おかえりなさい、我が罪よ(麻千佳)

麻千佳、と呼ぶ声が聞こえた気がした。
それは酷く懐かしい声で、自分は夢を見ているのだと一瞬で自覚する。その声が今聞こえるはずがない、今自分が入るのは誰も近寄らず埃を被った第四書庫。あの人は本が嫌いだった。暗くて寒いところも怖がっていた。ここはまさにあの人が嫌いな場所だ、だから、もし叶うならば、と、この場所に転属願いを出した。あの人が、来ないように。
「麻千佳」
そう思っても声は止まずに響き続けている。これは誰かのいたずらだろうか、だとしたらたちが悪い。いや、私のようなものはストレス発散には手頃ということだろうか。それならば仕方のないことだ。
役立たずに仕事が与えられるだけでも感謝すべきこと。職務は全うせねばなるまい。
換気のためにと開けていた窓を閉め、鍵をかける。机の上でひらりと一度だけ遊んだ書類を手に取り、そこに書かれた本を探す。
ここにある本は皆、古くなって誰にも読まれなくなったものだ。時折汚れたり裂けたりが理由で運び込まれてくるものもある。それを修復して管理し、極稀にやってくる資料請求に確実に答えるのが私の仕事だ。軍部の端の端に位置しているこの部屋に、人の声が届くことは滅多にない。時々伝令係が書状を持ってくるくらいだろう。それなのに。
「麻千佳」
まだ声は聞こえていた。いつになったら飽きてくれるのだろう、今はそれだけを考えている。
本を探し終え、書状と一緒に風呂敷に包んでカウンターの上に置いた。後少しで八つ時といったところだろう。伝令係は、用があるとその時間にやってくる。そして業務連絡を私に伝えて、帰っていく。
私が人と唯一関わる時間だ。不満はない、その程度でちょうどいい。
響いてくる声にじんわりうずく眼帯の下をするりと撫でて、そろそろくるであろう者を待つ。今日は男か、女か。軍人かウタヨミか。それを当てるのがちょっとした楽しみだった。そうだ、今日は軍人の男ということにしよう。
三時きっかりに扉は叩かれて、ひょっこりと小さな顔が隙間からのぞく。ああ、軍人でもない。下働きの少年か。
カウンターの風呂敷包みと私の顔を交互に見ておろおろとする様子がかわいらしい。まだ遣いに出されるのにも馴れていないのだろう。私に声をかけるのに戸惑っているらしい。
仕方ない。
筆を取り、そこらに捨ておいていた紙に文字を書く。
[本をとりにきたのだろう?]
漢字を使ってしまったことは失敗だったらしい。最初は首をひねり何のことか考えていた少年だが、やがてはっとしたふうにこくこくとうなづいた。包みを渡してやると両の手でぎゅっと抱き込み、やっと動かせる首で私に礼をする。
[もういけ、しかられる]
そう書いて見せてやると少年は転びかけながらも走って書庫から出ていった。あのままではきっと一度は確実に転ぶだろう。
だがこれで今日の仕事も終わりだ。息を吐き帽子を取ればまとめてあった髪がはらりと落ちる。
「あの子供、おまえとよく似ていたな」
ああもう降参だ。
ため息を一度ついて顔を上げると、自分の前に薄ぼんやりとした影が見える。それはとても見知った顔をしていて、泣きたいような嬉しいような、でもやはり泣きたくなって、あげたばかりの顔をまた下げる。
「なぁ、麻千佳」
前がよく見えなくて手がじんわりと痺れていた。それはもうきっと気づかれていたことだろうが、それでも気づかれるのが嫌で、私はつい濁った声で可愛くもないことを言う。
「遅かったですね、主殿」

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