プロローグ

『恥の多い生涯を送ってきました』
 何時だったか読んだ小説は、この様な一文から幕を開けていた。酷く憂鬱とした話で、救いの一つも無く、唯主人公に複雑な、然し決して明るく等無い感情を抱いたことを覚えている。兎に角臆病な少年の話であった。唯、其れだけであった。
『あの人は私のもの、私だけのものだ』
 別のとある小説では、女性が斯うした内面を吐露していた。うだつの上がらない旦那と、其れにうんざりとしている妻。その二人の話であった。当初は女性に同情していたものだが、最後には溜息を溢したことを覚えている。其の溜息の意味が、如何しても其時の私ははっきりとした形に出来ず、暫く憂鬱とした気持ちを抱える羽目になった。もう二度と読むまいと思った話だった。
「私は始めて彼女に深いたくらみがあったのを知りました」
 騙され続けることを肯定した男は、完全なる敗北を悟ると自らに言い聞かせるように呟いた。救い様の無い男もいるのだと、私は其時初めて知った様にも思う。男の悲哀が、男の絶望が、陶酔と快楽の奥から僅かばかり顔を覗かせて居るのを見た。其の様子を見ながら、私は未だ真面な部類であると幾許かの安心を覚えていた。私も如何やら、人に言えない程度には悪い性格をしている様だ。

 自らの人生を思い返して見ると、先人達がつらつらと書き連ねてきたこれらの言葉が私の脳裏に浮かんできた。延々と、じわりじわりと、泉から水が少しずつ湧いて溢れる様に。歩んできた二十数年、その中で積み重ねてきた知識の引き出しから「お似合いだろう」とばかりに言葉の一つ一つが顔を出す。一つ二つ、三つ四つ、次々と、其れは数えきれない。しかし其の言葉の羅列をなぞっていると、ふと気付くことがある。
 その言葉の羅列の中に、一つとして私の言葉はなかった。
 私が私自身の人生を振り返り、其の末に何らかの結末を、この生に於ける価値を模索している。それなのに、其処に在るのは私のことなど何一つたりとも知らぬ赤の他人たちの言葉であった。
『恥の多い生涯を送ってきました』
『あの人は私のもの、私だけのものだ』
『私は始めて彼女に深いたくらみがあったのを知りました』
 どれもこれもが、借り物である。私とは一体何であったのだろうか。私の生涯の何処に、私というものはあったのだろうか。
 唯一私が認識している私の中での真実は、終ぞ叶わなかった夢のことであった。私はつい最近まで、若干の諦めは抱いていたものの、小説家に為るという夢を追っていた。先生の師事を受け、常に貪欲に知を求め、其の知と自らの欲望を集約し紙に叩き付ける。その様なことをし乍ら時を重ね、日や月、季節、年が移り変わるのを感じていた。それなのに、そうであったはずなのに、重ねた時を無駄と嘲笑うかの様に、この胸の中は仮初で埋め尽くされていた。
 その事実に気が付いたとき、私の中に細やかでありながらも確かな、人々が絶望と呼び恐れるものが生まれた気がした。胸の奥に重りを抱え込んだ様な、否、この胸の中身の全てが鉛へと変ってしまった様な感覚。胸を縄で引き絞られ、真面な呼吸が出来ずに喘ぐ苦しさ。こんなものを抱えるくらいならばと、何も考えず逃避したくなる死の尊さ。
 そうした様々に苛まれ童の様に泣き喚きかけた私に、彼女は囁いた。
「泣くことはないわ、私の坊や。無いなら作ればいいじゃない」
首を傾げ、俯く私の顔を覗き込み、そっと頬を撫でる。彼女の眼は、そして声は、今まで見てきた、聞いてきた何よりも澄んで真直ぐだった。彼女に促されるまま、私は自分の両の手をじっと見つめる。紙に触れて乾燥した指先、インクを吸い僅かに変色した皮膚。追い続けた夢の足跡。
 そうして私は、今自らを抱き込んでいる状況について正しく理解した。彼女の言う通りであった。無いならば作ってしまえばいい、書いてしまえばいい。そんな単純なことがどうして思い浮かばなかったのか。愚かにも程がある。幸か不幸か、私を、私たちを止める者は誰も居らず、時間は持て余すほどに持っていた。
「貴女は私を置いていくか?アンジェリカ」
「意地悪を仰るのね。私、鬼じゃなくてよ」
 わかりきったことを一つ、聞いた。今の私は私の人生の何処を切り取って比べてみても一等子供らしく、其れだけで胸の中が凪の様に穏やかになるのを感じた。
 そうして私は、筆を執り書き始めた。

*   *   *

拝啓
逸見道幸様

 雪が解け、白から黒、緑へと変わりゆく景色が目に鮮やかに届くように為って参りました今日此の頃、こうして顔も見せず、又唐突に御手紙を差し上げる無礼をお許しください。
 貴方様の許を去り一月ほど経ちました。お恥ずかしながら、未だ貴方様の御声が届く程近くに身を寄せている次第です。
 この世の未練という物は中々断ち切ることが難しいものであるようで、気づかぬうちに時間が驚くほど速く流れていきます。しかし、未練の一つ一つを、細い糸をふつりと指先で断つようにして潰していくのは存外に楽しく、遠い恋人との逢瀬に燥ぐ乙女の様な気持になります。このような愉しみは他に存在しないでしょう。
 心身ともに健やかでいらっしゃる貴方様には到底理解は戴けないことだと思います。わかっております、重々承知しておりますとも。そんな貴方様だからこそ、私は斯うして筆を執ったのです。
 浅ましいことかとも思いましたが、貴方様以外に頼れる人がおりませんでした。私が貴方様に言う最初で最後の我儘だと思って、私からの頼みを聞いてやってくださいませんか。
 如何か、私が貴方様の書生であった時の様に、同封した物語を読んでやっては戴けませんか。
 其れは、私の遺書と呼べるものでございます。私が、「葉山向陽」という一人の男が生きていたことを示す、唯一の証でございます。
 其の証として、私が唯一愛した女性「アンジェリカ」と過ごした日々を、長いようでありながらまるで蝋燭の様に儚く貴く輝かしかったあの日々を、書き残して参りました。これを私のうちにのみ留めて逝くというのは、どうにも気が咎めて仕方がないのです。
 貴方様ならば、私が唯一信頼した先生ならば、私も安心してこの遺書を託すことが出来ます。
 貴方様は勝手と憤るでしょうか、それとも馬鹿な事をと切り捨てるでしょうか。もし僅かにでも、私に温かな気持を寄せてくださるならば、如何か書いてある通りになさってください。それが私の、最初で最後の我儘です。
 これからの私たちの旅路に祝福がありますよう。そして願わくば、私の思いの断片がほんの僅かであったとしても貴方様に伝わりますことを。

敬具
葉山向陽

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