親愛なる読者様へ

黒の名を冠し身すら染め上げたその人形は、名とは反対に色鮮やかな外の世界を作り上げる術を持っていた。
机の上に広げられた紙の束、その一枚一枚にびっしりと敷き詰められた細かな文字。
彼は満足とばかりに一つ息を吐くと、眉間を揉みほぐしながら掛けられた眼鏡をゆっくりと外した。いつもは首元に掛けられているかポケットの中に仕舞われているそれはただのアクセサリーと思われがちだが、しっかりと役目がある。実際、作業において彼はその眼鏡を外すことはない。遠くが見え、近くが見えない。人間における遠視のようなその症状は、彼が作業中の時に決まって現れる。逆に、作業中しか現れないというのだから不思議なものだ。
とにかく、スイッチとも言える装飾品を外し、完全に作業モードから切り替わった彼は、散らかった紙の束をかき集めては抱きしめた。作業場として占有している屋根裏部屋は薄暗い、その中で欠けることなくページを集め終わると、灯りの満ちる階下へ降りていく。
木製の階段が軋む音が聞こえたのだろう。階段の前にわらわらと集まってくる姉弟たちの顔を見ると、彼は……烏羽はその顔がにんまりと緩むのを感じた。
欲されること、これが人形において最大の幸せ。
彼はその幸せを仮初めの物だとしても噛みしめずにはいられなかった。
彼らが本当に欲している物はわかっている。
烏羽は胸に抱いていた紙束を差し出しながら言った。
「新作だ、心して読むように」
わぁっと上がる歓声。
一番前にいた白い服の兄に原稿を預けると、烏羽はそっとその輪から外れた。
騒がしいのはあまり好きではない。確かに自分の書いた物で盛り上がられるのは嬉しいが、烏羽自身は傍からその様子を見ていたい質だった。
外れたまま、その足は自然と動き続け、部屋の隅でぽつんと椅子に座った灰色の姉のもとへ向かう。
「……烏羽?」
黒いヴェールの向こう側で、柔らかな唇がかすかに動く。
その姉は目が悪い、だがそれを補うように耳が誰よりもよかった。足音を聞けば的確に誰かを当ててくる、息遣いだけで人がどんな状態であるかを把握する。
聡く、こちらに余計な世話を焼くこともない。
烏羽はこの姉が決して嫌いではなかった。むしろ他の姉弟と比べても好ましい部類に入る。彼女の前では無駄に言葉を繕う必要もなかったし、物静かな彼女の纏う雰囲気は優しい、沈黙も苦に感じない。
烏羽は世話を焼くのも、焼かれるのもごめんだ。その煩わしさから逃れるには、灰色の姉……錫のところにいるのが一番よかった。
「隣をもらうぞ、姉上」
返答を聞くこともなく、烏羽は錫の隣、椅子のすぐ脇に出来たスペースに腰を下ろした。
目の前には自分の原稿を一心不乱に読みふける姉弟たちの姿。それを見ているのは気分がいい。執筆の際の心地よい疲れもあってか、今日はいい夢が見られそうだとなんとなしに思った。
満足すると、隣の静かな姉に目線を移す。
「楽しそうだわ、みんな」
その視線に気がついたのか、錫は紛らわすようにぽつりと吐き出した。下から見上げるとわかる、見えないはずの彼女の目が、わずかに開いていた。
彼女には、彼女の目にはいったい何が見えているのだろうか。烏羽はその目を見つめながらゴクリとのどを鳴らした。見えていない、そのはずなのだ。しかしその奥には何かが光り像を結んでいる気がして、それが無性に気になって仕方なかった。
「私にも読めたらいいのだけど……こんな目では無理ね」
ごめんなさいね。
そうして彼女は瞳を閉じた。
言葉とともに椅子から立ち上がる。そして音を頼りに、よろよろと覚束ない足取りで目の前にある人混みへ向かっていく。
自分が手を貸さずとも、面倒見のいい姉の誰かが彼女に手を貸すことだろう。そこに自分の出る幕はない。
烏羽は自分の手を見つめた。手袋に包まれた自分の手。インクで汚れた手袋は自分の誇りかのように思えていた。これだけ、自分は、自分の作り出した物は、人に求められてきたのだと。
その驕りが今、目の前に突きつけられた。
何よりも憎たらしくなったそれを乱暴にはぎ取り、ポケットに突っ込む。
「僕としたことが……」
そうして彼は再び屋根裏へと戻っていく。色鮮やかな世界を踏み越えて、薄暗く彼色をした空間へと。
その闇は何よりも優しく彼を飲み込んでいった。



