壊してほしい愛だった 全文

スッと開く襖の音が好きだった。開いた奥からあふれ出す光も、眩しく目を眩ませるそれに慣れたころに見える背中も好きだった。ふわりと香る慣れ親しんだ井草の匂い、煙草の匂い。小腹を満たすために置かれた菓子の甘い匂いも同様に、好きだ。
数え上げればきりがなく、要するに私は、その部屋にあるすべてを好ましく思っているようだった。どれもが他人にとっては大したものではなかったが、私にとってはどこかキラキラとしていた。そしてその中で私が最も敬愛してやまないものは、その光に包まれながら黙々と机に向かっている。
「先生、お客様がいらっしゃいました」
そう一言、声をかけることすら私の中で躊躇いを生んだ。その背をこの間近でずっと見ていたいと、外をしずしずと歩く淑やかな女学生のように思った。だが私がそうすることで迷惑を被るのは目の前にいる先生であり、そうなったら私は首を吊ってしまいそうだ。だから私は、躊躇いながらも口を開く。何よりも自らの保身のため、嗚呼なんと浅ましいこと。
「ああ、どこの人だい」
声にピクリと反応して、先生は振り向きもせずに私にそう聞き返した。その声は私にやっと届くくらいの小さな声で、すぐそばの窓枠にいた小さな猫もすやすやと眠っていた。カリカリとペン先が紙をひっかく音の方が大きいのでは、とも錯覚するが、きっと本当に錯覚だろう。
「版元の方、だそうで」
ピタリ、とひっかく音が止んだ。ああ、と先生は一言言ったきり動かなかった。度々先生に面会を求める客はやってくる。しかし、その客と先生が顔を合わせたのは見たことがない。今回もそうなのだろう。それを悟ると私は小さく笑って、では、と腰を上げる。
「帰ってもらいましょうか」
一言提案すると、先生は結局振り返りはしなかったがうんうんと二三度頷いた。
「そうしておいてもらえるかい。あと、連絡は手紙にしてもらってくれ」
わかりました、と返事をして襖を閉める。木製の床をペタペタと歩いて、応接室に待たせておいた版元の方の所へ顔を出した。私の歩きはお世辞にも早いものではない、先生とのやりとりの間も含めて、結構な時間お待たせしていたと自覚している。それに重ねて「今日先生はお会いになれません、今後の連絡は直接ではなく手紙にてお願いしたいとのことです」と相手にとってよろしくない返事を伝えなければならないとは。少し気分が重い。だがこれで先生を煩わせる種の一つが消えるなら、まぁいいことだ。私の気分など些細な問題であった。
「お待たせしまして、すみません」
そして私は頭の中で練習していた言葉を吐きだした。練習の甲斐あって噛んでしまうこともなく出てきてくれたその言葉を飲み込むと、向かいに座った版元の方はそうですか、と一言言った。
穏やかそうな男だった。丸い眼鏡と仕立てのよさそうな着物が印象的で、ああ、偉い人なんだ、なんて子供みたいな感想が頭から飛び出していく。そんな人がわざわざ来るなんて、やはり先生はすごい、なんておまけつきで。先生の元に来てどれ程が経ったか、情けない。手紙を書くために必要な住所などの情報を版元の方に渡し、もう一度お詫びを言う。大人しく帰ってくれたあの人に、私の胃は少しばかり救われた。
ちらりと時計を見れば、短針がそろそろ三の字を指そうとしている。八つ時だ、準備をしなければ。小腹を満たすため傍らに置いてある物のせいか、先生は砂糖の甘さには少し飽きていた。だからその代りに、八つ時には毎日何かしらの果物を剥いて先生にお出しすることにしている。しゃりしゃりと皮をはぎ取るその間に、少し先生のことについて話そう。
先生は最近有名になりだした小説家だ。年齢は私より上らしいが、その差は大したものではないらしい。気紛れな性格で、私のことを書生として置くようになったのもその性格のせいだと聞いた。夜型の生活が多そうな職業だが、先生はいつも11時には床についていた。そして五時には起床して、六時には身支度と朝食を終えて机の前に陣取っている。純粋な朝型人間だ。それに合わせて朝食を用意するのは些か辛いが、寝る前に予定を確認するときの「すまないね」の一言で頑張れている。私も大分現金なものだ、安い男だ。とにかくそんな言葉をかけてくださる先生は優しくて、私はついつい、時折必要にかられて外に出た時、数少ない知人と顔を合わせると言葉の一つ二つであの方の傍にいられることを自慢する。
おっと、話している間にも作業が終わってしまった。
「先生」
先ほど閉めた襖を再び開けて、私は盆を片手にその背に寄って行った。
隣に陣取り、そっと覗きこんで見えるのは、細い肩と汚れた指、机の上の原稿用紙と万年筆。
ちらりと見えた文章の文字は力強い。だがその内容は字に似合わず繊細で、心臓を直に締められているような切なさが先生の文章の特徴だった。
私もそれに魅せられて先生の家の扉を叩いた人間だ。
先生と接してからは、人柄もそうだが、「先生」を創るそれらのパーツ一つ一つに私は惚れた。先生は、まるで完璧な球体のような人だ。期待を重圧として支える肩も、インクに汚れることも厭わないその指も、ぼろぼろになったその筆も、汚されるその紙も。どれか一つでも欠けたら「先生」にならない。欠けてしまったらきっと、代りを用意する前にこの人は、その傷口からボロボロと崩れてしまうのだろう。そしてその「先生」の中にはなにか、「先生」ではない別の物がすやすやと眠っている。
私はその「先生」という殻を剥いた別の何かも、あの人すらも好むのだ。
「もう八つ時ですよ」
