第二章

 何時の間にやらに訪れていた微睡だった。
 ふと気付いた時には自室として使わせてもらっている邸宅の離れの中であり、ぼんやりと天井の板を見上げている。
 昨晩、私はどうやって帰ってきたろうか。
 記憶がぶつ切りになって所々が消え失せてしまっている。あれは、全て夢の様な物だったのだろうか。自分は何時もの通り先生に言われるがままに用事を済ませ、この邸宅へと戻り、食事と風呂を済ませ、この床に就いたのだろうか。わからない。まるで多く酒をかっくらった時の様な記憶の抜け方をしている。
 今私にあるのは敷布と上掛けに挟まれた心地の良い温かさ。まだまだ尾を引く様に残っている眠気。たったそれだけだ。
 眠ってしまいたい、更に我儘を言うならば、結女の中でもらい受けた彼女をもう一度。あの白銀色に輝く髪を。見た事も無い柘榴の瞳を。どんな陶器よりも白く華奢な身体を。もう一度この腕に抱いてみたい。
 それはまさに夢であったが、夢の様な体験であった。ぼんやりとした至高の中でさえ、それだけは鮮明に覚えている。其れが二度と実現しないとするならば、この夢はまさに
「ただの悪夢だ」
 思わず顔を手で覆ってしまう。見慣れた板の天井が影に隠れ、目の上に普段より幾分温まった掌がぺたりと乗っている。
 温かさは更に眠気を加速させる。きっとこのままでは再び眠ってしまうのだろう。そう思うと、頭の中では喧しく警報が鳴り響いた。
 今日の予定は何だった?昨晩先生の元へ聞きに行っただろうか、それすら覚えていない。朝食の時に改めて聞かなければ。いや、それよりも先に何か粗相をしているようならばその謝罪も……。
 そんな思考が頭の中をぐるぐると回っている。回りが過ぎて上手く先程までやってきていた微睡はどこかへ行ったようだ。
「起きるか……」
 先生が私に用意してくださった敷布は、人より少し背丈の高い自分に合わせてくれたのか随分と縦が長い。
 しかし、仕立て屋が何を勘違いしたのか、出来上がった布団は何と横までも長ったらしく、横に二人が並んでも申し分ない仕様のものだった。私は常に、この布団の半分側だけを使って眠っている。広い布団というのは如何にも落ち着かず、何とか妥協した結果だ。今日もいつものように、自分の使っている半分側の布団を捲り、ひんやりとした空気に肌を晒す。二度寝をする気はないが、如何にも勿体無く思って、捲った布団は元に戻し空気を閉じ込める様にぽんぽんと叩いた。
 其時、ふと気が付く。
 平素は平らでいて、冷たくある筈の隣に存在している、こんもりとした山。自分の背丈の半分も無い、小さな山。
 嫌な予感がした。昨晩の夢の内容が頭の中でちらついている。
 いやまさか、そんなわけがあるはずもない。これはきっと、きっと……そうだ、昨日着ていた羽織が丸まって入っているに違いない。きっとそうだろう。
 自分に苦しい言い訳を言い聞かせながら、僅かに震える手で布団に再び手を掛ける。
 昨日着ていた羽織は何色だったろうか。黒か、紺か、それとも別の色だったろうか……。
 考え事で気を紛らわそうとしながらも、ええい、ままよ。と一気に布団を捲る。
「……」
 先ず見えたのは先程焦がれた白銀の髪。敷布の上に散らばる一本一本がきらきらと光る絹色のようで、悪寒も忘れて感嘆の息を吐く。
 次に見えたのは見えたのは真白の衣服。彼女の背丈より大分大きいように見える其の衣は見覚えがある。恐らくどころか確実に私のもので、その事実に何か、こう、こみ上げる何かを感じる。
 第三は僅かに見える手足。ほぼ隠れてはいるものの、先のみ見えている手や足は日に当たることない私と比べて見ても随分と白い。衣服よりも白く見えてしまうのは私の贔屓目だろうか。
 昨晩私を魅了した柘榴石は瞼の裏側にその姿を隠し、その分ぐっとその印象を大人しく大人びた清いものへと変えている。見たい、という気持ちと、閉じていてよかった、という気持ちが交錯する。このまま目がずっと閉じていれば、彼女は唯の人形で、昨晩はこれを買っただけだという事実を確認できる。嗚呼、そうさ。私は人形を買ったのだ、きっとそうなのだ。
「ん、あらあら?もう朝が来たのね?」
 悲しいかな、現実は如何なる時も上手くいかないものなのである。ゆっくりと姿を現す柘榴の瞳、ゆらりと動いて服の皴の形を変える手足。その動きは滑らかで、絡繰りなどではない、確かな人の動きをしていた。確かにそこに横たわっていたのは少女であった。
 今思えば何を思いこもうとしていたのか。こんなに精巧な作りの人形がある筈も無いというのに。
「幸せだわ、この上ない幸せだわ。朝起きてすぐに貴方の顔が見られるなんて」
 少女は恍惚とした、いや、この表現は適切ではない。何かに浮かされたようにふわふわとした声色でそう呟いた。
