軍靴よ遠く、まだ遠く。(豊)

その日、その場はまるで特別に誂えたかのように彼に似合っていた。
空は鋼色、雲はざわざわとひしめき合って一筋の光も漏らすことはない。土は焼け、生えていた草たちは黒く乾いて役目を果たすことなく朽ちる。風は冷たく、何もないこの土地を自由に駆け巡り人々を乱す。
彼は笑う、その笑顔はこの土地に何よりも似合い歪に張りついた。
「ぼんが遊んでくれはるの?」
彼は言葉と共にゆらりと一歩を踏み出した。ジャリと乾いた砂の音、彼の軍靴から聞こえてくるのはそのような音ではない。まるでそれとは正反対。水面、沼を歩くような、ぴちゃり、ぐちゃりと濡れた音。乾いた大地に喜々として浸み込む赤い色。殺風景の景色の中で唯一目に鮮やかなもの。それこそが地獄の象徴であった。
「ッ、上等だよ、オニーサン」
そう答えるのは彼と対する男。黒々とした目と髪、軍服に身を包み、じんわりと汗をかいた手で手袋越しに刀を握る。背には部下であろう数名の人員、その顔は彼の存在によりわずかに引き攣っていた。
男は、名を鉤史路豊、といった。
男の属する東軍の中では、ある程度名の知れた軍人である。
一部隊を率い、何とも楽しそうに、まるで友人と鬼ごとか何かで戯れるような表情で戦場という地獄を歩く男。軍本部での態度はまさに自由奔放、意欲もなく上官に対する畏敬もない。ただ純粋な力でのし上がってきただけの男。
そんな男が今、目の前の彼に怯えていた。認めたくはないことであろうが、それは確かに怯えだ。着流しと軍靴で身を固め、刃こぼれした刀を一本を手で弄び、その綺麗な女顔の半分を包帯で隠した優男。強さなど欠片も感じられないその姿に、男は、豊は恐怖を感じていた。冷や汗をかき、顔をひきつらせ、わずかに体を震わせる。
『こんなんが出てくるなんざ聞いてねぇぞ』
豊は内心で毒づいた。
豊が聞いていた任務の内容は、西軍の野戦病院を叩き捕虜を獲得すること。そこに用心棒がいるなどとの情報はなかった。もしその情報があったとしたらまだ豊の任務に臨むモチベーションも高かっただろう。無抵抗のやつらを叩くなんて気がひける。そう愚痴をこぼしていた数十分前の彼とはなんだったのか。
こんな、化け物のような雰囲気を持った男の存在など、知らない。
知っていたとしたら、もっと何か策を持ってきたというのに。
「血止」
「はい」
傍らに待機する腹心に向かって豊は小声で語りかける。
名は血止。その名にそぐわぬ赤い髪の長身の男。
「隊列を下げろ、というか逃げろ。足止めは俺がする」
お前に指揮権くれてやらぁ。
すらりと豊が刀を鞘から抜く。銀色に輝く刀身が反射した豊の顔は己から見ればひどく滑稽なもので、自然と唇が弧になった。角度を変えれば銀は傍らの血止の顔へ向き、動揺にうねるその喉までも映した。
「無理です、自分が残ります」
「無理でもやれぃ、それでも俺の部下か」
「無理なものは無理です、それに上官ひとり残していけますか」
「お前でも物の数に入らねぇよ、無駄死にする気か」
「あなたなら数に入りますか」
「小数点割ってもいいなら」
「駄目ですね」
「麻千佳抱いて帰れるの、お前くらいじゃねぇかよ」
麻千佳。豊に与えられた専属のウタヨミと呼ばれる存在の名前である。緑髪が特徴的な彼は小さくか細く、軍に所属していることが不思議に思われるほどにか弱い。
今は豊たちのいる先頭でなく、隊列の中腹で他の兵士たちのために歌っているはずだ。その歌は兵士たちに勇気と癒しを与える。
「歌なしで戦うつもりですか」
「あいつを前に出して見ろ、三秒で下ろされるわ」
ウタヨミの歌う歌には力がある。それは個体により差があるものだが、麻千佳の歌には「共鳴した軍人の痛みや恐怖心を和らげる」力がある。豊はこの力の恩恵を受けていた。歌の聞こえるわずかな時間だけであったが、その間は何も怖くはない、どこも痛くない。腕が切られようが怯まない、関係ない、先に首を落とせばいいだけだ。
しかし、今はそれに頼ることは出来なかった。豊にとってその力を使う前提条件として「麻千佳への攻撃を100%防ぐことの出来る位置に自分がいること」というのがあった。どれだけ多勢に無勢な戦況であったとしても、それを崩すことは絶対にない。だが今回においてそれが出来る保証がなかった。敵の力が未知数すぎる。
「合図をしたら、麻千佳も含めて全員連れて下がれ。俺が見えなくなっても逃げろ。領地に入るまで走り続けろ。命令だ」
わかったな?
