第三章

 自分の事をアンジェリカと呼んだその少女は、本来対極に近い場所で息をしているだろう「我儘」と「従順」を見事その身の中で飼い殺していた。
 昼に干したばかりの敷布の上に寝転がり、私が伸ばした足を撫ぜては遊ぶその姿には、嘆息する事しかできない。
 アンジェリカが私のもとへやってきた日、そしてその次の日。私は先生から休むようにとの厳命を受けた。一日文字を見ることはやめて、思索に耽ることもやめて、ただごろりと寝転がるだとか、外に出て散策するだとか、そんなことをしてみるといい。そう言う先生の顔は苦笑気味で、いつもと調子の外れた私を気遣う様がありありと見えた。
 ああ、これではいけない。
 アンジェリカの件もあったゆえ、反抗することなくその命を受諾した私であったが、彼女を受け入れると決めてしまえばたった半日という時間さえ消費しきれず持て余してしまう始末であった。
 最初の日は散々だ。部屋を掃除してアンジェリカの隠れられるだけの場所を作り、彼女がそこを居心地のいいように改造し、その様子を見ながら横になっているしかやることがない。
 私から文字を取り上げてしまえばこんなものか。
 思わず悲しくなってしまう程にすることが無かったのである。
 目の前にいる少女は右へ左へと楽しそうに部屋を見回っているというのに。羨ましい。何度そう思ったかわからない。
 一晩明け、昨日の体たらくを嘆いた私は、どうにか暇をつぶせないかとその方法を、習慣で起きてしまった早朝の時分から考えた。
 こちこちと柱時計が音を立てる。
 隣で彼女が、冷たい空気から逃げるように頭まで布団を被っている。
 そんな中浮かんだ案が一つ、彼女の観察である。
 見た目は可憐な少女であるが、受け入れると決めてしまったのだが、彼女は正しく得体の知れないものであった。観察して何が可笑しい、何が悪いものか、そう思ったのである。
 その観察の結果がこの章冒頭の一文に繋がるのだが、それは後々わかるだろう。
 以降、その日の朝、彼女の起床時から書き溜めたアンジェリカの一日の覚書である。
 面白味があるかどうかは定かではないが、読んでみてほしい。

