分の治める団体を正しい方向に導き、悪し
きものは排除し、その凛とした目を濁らせる
ことなく、まっすぐとした意思を歪ませるこ
となく生きている。
だがその傍らに、その姿を見ることを一番に
望んでいた存在はいない。
夜になると彼女はその視力の低い目を覆って
泣いた。
彼女を支えてくれた彼はもういない、彼女の
重圧を共に背負ってくれることはない。
その背中は寒さに震えているのに、それを温
める灯はない。
それを二人の男たちが屋根の上から見ていた。
黒髪と、紫と、闇に馴染むその二色は、彼女
を見ると悲しげに笑った
これが彼の望んだ結果なんだね、君はどう思

何も思わない、思ったって変わらない
そうだね、彼はもういない。君と違って
……
浅ましくこの世に残った君とは
うるさい
そして黒は姿を消した。
紫は一人屋根の上、彼女をじっと見つめなが
ら妖艶な仕草で自らの唇をぺろりと舐めた。
ほんと、かわいい
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◆憤怒
時任(寛容すぎた器は壊れてしまった)
悪魔化の後
人間いじめ

八つ当たりもいいとこだ
女の人発見

気紛れにつついた芽
男の人を小さくして

少しの傷で強くなる?
女性、子供と同居生活を開始

花にわいたのは蛆か蝶か
女の人に異変

甘い水が好みのようで
異変に気付く時任、問いただす

朽ちた根
女性の現在の状態を描写、取り返しがつかな


むしられた花弁
止めようとするものの抵抗する女性

また繰り返せと背を叩く
女性との生活を壊し地獄へ帰っていく時任
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◆嫉妬
グランス(得られなかった慈愛)
生まれながらの赤目
愛された黒目
加虐と幸福の青目
努力と欲望の緑目
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◆色欲
リャーガン(奪われた友情)
生まれてすぐ
生まれても死んでもいない誕生日
僕たちの小さな箱庭
窓の奥の輝き
少しだけの本当
イレギュラー
ここが居場所
愛されるべき存在
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◆暴食
餓供(忍耐なんて糞くらえ)
過去回想
純粋すぎた子供
断片的な幸せ
幸せの端っこ
みんながいれば
ふたりぼっち
僕の名前
だから、ごめんね
お前が一番恐ろしい
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◆強欲
ジン(自制を他者に踏みにじられた男)
優しい人たち
温かな母様
名前
愛しい娘
悪魔の契約
クーデター
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◆傲慢
スラ(限られた誠実は傲慢へ堕ちる)
悪魔化の後
永遠の無
まさしく悪魔となったのだ
だからこれが罰なのか
ラウンド1356
もしもこのまま消えたなら
私で作った花束を
私は人間になりたい
花瓶に活けてあげましょう
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◆チェンジ
時任満明。
21歳男性、6月10日生まれ。
身長187センチ、体重72キロ。
好きなものは飲食物、嫌いなものは特になし。
現在○×大学医学部に在籍、成績は優秀な模
様。
将来は実父の経営する小さな診療所を継ぐ予
定。
家族は父一人、母は幼い頃に他界。それ以来
彼が家事の一切を取り仕切っている。
ただの、真面目で普通な人間である。
特筆するところのない、医者を目指す青年で
ある。
そんな彼に、かれこれもう10年続く悩みが一
つあった。その悩みは時任家の郵便受けを覗
けば、もしかしたら鈍いと自負しているかも
しれないあなたでもすぐにわかることだろう。

[まだ、まだ、なまぬるい]