豊は返事を求めない。片手に刀、もう片手に鞘、それらを強く握りしめたまま目の前にいる彼に向き直る。
彼は特に焦りもせず、豊たちの話が終わるのを待っていた。わずかに歌声のようなものが聞こえる。豊が聞き慣れた、相方のウタヨミの声ではなく、聞き慣れない、おそらく目の前の彼の口から漏れ出したもの。
「もうええの?おしゃべりは」
彼は優しい声で問いかける。童のように小首を傾げ、その手はくるくると棒か何かと同じように刀を回して遊んでいた。
「わっちに構うことあらしまへんえ?もっと堪能しはったらよろし」
ぼん、もうしゃべられへんようになるんやから。
袖で口元を隠しながらくすくすと女のように笑う。その声も骨格も確かに男のそれであるというのに、彼の仕草や言葉遣いといったらどこか女の雰囲気を醸している。気色悪いというわけではない、それが似合っているから困るのだ。
「おー、こいつとはもういいわ。次はアンタとだな、オニーサン」
「!嬉しいわぁ、可愛いぼんとおしゃべりやなんて」
とす、と軽い音を立てて彼が地面に刀を突き立てる。
開いた両腕を組みながら、彼は人差し指で唇を撫でた。
「かまへんよ、何でも聞きや。お土産にでもしはったら喜ばれるやろ」
「土産?冥土の、ってか?」
「察しのええ子やね」
ここでお前を確実に殺す。
言外にそう言われたわけだが、その言葉に震えたのは豊というよりその後ろにいる部下たちだった。鉤史路隊の隊員たちは豊の気質に惹かれたのか豊とそっくりで威勢のいい男たちばかりだった。隊長である豊の事を慕い、尊敬し、憧れとしてその背中を追っている。その相手に対して軽々と投げられた殺害予告。そしてそれを覚悟している豊が目の前にいる。心の支えをすっぽり抜かれたことはあるか?
「まぁいいや。話つっても名前くらいさ。いつまでもオニーサンじゃ面倒ったらねぇ」
「名前……そやねぇ、なら、鴉鎖魅、とでも呼んでおくれな」
あざみ。まず浮かぶのは花、次にギザギザとしたその葉。なるほど、いい名前だ。
豊はお返しにと口を開く。
「あざみ殿。西軍の軍人とお見受けするが相違ないか?」
「あらしまへんなぁ」
「ではこちらも名乗らせていただこう。東軍所属、鉤史路豊だ」
ちら、と豊の視線が後ろへ向く。視線の先には部下たちの群れ。いつもなら綺麗に整ったその隊列は、少し歪に蠢いていた。早くしなければ、その蠢きが豊を焦らせる。
「そこを退く気はあるか?あざみ殿」
「それもまた、あらしまへんなぁ」
「そりゃあそうか」
「あそこ、そないにほしいんか?ぼん」
「俺じゃあないが……まぁ、ほしいな」
捕虜が取れれば、その分だけ優位に交渉を進めることが可能になる。その意味が分からない程、彼、あざみも愚かな男ではないだろう。
にんまりと細まる目、ぱちぱちと叩かれる掌。それらが声だかに否!否!と喚きたてる。豊にもそんなことはわかっていた。
「条件次第なら、くれてやってもかまへんで?」
「は?」
くすくす、再び笑い声が聞こえてくる。
「くれてやってもええ。ぼんのこと、見逃したってもええ」
再度重ねる。
豊には鴉鎖魅の言葉の真意がわからなかった。罠か、それとも本気か。確かに忠義に篤い男には見えないが、寝返るほどのものか。確実に何か裏がある、だがしかし裏を読み切れない。
「…………条件次第とは?」
確認すべきはまずそこだ。乗る気はないが、情報は多いに越したことはない。
「難しいことやない。ぼんが頷きさえするんなら事足りる」
そうして鴉鎖魅の目が豊から外れた。その視線を追っていくと、その先があるのは豊の後方。ずっとずっと奥の方?いやいや、すぐ近く、ほんの一メートルと少し。
「わっちは何よりもお歌が好きでなぁ」
「主殿……?」
悪い予感がした。滲むだけにとどまっていた汗が粒となって豊の肌を滑り落ちる。
後ろでわずかにした麻千佳の声に思考を加速させられる。心配するな、後ろに戻れ、そういうのは容易いはずなのに、喉が動かなかった。
現在、西、東、双方ともにウタヨミの存在は認知しており、軍事転用にまで至っていた。だが豊の率いる東軍に比べ西軍はウタヨミの数がそこまで安定していない。扱いも劣悪で、壊れる者が後を絶たないと聞いた。つまりは、使い捨ての存在に等しい。
「ぼんの子飼いのひばりをおくれ」
「誰がやるかクソ野郎」
するりと鞘が豊の手から離れていく。
その落下の時間は一瞬であったはずなのにひどくゆっくりで、首だけわずかに振り向いた豊は部下に言った。
「行け」
残酷で孤独な戦いは、存外小さな一言で火蓋を切るものだ。


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