 薔薇色の頬を小さな椛の手で押さえながら、照れたように視線を右へ左へと送っている。当に恋する乙女、描きたくなるような可憐さである。しかし、此の可笑しな状況がどうもその気を失せさせる。
 女性に対する扱いではないが、じろじろと上から下までその姿を眺め、あの夢の中以外に見覚えがないか確かめる。
 ない、という検索結果を脳内で弾き出すと、溜息を吐きながら浮かれた少女に問いかけた。
「お前は誰だ?何故此処に居る?」
 少女の夢は泡のように弾けた。丸い大きな目をさらに大きく丸くして、少女はじっと梟の様に感情なくこちらを見る。
 その様子に僅かに恐怖しながらも、それを悟られないようにして見つめ返した。
 やがて少女がその柔らかそうな唇を薄く開くまで。
「昨日の事を覚えていないのかしら?」
 暫く経って、漸く彼女はそう言った。
 もう一度思い起こしてみてもやはり私の記憶は曖昧な儘、記憶はぶつりと途切れた儘。
 首を振って言葉も無く其れを伝えると、少女は小さく、やけに大人びた様子で「そう」と一言口にした。考え込むような仕草をし出した少女に、また問いかけを投げようとしたその時だった。
「向陽さん?起きてらっしゃる?」
 戸の向こうから控えめな女性の声が聞こえてくる。毎日聞いている耳に馴染んだ声。この家の女将さん、先生の奥様の声であった。
「はい、何か御用でしょうか」
 何とか平静を装いながら、扉越しに返事を返す。扉を開けられては堪らないから、この焦りをほんの少しでも出す訳にはいかなかった。そうして更に焦っていく私の様子は中々に滑稽だったらしく、目の前の少女は声を抑え乍らくすくすと笑っていた。
「朝餉の時間ですわ。起きていらっしゃらないので、心配になって」
「ああ、申し訳ありません。直に支度をしますから」
「お待ちしておりますわ」
 戸の向こうから感じる気配が遠のくのを感じ、ほっと息をつく。あまり時間はない。支度を整え、この少女の処遇を決め……とやっていれば母屋にいる先生たちが不振がることだろう。一先ずこの少女の事は保留し、今日の仕事をこなしてくるのが恐らくは最善。
 そう腹の中で決めてしまえば後の動きは速かった。
 小腹が空いた時用の菓子や果実などの在処を少女に見せ、それから時計を見せ帰ってくる時間を教える。幸い少女には教育が行き届いているようで、私の言うことを過不足なく理解していた。長い間傍を離れるので不安であったが、これならまぁ大丈夫だろう。
「いいか、先程言った時間に帰ってくる。留守中は静かにしているようにな」
「ええ、勿論。私、貴方が困るようなことはしないわ」
 満面の笑顔で返ってきたその言葉の全てを信用できたわけではない。だがしかし、信用するしかない、というのも事実。兎に角時間が追いかけてくることに焦った頭ではいい考えなど出る訳もない。
「いってらっしゃい、愛しい貴方」
 そんな言葉に背中を押されながら、私は慌ただしく支度をした後に離れを出た。
 何とかいつも通りの一日を過ごさなければ。怪しまれる事の無いように振舞わなければ。
 そう思えば思う程に襤褸が出ている気がする。当に散々と言ったところだ。脳内にあの少女の面影がちらちらと過り、その度に何か物を壊すか、自分自身が怪我をする。
 先生だけではなく奥さまやお嬢さん、お坊ちゃんにまで心配されることとなった。
 何という事だろう。何と不甲斐無い事だろう。
 落ち込む私の此の気持ちを、今此れを読んでいる貴方は解ってくださるだろうか。
「向陽、君、今日は少し疲れているのだろう。今日は一日ゆっくりと休んだらどうかね?」
 そうした先生からのお言葉により、私は何時もよりも早く昼餉を頂き、何時もよりずっと早く離れへと戻る事となった。
「あら、早かったのね。嬉しいわ、愛しい貴方」
 離れの入口の戸を開けた時、少女は何処からか取り出した旅行鞄の中を漁っている様だった。がさごそ、がさごそ。その激しさは私の帰還など気付かないのではと思わせる程のものであったが、私が声をかけるその前に、少女は私に迎えの言葉を投げかけた。まるで新婚夫婦の妻であるかのように。そうして少し急いだ仕草で鞄を閉じると、ちょこちょことした可愛らしい歩幅で此方へ駆け寄ってくる。
「言っていた時間よりずっとずっと早いのね」
「ああ」
「貴方にとっては悲しい事でしょうけど、私からしたらとってもとっても嬉しいわ」
 少女は私の袴をその小さな手で掴み乍ら、見上げる様にして言葉をかけ続ける。かく言う私と言えば、その言葉に真面に応えることもせず、預けていった菓子や果物の貯蓄をちらりと見て「昼餉は未だなのか?」とだけ聞いた。これだけを聞けば本当に夫婦のような会話だと思いながらも、口にしてしまった言葉を取り消す事は出来ない。