万年筆を取り上げて、机の隅に置く。お湯で濡らした布巾で先生の指から汚れをふき取る。机の上から紙をどかして、代わりに剥いてきた果物を置いた。楊枝を一本、食べやすいようにさしておく。
「文緒さん」
それが先生の現実でのお名前。
字面や音の響きでは伝わらないだろうが、後姿だけでも目にしてしまえばきっとすぐにわかる。わかってしまう。私が敬愛しているその人は、女性だった。
「ああ、すまないね。助かるよ」
男のような言葉づかいをして、髪もバッサリ切り落として、男物の服装をする。人と会うことは極力避け、男として仕事をする。
女性が最近なにかと高らかに言葉を発するようになってきたが、先生のスタンスは出会った頃から変わらなかった。上に立つべきは男性である、と、彼女は女性でありながら、全身からそう主張しているようだった。男性を装うことで高みに立ち、弱い自分を守っているのだろうと思う。そう、勝手に想像した。正解なのかどうかはわからない、答え合わせをする気もない。
考えているうち、白い指が林檎を掴み、しゃくりと一つ齧りつく。用意しておいた楊枝は使われることなく、引き抜いて皿の隅の方に置かれてしまった。少し寂しい気もする。だが指先についた果汁をなめとる舌が赤くて綺麗で柔らかそうで、そんな感情は吹っ飛んで行った。
そして、代わりというには首をかしげてしまうが、腹が減った。
殻を剥いた先生、つまり文緒さんは卵のようにつるりとした白い肌をしていた。血の色が肌に透けて、ほのかで淡い色合い。ふわりと、林檎のような甘く爽やかないい匂いを纏い、またそれが食欲をそそる。まさに、食べてしまいたくなる。ちらりと見えるその首に歯をたてたくなる。なんて不思議な人だろう。
彼女が先生である時はそんな感情浮かびもしないのに、不思議なものだ。「先生」という殻は、存外に硬いらしい。
先生の時は肌もインクで黒いし、角ばって、ガチガチに硬そうで、匂いも全くなくて、肉のようにしょっぱそうに見える。細くて、肉なんかなくて、失礼かもしれないが、うまそうだなんて微塵も思わない。
女々しいと思われるだろうが、私は肉より金平糖のような甘いものを好んだ。理由なんてものはない。肉はまずい、自分たちも肉の塊の癖に、食べる奴の気が知れないとまで思う。先ほど文緒さんに食いつきたいと言ったのと矛盾するが敢て無視することにした。人とは矛盾を抱える生き物だ。それてしまった話を戻すが、とにかく私は甘いものが好きだった。そして砂糖の甘味以上に、果実の優しく、だが確かな甘みを好んだ。
その一等好ましいものが、目の前にいるこの人と重なる。とにかく、不思議だと思った。
「ごちそうさま」
そうこう様々考えているうちに、目の前にあった皿は空になっていた。その皿は机の端に追いやられ、早速文緒さんは先生に戻ろうとがさがさ荒っぽい音を立てて紙を手繰り寄せている。それは悪いことじゃない。仕事に熱心であられる先生のことも、私は好ましく思っている。でも、どこか心の隅で惜しいとも思っている。邪魔をしたくなる。万年筆を奪いたい、紙を破って放りたい、肩をつかんで引き倒したい、指を絡めて動かせないようにしてしまいたい。
矛盾している。矛盾が過ぎている。私はどうしてしまったのか。
「どうか、した?」
声が聞こえてくる、その声の主は先生なのか文緒さんなのか。どちらかわからない声がする。
私の尊敬する師であり、高みに立って、私の手なんて指先すら届かないところにいる先生。
今すぐ隣にいて、熟した果実の香を匂わせて、食われるのを待っているように無防備な所にいる文緒さん。
二人が混ざり合って、ともに未完成な状態。そんな存在が、今私を惑わせている。浅ましい、なんて浅ましい。
どちらにしろ私は身動きすら取れないで、取れるはずもないでいて、このまま何事もなかったように立ち去るのだろう。
文緒さんにしろ先生にしろ、近かろうが遠かろうが、結局私は手なんて出せずにいるのだ。私は師を取らなければならないほど未完成な人間で、自分のことすらわからずにいて、自分の感覚で言えば獣畜生と同等なのだ。そんな人間が、こんな人に手を出すなど。
「いいえ、なんでも」
笑ってごまかすのは得意だ。小首をかしげてにっこり笑う。大人がやるには恥ずかしい仕草だが、こうすると笑ってくれることを私は知っていた。こう言うと少し卑怯なふうに聞こえるが、実際そうなのだから仕方ない。目を細めて、緩やかに控えめに笑うその表情も私は好きだった。それを視界の中で捕まえると少し満ちた気分になって、どこか重かった気持ちがふわり軽くなる。
「君は、嘘があまりうまくはないね」
ふふふ、と小さく笑い声が響く。
ああ、やっぱり先生はすごい。私の浅い思考なんて何でもお見通しで、その上で私との稚拙なやり取りに付き合ってくださっている。
先生の子供になった気分だ。両の頬にその柔らかな掌を当てられて、優しく嘘を咎められている。これは先生じゃない、文緒さんだ、未完成なこの人が覚えさせてくる嬉しい錯覚だ。先生と文緒さんに挟まれて、今の私は幸せだった。でも、
「言ってごらんなさいな。別に、怒りやしない」
寧ろ怒ってほしい、叱ってほしい、私の目を覚ましてほしい。
私は先生も、文緒さんも、どちらも愛しているはずなのに、どちらも壊そうとしてしまっている。おかしいのです、どこか歪んでいるのです、一度壊して立て直さないといけないほどに。言わせないでください、言わせないでください。どうかこのままでいさせてください。
それを目の前にいる人は許さないのだ。

