第一章

 私は、葉山向陽という人間は、酷くありふれた存在である。
 生まれてこの方、取り柄と言えるほどに得意な事柄を得ず、欠点と言える程の不得意も与えられることはなかった。器用貧乏、と人は言う。もしかするとこの世で最も退屈を極めるだろう性質を持ち合わせ、不幸にも私は生まれてしまった。この時点で既に、恵まれた生とは言えなかった。
 家がそれなりに裕福であったために、私は特に大して不自由することもなく大学まで進学、そして卒業。就職すら苦労する事は無いだろう、人はそう言って私を生温かい羨望と、露助の蔓延る海の様な冷たさの侮蔑を視線に混ぜた視線で見つめた。
 きっと、斜に構える私の生き方は見る人を不愉快にしたに違いない。
 しかし、そんな人々の視線に私は応える気など無く、家族の反対を押し切って一つの苦労を背負い込むことにした。小説家、逸見道幸氏の邸宅に、書生として入ることにしたのである。
 既に大学を卒業し、学生という身分を捨て去った身。書生、と名乗って良いものか思案したが、逸見氏(以降先生と書くことにする)が気にする事は無いと朗らかに仰ったので其の言葉の通り、気にしない事にした。
 逸見家においての生活はとても穏やかな物であった。先生と奥方様、御令息に御令嬢。品行方正でありながらも明るく優しい方々。私自身は人と話す事を余り好まず、愛想も決して良いとは言えないのだが、家の皆様はこの様な私であっても温かく迎えてくださった。
 先生から与えられる仕事はそれなりに多い。家事手伝いや御遣い、御令息の家庭教師、挙げれば限が無く、朝から晩まで動き回るといった日も少なくない。倒れる様に蒲団に横になり、其の儘夢見る事も無く朝を迎える等毎日の事であった。多忙な生活、しかし、私は今まで過ごしてきた人生のどんな一場面よりも充実していると感じていた。
 つまらない人間のつまらない人生、黒と白のみで構成された味気ない世界。そんな世界が、未だ淡いながらも色付いて見えてきたような気がした。
 そんな、確信もなくぼんやりとした、まるで雲の様なそんな思いを、彼女はあっさりと消し去ってしまったのである。
 其の出会いは何も遠い昔といった話では無く、ほんの数ヶ月前、冬の入口、立冬を少し越えた辺りの時分であった。秋から冬へ移り変わり、木枯らしが吹き荒れ気温も下がった夜分。その様な時間に外にいる、剰え歩き回るなど避けていたかったのだが、その日の私は先生からの頼まれ事で朝から大忙しであった。出版社や文具屋、呉服屋、果ては先生の親類の御宅、様々な場所で様々な用を済ませ、漸く帰路に就いた処であった。
 時計を確認してみれば時刻は九時を回りつつある。通りで、今は余り聞かれない入相の鐘を感慨深げに聞いたのが遠い記憶であるはずだ。これは早く帰って、先生に今日の報告をしなくてはならない。晩酌でも為さらない限り、先生の就寝時刻は早いのだ。
 外套の前を正し、襟巻を僅かに直してから進む足の速度を速める。
 辺りには当然ながら人っ子一人見えない。酔っ払いや、車すら見えない。繁華街と住宅街の狭間、とでも言う様な閑静な川の端である。それも当然であるのだが、先ほどまで喧騒にいたことを考えるとその寂しさすら体感する温度を僅かに下げた。吐いた息が白く浮き上がって、風に押し流されていく。
 儚いものだ。
 小説の種を考えるのならば、斯ういった淋しい風景の中が良い。
 早めていたはずの足が、ゆるりゆるりと速度を落としていく。
 落ちる機会を逃した枯葉が一枚、私目掛けて落ちてくる。一陣、軽やかに吹いた風が、私の長い髪を乱していく。
 其れ等は手足の先を赤く染め、体を震えさせたこの空気の温度を、一時忘れさせてくれた。
 間違いなく、私は此の時分、大人にのみ許された時間に於いて、まるで童の様に燥いでいた。昼間とは正反対に、見た事も無いような顔を見せる風景に、目を輝かせて浸っていた。年甲斐もない。今時、十六だか十八の少年ですら夜分に出歩き、酒を飲み歩くこともあるというのに。
 しかし、此の時間にも良い加減に蹴りを付けなければ為らない。時計の針も大分進んでしまったかもしれない。
 帰ったら身を清め、先生への報告を行い……先生にお預けした小説の講評は戴けるだろうか、そうしたら、明日の準備を――――
 そのような事を考えていたから、私は気付くことが出来なかったのだろう。其処に居た人物の存在を、彼女の存在を。
「ちょいと、其処のお兄さん」
「……?」
 其の声の主は、平素であるならば確実にそのまま何事もなかったように過ぎ去るだろうと思わせる容姿をしていた。
 先ず見えたのは襤褸布、そしてその下から僅かに覗くぎらぎらと光る瞳。小説や、三流大衆誌に頻繁に取り上げられている異形や妖にも似た雰囲気を感じる。
 視線を僅かに下げると皺くちゃになった顔の皮膚が見え、何かを口走ろうと唇がもごもごと蠢いているのがわかる。
 其の更に下は頭にも被せてある襤褸布が体を覆い隠すように巻かれている。其のせいで体の線は外から全く見えず、其の下に嫌な想像を掻き立てられる。見た其の儘の骨と皮なのか、其れとも瞳の雰囲気を引き摺って異形の体をしているのか。後者は有り得る事ではないと解っている筈なのに、どうしても思考だけが悪い方向へ加速する。
 今斯うして見つめているだけでも精神的な疲労が肩を重くし、汗が湧き出てきそうな気持になる。一つ行動を起こすだけでも覚悟を必要とする。