「うっわ」
郵便受けから新聞を取り出す、それが彼の朝
の仕事のうちの一つだ。
なぜか、と問われれば、彼の父親は彼の作っ
た朝食を新聞を読みながら咀嚼するから。新
聞の文字を目で追いながらトーストをかじり
コーヒーをすすりヨーグルトを掻き込んでサ
ラダを胃に押し込むから。そうしないと父親
の機嫌はすこぶる悪くなる。拗ねる、といっ
てもおかしくないそれを直すのは重労働だ。
そのことを今まで四半世紀に満たない人生で
満明は学習している。そのため満明は朝の空
気を吸うことも兼ねて家の前までわざわざサ
ンダルを突っかけて出向く。
その仕事にまさか、いや、この仕事のせいと
は言い難いが、こんな憂鬱な心持ちにさせら
れるとは。
ぱんぱんに紙の詰まった郵便受けを見て、満
明は冒頭の通り小さく声を上げた。新聞の大
半の部分が口からはみ出している。新聞を抜
いて中をのぞいてみると、中身は色とりどり
の封筒でぎっちりと詰まっていた。色は白だ
ったり、クリーム色だったり、桜色だったり、
はたまたよく目立つ黒色だったりとまちまち
だ、その鮮やかさにめまいがする。それがい
ったい何通あるのだろう。数えるのも嫌だ、
面倒くさいにもほどがある。
そんな満明の思考は表情から簡単に読めてし
まった。だがこのままで放置するというわけ
にもいかないのだろう。新聞と封筒を抱えて
家の中に戻る満明。
見る限り宛名もその筆跡はみな同じだ、全て
満明宛のものだ。どうせ中身などどれも同じ
だろう、一通だけ開けてみればいい。
そう決めて、一通を残し他全てを自分の部屋
に投げ入れる。あとで全て燃やしてやる、そ
んな決心がありありと見える荒っぽさだ。ダ
イニングの机の上に新聞を置くと、鋏で封筒
を裂いていく。特にカッターの刃などが仕込
まれている様子はない。中身は封筒と同じ桜
色をした便せんだった。無理矢理押し込んだ
んだろう、少しいびつな形をして五枚ほど入
っている。なんとなく紙が可哀想に思えるが、
こう言ったものに同情するのも満明はもう飽
きていた。うんざりした様子で紙を開き、隠
れた文面に目を通す。
[拝啓 時任満明さま]
手紙はそんな宛名書きから始まっていた。今
まで読んできたものの中では良心的なものだ
といえる。だが内容はとてもありきたりなも
のだった。「ずっと見ています」「運命的な
ものを感じました」そんな文言がひたすら並
ぶ。うるせぇ知るかそんなん勝手に感じてろ、
なんて、もし手紙の主と対面していたら満明
はそう吐き捨てただろう。だが手紙で来られ
たらそうも言えない。一枚目で読む気もなく
なったそれを机の上に投げ、満明は朝食の準
備を始めた。といってもあとはトーストを焼
くだけで、それもトースターの役割なのだけ
れど。
「おう、起きてるかい」
食パンを二枚機械に食わせたところで、のそ
りとリビングにもう一つ影が落ちる。無精ひ
げとよれたパジャマが似合うその男性は、ど
ことなく満明に似ている。もちろん彼が満明
の父親であった。
「ああ。もうちょい待てよ、出来るから」
「あいよ……ってなんだい、またお手紙か」
父親の指がそっと便箋をつまんだ。何かを警
戒するように、読む前にじろじろと観察して
いるようだ。この親は知っているのだ、これ
がどういった意図をもって送られているもの
かを。
「ふっつーの手紙だ、気にすんなよ」
「ふっつーの手紙でも三ケタ超えりゃあ犯罪
だぜ」
「まだ50超えたくらいだぜ、親父殿」
それでも大したものだろう。そう言ってくれ
る人間はこの空間には存在しなかった。父親
が呆れた目で見てくるのをスルーしながら、
満明はさっさとトーストを取り出して食卓に
着いた。今日のメニューはいつも通り、トー
ストとヨーグルト、ハムエッグにサラダであ
る。
「お前もよく耐えられるもんだよなぁ」
折角満明が取ってきた新聞に触れもせず、満
明の顔を見ながら父親は食事を開始した。トー
ストにかじりつき、唇のわきにイチゴジャム
をつける。何が、と満明が呟けば咀嚼の音が
止んだ。
「これで何人目のストーカーだ?しかも大半
が男だろ」
もうこれを読んでいる方はとっくの昔にお気
づきの事だろう。そう、時任満明の抱える唯
一の悩み、それは度重なるストーカー被害で
ある。
「大半どころか100%男からだぜ」
それも、男からの。
額を押さえている父親をよそに、満明はゆっ
くりとした所作でコーヒーを一口すすった。
量重視で味にこだわらない満明が唯一凝って
いるのがこのコーヒーであるが、今日もいい
味だったらしい。口元をゆるめてカップをテー
ブルに戻す。黒々とした液体が自分自身を映
していることに気付くと、その表情は再び締
まった。
「普通ならノイローゼものなんじゃねぇのか
い」
「いつのまにか臨床心理の検体リストに入っ
てたことはある」
「洒落にならねぇじゃねぇか」
ここで満明が今まで受けてきたストーカー被
害について話しておこう。
彼が最初にそういった犯罪行為に触れたのは
小学生の時である。満明少年は体の発育がよ
く、小学五年生の時分にはすでに中学生に時々
間違えられる程度の体躯を持っていた。そし
て顔も中々に整っていて肌も白い。すこし癖
を持った髪の毛は彼の鋭い印象を柔らかくし
て親しみやすさを持たせた。要するに彼は誰
もが認める美少年であった。だが彼の周囲に
集まりはやし立てる取り巻きたちとは違い、
その満明少年は、孤立というほどではないが
友人といることをあまり好まない性格であっ
た。その日もさっさと帰って遊びに行こうと
いう友人たちと別れ、一人で図書室にいたの
である。その帰り道、彼は家の鍵を首からぶ
ら下げながらゆっくりと歩いていた。その手
には本が開かれていて、すれ違う大人たちは
危ないよ、と時折注意するものの温かい目で
彼のことを見守った。一つ、その目に別の温
度を持った男がいたのだけれど。
「……?」
満明少年は何かと聡い子供であった。何か気
配を感じ、くるりと後ろを振り返る。そこに
は、中年だろうか、でもスタイルは悪くない、
むしろ紳士という言葉が似合いそうだ、そん
な男性が一人いるだけだ。きっと行く道が自
分と同じ方向なのだろう。本を読みながら歩
く自分が珍しいのだろう。何もおかしいこと
はない。満明少年は目線を本に戻しまた歩き
出す。そしてまた気配を感じ、振り返る。そ
れを何回か繰り返すうち、おかしいことに気
付いたのだ。
後ろを歩く男性と距離が全く変わらない。
青年と小学生だ、すぐ追い抜かされてしまっ
てもおかしくないというのに……。
満明少年は覚悟を決めてもう一度振り返った。
そしてそのまま、足をぴたりと止める。その
行動が予想外だったのだろう、本来ならば諦
めて通り過ぎるのがセオリーであろうに、男
はほぼ同時に立ち止まってしまった。
「何してんの、おじさん」
繕う気はなかった。率直に問うてくる満明少
年に戸惑っていたその男性は、やがて諦めた
ように口を開く。
「君を見ていたんだ、満明君」
男の声は男の容姿とよく似合って、低く心地
の良いものだった。男は満明少年の直ぐ側ま
で寄って、それから膝を折る。見上げてくる
男の目をのぞき込みながら、満明少年はどこ
か懐かしいような感覚を覚えていた。なぜか
は知らない。だが彼はこの目を知っていたの
だ。
「おじさん、俺と会ったことある?」
素直に疑問を口に乗せた満明少年に、男は顔
を輝かせた。ずっと恋いこがれていた少年が
自分のことを覚えてくれていた。少女なら覚
えがあるような片思いの感覚を、男は今ひど
く歪んだ形で覚えていた。
「残念ながら私は君を見ていただけだよ。嬉
しいな、少しでも君の中に残れているなんて。
ああそうだ、会えたらずっと言おうと思って
いたんだ。こんな時間に一人で歩くのは感心
しないよ、しかも本を読みながらなんて危な
いじゃないか。ここいらはまだ治安もいい方
だけど絶対に安全というわけではないんだよ?
私が見ていたからいいものの、誘拐に遭って
いたかもしれない。君みたいな可愛い子が誘
拐に遭ったらきっと帰してもらえないよ。ど
こかに売り飛ばされるか……犯人に好き放題
されてしまうかもしれないね?いやだろう?」
男の息づかいが段々と荒くなっていくのがよ
くわかった。満明の細い肩を掴んだ男の手も
ひどく熱い。少し涼しくなってきた夕暮れ時
だからか、その熱さがじっとりと小さい身体
に浸食していく。
「満明君、おうちに帰ってもお父さんは居な
いんだろう?病院は大変そうだしね。いくら
家だからって安心してはいけないよ?今は鍵
なんて簡単にピッキングが出来る時代だ、や
っぱり誰かと一緒にいるのが安全だ」
チャリ、と満明少年の胸で金属のすれる音が
する。いつのまにか男は鍵を取り上げて自分
の掌にしまい込んだ。
「おじさんのうちでお父さんが帰ってくるま
で待っていたらいい。なんだったらご飯も一
緒に食べようか。大丈夫、お父さんが帰って
きたらすぐわかるようになってるから、ほん
の少しだけだよ」
満明少年は動けなかった。じっと目の前にい
る男のうつろな目と紅潮した頬を見つめてい
た。その目はどこか焦点があってはおらず、
男のその後ろ、影のようなものを見ているよ
うにも見えた。それに男は気づいているのか
いないのか。その細い肩をグイと引き、自分
の行きたい方向へと進ませようとする。
「俺、行くって言ってない」
するりとその手をすり抜けると、にこにこと
満明少年は笑って男を手招いた。その表情は
いつもの大人びた彼に比べて幾分か幼く、沈
みかけた夕焼けにきらきらと輝いていた。あ
りきたりな表現であるが白魚のような指先が、
ゆらりと泳ぐように揺れる。
「まだ俺遊びたい。鬼ごっこしよう、おじさ
ん鬼」
無邪気だ。
男はふらりと足を進めた。満明少年の歩幅は
男のそれよりもずっと小さい。だから、満明
少年がいくら早歩きで行こうが男は歩いてい
れば離れずについていけた。満明少年は時折
振り返ると、男の存在を確かめるように笑う。
その笑顔が見られるたび、男の胸の内は満た
されるようだった。今まで遠目から見ている
だけだった天使のような少年が、今こうして
自分を相手に戯れている。それだけでこの世
が天国のように思えたのだ。今進んでいる細
い路地がまるで広がる花畑のように。右、右、
突き当たるまでまっすぐ進んだら今度は左。
誘われるままに足を動かした。
そして追いかけていたはずの天使は一つの建
物の中に潜り込んで一言吐き捨てたのだ。
「すいません、変質者に追いかけられていて」
これが、満明少年が経験した初めてのストー
カー騒ぎである。
それ以来、彼は年に一、二度、多くて三度の
ストーカー騒ぎを起こされた。父親の仕事の
都合上引っ越すわけにもいかず自衛を余儀な
くされた満明は、仕事を継ぐための頭と共に
体まで鍛え、そしてそれにより更なる被害を
呼びつつ、こうして平穏と何とか呼べる日々
を送っているのである。
「ま、今までも何とかやってきたんだ。今回
も大丈夫だろうよ。心配すんな、親父」
そうして満明は父親との話題を切った。それ
以降は父親も新聞に目を向けて、お互い無言
で朝食を終えると流しに食器を置いて荷物を
持つ。
学生の本文は勉強だ、おろそかにするわけに
はいかない。本日は平日であり、世間一般の
学生の例に漏れず満明もしっかりと講義の予
定が入っていた。
「今日早帰りだけど、なんか食いたいもんあ
るか?」
「いーよ、有り合わせでいいからおとなしく
家に居やがれ」
「過保護過ぎんだろ」
「お前がさせてんだよバァカ」
学校帰りの買い物位でそんな警戒することも
ないだろうに。
小さく笑ってから満明は家を出た。
郵便受けにはまた一通、便箋が放り込まれて
いる。
もしかしたらまだここらへんにいるかもしれ
ない。会いたいような会いたくないような、
そんな人物をきょろきょろと探しながら、彼
は今日もいつも通り学校へと急ぐ。