「ただのね、我儘なんです」

「どちらにもよれない浮気者で」

「きっと、貴方から見たら最低な男で」

「私は、私は」

ぼろぼろ、ぼろぼろ。嗚呼溢れてしまった、溢してしまった。
出てくる言葉は先生の書生としては失格であろう程に脈絡がなく、きっと何も伝わってはいないのだろう。それでも言葉はだらだらと溢れ続けた。壊れた蛇口のようだった。
しかしそれでいいと思った。伝わらなくていいと思った、でもそれでも一度出たからには全てを吐き出したいと思った。聞かれたから答えた、けれどそれはただ私を満たすだけのものだった。一時のまやかしだったとしても。
「とにかくね、私はね、愛して、いるんです」
あなたを、先生も文緒さんも含めた、あなたを。
心の底から純粋にそう思った。
その純粋さが、私は反吐が出るほど嫌だった。





先生は朝が早い。そして狂うことなく規則正しく生活する。
だから私もその先生に合わせて規則正しく生活することが求められた。
日が昇る前、まだ薄暗い午前四時。まだ少し肌寒い中布団を仕舞い、服を着替え、朝食の支度を始める。
勿論先生の家にも女中と呼ばれる人間はいるし、書生という肩書を持った私が手伝うことに傍にいる人々は異を溢すのだが、私はまぁそれでもよかった。
先生は、あまり多くの人が周囲に蔓延ることを良しとしない。世話を任せる人を絞り、選別する。
私はその中に幸運にも選んでいただけた。それにお傍で勉学に勤しみ、執筆に励むことまで許してもらえている。
ならば、その恩に出来うる限りのことで返そう、尽くそう、そう思うのは自然のこと。
最初は私も男であるがゆえ、炊事に関しては右も左もわからぬ木偶の坊であったが、今では大抵の事は一人でこなせるようになった。
私が朝食の準備を率先して手伝い、もはや一人で事足りてしまうということを世間話ついでに先生に漏らしたところ、女中の数が少し減った。口喧しく、あまりいい印象のない女中だった。淡々と、しかし僅かに安堵をにじませたような声色で、
「君に甘えてしまうようで申し訳ないのだけれど」
と先生からお言葉をいただいた時は天にも昇る気持ちでいた。構わなかった、それでよかった。私の勉強よりも、私の執筆などよりも、優先されるべきは先生の生活でありその歩みであった。その歩みが少しでも易く安らかになるならば、それでよかった。
正真正銘偽りなく心から、そう思っていた。
思っていた、と思っていた。
いつからだかその思いは分裂をはじめ、「敬愛する先生に尽くしたい」「好いた女に不自由のない生活を送らせたい」そうした二つが共存するようになった。女々しい自分、卑しい男の自分。両極な自分が存在するようになった。それは先生と接する時、文緒さんと接する時、上手く使い分けられ、円滑に生活を回す歯車の様になっている。円滑に。それも、わずか数日前の話である。
「とにかくね、私はね、愛して、いるんです」
文筆家の卵にあるまじき、ただ感情に任せたのみの言葉であった。
それから、先生の顔がまともに見れていない。
俯きながら逃げるように先生の部屋を後にし、気付いた時にはあてがってもらった部屋で呆けていた。
あの時先生はどんな顔をしていただろうか。軽蔑しただろうか、呆れただろうか、それとも他愛のない一言として気にも留めていないのだろうか。この中のどれだったとしても、私の心の内には暗雲が立ち込め、太陽の差し込む隙間など一分たりともない。動きは鈍り、気が付けば溜息を吐き、指摘のしようもない果てない何処かに視線を向ける。
端的な言葉で言うのなら、全力で後悔していた。あの時得た満足感はまやかしであろうとわかっていた、まさしくその通りだった。
この気持ちは言うべきではない、言ってなるものか。そう思っていたものを蝶結びを解くように簡単に吐露してしまったのだ。嗚呼、自分がどうしようもなく情けない。自分のした決意の固さが豆腐にすら劣るものだと気づかされた。
嗚呼、情けない情けない。こんな私がどうして先生の目の前に姿を見せられよう。最近は先生の目に触れるような仕事は他の女中に任せ、来客の対応や掃除や炊事に専念する始末。
こんな状態がずっと続くのだろうか、いや、そんなわけにもいかない。
他の女中から先生の様子を尋ねようにも、「自分で見てみればいいじゃないか」だの「別に普段と変わった様子はない」だの、大して有益な情報も無い。
腹を決めて、直接お顔を見に行くしかないのだろうか。
朝の一幕、昆布と鰹節で今日一日分の食事に使われる出汁をとりながら、溜息と共に覚悟を決める。否、結局決めきれずに決めるまでの猶予を決めた。
『八つ時には、自分で行くことにしよう』
味噌汁にほうれん草の御浸し、昨日の残りの煮物、山盛りのご飯、簡単だが割とがっつりな朝食の御膳を女中に預け、私は自分用の朝食として作った握り飯をほおばった。いつもの握り飯より硬く、そして塩気が多かった。

