桜、さくら

アンジェリカ(児童)×向陽(保健医)のパロディです
明るくはないです





張り詰めるようだった寒さが僅かに緩んで感じる今日この頃、月日は二月から三月へと差し掛かろうとしていた。窓を開けば春一番、体感温くなった風がそよそよと入り込み、春の象徴となっている桜の木は小さく蕾では?と思われるようなものを付け始めた。
良い季節だ、しみじみとそう思う。加えて最近は、より一層の子どもたちの賑やかな声が聞こえるようになった。遊ぶ声と、歌う声だ。さらにしみじみと深くまで感情が染み入っていく。
そう、卒業の季節である。
惜しんでいるのだろう、友人たちとの残り少ない遊戯に興じる時間を。
飾ろうとしているのだろう、彼らの六年、その終幕を、出来うる限りの美しい形で。
何とも感動するものだ、尊きものだ。開け放った窓の隙間からそのお零れをずっと頂戴していたくなる。
しかし、ここは保健室。部屋の使用用途上、適度な開放は必要であるが、それ以上はよろしくない。ゆっくりと窓枠に手を掛ける。
「閉じてしまうの?」
後ろから声がする。カーテンで仕切られて配置された三つのベッド、そのうちの一つ、唯一使用中の看板が掛かったその奥から。
「閉めて、しまうの?」
もう一度、声がした。無視をするわけにもいかない、これには私も声を返した。
「換気は十分だ。これ以上は室温が下がりすぎる」
「いいわ、私は十分温かいもの。もう少しだけ、いいでしょう?」
「アン……」
カーテンの奥にいる姿の見えない少女はアン、正しく言うならばアンジェリカと言った。
日本人の父とルーマニア人の母を持つ、所謂ハーフと言われる存在。銀に近い白い髪と赤い目、日本人とは全く正反対の容姿を持った彼女。
細く小さいその身体のイメージに違わず、彼女は病弱であった。教室になんて殆ど居た事は無い。朝からここに荷物を持ってやってきて、ここで学び、ここから帰っていく。保健室の常連客、というか、ほぼ住人と言ってもいい。
私がこの学校に赴任してからもうすぐ六年、彼女が入学してからもうすぐ六年。私たちは毎日を共に過ごし、互いを知り尽くしていた。
「聞きたいのならば体育館へ。今なら練習中だろう」
「嫌よ、近くで聞くと酔うわ、頭に響くわ」
彼女の目的は聞こえてくる卒業式の歌である。まだ練習、控えめに響いてくるその声は彼女の興味を引いたのだ。
「閉じても、小さくなら聞こえるぞ」
「窓辺にいるあなたなら、ね。ここでは遠いわ、開けておいてったら」
彼女の我儘は、内容自体は軽いものの、叶えるまではしつこく続いた。私は窓際から音を殺して離れると、そっとベッドを仕切るカーテンを捲った。
「今日は調子がよさそうだ」
「ええ、そうよ。先生が私の言うことを聞いてくれればね」
「とんだ悪女だ」
「あら。こんなの、まだかわいいものよ」
彼女はここに居る間に随分と大人びてしまった。私はあくまで養護教諭、ものを教えるにはとんと向かない。だから、教育の殆どを先人たちの本に任せっきりにしてしまった。森、太宰、芥川、夏目、志賀、それはもう何でも読ませた。時折強請られて、引率として図書室に連れて行くことだってある。そこで、谷崎という運命の出会いをしなければ彼女は純粋なままでいられたのだろうか。其れだけはどうしても悔やまれた。
「もう卒業なのね、早いものだわ」
天井をじっと見つめながら、アンは人形の様に呟いた。彼女の声に感情はない。淡々として、ただ有り体の事実だけを述べた。
「あと少しでもう中学だ」
「中学でもこんな生活ができるかしら」
「さあ、あまり好ましくは無いだろうが」
学校って、あまり面白くないのよ。とアンは言った。長い時が経った。だからこそつい時折忘れそうになるのだが、アンがここに来るようになった理由は、同級生からのくだらないいじめであった。
先述した通り、彼女は所謂ハーフである。彼女の持ち合わせている本来「美しい」とされるべき容姿は、まだ分別を持たない子供たちにとって「恐ろしい」「気持ち悪い」になってしまう。それもまた不思議ではない、愚かであるとは思うが。
「私、あの中に入れるかしら」
「上手にお話しできるかしら」
「また、気持ち悪いと言われないかしら」
彼女は次々と言葉を投げていく。その言葉は卑屈であり、どんどん鋭さを増していく。その姿を見るのが嫌で耐えきれなかったから、こうして保健室で特例として迎えることに決めた。その決断が合っていたのか、間違っていたのか。それがわかるのはきっとずっと後になっての事である。
「きっと、なるようになる」
今の私にはそうやって気休めを言ってやることしか出来なかった。気休めになっているかは、甚だ疑問であるが。
「そうね。なるようになる、しかないのだわ」
むくり、と小さな身体がマットレスから起き上がる。彼女はどうするだろうか、私はどうしようか。そんなことを考えながら、私は少し迷ってベッド脇の椅子に腰かけた。彼女は暗くて少しじめっとした空気の漂う、一番奥のベッドを一等好んだ。こほ、と彼女が咳き込む音がした。
「ねぇ、先生」
眠気を孕んだ声が一つ聞こえた。彼女の一対の赤い瞳がじっとこちらを見ている。呼びかけられていても、私にはその視線を受け止めてやることしか出来ないでいた。
「先生」
もう一度。
彼女が甘えてくるときに聞こえる特別な声色。
その声に、私は滅法弱かった。それを聞いてしまうとどうしようもなくなって、何でも言うことを聞いてしまいそうになるくらいには。
これを何と言ったらいいのだろう、美味い言葉も見つからない。たとえ言葉が見つかったとしても、それが何だったとしても、重ねて言うが、どうしようもないのである。
「先生」
「嗚呼。……此処に居るよ」
青白く細い手がぬっと私の腕に絡むように伸びてくる。こう表現するとまるでホラー映画の様だが、彼女の腕の細さと白さはまるで空間から浮いてしまうようでいて、浮世から一線を引いているようだった。
「もうあまり時間はないのね」
腕がさらに伸びて首に絡みつく。極弱い力で私にしがみつきながら、彼女は囁くように、空気中に融けてしまいそうな声で言った。
「今はこんなに近いのに、あと少しで遠くなってしまうのね」
ああ、そうだとも。
そう言ってしまうのはとても簡単なことだった。腕を力尽くで解かせ、ただ眠らせてしまう事も。初めて顔を合わせたときに、無理矢理教室に戻してしまう事も。あくびでもするように簡単なことだ。
然し彼女は今も私の目の前にいて、私は彼女の求めるままに抱かれていて、何も言えないままでいる。
「淋しいわ、淋しすぎるわ。まるでシェイクスピアの悲劇、いいえ、それにも優るわ」
貴方もそう思うでしょう。
そう問われて、返事をするように吐いた自分の息がひどく熱く感じた。
もしも、もし望まれたなら、どこへでもこの子を連れて行ってあげよう。
頭の片隅で何かが馬鹿だ何だと騒ぎながらも、この胸の中心がそんな考えに侵されていく。
甘えたな子だとは思っていた。私に懐いてくれたと思った、その時。
甘かったのは一体どっちだろうか。
合唱の声は止んでいた。