*  *  *


「ただいま」
朝父親にした宣言に違いなく、満明はいつも
よりずっと早い時間に玄関の扉を開けた。
有り合わせでいい、そう言われたがその手に
は近くの商店街で買った野菜やらがエコバッ
グに入って抱えられており、今日は夏にもか
かわらずあえてのキムチ鍋の予定である。
夏バテも怖いし、なんだかんだで自分も父親
も大食漢だ、きっと一日で食い尽くすだろう。
そう考えてのセレクトである。
夏の昼間、すっかり閉めきっていた室内はむ
っとして汗をかかせてくる。
シャツを脱ぎ去って中に着ていたタンクトッ
プ一枚になると、窓を開けるより先に買って
きたものを冷蔵庫に詰め込む。
漏れ出てくる冷気が気持ちよく、ついつい満
明は目を細めた。だがこのまま開けておくわ
けにもいかず、少々ためらったもののおとな
しくその扉を閉める。
まだ時刻は三時の半分を過ぎた頃だ。今から
鍋の準備をするにはまだ早い。部屋で軽く今
日の復習でもして時間をつぶしてから、それ
から準備に取り掛かろう。
そう思い至った満明はリビングや廊下の窓を
一つ一つ開けながら自分の部屋を目指す。生
ぬるい風が室内に入ってくるのを感じながら
目的の部屋の扉を開けた。
「おかえりなさい」
とたん聞こえてきた言葉には流石の満明も驚
いた。
室内はクーラーのおかげかひんやりと涼しく、
行く前に床に投げていった手紙の束は綺麗に
机の上に束ねて置かれていた。起きた時のま
ま皺だらけになっていたはずのシーツはぴん
と張りなおされていて、そこには一つの影が
ちょこんと座っている。カーテンが閉め切ら
れているせいでよくは見えないが、自分と同
じ、またはそれより年下の男性のように見え
る。少なくても女ではない、やはり割合は10
0%から変化はなかった。
「おい、誰だ」
「聞かなくてもわかるでしょう?意地が悪い」
わかんねぇから聞いてんだよ。なんていう言
葉は呆れて吐いた溜息と一緒に流れていって
しまった。頭痛がする。手持ちの頭痛薬を口
の中に放り込みながら、満明はじっと暗闇の
中にいる男をなんとか確認しようと足掻いた。
やはりその男に見覚えはなく、心の中でそっ
と満明は首をかしげる。面には出さない、出
せば逆効果だ、経験でそんなことはわかりき
っている。
「手紙、読んでくれたんでしょう?返事はな
かったけど、来ちゃった」
手紙とは今日回収したあれの事だろう。一ペー
ジ目で、というか数行で諦めてしまったがき
っとそのあとに彼の言うような旨が書いてあ
ったに違いない。満明は少しだけ後悔した、
だがすぐに思い直した。この手のやつはなん
とか拒否のサインを送ってもこうして侵入を
果たす。無駄な労を担いたくはない。
「鍵、閉まってたろ。どうしたんだ」
「ふふ、手先は器用なんだ」
ピッキング、と暗に言いたいのだろう。ここ
でも満明の過失が発覚した。鍵穴を注視して
おけばなんとか予測がついたかもしれない。
「で、用件を聞こうか」
この件に関して満明は経験則からか見通しが
大分立っていた。目の前の男がどういった反
応をとるのかはまだわからないが、どういっ
た話題を切り出してくるのかは予測がつく。
ここで満明のスペックを確認しておくが純日
本人の身長187センチ、体重72キロ。体格は
いい方だ。そしてこの男は変態をことごとく
引き寄せる。
「俺の彼女になってください。幸せにしてあ
げるから」
これだ。
彼女はやめろ、せめて恋人って言え。
そんなずれた突っ込みをしたくなるほどに、
満明はこの手の言葉を聞いていた。そのずれ
た突っ込み通り恋人と言ってくるやつはいい。
まだ正常だ、まだ男扱いしてもらえている気
がする。だが幼少時代ならまだしも、こんな
体格のいい男を女扱いしたい、養いたい、そ
んな願望を持つなんて歪んでいる。憤りと羞
恥に身を任せて殴り倒したい。そんな願望を
満明は虚ろな目の奥に抱えていた。
予想通りの切り出しに、先ほどの物よりずっ
と重い溜息をつく。
よろりと椅子に座り込むと、男は満明の足元
にしゃがみ込んだ。
膝の上で手を重ね、やっと見えた大きな目を
上目使いして満明に媚を売る。
「君の事をずっと見てきたんだよ。君の事な
らなんだって知ってる。身長体重好きなもの
嫌いなもの今何をしているのか将来どうなり
たいのか家族構成今まで身の回りで起きてい
たこと全部。今まで変な人に付きまとわれて
きたんでしょう?大変だったよね、これから
は俺が守ってあげる。一杯勉強したんだ。盗
聴器とか監視カメラの見つけ方とか、ちょっ
と参考にしたりとかもしたけど、これからは
それもいらないね」
「ってことはこの部屋についてんだな監視カ
メラと盗聴器。またあら探しかよめんどくせ
ぇ」
満明は視界に垂れ下がった前髪を掻きあげな
がらうんざりとした口調で言った。
そう、初めてではないのだ。慣れきっている
彼についても若干の恐ろしさを感じるが今は
それどころではない。
男はいまだ満明の足元でにこにこと彼のこと
を見つめている。彼からの答えを待っている
のだ。きっとイエスという色よい返事が返っ
てくるのだと疑わず、自分のものだというよ
うに満明の膝をゆっくりと撫でながら。
だが残念ながら、そして当然ながら、現実と
いうのはそんな都合よくいかないものである。
「残念ながら今恋人は募集してないんでな。
帰ってくれ。盗聴器云々はあとで自分で探し
て捨てる」
じゃ、そういうことで。
そして満明はスマホを取り出すと慣れた手つ
きである場所へメッセージを送った。この送
り先はいずれわかることなのであえてここで
は言わないことにする。
そして足元の男を邪魔だとばかりに軽く足で
小突くと、立ち上がって扉を開ける。
「出来れば手紙は回収していってくれると助
かるが、まぁそこまで言わん。大人しく帰っ
てくれるのが一番だな」
男は座り込んだままだった。どこか茫然とし
ているようで、じっと満明の方を見つめてい
る。満明は吐きたかったため息を一度じっと
こらえた。ここで動いたら、どんな感情でも
少量でも見せたらいけない。そこに付け込も
うとしてまだ足掻こうとする。そんな例も少
なからず見てきたのだ、満明は。
「どうして?」
男はぽつりと誰に対してでもないように言っ
た。
「だって、俺が一番君のことを理解してる、
知ってる、わかってあげてる。きっと、きっ
と他の誰よりも君を楽にしてあげられる。自
信がある、そんな未来が見えるんだ、それな
のに」
ぶつぶつとわけのわからないことを言い出し
た男に、満明はいつも通り呆れを通り越して
憐れみを抱いた。
とんだ勘違い野郎だ。図々しくて、見苦しく
て、そして可哀想だ。
なんで俺に寄って来るやつはこんなのばっか
りなんだろう。
そしてなんで俺はこういうやつを見ていると、
「別にお前みたいなやつが嫌いなわけじゃな
い」
安心するんだろう。
「でもな、なんかものたりねぇんだ」
「監視カメラとか仕掛けられても、手紙山ほ
ど送られても」
「どっか、なんか抜けてる感じがする」
「お前らも変態だなって思うけど、俺もどっ
こいじゃねぇかなとか思ったりな」
「まぁ、なんだ、上手く言えねぇんだけど」
満明はいつものきっぱりとした口調から離れ
て、どこかたどたどしく言葉を選ぶように語
りだした。
頬は紅潮して、懐かしさを帯びた瞳をして、
初恋を語る少女のような表情で、ぶつ切りの
言葉をかろうじてつなぎ合わせた。
だが目の前にいる男からしたらその言葉もか
わいらしいと言ってもいい表情も死刑宣告に
近く、彼は小さく問うたのだ。
「じゃ、じゃあ……どうしたら、僕は君を満
たしてあげられるの?」
まだ少し飾ったような口調ではあったが、大
分彼の心は崩れ始めていた。目はゆらゆらと
湖畔に滲み、腕は小刻みに震える。
その様子を満明はまるで子供を見るような優
しい瞳で見つめていた。
そして彼に近づいてしゃがみ込み、肩を軽く
叩くと、耳元で流し込むように言った。
「俺の遺伝子配列把握してから出直してきな」
玄関の扉が開く音がした、騒がしい足音もと
たんに複数聞こえてくる。
足音はまっすぐ今満明たちのいる部屋に近づ
いてきて、部屋の中を覗く。
見えたのは紺色の制服で、本来ならばテレビ
か交番くらいでしか見ないであろう制服警官
の姿がそこにはあった。
「お疲れ様っす」
「もう勘弁してくださいよ……どうせなら署
まで連れてきてください」
「無茶言われちゃ困りますよ。俺はこのまま
夕飯の支度です」
慣れたように会話をする満明。それはそうだ
もう何年も被害者という立場で御厄介になっ
ていれば警察関係者に知り合いも多い。アド
レスを交換している人間も多くいて、先ほど
送ったメッセージもその中の一人に向けての
ものだった。
ずるずると引きずられていく男を見送りなが
ら、満明は考える。
そういえばここまで自分の中身を吐露してや
った奴は初めてかもしれない。
最近のストーカーが電話程度の軽い存在ばか
りだったからかもしれないが、それでもやっ
ぱり自分にしてはおかしいことだ。
冷静に自己分析をしながら、満明は玄関まで
厄介なものを回収してくれた警官を送ってい
った。
最後まで男は満明に視線を送っている。もう
その目に期待はないが、せめて何か、と縋る
ような、そんな目だ。
そんな目を見つめ返しながら、満明は無慈悲
にも言ってやるのだ。
「チェンジ」
軽く手を振ると扉は閉まった。
外から聞こえてきた嗚咽なんて、きっと気の
せいだったのだろう。