*  *  *

甘い匂いが屋敷中にしみ込んでしまうかと思った。
目の前でことことと煮込まれている鍋の中身を時折覗き込みながら、すん、と鼻を鳴らす。
先生は果物の自然な甘さを好んだが、今日はわざわざ一手間を加え、その好みに反したものを作っている。林檎と乳脂、それに砂糖、ほんの少しの檸檬の果汁。弱火で煮込まれたそれらを時折かき回しながら、硬すぎず柔らかすぎずの境界を探している。あと少しで八つ時だ、それまでに間に合うだろうか。他の女中が買ってきた熟してもいない不味い林檎を出すより余程ましだとは思うが、あまり遅れるのもよろしくはない。湯気の立つ煮た林檎を一欠けら口に含み、その食感と味を確認。まぁよかろう、と納得した後、器にこんもりと盛り付ける。今日は楊枝ではなく匙を添えた。初めてにしては美味く炊けた林檎の煮物は、柔らかすぎて刺すには頼りなく、いつものように手で掴めば汚れてしまう。まだ仕事も残っているのだ、手が砂糖でべたべた、というのは先生も好まないだろう。
廊下を、足音を立てないように静かに歩く。こんなことを意識せずとも原稿に没頭している先生は足音など分からないのだが、それでもやはり礼儀としてどたどたと歩くのは好ましくない。
ガラス戸越しに見える景色は秋の紅葉がはらりと落ち、冬へと移り変わりゆく様を楽しませてくれている。そんな寂寥感を滲ませる美しい景色と隣り合わせになりながら、そんな無粋な立ち振る舞いが出来る筈も無い。
すっ、すっと僅かな布擦れに音を残しながら歩いていく。
目的の部屋の襖の前に立つと、ぴたりと体が固まった。
いつもは軽く開ける襖が、今日は大きく重く感じる。勿論そう感じるだけで実際は何も変わってはいないのだが、それほどまでに緊張しているという事をわかってほしい。
だがしかし、その緊張を理由に何時までも襖の前にいる訳にもいかないというのが事実だ。
「先生、失礼します」
襖を開ける。
ふわりと香る慣れ親しんだ井草の匂い、煙草の匂い、小腹を満たすために置かれた菓子の甘い匂い、慣れ親しんだ貴方の匂い。
久方ぶりの香りに脳髄がとろりと溶け出す。外に漂う甘味の匂いがそれらを害するのが嫌だったらしく、無意識に、早々に襖を閉じて遮断した。
先生はやはりまだこちらに気付いている様子はなく、否、もしかしたら私に嫌気がさして故意に無視をしている可能性も否定しきれないが……とにかくまだ、机に向かったままでいる。
いつもであるならば後ろからそっと忍び寄り、万年筆を奪い取る所なのだが今それをしていいものか。その背はいつもと変わらない。大きく硬く、石の様に堂々と其処に丸まっている「先生」の背中だ。その背中に触れても良いものか、その皮を剥がしてしまってもいいものか。
時とともに冷えた林檎の香が散る。紙とインクの古ぼけた香に溶け出していく。
「おや、君かね」
そうして先生はこちらに振り向いた。掻き乱したぼさぼさの髪をして、インクを擦った真っ黒な手をして、いつも通りの微笑みで私を迎えた。
「随分と久しぶりな気がするよ、同じ建物にいたというのに」
「……雑事を、こなしておりました」
「やはり人手が足りないか。君には大分負担を強いている」
「いえ……もう落ち着きました。またお傍に」
先生は過ぎる程にいつも通りだった。口にくわえた煙草を燻らせ、握りしめた万年筆を私方差し出し、奪わせ、利き手を好きにさせる。手拭いについたインクの染みまで、その後に聞こえる足を崩した衣擦れの音まで、いつも通りだ。
どうしてこんなにもいつも通りなのだろう。
その平然とした佇まいに僅かに傷つきながらも、その痛みを誤魔化すように私は器を差し出した。
いつもの爽やかさとは相反し、甘ったるく濃厚な香。みずみずしい黄色を煮詰めた飴色の欠片。
その中身を覗き込んで、先生……否、万年筆を奪った今となってはもう文緒さんだ、は、少し目を丸くした。未知との遭遇、当たり前の反応だろう。そして小さく口を開けて私に問うた。
「これは……なんでしょ?」
「買った林檎がまだ青かったので……砂糖と乳脂で煮てみました」
「おいしいの?」
「味見はしました。不味いと思ったものはお出ししません」
そう、割と味は悪くなかったのだ。ただ、砂糖を好む私と、果実を好む文緒さんと、どこまで味覚が一致しているかはわからないが。
恐る恐る、と言わんばかりにゆっくりと細い指が匙を摘まむ。
とろとろになった果実の中に銀が埋まり、やがてその銀は赤い肉の中に飲まれていく。
人の口と言うのは中々扇情的だ。ずっとその光景を見ているのは若干破廉恥であるような気がして、気に障らないようにそっと視線を逸らす。
文緒さんは食べ方が綺麗だ、今日のお八つは果実じゃない、だから音のない時間が僅かに空間を漂う。
「うん、すごくおいしい」
カッ、と小さく、匙が器を叩く音がする。カッ、カッと短い間隔で鳴る。基本的に、先生も文緒さんも嘘を吐くことを嫌う。だから言葉だけでも安堵できるのだが、こうして行動にも出れば猶更だ。
安堵に小さな溜息を洩らしながら、視線を戻して文緒さんが食べる様子を見る。
眦が柔らかくふにゃりと垂れ下がっている。いつもは一口一口上品に食べるのに、僅かにほっぺが膨らんでいる。口の端には入り損ねたみつがぺとりとくっついていた。
ああ、なんと微笑ましい光景だろう。
先程とはうってかわって、まるで親にでもなったような気分だった。
「ごちそうさまでした」
やがて、おやつも終わる。
器を盆に戻し、手を合わせ、ぺこりと身体を丸めるように礼をする。
はい、おそまつさまでした。
一言そう返すと、文緒さんはするりと万年筆に手を伸ばし、先生に切り替わろうとする。
万年筆を掴み、原稿用紙を手繰り寄せ、机に向かう。
幼気な少女が、働く男へと変貌を遂げる。
残念だとは思わない。文緒さんと同じくらいに、先生のことだって私は愛している。
だからこそ不誠実なのだと思いつつも、気持ちが止められないままでいる。
そして結局、私の抱え込んだ質問の核心はつけぬまま。
先生は、文緒さんは、私の事をどう思っているのだろうか。私のことをどうするおつもりなのか。
このままでは生殺しだ。私が勝手にやったこと、そう思う事すら傲慢であるのだけど、どうしてもそう思ってしまう。見返りは求めない、そんな綺麗な心でいるつもりであったのに、やはり人間は綺麗なままではいられない。見返りがほしい。優しい言葉、柔らかい笑顔、温かな指先、なんだっていい、どんなに細やかなものだっていい、見返りを。
もしも私に一縷の望みがあるのなら、ただの書生の立場から、もう一歩先に進んでもいいと許されるのならば……。
「先生、それでは失礼致します」
大きく硬く変わった背中を暫くの間眺め物思いに耽った後、私は漸く先生の仕事場を後にした。
先生は振り返らない、そんなことは解っている。出来るだけ音を出さないよう気を配りながら、そっと襖を閉じる。
最近は、書物を読むばかりで自ら書くという事はしていなかった。昔、というより、ほんの少し前までは頻繁に短編小説を書き上げては先生に見ていただく日々を送っていた。書いた文章を読まれるという事は、頭の中の構造を読まれることに等しい。先生への、文緒さんへの思いを自覚してからはなんとなくの羞恥を覚え、筆を折っていた。
久しぶりに一筆したためてみることにしよう。
登場人物も碌にない、独白にも近い私小説を書こう。短編小説なんて言える程の長さも無い、便箋がたったの数枚、その程度の文章を。飾る必要はない、真っ白な便箋、真っ白な封筒、小さく白い果実の匂いがする花を添えて。