*  *  *


家に帰ると、母は私を叩いた。帰ってくるのが遅いと、何処で寄り道なんかしていたんだと。
寄り道なんてどこにもしていない、寧ろいつもより早い時間だった。それでも私は何も言い返さずにいて、ごめんなさい、とだけただくり返していた。
それが一番楽だと知っていたから。
父が帰ってくると、私は一つの部屋に押し込められた。
机があるだけの部屋、窓すらも無い部屋、私の勉強部屋……。
父は机の上にテキストを投げて、部屋を出て、そして鍵をかけた。
山の様に積みあがったそれは、高校生用のテキスト。
終わるまでは眠れない、きっと今夜も眠れない。
この小さな箱庭は、地獄を煮詰めて出来ていた。
しかし、私にはこの地獄しか与えられていないのも事実。私は机に座った。座って、ぱらりとテキストの頁を開く。生物、物理、公民、現代文。中身を確認してほっと息を吐く。今日は軽い内容だ。
一問一問解きながら、明日の事を考える。
明日は先生と何をしよう。
明日は先生とどんな話をしよう。
そんなことばかり考える。
よかった、親が外聞を気にする人たちで。おかげで堂々と学校に行ける、先生と会える。
よかった、周りがいじめなんてする馬鹿ばっかりで。おかげでずっと保健室登校、先生とずっと一緒に居られる。
よかった、先生が人に甘いいい人で。おかげで私は好きになれた、生きる意味が出来た。
先生は私を叩かない、先生は私に怒鳴らない、先生は私を無視しない、先生は私を閉じ込めない、先生は私に何かを強いたりしない、しない、しない、しない。
先生は私に優しくしてくれる、先生は私を褒めてくれる、先生は私を撫でてくれる、先生は私を許してくれる、くれる、くれる、くれる。
先生は、先生は、先生は、先生は、先生は……。
考えているうちに夜が明けた。父が部屋の鍵を開ける音が、私に朝を告げるのだ。
お風呂に入って、ほんの少しの朝食を食べて、学校に行く。
シャボンの香りのする身体、さらさらふわふわの髪、つかの間の自由に輝く瞳。
先生、私に恋してくれないかしら。私が、いつかのあなたにそうしたように。
いつものように保健室の扉を開く。白衣の貴方がいつものように出迎えて、おはようと言ってくれる。