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◆死に帰った日
その少年は、待ってましたとばかりの満面の
笑顔で手を叩いた。
椅子に座った足をゆらゆらとさせて、手を叩
き、頬を紅潮させ、口角をあげ、そこまでは
見た目の年齢に即した、サーカスを前にした
子供そのままだった。愛らしく、庇護欲を掻
き立てられる。
だが俺の遠い記憶はその印象のすべてを否定
して、残った残骸をため息とともに吐き出さ
せた。

「似合わないぜ、やめとけよ」

呆れが過ぎて、言えたのは漸くそれだけだっ
た。
その一言を聞いた途端、少年はその愛らしい
表情、仕草の全てを拭い去る。足をゆったり
を組み、肘かけに肘をつき、背もたれに体重
を預ける。口元は含む感情を変えて、その愛
らしさの分だけ人をあざけりながら、ふっく
らとした頬に手のひらを当てる。

「おかえり、時任。いや、時任満明」
「ただいま、大罪の主。俺の憤怒の根源よ」

柔らかな声で戯曲のようなわざとらしいあい
さつを交わし、座れ、と促されたソファーに
座る。ふかふかとしたクッションに体重を預
けながら、沈み込む体に少し驚く。

「お前用にあつらえたものだ、いい座り心地
だろ?」
「無駄遣い、の一言に尽きるな」
「お前は俺の気に入りだぞ?これくらい当然
だと思わないか」
「その気に入り、の後に続くのが「オモチャ」
じゃなけりゃあ喜んださ」
「…………可愛くねぇ」
「ありがとう」

膝に肘を、手のひらには顎を。決して行儀の
いい姿勢とは言えないが、向かいにいる存在
を思えばこの程度が妥当だろう。憎まれ口を
叩くわりには少年の顔は楽しそうであり、ど
うせここでどんな態度をとったとしても彼は
俺で遊ぶのだろうと思った。
大罪の主、憤怒の根源。
この二つが表す地位と言えば、今いるこの世
界自体を統べるものだ。
今まで使っていた言葉を使って表すならば、
魔王、といったところだろうか。色んな言葉
は浮かぶが、どれも正解であって正解でない。
目の前にいる彼は笑っている。逃がしてやっ
た気に入りのオモチャが帰ってきた。その事
実は確かに彼の小さな、機能しているかもわ
からない心臓を高鳴らせたことだろう。その
感情を隠しきることはできない。