「あぁ、そうね。……でも、いいの。私、今は胸が一杯で何も入りそうにないから」
 彼女はそっと私から離れ、菓子の方へ向かう。飴玉や金平糖、箱に入った色取り取り様々な菓子を、自分にではなく私に勧めてくるのだ。
「貴方は砂糖菓子がお好きなの?それとも、甘いのは全部お好き?私、クッキーやビスケットが焼けるのよ。今度食べさせてあげましょうか」
 ぺらぺらと回る舌で延々と話を続ける。話が好きなのは女の性か、それとも彼女自身の質なのか……どちらにしてもどうしようもない。
「焼き菓子は結構だ。それよりも、君のこれからを決めねばなるまい」
 私は未だ敷きっぱなしになっていた布団の上に腰を下ろす。何時もはきちんと畳んで仕舞ってから母屋へ向かうのだが、今日は彼女と話していたせいでその時間も無かった。
「先ずは君の名前を聞かなければ」
 ありったけの威厳をもって、私は彼女にそう問うた。彼女の言葉はどうしても少し軽く弾むような印象を受ける。話題が何処か遠くへ行ってしまう様な気がして、如何も末恐ろしい。
「私?私の名前なんて貴方はとうに知っていてよ。私はアン、そしてアンジェリカ。どちらでも貴方の好きなように呼んで頂戴な」
 白磁の肌に銀の髪、柘榴色の瞳。西洋の名前は成程よく似合っていた。私は自らも名を明かそうと口を開いたが、その行為が無駄であると、寧ろ害ある行為であると気付き、口を噤んだ。
 名など教えて何になる、懐かせたとして何になる。どうせこれから別れる存在であるというのに。
「そうか。ではアンジェリカ、君は一体何処から来たのだね?」
 思考を断ち切る様に問いかける。少し考え込む素振りを見せながら、彼女は答えた。
「そうね……どこかしら。暗くて冷たい場所、というのは覚えているのだけれど、具体的に説明出来る言葉を私は持っていないわ。甘い匂いに釣られる蝶や蜂の様に、ふらふらと此処へやってきたの」
 まるで空想小説を読んでいる様だ。頭がくらくらとしてくる。
「昨晩の事は覚えているでしょう?この国では何かと大人が必要だから、あのおばあさんに頼んだの」
 そうしたら、貴方に会えたわ。
 嬉しそうに語るアンジェリカ。あの老婆の存在も確かに気になってはいたが、そういう事だったのか。
「ということはあの老婆は君の親では」
「ないわ。お金を見せたら協力してくれた。其れだけの人よ」
「本当の親は」
「さあ、何処に行ったのかしら。何処かの誰かのお腹の中?深い海の底にあるお城?暗い森の中で眠っているのかしら」
「……ふざけるんじゃない」
「ふざけてなんかいないわ、わからないのよ」
 アンジェリカはにっこりとした満面の笑みでそう言って、何処か甘えるような仕草で私の膝の上に座った。
 絆されてなるものか、何でもない風を装いながら質問を続けた。
「どうして、私の所に来たのだね」
「私が来たいと思ったから、そして貴方が私を呼んだから。貴方はきっとわからないわ、でも、それでいいのよ。後できっとわかるわ、愛しい貴方」
「お前を家に帰したいときはどうしたらいい」
「あら……きっとそんな事は無いと思うけれど、帰りたい時は勝手に帰るわ。ねぇ、此処に置いて頂戴よ」
「そういうわけにもいかないだろう、私も此処に置いてもらっている身だ」
「なら私の事は内緒だわ。二人だけの秘密なんて素敵だわ」
 溜息を吐くことしかできない、真面な会話が成立しない。これは何処か公的な機関に預けた方がいいものなのだろうか。其れとも適当に放り出しても……いや、やはりそれは人としていけない。軍警にでも相談に行くのが一番だろうか……。
「悪い事を考えているわ」
 風船が弾ける様に思考が霧散する。
 アンジェリカのじとりとした視線が肌を舐めるのを感じて、思わず彼女と目を合わせた。丸くとろけるようだった瞳を鋭くぎらりと光らせて、彼女はこちらを睨みつけている。大人の女も顔負けだ、大の男もたじろぐだろう。少女でありながら大人、可笑しなことだ。
「此処に置いて頂戴よ」
 彼女はもう一度繰り返す。
「私は貴方の為にいるのだわ。私は私の為に此処にいるのだわ」
 ああ、またあの感覚だ。
 頷かなければ、うん、と言わなければ。そうしなければならないというただの根拠もない決意。後悔の手がひたりと頬を撫でる感触。
「お願いよ、向陽」
 こんなに自分は意志の弱い男だっただろうか。
 確かに年端の行かぬ少女を見捨てることに罪悪感もあるかもしれない、だが間違いなく害しかもたらすはずがない存在を、主人に内密に引き込むなどと……
「お願い」
 ああ、しかし、此の言葉にどうしても逆らえる気がしないのだ。
 恋焦がれた愛しい子よ。


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