【拝啓 文緒様 又は敬愛する先生様
つい先日、私が貴方様方に吐露したこの胸の内を覚えておいででしょうか。
貴方様方の私に対する態度がこの思いを聞く前と変わらぬことに最大限の感謝を示す反面、私の胸の中に忸怩たる思いを感じております。
貴方様方に吐露させていただきました通り、私は私自身の中に分裂した二つの思いがあることを自覚いたしました。
文緒様と、先生様と、一人と称するべきか、二人と称するべきか難しい貴方様方。私は貴方様方に、それぞれ別の種類の「愛」と称して憚らぬ感情を抱いていました。
いつからとは私からは明確に申し上げる事は出来ません。
しかしいつの間にか芽吹いていた感情は、私が気付いた頃には刈り取ることが不可能なまでにすっかり育ちきっておりました。
私にはもうどうしようもありませんでした。
この感情に終止符を打つためには、貴方様方にこの感情の大樹を燃やしていただくか、はたまた、もしこうなれば私は天にも昇れるほどであろう程の夢物語でありますが、この思いを受け入れていただくか。それだけしかありはしないでしょう。
この思いを胸に秘め続けていることは、きっとできなかったでしょう。
私の貴方様方に対する思いは確かにこの胸の内をじくじくと巣食い、気を狂わせようとしておりました。
それをどうにか避けようと、正気を保とうと、思いの行く先を考えれば考える程に、貴方様方のお姿は陽炎の様に揺らめき、私の手にはどのようにしたとしても掴めずにいたのです。
もしも貴方様方に慈悲の心がありましたら、どうか、この思いに決着をつけていただきたく存じます。
誠に勝手な、また無粋なお願いかとは存じますが、健気に尽くした書生からの最初で最後の願いとして受け取っていただけたらと思います。
小賢しい男だと笑ってください、これが私の矮小なる本質なのです。
それでは、ご機嫌麗しくありますよう。】