「可愛くないことはわかってたはずだろう?
お前はずっと俺を見てたんだろうから」
「俺は全ての人間を見てるよ、お前だけが特
別なわけじゃない」
「だが俺はお前の気に入りだ」
「自意識過剰もいいところだぞ?お前にたか
っていた男どもと僕は違う」
「あんなに手間暇かけて調教したのに―――」

ぴくり、彼の眉間に皺が寄る。
にんまり、俺の口が月になる。

「逃げられたのが、悔しかったんだろう?」

王ともあろうものが、たった一つの、塵にも
等しい存在を自由にできないなんてな?
舌打ちが一つ、ぱちんとひとつ指が鳴る。
俺と彼と、二人の間に現れたのは机。どさり
と乗った紙の束と、小さな人形が一つ。その
人形には一つ心当たりがある。俺が記憶違い
をしていなければ、それは確かに俺のものだ。

「テフル」
「はい、我が主」

指先ひとつで、魔力をほんの少し。人形に注
いでやればそれは俺の記憶の中の姿そのまま
に動き出す。昔の俺と揃いのスーツ、むき出
しになった顔の骨。俺の召使い。

「僕が預かってた、お前に返そう。地位もそ
のまま、お前には憤怒の補佐として働いても
らう」
「何か変わったことは?」
「ございません。仕事も、ある程度は私が整
理しておいてございます」
「goodboy」
「私は犬ではございませんよ」
「変わったような、変わってないような……
まぁ、無事に帰ってきて何よりだよ、僕は」

先ほど俺がため息をついたように、彼が今度
はお返しとばかりに溜息をつく。前の俺がさ
んざ困らされたこの男だ、少しくらい困らせ
たって罰は当たらない……はずだ、彼の機嫌
がよければ。俺用だというソファから体を持
ち上げ、懐かしい従者の頭を一度撫でてから
机や対面の椅子に背を向ける。
用はもうなくなった。
言葉ではなく背中で、そう告げてやる。

「満明」
「お前がそう呼ぶな」

ふり返ることはしない。短く答えながら、スー
ツのポケットに入っていた煙草、ライター、
それらを捨てる。
時任であった頃の俺の名残、満明となった今
でもこびりついた、彼の好みのアクセサリー。

「よく似合った名前だよ」

もう呼ばれるかはわからないけれど。
意地の悪い言葉が空気に溶けた気がしたが、
それはそっと聞かなかったことにした。

*  *  *

どっと疲れた気がした。24時間も経っていな
い、12時間も経っていない。おそらくは刹那
にも似た時間であったはずなのに、酷く疲れ
ていた。
開いた扉の先にはこじんまりとした一軒家の
玄関が広がっていて、先ほどは気にもしてい
なかった礼儀を思い出して脱いだ靴をそろえ
る。スリッパもはかないでぺたぺたと進んだ
先にあるリビングでは、先ほど座っていたも
のにもよく似たソファが鎮座している。
そのただの家具であるはずのものを見て、俺
は自分の口が緩むのを堪えきれなかった。肘
置きのすぐ近くからはみ出したはだしの足が、
おそらくは呼吸に合わせてゆらゆらと揺れて
いる。
眠っているのだろう、くすぐって起こしてや
ってもよかったが、それは少し意地が悪い。
首を吊ったのは正午程だったろうか。だとし
たら今は八つ時頃のはずだ。菓子と茶でも用
意して……ゆっくりと自然に起きるのを待て
ばいい。もし起きなかったら、そのときには
夕飯にでも起こしてやろう。

「ただいま、小鳥遊」

挨拶は習慣だ。起こす目的はなく小さな声で
ただ呟いて、リビングに入る前に身を翻す。
砂糖たっぷりのミルクティーには何が合うか。
甘さを控えめにしたクッキー、少し苦いマー
マレードを添えたスコーン、それとも小さく
切りそろえたサンドイッチ。
暇つぶしがてら、指折り数えて考える。どれ
でもよくて、どれでも駄目だ、要するに決め
手に欠ける。
頭とは反対に、この両手は手際よく冷蔵庫、
棚、それぞれを確認して、湯を沸かす。
茶葉とミルクと、たっぷりと時間をかけてお
そらくはもらい物だろうマカロンを茶菓子に
任命して、沸かした湯でカップを温める。今
寝ている奴の分はあとから淹れればいい。と
りあえず一人分の茶葉をポットに入れ、続い
て湯を注ぐ。
ふわりと擽るように香る紅茶の香り。家では
コーヒー党であったはずなのに、それはどう
も懐かしさを感じさせる。20年か、数えきれ
ないほどの長い年月か。どちらが重いかと考
えてしまえばそれも当然であった。
あの20年が些細なものであった、とは決して
口が裂けたとしても言わないけれど。

「いいにおーい……」

紅茶はまだ蒸らしている段階であった。
背中にかかる重みと体温が、紅茶にかかりき
りであった俺の思考をぐいと引き寄せる。
ぐりぐりと額を押し付けるそれを何とか視界
に入れようともがくが、皮肉にも自分の肩が
邪魔をする。

「おはよう、寝坊助」
「ときとーくん……」

正体も何もあったもんじゃない。なんとか腕
を回して頭を撫でてやると、半分眠気に蕩け
た声で返事になっていない返事が返ってくる。
まだ眠いなら寝ていればいいのに、と思うが、
今寝かせたら夕飯時には起きてくれないだろ
うからそれは諦めたままでいてもらおう。

「紅茶淹れるから。おやつ食えるか?」
「たべる……」

カップや紅茶を二人分にすると、それを持っ
て小鳥遊を引きずりながらリビングに移動す
る。
先ほどまで小鳥遊が寝ていたソファーの上に
は、かけてあったはずの毛布がぐちゃぐちゃ
になって置いてある。机に諸々が乗った盆を
置いてから、それを畳んで座る場所を整えた。
ちょこん、なんて効果音が似合うように、二
人並んで座る。

「お疲れ様」

移動の隙にすっかり小鳥遊の眠気は覚めてい
たようで、はっきりとした声でねぎらいの言
葉が掛けられる。外出していた件だろう、推
測を立ててああ、と小さく返事を返せば、じー
っと見つめる視線が寄越される。

「僕養うのに」
「ヒモは勘弁だな」
「家事してくれればいいよ」
「最終的に乗っ取られるのが目に見えてるか
ら嫌だ」
「ときとーくん……」
「……ずるい手使うのやめなさい」