                          はずだった。

「ちゃんと時間通りか」
腕時計を確かめながら言う先生は全然いつも通りなんかじゃなかった。
黒いスーツ、大人っぽい香り、胸には花飾り。どこかのパーティーにでも繰り出すような、いつもよりうんと着飾った素敵な格好。
少し汚れた白衣、消毒液の香り、少しぼさぼさな長い髪。親しんだそれらのどれもこれもが何処かへ行ってしまった。
「やはり教室には行けなかったか……ほら、付けてやろう」
白いワンピースに黒のショートジャケット。先生が前に「小学生にしては背伸びしてるな」なんて褒めてくれた服。その胸元に、赤い色が足された。
[卒業おめでとう]
不吉な文章が、添えられて。
失念していた。部屋の中に入れられると日付の感覚が狂ってしまう。

今日は何日?今日は何日?今日は何日?

今 日 は 一 体 何 の 日 ?

答えは既に目の前にあった、もうわかりきったことだった。卒業式、先生との最後の日、解っていたはずの日、ずっと目を逸らしていた日。
目の前が真っ赤に染まって、段々とクリアになっていく。諦めがついてきたの?いいえ、絶対にそんな事なんてない。
私、この世の何よりも汚い女になったってかまわないわ。
「先生」
「ん、何か?」
「お願いがあるの」
腹さえ決めてしまえば、そこからは早かった。寧ろ決断が遅すぎた、どうしてこんなにも遅かったのかわからないくらい。
別れを惜しむふりをした、不安定なふりをした、頭がおかしいふりをした。
あれは本当にふりだった?
ええ、勿論本当に「ふり」ですとも。
私の中にあった隠したかったものの一切を先生にぶちまけた。先生は少し驚いたけど、眉を顰めて、苦しそうな顔をして、私の話を聞いてくれた。
先生は、一緒に家に来てくれると言ってくれた。私を助けてくれると言ってくれた。
やっぱり先生は何よりも甘くて何よりも優しい。いつでも私の大好きな先生。
先生は頭がよくて、勘だって鋭いの。私だけをまず行かせて、完璧な証拠を手に入れた。
あの時の母の凄まじい顔と言ったら、思わず笑ってしまいそうだった。父も同じ。だけど笑ったら先生にわかってしまうもの、必死に我慢したわ。一生懸命口を押えて、震えるだけで我慢したわ。先生は強く抱きしめてくれた、頑張った私に御褒美をくれたのね。
全てに片が付いた頃にはもう、私には何もなくなっていた。学校も、家も、私の居場所なんてどこにもなくなってしまっていた。
だから私、先生に「お願い」したわ。先生だったら叶えてくれると思ったから、ずっと我慢していた「お願い」をしたの。

「誰も知らない遠くへ行きたいの」

ずっとずっとずっと遠く、誰も私の事を知らない、私も何一つ知らない、そんな淋しい場所へ行って、二人で暮らしてみたかった。
先生は一つ頷いて、目を細めてから私の頭を撫でた。
先生の目は熱く潤んでいて、そんな瞳も可愛らしいと思ったの。
優しい先生、甘い先生、格好いい先生。そんな貴方が可愛らしく見えたの。
「今日もいいお天気よ、先生」
私たちの小さなお部屋、南向きに付けられた窓をいっぱいまで開いて私は言った。
「もう、先生じゃないよ」
先生は困った風に笑って、風に乗って入ってきた桜の花びらを掴み取ろうと手を伸ばした。
「あらそうね、大好きなパパ」
春は新生活の季節、みんなそう言うものね。

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