書いた手紙は、先生が物思いに耽るために庭に出たとき、そっと机の上に置いておいた。宛名は何も書かずに、ただ綺麗な白い封筒がそっと机の中央に置かれた。
いつ読まれるだろうか。きっと先生はお忙しいから、そんなにすぐにすぐ読まれる事は無いだろう。今夜か、明日か、明後日か。自分でそうすると決めたくせに、いつ爆発するかわからない爆弾を抱え込んでいる気分だ。
すっかり夜も更けたところで、冷えた身体を布団の中に潜り込ませながらぼんやりと考える。
どんな反応をされるのか、全く予想がつかない。先生や文緒さんが激情に駆られている所を、私は一度も見た事がなかった。
いつもあの人たちは穏やかで、とっくに成人した自分でさえも「大人だ」と感じるような、落ち着きにあふれた立ち振る舞いをしていた。上手く言葉に出来る気がしないのだが、誰も立ち入らない森の中にひっそりとある小さな湖のような、否、やはり陳腐な言葉で表そうとするのは良くない。とにかくどちらも酷く大人で穏やかで、今の私の様に色恋に愚かにも心乱されるような場面が一向に想像できなかったのである。
『嗚呼、私にはあの方々がわからない』
わからない、わからないのだ。
その心の深淵の僅かな淵さえも、私は掴むことが出来ない。しかし、だからこそ、それゆえに、きっとここまで惹かれてしまったのだろう。
ヒトとは、男とは、私というものは、そういうものであった。わからないものをわかりたいがゆえに恋焦がれる、そういった思考の持ち主であった。
だから、こうした悩み事を抱え心を靄で満たすのも、ある意味当然至極の解りきったことであった。それで眠れない夜を過ごすことになろうとも、原因があの方々なのだと思えばまぁ悪くはない。
体を横たえ、そっと目を瞑り、それなりの方法で休みを取っていた。
しかし、それもまた数日経てばそれなりにガタがやってくる。
私にとっては残念であり喜ばしくもあり複雑な気持ちにさせる事実であるのだが、先生は今日も平然と仕事をしている。朝五時起床、夜十一時就。この習慣を一切乱すことなく、今日も健やかに執筆作業に勤しまれていた。
「もう少しでね、大きい仕事が終わるのだよ」
昨日、先生から文緒さんに切り替わるほんの少し前、先生らしくなく僅かに浮かれたような声でそう言ったのを聞いた。
大きい仕事か。確かにそれと天秤にかけてしまえば、私の心の事情など無視してしかるべきなのかもしれない。手紙を置いてからもう何日がたったのだろう、手紙の返事は貰えぬまま。私はどこぞの乙女の様に、眠れぬ夜を明かすだけだ。
そもそも、まだあの手紙は先生の手元に残されているのだろうか。心境を吐露した際、結局先生が私の事をどう思っているのかは聞くことが出来ずに終わってしまった。もしも先生が、文緒さんが、私に対して侮蔑やそれに類するような感情を抱いていたとしたら?侮蔑と利便を天秤にかけ、自分が我慢することで今の生活を維持することを選んでいたとしたら?
あの事件以来、特に何か特別な言動があったわけではない。寧ろ、だからこそ怪しく感じてしまう。疑心暗鬼になってしまう。そうした感情は持つべきではない、持ってしまうことがまず失礼だ。理性のある自分はそう考える。しかし感情だけでただひたすらに走りたくなる女々しい私は、どうも理性だけでは生きていけぬようだった。最近の睡眠不足も祟り、大分心が弱い。ふとしたことで情けなくも泣き出してしまいそうだ。
嗚呼情けない、情けない。
男の自分が罵倒する。しかし女の自分は最悪な想像を更に悪い方向へ加速させる。
手紙は、捨てられてしまっただろうか。白い紙を細かく引き裂いて、否、触りたくないからと真っ二つくらいだろうか。いつ捨てられたのかも私にはわからないだろう。先生は原稿を書き損じることが多くある。そうした原稿用紙の中にそっと紛れ込ませてしまえば、便利な私は何の詮索もすることなくそのまま燃やしてしまうだろう。
中身は読んでもらえただろうか、それとも気持ち悪いとそのままだったろうか。先生からすればどちらでもいいのだ、研究材料になるか、心の平穏を保つか、ただその差であるのだから。
読んでほしいというのは私の勝手な希望であり、直接渡せもしなかった私に強請る権利はない。
嗚呼、先生や文緒さんの心のうちにどんな思惑があるにせよ、それが私に関係あっただろうか。
まだ先生や文緒さんのお傍にいられる。
それだけが私の全てであると、それこそが至上の幸福であると、私は満足するべきなのではないだろうか。それとも、先生がこの感情を厭うていることを察し、自分から出ていくべきなのだろうか。もしかしたらそれが望まれているのだろうか。
わからなかった。
先生方の気持ちも、私に何を求めているのかも、私がどうしたいのかも、そのどれもが頭の中をぐるぐると回って散り散りになっていった。
なんてどうしようもない人間なのだろう、私は。
落ち着かない思考回路にそんな烙印を一つ落として、無理矢理に回転を止めさせる。
私が悩もうが足掻こうが泣き喚こうが、今日という一日は回っていくのだ。ここで立ち止まって先生方に迷惑をかけてしまうわけにもいかない。もしもそうなったとしたらそれこそ私は首を括らなくてはいけなくなってしまう。
意味を持たなくなった物思いは潔く止めてしまって、私は雑務をこなす手を再開させた。
もう限界が近いのか、今日は失敗ばかりだ。いい加減薬屋にでも行って睡眠薬でも買ってこようか、そんなことを考えながら時刻は八つ時少し前、お出しするための果実を身長に剥いていく。
今日のお八つは林檎であった。つやつやとして真っ赤で、割ってみれば綺麗な色をした蜜も多い。自分の目利きの確かさに、思わずにっこりしてしまいそうになる。綺麗に等分して皿に並べ切った時、数少ない女中の一人がひょっこりと台所を覗いた。最も年の若い、私がよく仕事を教えている女であった。
「何か?今此処に仕事はないよ」
「いえ、今家の前をお掃除していたらたまにいらっしゃる版元の方がいらして……」
言われて即座に浮かぶのは丸い眼鏡に仕立てのいい着物、穏やかそうな顔立ち。名前まではぱっと出てはこないが、なるほど納得、うんと一つ頷いた。私の様子を見ると、女中は何かに怯えるような僅かに震えたような手つきで小さな缶を差し出した。
「先生へ贈り物とのことです。執筆の合間にどうぞ、と……」
こうした贈り物を一旦預かるのも私の役目であった。先生の目に入る前に一度確認し、渡しても良いものか悪いものかを選り分ける。時折よろしくないものを見つけたときの私の名状しがたい顔といったら、自分が他人だったら正直見たくはない。彼女は以前偶然にも不運にもそれを見てしまっているものだから、何とも言えない。勝手に自分が押し付けられてしまったものだから叱られると思ったんだろうか。
「ふむ……見てみましょうか」
中身を見てみなければ私も判断できないし、如何わしいものだったからといって彼女を怒ることなどない。罪を憎んで人を憎まず、贈り主を呪って受け取ったものを呪わず。彼女を怒る理由などない。日頃あまり会話をしないからだろうか、彼女は大分私を怖がる節があった。
彼女の手の中から小さな件の缶を受け取る。片手で持ててしまう程度の小さな缶だ。形は四角正四角柱、上部には円形の蓋、密閉できるようになっている構造らしい。缶の側面にはカップの絵と外国の文字、振ってみれば僅かにカサカサと音がする。カパリと開けてみれば見慣れたものと嗅ぎなれない芳香。
「紅茶……ですね」
普段日本茶ばかりを嗜んでいるこの家、否、この近辺を含めてもあまりお目にかかれない品だ。少し遠出して繁華街にでも行かないと手に入らない、それなりに値の張るもの。
先生は版元に顔を見せる事は出来ない、だからどうしても無駄足を踏ませる。だからあまり良い印象は持たれていないだろうと思っていたけれど、こういった品のいい品物が届くというからにはその考えは杞憂だったのだろう。
ああ、折角だから、丁度いいから、今日はこれを淹れていくとしよう。飲みやすいように、ちょっとした工夫を携えて。