全部御見通しなのだ。
紅茶を一口飲んで、不毛な会話をさらりと流
す。
今思えばこれこれ、と納得して思ってしまう
小鳥遊のこの駄々っ子のような執着だが、や
はり今これを完全にのんでやるわけにはいか
なかった。
そもそも、元々大罪補佐の地位がなければ俺
は小鳥遊に近づける存在ではないわけだし、
こうしてともに暮らすことにも首を傾げられ
そうなことなのだ。周囲の声を黙らせるため
には、職への復帰はしなければいけない序列
第一位。しない選択肢はない。するまでの手
段は随分と小ずるい手を使ったわけだが。

「魔王におねだりとか、することないのに」

俺だってしたくはなかったよ。なんて言った
ら自分で弱点を晒すようなものだ、やめてお
こう。別に媚を売ってきたわけではないが、
俺が奴に頼みごとなんて以前は絶対にしたく
なかったことだ。それをあっさりしたもんだ
から驚いて、そして拗ねているんだろう。
昔と比べて小鳥遊の感情を読むのも上手くな
ったもんだ。小鳥遊自身が少しわかりやすく
なったのかもしれない。
一瞬にも満たない間に思考を巡らせながら、
俺はいまだこちらを見つめている小鳥遊の口
の中に摘まんだマカロンを押し込む。
一度生き返って、前の人生よりもずっとずっ
と恵まれた数年を送ってきて、どうも俺は小
ずるい手ばかり覚えてきたようだ。
あざとい。
頭の中で、自分によく似た男が一言、冷たい
目をしてそう言った。