 兎も角、私は振り向いてしまった。今更見なかった振りをして帰路に戻る事等出来ないだろう。
「……何か?」
 長めの間を開け乍ら恐らくは老婆であろうと思われる存在に問う。恐らくは、どうしようもない程の顰め面をしていることだろう。眉根を寄せ、目を吊り上げ、口角を下げ、可愛げの無い顔をしていることだろう。子供から何度泣かれたか判らず、大人にも苦笑い、若しくは同じ様な顰め面で返される顔だ。
 然しそんな顔に怯む事も無く、大して気にもしていない先程と少しも変わらぬ顔をして、老婆は話を始めた。
「随分と寂しそうな顔をしている。あたしはそういう顔が嫌いでね、つい話しかけちまったんだ」
 寂しそうな、と言っただろうか。今が人生の盛りかと間違うほど充実を実感している私に対して、寂しそうだと。
 なんと言うことだ。私の事を何も知らないこの老婆の一言が、何故此処まで刺さるのか。
「……お気遣い痛み入る。だが、その様な顔をした覚えは無いのだが」
「おやおやまあまあ、解っていないとはまた重大だ。仕様がないとは此の事かね」
「御婦人、繰り返し失礼するがその様な事は」
「おやおやまあまあ、おやおやまあまあ」
 話が通じないとは当に此の事だろう。
 これは此の老婆を存在ごと無視して、何事も無いのを装って帰路につくのが屹度正解であるのだ。其れ以外を選ぼうとするのが間違いなのだ。
 其の儘、老婆と視線も合わせずに口を開く。
「もう夜も更けた。御自宅に戻られたら如何か」
 少なくとも、私はそうさせて頂こう。
 足元から砂利の喚く音がする。途端、老婆の半分が視界から失せるのが分かる。もう一歩踏み出せば、あの西洋でいうところの魔女の様な姿は消え、また風情を帯びて閑散とした空気が私を囲むことだろう。
 そう思っていた。
「向陽」
 名が聞こえた。生まれてから既に四半世紀を超え、耳に根付いて取れなくなってしまった此の名が呼ばれた。
 咄嗟に踏み出しかけていた足が失速し、身体が僅かに傾く。
 聞こえてきた声は老婆の物では無い。其れよりもずっと若々しい、寧ろ幼いとすら感じて仕舞う声。
 こんな夜更けにそんな声が聞こえるわけがない、常識に則って考えるなら聞き間違いだと流してしまうのが正解だ。然し、唯それだけとして流すには、その声は過ぎる程に明瞭で確りと私を捉えていた。
「アタシを置いていくの?」
 振り返る。
 そうすることに理由はなかった、然し、そうしない理由も何故か風に攫われて消えてしまった。唯身体がその様に動き、彼女を視界の中心に、然も其れが彼女の定位置とばかりに恭しく置いた。
「アタシ、貴方を呼びに来たわ。地獄迄、此処よりもずっとずっと幸せな地獄迄」
 見た事の無い、異国の少女であった。
 彼女は紛れも無く少女といった装いで、その小さな身体に熟しきった柘榴の甘い香りを纏っていた。月明かりに照らされた白銀の髪は綺羅星を塗した様に煌めき、此方に向けられた二つの柘榴石の視線は私を魅了する。その白い肌を白磁と表現するには何となく憚られて、其の見るからに滑らかで柔らかな手を過不足無く表現するだけの語彙を持たない私が心底憎らしく思えた。考えれば限が無く、然し思考を止めたくないと何かが耳元で囁く。
 時は今止まっているだろうか。美しさに囚われた「今」という時が流れ掠れ薄まっていくのに、私は耐えられそうに無い。
「だから、アタシを置いていかないで頂戴」
 ああ、誰が可愛い貴女を置いて等行くものか。
 そう口に出してしまうのは簡単だろう。然し私の口は石で出来ていたのかと間違う程に硬くなり、情けないが喘ぎの一つも出せないくらいであった。
 何か、一つでも口に出してしまえば今目の前にいる少女は消えてしまうのだろう。少女と女の危うい境界の上に立ち、其の上で悲劇を演じる彼女は消えてしまうのであろう。
 その彼女が惜しくて、其の儘、この一瞬の儘に留めておきたくて、私は今この身を固めてしまっている。世渡りの得意な人間であったら、もっと上手く取り繕うのだろう。然し私にその様な器用さは存在せず、また女性を転がすような事に慣れている筈も無かった。
 だからこそ私は医師に為らざるを得なかったのである。
「お願い、向陽」
 足音がする。先程私が鳴らしたよりもずっとずっと控えめで、喚くというよりも歓喜にも似た響きに聞こえる。
「お願い」
 私の腰にほんの少し重みが加わった。目線を下にずらすと、彼女の小さな手が私の袴を掴んでいるからだとわかった。親指の爪の小ささ、薄桃色をした部分と白色の部分の割合の可憐さ、細やかに光を反射するそれに接吻さえしたくなる。
「お願いよ……」
 こくり、と唾液を飲み込んだのを、私は其の動作の全てが終わってから気が付いた。気が付いた時、私は彼女をそっと抱き上げ鼻腔を柘榴の香りで満たし、彼女はそんな私を見て満足したように微笑んでいた。
 その行動にすら理由はない。彼女に願われたから、そうしたかったから、どれもが近いようで在りながらも決め手に欠ける。若しも其の決め手に欠ける理由達から強いて一つだけ挙げるというのなら、唯そうしなければ後悔すると思ったからである。
 私は彼女を其処から連れ出して、夜の闇を茫然と歩きだした。行先など決めるものではない、何処かに行くことが目的ではない。彼女と歩むことがどれ程の幸福を今此の瞬間に生んでいるか、屹度それはあの時の私にしかわからなかったことだろう。

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