隣で女中が目をまん丸くして私の手元を見ていたので「あとでお教えしましょう」と少し笑った。
全ての準備が終わるころにはいつもの時刻を少し過ぎてしまっていて、廊下の板を叩く足が僅かばかり荒くなってしまう。
先生を待たせるわけにはいかなかった、先生の習慣を乱すわけにはいかなかった。
とっ、とっ、と小さな足音を立てて先生の部屋の前までたどり着くと、一度深呼吸をする。
先程まで考えていた有象無象を全て頭の中から追い出して、目の前にあるものだけに集中する。
「先生、失礼します」
そしていつものように声をかけた。
「ああ、入ってきたまえよ」
そしていつもはない返事を聞いた。
声に促されるままに襖を開くと、先生の猫のような飴玉のような綺麗な一対の瞳が、私の事を真っ直ぐに映している。広い背中は隠されて、いつも向かっている文机は背骨の所が当たるのか時々ぎしりと音を立てた。
文机の向こうには大きな光取りの窓がある。先生の艶やかな黒髪や、纏った藍色の着物が光を透かして、まるで西洋画のようにどこかきらきらとして見えるのだ。
「ふふ、驚いただろう」
先生は悪戯小僧の様ににんまりと笑って、昨日から引き続いて上機嫌であるようだった。吸い切った煙草を灰皿へと押し付け、空いた片方の手ではくるくると相棒を弄んでいる。
小さく鼻歌まで聞こえてきそうなその景色を、私は今まで見たことがあっただろうか。
ついに自分はここまで許されたのかと、普段は信じた事も無い神様に祈りたくなった。
驚いたかと聞かれれば勿論驚いたと答える。素直に口にすると、先生はさらに笑みを深くした。
「先程原稿が上がってね。いつもは集中して返事も出来ないから、今日こそはと思ったんだ」
流石先生、世間話としてポロリと溢した言葉であっても違うことが無い。そうした几帳面さも先生の先生らしいところであった。
文緒さんはおっとりとしておおらかで、予定が予定通りに進むわけがない、と常に余裕を持って行動するような人だ。
同一の個体であるはずなのに、この人たちはどうしてこうも違うのだろう。
追い出したはずの物思いが帰ってきたことに気付いて、頭を振ってやり過ごした。
その仕草を見て先生はどう思ったことだろう。コトリと音を立てて万年筆が机の上に横たわり、空になった手がひらひらと宙を舞う。
「そうだ、君に用があったんだ。傍においで」
そんな一言を加えられてしまえば私に断る理由などない。そもそも私は常に邪な心を抱え込んでいるものだから、いつもあの方々に触れる機会を虎視眈々と狙っているのだ。そんな私にその一言は、もはや餌を与えているのと同義なのである。
カップと皿が載った、半分ほど私の思考回路からその姿を消しかけていた盆をそっと脇へ除ける。
先生に手招きされるがままその細い身体に自分の身を寄せた。私が手を伸ばせば触れられる距離、しかし先生が逃げられるだけの余地を残した距離。理性と下心との妥協点を探し、体一つ分見つけた位置に滑り込む。
先生と同じ光を浴びて、同じ空気を吸って、嗚呼、なんて幸せなことだろう。
のんびりとそう思った瞬間のこと。
「ああ、やっと捕まえた」
ガッ、と、首元でそんな音がしたような気がした。思わずそちらに目を向けると先生の指が荒々しく私の襟をわし掴んでいた。言葉はまるで鬼ごとをする童を捕まえた時の如く優しい。しかしその指先は力の入れ過ぎによって白く染まって、収まりが悪いのを直そうとさらに強く掴み直した。
「先生……?」
「あとで着物を仕立ててやろう、ずっとこうしていたら布に指の跡でも残ってしまいそうだから」
だから今は堪忍しておくれよ。
手に籠る力は荒れた海のように力強くあるというのに、言葉は童を擽るかのように優しい。
どこまでも影が二重に重なる人。私のことはこんなにたやすく捕まえるというのに、私からは絶対に掴ませてくれない人。
愛しさ余って憎さ百倍、とはよくいったものだ。溢れた愛しさがいくら憎しみに変わろうと、新たに溢れた愛しさが塗り替える。泥沼だ。沼に足を取られ、気づいた頃には呼吸も出来ぬほど浸かって、私はもう諦めた。
今更堪忍するも何もないのだ。
貴方方がすることならなんだって生まれたばかりの愛くるしい子猫のするそれなのだから。
「先程ね、本当に君がここに来る数分前のことなんだが、君からの手紙を読んだよ」
先生は掴んだ私の襟をぐいと引きをせて、半ば無理矢理にことばを流し込みだした。先生の声は鼓膜からじんわりと私の体の中にしみ込んで、胃の腑の辺りに温度を孕ませる。それが凝縮された溶岩であれ、固形化した液体窒素の一欠片であれ、私の身体を震わせるには十分すぎた。
「以前君が私に告白したことがあっただろう、あの熱烈なやつだよ。あれを聞いたら少し落ち着かない日々が続いてね。仕事に支障をきたしそうだったから、今回は仕事が終わるまでお預けしておいたんだよ」
私の中でごちゃごちゃに絡まっていた糸がいくらか解けた。体の中の血が少しだけ温まって、その熱がじんわりと顔に集まっていく。手でも当てて隠したいところだが、この近距離、もしかしなくても先生にまで触れてしまう。それはどこか、躊躇われた。
「君は色々と頭が回る。しかしそれを吐き出すこともしないで自分の中でだけ結論づけてしまうのがよろしくない。思考を煮詰めていくのはいいことだが、それで病んでしまっては元も子もないだろうに。どんな手段であれガス抜きは必要なのだよ。吐き出すだけでもいい、他者と共有し更に議論を深めるもいい、ただ意味も無くやつ当たるのもいい。私だってそうする、誰だってそうする、君がそれをしてはいけないという道理などどこにもない」
先生は懐から封筒を一通取り出して、私の目の前でひらひらと振って見せた。
それは何処にでもあり振れていて、だからこそ見覚えがあって、それだけではない、先日私が先生の机にそっと置き去りにした封筒であった。
他の誰でもない私が置いていったというのに、その封筒を奪い取りたくて仕方なかった。奪い取って破ってしまって、そうしたら私が書いた文字の全てがこの世から消えてくれるのではないかと。
嗚呼、これは後悔だろうか。否、これは間違いなくただの羞恥だ。
胸の奥深く、赤い肉の中に大事にしまいこんだ秘密が、こうも悪戯に扱われている。
恥ずかしかった、ただただ恥ずかしかった。
まるで童のような扱いが、少女のような扱いが。
「形に出来るようになったのはいい傾向さ。この手紙然り、先の告白然りね。吐き出すことから全ては始まる。自己完結が一番よろしくない。その相手が私とは、まったく喜ばしい限りだよ」
そうして先生は私の襟からようやく手を放して、僅かばかりの力を込めて私を突き飛ばした。
不意を突かれた私は存外簡単にころりと畳の上に転び、文机の天板に腰かけた先生は私を見下ろした。
「私は生憎自他ともに認める変わり者さ。君の知ってる通り、女の身でありながら我が身の中で「男」を飼いならそうと足掻く、折角飼いならした「男」とは乖離して二重人格にも似た状態。結婚し家庭に入る、そんなすべきことも放置して後ろ指をさされる。人から好かれることも到底ないと思っているし、私を愛するくらいなら私の愛する物語たちを愛してくれとも思っている。そしてその世間からの異端視の全てを諦め、良しとする。私はね、男としての幸せを得た代わり、女のとしてのしあわせと世間との触れ合いを捨てたのさ」
転ばされた身体をゆっくりと起こす。
文机に座り足を組んだ先生は何処か逆らい難い雰囲気を纏っていた。先程は宗教画と称されたその姿は何処か闇を含んで、神聖さを引き換えて陰りを得た。
これは悪女だ、誑かす女だ。誑かすことを快楽とし、誑かされることを快楽だと教え込む女だ。
ごくと一つ唾を呑み込んで、私は先生と視線を合わせる。美しい黒真珠。反射する光はなく、吸い込まれる深みだけがそこにあった。
「君は言ったな、私を愛していると。男としての私も、女としての私も愛していると」