「うるさい」

言葉の持つ印象とは裏腹、優しい声で黙らせ
る。
頭の片隅で、カチンとジッポが音を立てた気
がした。
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◆女にされる
「それじゃあよろしくね!」
疲れた顔に無理矢理笑顔を浮かべ、同僚はそ
う言い残した。前と比べてまた細くなったよ
うに思うその背を見送ってから、もうどれく
らいの時間が過ぎていっただろう。傍らのテー
ブルに置かれたグラスの氷は、一回りほど小
さくなっただろうか。ちら、と周りに視線を
巡らせても、時を教えてくれるようなものは
この場に存在しない。涼やかな音を立てて崩
れるそれだけが頼りだった。
カラリ
また一つ、音を立てた。こんな所では、氷が
溶けるのだって随分と早い。
上から注がれるスポットライト、他の人間よ
りも高く掲げられた壇の上、周囲に群がる人
混みの多さ。勿論運転しているのだろうエア
コンでは御しきれないほどに、この空間の温
度は上がりきっていた。服の中でじんわりと
汗をかき始めた。べたべたと貼り付いて気持
ちが悪い。
日常とはかけ離れたこんな場所に身を置いて、
思うことはたった一つだ。
『どうしてこんなことになったのか』
その理由を客観的な事実として思い返すのは
実に簡単だ。記憶力にはちょっとした自信が
ある。
ここは同僚、リャーガンの経営しているクラ
ブのうちの一軒だ、それも上納金の多さがト
ップレベル店である。リャーガンがそれはも
うにこやかに金勘定をしているのを何度か見
たことがあり、ついでに店名を見たので覚え
ている。そこに今日は取り立て人として来る
はずだった。上納金がトップ、というのは客
が多いと言うだけではなく、客単価が高い、
ということである。単価が高ければ、サービ
スに溺れ、料金を抱えきれず破産する、とい
う人間も多い。借金する人間も後を絶たず、
このクラブで仕事を行うのも一度や二度のこ
とではなかった。客に対して会員証を一々確
認するガードマンも、俺のことはすっかり顔
パスで通してくれるようにもなった。嬉しい
ような嬉しくないような。サービスがよけれ
ば料金も高い、ここでの仕事は金になる。今
日もすっかり仕事をする気満々でいったのだ
が、それは同僚の直角に近いお辞儀で削がれ
ることになる。
「今日だけホストしてください」
ホスト、つまり接客をしろと言うことだろう
か。面白い冗談である。答えは勿論ノーだ。
吸いかけの煙草を携帯灰皿に収め、本来なら
ばここで席を立ち店を出るところだが、まぁ
いい、と理由だけでも聞いてやる。俺の同僚
でこの業界でまだ息をしているやつは珍しい。
ちょっとした情けくらいは掛けてやろうじゃ
ないか。やつが涙ながらに語った理由はこう
だ。なんでも、一番人気のホストが食中毒で
急遽休み、しかも今日はコネクションのある
政財界のお偉いさんがやってくる日、最上級
のもてなしが求められている。いつもだった
らその穴はリャーガン自身が埋めるのだが、
今日はその接待のせいで手一杯で埋めること
が出来ない。ステージに穴が開くなどと見苦
しいことこの上ない。いかがしたものだろう
か、と言うところでそこにやってきてしまっ
た俺。
……なるほど、やはり答えはノーだ。
情けを掛けようとした俺が馬鹿だったようだ。
回れ右をして即座に帰ろうとする。別に俺の
仕事は一日サボ……もとい、休んだからとい
ってどうとなることではない。態度さえ大目
に見てもらえるならば穴を埋めることくらい
は分けないだろう。だがしかし、一応こんな
性格がクソな俺だけれども恋人がいるわけで、
それを裏切るわけにも行かないわけで。ほぼ
同期入りで世話になったし世話したやつの頼
みでもこれは無理だ。俺がその恋人にゲロ甘
なことはこいつも知ってのことだろうし、諦
めてもらうほかないだろう。
「諦めろ、俺はやらん」
「座ってるだけ!座ってるだけでいいから!」
「童貞男の『先っぽだけだから!』と同じ雰
囲気がするぞ。却下だな」
「お礼するから!給料も別で払うし!」
「俺の満足いく礼がお前に出来るとは思えん」
「勝算なく挑むほど、無謀な男に見える?」
ぎらり、とリャーガンの目つきが変わる。い
かん、と思ったが、引くべきタイミングはも
うとうの昔に過ぎ去ってしまっていた。
無謀??いやいや、すぎるほどに慎重な男だ
よお前は。
「小鳥遊さんと温泉行きたい、って言ってた
よね?知ってるよ?お休み二人揃って二日、
取れないんだよね?口利きしてあげてもいい
よ」
思わず顔を覆いたい気分だった。やられた、
と胸の中で憎々しげに呟く。
小鳥遊、というのが先ほど出した俺の恋人に
あたるのだが、薬の元締め、というなんとも
大きく膨らんだ仕事をしているせいでべらぼ
うに忙しい。一日休むだけで次の日の仕事は
山になる。小鳥遊じゃないと上へ通せない仕
事が多すぎるのだ。休めば休むほど損失も出
る。上に休みを、と申請しても渋い顔をして
先延ばしにされることが多かった。腹立たし
い。
小鳥遊自身が元々仕事人間であり、外出も好
まない人間であるが故に今まで特に困ること
はなかったのだが、今回は事情が違う。
『今度、たまには温泉行く?』
まさかの、お誘い。言われた瞬間に驚き、浮
かれ、ついつい何も考えずに承諾してしまっ
たが、目の前にある障害はすぎるほどに大き
かった。一日だけでも骨が折れる休暇申請を
続けて二日だと。断られるのは火を見るより
明らかだ。しかしこいつは簡単にその申請を
通すという。
「出る損失はこっちで補填してあげる。事務
処理用の人員も貸し出すよ。頭の機嫌も……
まぁ頑張って取る。君が協力してくれるなら
ね」
どうする?
どうするも何も俺にとるべき選択肢は一つし
かない。
にこにこと笑うリャーガンの顔に拳をぶち込
みたくなるのを必死にこらえながら、俺は首
を縦に振った。
どう見ても脅迫だろ、これ。出るところ出た
ら勝てるんじゃないだろうか。
そんな一連の流れを経て今いる舞台へと上が
った訳だが、リャーガンが当初言っていた通
り、座っているだけの楽な仕事であった。
会員制、というのだけあって客は皆身なりの
いい、かつしっかりと俺たちの常識を理解し
た人間だけのようだ。視線にもじっとりとし
た嫌な感じはない。「鑑賞」であると、しっ
かり割り切られているふうに思う。経験上、
視線に敏感である自負はある。リャーガンと
変な雰囲気を感じたら即帰る、という取り決
めを交わしたが、帰れなくて残念だ。
壇上に設置されているのはテーブルとソファ。
このソファの上だけが俺に許されている場所
なのだが、これもまた上質で座り心地がいい。
ふかふかで、肌触り抜群。新品で同じものが
あったら即座に買いに走りたいくらいだ。
二度目になるが、随分と楽な仕事だ。
恋人が出来る前だったら、むしろ進んでここ
に上がったかもしれない。ある一点を除けば、
という条件付きだが。
【時間になりました。ホストはこれより、お
色直しに入ります】
アナウンスが流れ、一度壇上から降りてスタ
ッフルームへ戻る。俺だけじゃない、同じよ
うに衣装を着せられた様々な観点において「
美しい」とされるのだろう男どもが共にぞろ
ぞろと奥へ引っ込んでいく。椅子に座り込ん
だり、酒を含んでみたり、煙草を吹かしてみ
たり、スマホを確認していたり、やってるこ
とはバラバラだ。かくいう俺はと言えば何を
するわけでもなくただ壁にもたれて息を殺し
ている。
この異様な光景にどうも慣れる気がしない。
このスタッフルームには大きな鏡が設置され
ているのだが、それに自分が映り込む度にた
め息が止められなかった。
黒いネクタイに、自分ならば確実に選ばない
だろう暗赤色のシャツ、細身の黒のスラック
ス。それだけならば自分もここまで抵抗を持
たずに不特定多数の視線にも耐えてみせただ
ろう。しかしそれだけで済んでいたらきっと
このクラブはとっくの昔に潰れている。自分
の腰を掌でなぞる。いつもならば寸胴、真下
にすとんと落ちるだけの掌は、緩く内側に弧
を描いていた。掌が見るよりも確かに事実を
伝えてくる。要するに、くびれ、が出来てい
るのだ。女性であれば喜ぶことなのだろうが
……
「全くもって嬉しくない……」
コルセット、と呼ばれるその装身具がこのク
ラブの売りであった。
固く直線で構成された男の身体を矯正し、丸
く女性のようなしなやかさを持たせる。大の
男に、女を埋め込む。
なんとも、変態紳士が好みそうなコンセプト
である。そして面白いほど狙い通り、このク
ラブはその変態紳士で溢れかえっていた。
休憩時間が空け、持ち場に戻ると俺のブース
の周りには更に人が増えごみごみとしていた。
一層上がる体感温度に眉根を寄せ、唯一用意
された道を通って再び上がりたくもないステー
ジへと上がる。
カツ、と一歩階段を上る度に細いヒールが音
を立てる。膝まで伸びるブーツタイプの靴は、
大分動きにくく、また慣れているはずもない。
ソファに戻る頃には休憩を取ったばかりだと
いうのに疲れ果てていた。
一通りぐるりと観衆を見回すと、やはり先ほ
どの印象通り人が増えているようだった。ス
テージ周辺だけでなく、遠くで立ち尽くすよ
うにこちらを見る者もちらほらと見えるし、
スタッフやボディーガード、黒服と呼ばれる
店側の人間も増えた。皆暇人か。もっとマシ
なものを見ろ、そう言ってしまいたい。ぎら
ぎらとした視線に最早痛みすら感じてしまい