*  *  *

 彼女の朝は私に比べ随分と遅い。私が起きて三時間ほど後、八時を四半刻程回ってから、布団を被ったままゆるりとその体を持ち上げる。
 その姿は珍獣か何かの様だが、特に私以外気にする者もいない。その頃には私も一度部屋に戻っている時間帯なので或る意味都合がよかった。
 布団を捲りその姿を顕わにしようとすると、空気の冷たさのせいか僅かに抵抗を見せる。手近な布団の端を掴み、自分の方へと引き寄せようとするのだ。これを許すとまるで饅頭の様に丸まり、幼児だった頃の思い出が頭の端で息をする。嗚呼、しかしそのままでいる訳にもいかない。もう一度、今度は勢いよく布団を剥いでしまうと、布団の中で小さく丸まっていた身体がころりと転がっていく。
 彼女の持っていた旅行鞄、そこから取り出した西洋式の寝間着を身に纏った彼女。
 寒さに身を震わせ、漸く目を擦って体を起こすと、のそのそと私の方へ寄ってきた。
「こう、ちゃん」
 彼女は昼間の間だけ、私の事をそう呼んだ。
 夜は「向陽」と呼び捨てるくせに、昼はその姿に違わぬ少女の言い草をする。
 初めてそれを目の当たりにした時、私は目を丸くした。何だその呼び方は、と、許容も何もなく大人げない言い方をしたものだ。
「こうよう、だから、こうちゃん。すてきでしょ?」
 言いながら、彼女は私の腕にしがみついた。恐らくは失われた温もりを求めての事だろう。まだまだ眠り足りないと騒ぐ、微睡の真っ只中にいる眼をなんとかうっすらと開けながら、もごもご何か呻きながら懸命に私の腕を抱く。
 そんな様子を見ていれば、剥がす事等早々に諦めがつく。幸い時間もあったことだから、私はじっと彼女が起きるまで待っていた。
 時計の短針が八から九へと移り変わろうとする時、漸く彼女ははっきりと覚醒する。
「こうちゃん、おはよう」
 へらりと笑ってから私の手を放し、仕切りを作った彼女専用の居室へぺたぺたと歩いていく。
 其処にあるのは座布団と小さな卓袱台、それから彼女の鞄だけだ。
 彼女の鞄は何やら凄い。彼女の洋服から玩具から、兎に角何でも入っているように見えた。
 何れ彼女が此処に居る時間が長くなってくれば、作った小さな居室など物で埋まってしまうのかもしれない。そんな馬鹿げた幻想すら抱かせる。馬鹿げたと思いつつ、実際そんな気がして堪らないのだ。
 そんなことを考えていれば、彼女が着替えを済ませて居室から出てくる。
 寒くはないのだろうか、薄い下着の様なひらひらとした服の上に私の襯衣を羽織って。
 確かに火鉢は焚いているのだが、それだけでは心もとないだろう。
 そう口に出して問うてみれば、彼女はにんまり笑って私の胸に飛び込んでくるのだ。
「だったらこうすればいいのだわ。こうちゃんがあたしを抱いていてくれればいいのだわ」
 なんとまぁ馬鹿な事を言う。洗い替え用の半纏を出して被せてやれば、彼女の頬はまるで風船のように膨れた。何とも愉快な事だった。
 「こんなの優雅じゃないわ」なんて、いっぱしの淑女のつもりなのだろうか。
 着替えが終わってしまうと、彼女は何かしらの手段を使って時間を潰していた。その暇潰しの仕方は多種多様であり、私よりもずっと時間の使い方は上手らしかった。
 これまたどこから取り出したのかわからない絵本やら、平仮名でいっぱいの小説だの、とにかく様々な種類の本を読む。
 そこらへんに散らばった私の書き損じの原稿用紙と鞄から出してきた色鉛筆で絵を描く。
 私に聞いて聞いてとせがんではその雲雀の様に幼く高い声で歌を歌う。
 彼女は何でも出来るようで、しかし何処か酸いような苦いような味のある才能の持ち主であった。きっとそういえば彼女は怒るのだろう、口は噤んでいたものの、私はそれを言いたい衝動を堪えるので精一杯であった。
 そうしていると自然と時間も過ぎてくる。昼時の鐘が遠くで鳴るのが聞こえ、私は奥様から朝方預かっていた昼飯の包みを開いた。
 少し大きめの握り飯と漬物、それと出し巻き卵。
 少なく見えるかもしれないが、私にはそれで十分すぎる程にいっぱいだった。これでも食べきれるかわからない。
 握り飯に力を籠め二つに割ると、朝食べた鮭の残りがその中心で柿色の身を晒す。
 朝も食べずに眠っていたのだ、随分腹が減っているだろう。二つになった握り飯を交互に見比べ、大きそうな方を彼女の方へ差し出す。すると彼女は首を横に振った。
「あたし、今は何もいらないわ。だってここがいっぱいで苦しいくらいだもの」
 そう言いながらまだ平たい胸をそっと撫でる。
 そんなわけないだろう、と口で言おうとも首を振る。毒見が必要かといくらか齧ろうとも同じだ。
 にこにことこちらを見やるその目が如何にもいたたまれなかった。
「人は食わねば死ぬのだぞ」
「ええ、知っているわ。だけどあたしにはいらないわ」
「お前も人だろう、食え」
「あら、そんな物言いをするの?いやだわ、こわいわ?」
 何を言おうとも彼女が物を口に含むことはなかった。本当に、何も食すことはなかった。
いずれ、腹が減れば何か食べたいと強請ることだろう。
 そう開き直った私は半分の握り飯を食い終えると、敷布に横になった。
 離れの天井は少し埃っぽく薄暗い。
 その薄暗闇の向こう側に見える木目にじとりと視線を這わせながら、ぼんやりとこれから何をしようかと考えた。
 彼女はまた原稿用紙の裏に絵を描き始めた。花だろうか、動物だろうか、どちらにしろ目の前に見本がないものだから似ている筈も無い。
 その横で、ぼんやりと眠る。
「……アンジェリカ」
「なにかしら」
「あんじぇりか」
「はぁい」
 呟く。
 彼女はまめに返事をした、何度呼んでも怒らなかった。
「そのなまえは、わたしにはいささかよびにくい」
 彼女は返事をしなかった。ただその小さな手で、ぺた、と私の頭を撫でた。