「君は言ったな、その胸の内にあるものに決着をつけてほしいと」

「君は私の可愛い弟子だとも、私の接する人間の中で一等好ましく思っているものだとも。そんな君からの頼みを私がなぜ断ると思ったのだね?」

嗚呼、先生は残酷だ、なんて残酷だ。
そこまで言ってくださるのに、そんなに私のことを思ってくださるというのに。
感情が脳の中で暴れまわり、ガンガンと容赦なく暴れまわる。ボロボロと出てくる涙が止まらないまま、着物の袷から覗く白い足にすり寄った。
「先生は、くださらない。私に、私の欲しいものを、欲しい言葉を、くださらない」
どうして、どうして。
先生が私を童のように扱うものだから、つられて私もそのように泣きじゃくって駄々をこねる。
ほしい、どうしてもほしい。先生も分かっているはずなのに。どうして。
私の涙が伝う滑らかな膝頭にそっと口づけた。
「可愛い子には、意地悪をしたくなるものなのだよ」
嗚呼、つらい、なんとつらいことか。
こんなものを、私は捨てることも壊すこともせず、今生抱いて生きるのか。

壊してほしい、愛だった。

おまけ的なタイトルページ

すっかり眠りに落ちてしまった彼の頭を撫でながら、彼の持ってきてくれたお八つをいただく。
蜜が多く、甘い匂いのする林檎の実。
揃いの林檎の香りがする、琥珀色をした液体。
いつもの湯飲みではなく、見た目にも綺麗なティーカップを眺めてから、紅茶、と目を丸くする。
今日は随分と洒落ている。カップの中身を一口啜って、少し冷めて飲み頃になったそれに息をついた。
彼はよく眠っている。私の膝を枕にして、指の一本さえ動かさず泥のように眠っている。
彼は考え込む質の人間だから、最近はあまり眠れていなかったのかもしれない。
そんなにも、私とのことを考えるのは楽しかった?
「仕方のない人」
さらりとした髪の感触を確かめて、唇を耳に寄せた。
子供のように喚いた貴方、可愛らしく私の愛を強請った貴方。
私はずるい女だから、私は臆病な女だから。
「こんなにも愛しているのにね」
察して頂戴よ、なんて、女らしい我儘を抱えている。

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