そうだ。休憩前とは大違い。
だがしかし色直しが終わればもう後半戦。ま
たぼーっと座っていればいいだけなのだから
気にすることはない。
ちょっとした精神的なダメージで休みがもぎ
取れるならまぁ、安いものだろう。
深呼吸するように息を吸い、凝り固まった首
をほぐす。
「失礼します」
気合いを入れよう、と思った矢先、思わず身
体から力が抜ける。ステージに上がる階段の
すぐ下で、黒服の男が一人頭を下げた。その
手にはお盆、その上にはカクテルグラスが一
つ。
ああ、と俺はこの店のシステムについて思い
返した。
原則、客がホストに触れることはない。壇上
で好きなようにくつろぐホストを見ながら、
酒やつまみをついばむだけの店。しかし、金
を積めばある程度のサービスを受けることも
可能であるらしい。サービスというのも、酒
を飲んだり、ソファに座って談笑することが
出来たり、そのまま奥に連れ立ってしけ込む
ことができたり……まぁ、色々だ。金を積め
ば積むほど、制約は緩く緩くなっていく。
それは至極当然のことだ。
しかし俺は正規のホストではない、ある意味
ではゲストだ。そう簡単に買われてしまって
は俺が困る、俺に殴られるであろうリャーガ
ンも困る。そのため、俺を買うための金額は
この店の最高額に0を1つ足した額が設定され
ているのだが……まさか買われたのだろうか。
壇上にやってきた黒服がどう見ても苦笑と言
うしかない表情を浮かべている。どうやら俺
はとことんまで険しい表情をしてしまってい
るらしい。罪を憎んで人は憎まず。買ったや
つに罪はあれど、こいつに罪はない。ちょい
ちょい、と指先で呼び寄せると、黒服は口を
開いた。
「『共にお酒を』とのことです。このあと、
別のキャストを連れ立って壇上に来ますので
あとはご随意に」
ご随意にってなんだ、どうしろってんだ。
身を引く黒服。
ポーカーフェイスの奥で若干の冷や汗をかき
ながら、頭の中はひたすらにてんやわんや回
り続ける。
よりにもよってまさかの酒。禁酒中だぞ、こ
っちは。座ってるだけでいい、大丈夫、っつー
から乗ったんだぞ責任者出せ。いやでも高々
一杯、一杯だけならなんとか。帰るまでに間
を開ければアルコールも抜ける……か?そも
そも今日あいつ何時に家帰るっけ……昼?泊
まりコースか?バレない?セーフか?そもそ
もリャーガンが言い出したことだし、あいつ
これくらい計算してるんじゃ?畜生俺の稼ぎ
全部振り込ませるからな!
考えているうちにまた新たな人影が壇上に現
れる。視線だけ寄越すと、それはそれは、見
た目だけは完璧な「紳士」であった。
グレーのスーツがよく似合う細身の身体。こ
れだけ暑い店内に関わらず、汗をかいている
様子は見受けられない。きっちりと整えられ
た頭髪。鋭い目つきと銀縁の眼鏡が潔癖なよ
うで逆に色っぽい。
「変態なのが残念だな」
薬漬けにして売ったら経歴込みで言い値がつ
きそうだ。仕事柄こういった思考回路しか持
てない俺も大分残念なんだろうがそれにはあ
えて触れないことにする。
男の手には俺が持っているのと同じカクテル
グラスが鎮座していて、それがさらに残念さ
を増している。
この一杯のために七桁、残念にもほどがある
だろう。
本来ならばこのソファに二人で座り、酒を飲
み交わすのが正しいスタイルだ。しかし俺が
ソファーに横向きに陣取ってしまっているた
め、男の座る場所がこの壇上にはない。どう
する気なのだろう、そう思っていると、男は
躊躇うことなく地べたに跪いた。
「は?」
思わず声が出る、男は何も言わない。言葉を
交わす権利までは付属しなかったのだろうか。
あまりの設定にこの変態がいっそ可哀想にな
ってくる。俺はどこまで高飛車に振る舞えば
いいのだろうか。
もう一度目線だけを会場中に配らせると、先
ほどまでぽっかり穴が開いていたところにリ
ャーガンの姿を見つけた。接待は終わったの
だろうか。壁に寄りかかり、こちらの視線に
気づいたのだろう、ひらひらと手を振ってい
る。
覚えてやがれよ、この野郎。
目線に恨み辛みを込めてやると、やつの顔が
意地悪くにんまりと笑っていた。風俗営業の
元締めをやっているだけあって、その笑顔は
どこか色っぽくていやらしい。
『随分大人しくしてるじゃないか』
笑顔に。そう言われているような気がした。
借りてきた猫のようだ、と言う言葉が頭をよ
ぎっていく。この状況のどこに、君が大人し
くしている理由があるのかな、と。
なるほど。もらった酒を一口含む。
甘ったるい味がして、少しずつ飲み込む度に
喉元が熱くこみ上げてくるような感じがする。
久しく味わっていなかった感覚、もうこれか
ら先味わうことはないだろうと思っていたも
の。こんな形で破ることになろうとは全く思
っていなかった。
「不味い」
さぁ、好き勝手にしよう。水遊びをしよう。
小さい頃にやったことはあるだろう。水の掛
け合いだ。水道水、泥水、海水、それが今回
はお酒になってしまっただけ。
男の灰色のジャケットが色を濃くする。空に
なってしまったグラスをサイドテーブルに置
き、ぽかんとしている男を突き飛ばしながら
小さく言った。
「御馳走様」
その瞬間に、ぶわりと周囲の熱が上がるのを
感じた。沸いている、空気も、こいつらの頭
も、何もかもが。足の先から頭までじんわり
と茹だっていく。
遠くで楽しそうに笑っているリャーガンが心
底憎い。上手く乗せられてしまっている。も
うあいつの頼みは二度と聞かない。
吹っ切れてしまってからはもう包み隠すこと
を忘れてしまっていた。
周りの男たちを汚いものを見るような、気持
ち悪いものを見るような目で見る。
苛立ちを顕わにし、ヒールを床に打ち付けな
がら音を鳴らす。
ため息の数はもう数えても無駄であるし、眉
間のしわは取れないだろう。
態度が悪いにもほどがある、しかしそれでも、
先ほどの男を皮切りに俺を買おうとする男た
ちは後を絶たなかった。世も末だ。一人を処
理しているうちに、二人、三人と次が溜まっ
ていく。一人やったら次をやらないわけには
いかない。たかが一口、といっても、数を重
ねればそれなりに酔いというものは回ってく
るものだ。身体はぽかぽかと温まり、最初は
緩めるだけに留まっていたネクタイも今では
なくなってしまった。
何人も何人もぶっかけまくった結果として、
酒はステージの上に水たまりを作り、そこか
らふわりと漂うアルコールの香りも又たまら
ない。どんどん強くなっていく錯覚する感じ
る。
ヒールを脱ぎ、素足で水たまりに触れても、
ライトの熱ですっかりぬるい。
とにかく熱い、それしかもう考えられなくな
ってきた。頭が馬鹿になっている。
しかし、大分時間も経ってきた頃合いだろう。
埋まるべき穴が埋まったなら俺の仕事はもう
終わりだ。このステージを降り、ふざけた衣
装を脱ぎ、酔いを覚ましてから家に帰ればい
い。家に帰ったらシャワーを浴びて、何事も
なかったように恋人を迎えればいい。
あとはそれだけ。任務完了だ。
もう少しで終わる、それだけを支えに酔いで
ふらつく身体を叱咤する。
黒服がまた新しいグラスを持ってやってきた。
大丈夫ですか?と声を掛けられたが、まとも
な返事を返してやれたかがわからない。とに
かく大丈夫だ、と手をひらひらとただ振った。
「時間が時間ですので最後の方になります。
頑張ってください」
何を頑張るんだ。
熱いを通り越して段々目蓋が重くなってくる。
このままだと酔いを覚ますのではなく、ここ
の仮眠室を借りて一眠りすることになりそう
だ。ああでも、ここで眠るくらいなら近くの
ビジネスホテルにでも止まった方が貞操的な
意味では安全かも……とにかく眠い。
早く済ませよう。
受け取ったグラスに口を付ける。
同じ酒の味、頭にかかる霞の味。これで最後
だと思うとほんの少しだけ旨く感じる。
最初は少し苦しかったコルセットも今ではす
っかり馴染んでしまった。そういえばこのく
びれってちゃんと脱いだら元に戻ってくれる
んだろうか。怪しまれたりしないだろうか。
バレたら、どうなるんだろうか。
「時任くん」
聞き慣れた声がする。
「お酒、飲まないって言ったのに」
ああ、こんな感じで怒られるんだろうか。な
るほど、それっぽい。
「こんなえっちな格好しちゃって」
するりとくびれのラインをなぞられる。触ら
れるなんて思っていなくて、ちょっと変な声
が出た。恥ずかしい。
「お仕置きしなくちゃね」
視界いっぱいが黒で埋まってしまう。
よしよし、って頭を撫でられて、ふわふわと
した頭がさらに浮いてしまいそうになる。
あれ、と、頭の中が疑問符で一杯になって、
唇が勝手に名前を呼ぶ。
「たかなし?」
「なぁに、時任くん」
「ほんもの?」
「偽物の僕がいるの?」
「いつから?」
「さて、いつからだと思う?」
お色直しのあとから楽しそうだったよね。
つまりは、その前から見ていた、と。
ずっと見られていた、と。
「はずかしい……しにたい……」
観衆はもう見えない、歓声も聞こえない。
バレてしまった、怒られる。そう思ってサー
ッと引いていく血の気。
怖いと思うと同時に「お仕置き」という一言
に熱くなる吐息。
ぐちゃぐちゃに溶けていきそうな頭の中で、
誤魔化しにもならないけれど、甘えるように
頬を肩口にすりつけた。
「いいよ、いくらでも。僕の上だったらね」
じゃあころしてくれよ、なんて、
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