ターニャ

私が初めて結晶漬けにしたのは、何よりも愛おしいお父様の温かい手と、それを縋るように掴んだ自分の手でありました。



私の生まれた家庭は魔法界においては少々珍しい家でした。
魔法使いの父と、ただの人であった母と、そして私。
父は魔法使いの身分を隠して母と結婚し、私を為しました。魔法界でそれなりに名の知れていた父の奇行とも呼べる出来事。当時父の周り(もちろん母から見えない部分ではありました)は多少賑わったと聞きました。
しかし、当時の私はまだまだ無知で無垢な少女でありまして、優しい父と優しい母に挟まれたまま、ただすくすくと育っていきました。その家庭の中では、笑顔でいられました。
あれこそを、きっと幸せと呼ぶのだろうと今ならば思います。そして皆さまはご存知のことでありましょう。どの様な物語の世界であっても、幸せとは脆く儚く、長く続かないものであるのです。
詳しいことは私には知らされませんでしたが、唐突に父母の離婚が決まりました。今だからこそ思い当たることなのですが、恐らくは、父の魔法使いであるというたった一つの秘密を、母が暴いてしまったのでありましょう。
母は私を引き取りました。それはもう飢えて傷ついた獣も顔負け、という程の剣幕で、父は少し困ったように笑っていました。前述した通り母はとても優しく、子を、私を引き取るとしても一切問題の無い性質の持ち主であったのですが、あの秘密をもって変わってしまいました。私は物心がついてほんの少し、といったくらいの年頃。そんな幼気な私に、過ぎると言える程厳しい教育を課すようになりました。きっと、父を恋しがらないよう忙殺する、という母の精一杯の策だったのでしょう。仲睦まじい夫婦であったというのに、母はすっかり父を恐れておりました。しかし悲しいかな、その策は正しく逆効果でありました。昔の幸せな日々を思いながら、いなくなった父の面影を頭の中でかき集めながら、ベットの中で泣く夜を私は過ごしました。心がぴしぴしと罅割れる音を夜ごと聞きました。不思議と父の面影は薄れることなく、寧ろ濃くなっていきました。目を閉じると目の前に父がいるような気がして、夜が待ち遠しくなるほどでした。夜を、空想の父と共寝をして明かしました。
母もどこかおかしくなった私に気付いたのでしょう。母も私が憎くてやっていたわけではないので、私を何処か複雑な目で見やっていました。渋々、といった具合ではありましたが、母は月に一度、父との面会を許してくれました。一回、たったの二時間。母と違い、父は変わらずに優しいままだった。公園やカフェでただ静かに語らう時間は、きらきらとして輝かしいものでした。そして父は、私が帰るのを渋った時、決まって一瓶の飴玉をくれました。
毎晩、一粒ずつお食べなさい。それが終わるころにまた会えるから。
父からの言いつけを守って飴を一粒口に含む度、何だか力がわいてくるような気がしました。もうベッドで泣く事は無くなりました。
父からもらった心の余裕、それは逆に母の心を焦らせました。さらに苛烈さを増す母からの教育。心をすり減らす代わりに磨かれる容姿と頭脳。なんと虚しいことでしょう。然し虚しいという感情さえも、私は知りませんでした。
この時の私も、今と比べればまだ幸せと呼べたことでしょう。私の幸せは常に、緩やかな下り坂にありました。終点は今の私ですらわからいません。とにかくこの時の私もまた、無知でありました。
私がこの無知から脱したのは突然で、また父に仕組まれた必然であったように思います。当時の私は学校に行き始め、苛烈さは変わらずとも充実した日々を送っている最中でした。月に一回の父との逢瀬もまた変わらず、無邪気な日々を送っておりました。私は変わる事は無い。変わっていったの父の方。私は大きくなっただけ、それだけでは説明がつかないほどに、父の大きかった背中は小さくなっていきました。じんわりと口の中で融けゆく飴玉のように。楽しい父との逢瀬、その中に影が落ちて滲むのを私は感じました。言葉に出来ないような不安が、私を襲いました。その中で、ふと悲し気に父が言ったのです。
もう会う事は出来ない。遠くへ行くのだ。
そうして父は背を向けて、歩き出そうとしました。なんと、冷たいことでしょう。別れ際、いつも渡してくれる飴玉の瓶もありません。私が心の支えとしてきたものが一瞬にして崩れていく。そんな絶望。私は漸くここで一を知りました。どうにかして父を引きとめなくてはならない。私はこの勝手極まる感情を初めて知りました。小さくなった父の背中、その横で歩みに任せて揺れる掌を、私は思わず掴んでいました。今までの人生においてこのような力は出したことがないという程に強く、なりふりなど一切構わずに荒々しく、一途にただ父のことだけを考えて。
許さない、私から離れていくなんて。
その時でした。
氷を水に落としたような、ぴしぴしと軽く涼やかな音が聞こえてきたのは。びしりと周りが硬直したように固まったのは。父が、いつも穏やかである瞳をぎらつかせて私を見ていたのは。

私が初めて結晶漬けにしたのは、何よりも愛おしいお父様の温かい手と、それを縋るように掴んだ自分の手でありました。

私の肩を掴む父の手と、その光景を見た母の金切り声と、私が覚えているのはそれだけです。母はあっさりと、まさに捨てるように私を手放し、そんな私を父は待ち焦がれたとでも言うように引き取りました。
父の魔術は私と揃いの結晶魔術。
すっかり溶かされてしまったあの決勝は、今ではもう私の頭の中にだけ。父は私に様々なことを教え込みました。魔法界における常識、魔法の制御の仕方、私がどう生きるべきなのか……私はもう無知ではなくなりました。何より私は、父より人の愛し方を学びました。これが、此の気持ちこそが愛なのだと、身をもって父から教わったのですから。
この生き方は最早、誰に止められるものでもありません。

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