「お昼寝でもしたらいいわ。あたしが起こしてあげるから」
 そう言われるとどうにもこうにも眠くなって、私はいつの間にか眠ってしまった。
 どれ程眠ったのかはわからない。外はもうすっかりと暗く、その暗闇は室内にまで侵食し、蝋燭が無ければ何も見えないほどであった。
 蝋燭など時代遅れだと笑われるものだが、この火の揺らめきを私は好み、これを望んだから、というのもこの離れを借りている理由の一つであった。
 燐寸を擦り灯をともすと、私と、私の隣の小さな影が動き出す。
「起きたのね」
「……起こすと言ったろう」
「ふふ、私は悪い子なのよ」
 悪戯に笑ったその顔に光が当たる。幼い顔に影が落ちる。その影の深さといったら。
「灯りは好きよ。貴方の影がはっきりするわ」
 それをお前が言うのか、まるで頭の中が読まれている様だ。
「本当はね、起こす気なんてなかったのよ。もうずっと遅いから」
 時計など見えなかった、否、見る事等出来なかった。目を逸らさないで、と、彼女の大きな赤い目が捉えて離さなかった。
「だからね、このまま寝かせてしまおうかと思ったの」
 こうして彼女は夜になると、私の事を存分に子供の様に扱った。姉の如く、母の如く、溶かすように甘やかされる。
 こんな接し方を今までされたことがあっただろうか。実の母でさえ、私をこんな風にはしなかっただろう。
「その寝顔をね、ずっと眺めていようと思ったのよ」
 違う、これは今までのどれとも違う。存在した母とも、話で聞いたのみの姉とも違う、私の知らない存在の触れ方だ。
 蝋が融け、細長い形が僅かに崩れた。
 それを合図にするかのように、彼女は私から燭台を取り上げる。
 点けたばかりの灯をふぅ、と色付くような息をもって吹き消し、温かな部屋の空気を一瞬でまた元の静寂まで下げてみせた。
 吐息の音だけが聞こえる。
 彼女が座り込んだこの膝をよじ登る感覚がする。
 首元に、彼女の吐息の温かさがある。
 動く気はしなかった、動ける気もしなかった。
 彼女に唯長く触れられていたいと思ったし、四肢が蕩けているような錯覚と共に恐怖と幸福感があったからである。
「私ね、夜が一番好きよ。こうしているのが一番間違いがないものね」
 彼女に触れられて漸く、指先が形を取り戻す。小さな手が懸命に指先を絡めようとするのはいじらしく、そして切なかった。こちらが絡めようと力を籠めれば、ぽきりと折れてしまいそうでそれも恐ろしかった。
「私ね、夜が一番嫌いよ。折角綺麗な貴方の眼が見えなくなってしまうものね」
 きらりと暗闇の中で何かが光った。
 それは赤く深い色をして、彼女の柘榴石であることは想像するに難くはなかった。瞬きに合わせて時々消えるその石は掴みたくなるほどに美しく、月の光が当たると少し潤んで見えた。
「泣いている?」
 小さく問うと、気づいたのか柘榴が消えた。
「そんなわけはないわ、私、こんなに嬉しいの」
「ええそうよ、私、こんなに悲しいもの」
 あっちこっちと言葉が飛んでいく。
 私の瞳は何処へ行ったらいいのか。視線を右へ左へ動かそうとも、そこには一色の黒しか存在する物も無し。
「綺麗なオニキス、ブラックパール。貴方は此処じゃあ生きてはいけないのね」
 聞きなれない言葉が耳を抜けていく。
 彼女の言葉は時々私の耳には慣れない物があり、私はそれを聞き返すことが出来ずにいた。如何にも気恥ずかしかったのである、幼子に物を尋ねるということが。
「ええ、ええ、構わないわ。今はそれでも、今だけは、今だけは許すわ。私は寛大でいたいもの」
 ぐい、と肩口が押される。
 幼子の、しかも女児による力だ、勿論の事大したものではない。しかし私は抗わなかった、抗えなかった。
 そのままにゆっくりと後ろへ倒れこむと、さっきまで眠りについていた布団が再び私を迎え入れる。
「でも、やっぱり悲しいわ。朝を迎えに行きましょう。太陽を待ちましょう。それまでは可愛いお顔を見せていて頂戴」
 彼女は懇願するようにそう言って、またうるんだ柘榴を見せた。
「お願いよ、向陽。お願い」
 嗚呼、やめてくれ。
 思わず叫びそうになった喉を、唇を噛むことで抑え込む。
 彼女が屡々呟くこの言葉が、私は如何にも苦手であった。喉の奥で苦い何かが零れてきて、唾を飲み込む度にどろりと胃の中に溜まる様な気がした。
 実在もしない毒薬に、唯々侵されていく感覚だけがする。
 瞼が重くなって、此の儘死んでもいい等と、馬鹿げた妄想が頭を過る。
「あん、じぇりか……」
 呼びなれない名前が唇からこぼれ出た。
「わかっているわ、わかっていますとも」
 触れ直した指先が、今度は縺れることなくしっかりと絡みあう。掌の擦れ合った時の温もりは酷く心地よくて、瞼の重みがぐっと増した気がした。
「おやすみなさいな、愛しい子。可愛い向陽ーー」
 その彼女の声が頭の奥底で木霊して響き続けている。
 そうして私は眠りについた。

* * *

 こうして書き記し、人に読ませるに当たり、 自分で読み返し推敲するという作業は避けて通れないものだろうと思う。
 この覚書も今回こうして人に公開するにあたり自分で読み返した。
 しかし何度読んでもこの覚書は彼女の観察記録というより彼女との思い出の記録へと変って行ってしまう。それはもう訂正しようのない物として私の中で受け入れられつつあった。目の前の貴女も私と同じことを思うだろうか。それとも最初に決めた方向性を曲げるなと憤るだろうか。
 はてさて、まぁ、それを聞いたとして、私にその憤りを受け止める義務も無ければわざわざこれを捻じ曲げ書き直すだけの義理も無いのだけれど。

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