烏羽が再び錫の前に姿を現したのは就寝前の時分であった。先のやりとりから五時間から六時間ほどが経過している。
そのことに対して二人が何か気にすることはなかった。そもそも錫は世話を掛けることを気に病むが故に一人でいることを拒んだし、烏羽は作業のため籠もることが多い。烏羽の気が向かない以上、接すること自体が稀なのだ。
恒例となっている夜の時間さえ除いてしまえば。
「さぁ、行くぞ。兄上共」
「ベッドへ連れて行ってくださいな、兄様……」
「はぁ〜い」
「錫ちゃんこっちよ〜」
烏羽と錫、加えて卯の花に水縹。この四人は姉弟たちの中でも一番早くに眠りにつく。
見た目のまま、精神までもが幼い兄二人と、それを寝かしつけるための弟と妹。
今夜も四人並んで手をつなぎながら寝室へと向かい、太陽の光をたっぷり浴びて柔らかく膨らんだベッドに迎えられる。
それに真っ先に飛び込んだのは卯の花だっただろうか、それとも水縹だっただろうか。明るい笑い声が部屋中へと響き渡り、ほほえましい光景がそこには広がった。
それに対し烏羽は眉根を寄せるのだが、ここで彼は黙り込むしかない。幼い兄たちを黙らせるのは、傍らで微笑む姉の方が自分よりもよっぽどうまいと知っているのだ。
「兄様……遊ぶのはそれくらいになさってくださいな」
烏羽が困り果てているのを察したのか、錫が声を上げる。それほ大分細く小さく、届くかどうかすら怪しいとまで思われたが、その不安は杞憂に終わった。ぴた、と止まる兄たちの動きがその証拠である。
「錫をそこまで上げてくださいますか……一人でお床は寂しいわ」
「すーちゃんごめんねぇ」
「今上げてあげるからねぇ」
よいしょ、よいしょ。そんな可愛らしいかけ声を持って彼女の身体が無事ベッドの上へと上がっていく。それを見届け、続くように烏羽も上ると、姉はすっかり兄二人に甘やかされていた。
「すーちゃんさむくなーい?」
「錫ちゃんいいこいいこ」
すっかりべたべただ。二人の間に挟まれ頭を撫でられている姉は、いつもの無表情のまま天井を仰いでいた。好きにさせているのだろう、二人はとても満足そうだ。いつも上の姉たちにされていることを下に仕返してやるのが、二人の数少ない楽しみなのである。
「快適そうだな、姉上」
「ええ……とてもきもちがいいの」
とろりと溶けかけた飴のような声が聞こえてくると、兄たちは声を揃えて笑った。
成る程、今日は兄たちよりもこの姉の方が早く落ちそうだ。だがしかしそれでは困る。
烏羽が手を叩くと、兄たちは笑うのをやめ、錫と同じように大人しくシーツへと潜り込んだ。
烏羽からすれば、ここからが彼の仕事である。
「きょうはどんなおはなし〜?
「お話?」
「ああ……今日のはとびきりだぞ」
子供が寝るときには読み聞かせを。
それが寝かしつけ役が烏羽に与えられた理由だった。
彼の頭の中にある物語をほんの少しだけ切り崩し、彼らに与える。
彼らに「夢」と「子供らしさ」を。彼には与えることで「現実」を。
それぞれの個性に見合った役回りである。
しかし今日彼が切り崩した物語は彼らのための物ではない。彼らの狭間、今にも眠ってしまいそうな彼女のためのものであった。
「最後の最後まで眠ってくれるなよ、姉上」
そう言い含めてから、烏羽は話を始めた。
それはとても幸せな物語であった。


読み終わったそのとき、横たわる三人の瞳は閉じられたままであった。
「卯の花、水縹」
一人ずつその名前を呼びながら、本当に眠っているのかどうかを確認していく。
「錫」
呼んだその瞬間、彼女の瞼がぴくりと動く。しばらく見つめていると、ゆっくり灰色の瞳が姿を見せ始めた。
「とても、いいお話だったわ……すてきよ」
わずかに水の膜が張る瞳に、烏羽は何を思っただろうか。
この姉に、自分の書いた物が、自分が、ようやく認められたような。なんとも言えない気持ちが彼の心を占めていく。
その物語は紛れもなく彼女のための物であった。
色彩の描写を省き、その分音の描写に気を遣い、心理をひたすらに深く追求し、……感覚で書くタイプである彼が、一から緻密に計算を重ねて書き上げた。
その努力を彼女は理解してくれただろうか。その涙は何による物だったか。
「昼間……私があんなことを言ったから?」
「あぁ、ケンカを売られた気分だったよ」
「そんなつもりじゃ……ごめんなさい」
「いいや、売ってきたのはあなたじゃない」
ポケットから取り出されたのはぐしゃぐしゃになった手袋だった。
様々なインクの汚れ、作家としての烏羽の歩み、歴史。
彼はこれに嘲笑われたのだ。これだけ大事に積み重ねてきておいて、近しい物すら満足させられない未熟者、と。
それが烏羽の中身をひどく揺さぶった。
「あなたには、長い間残酷なことをしてきた。」
この一本で全てが許されるとは思わない。これはただの第一歩目に過ぎない。小さいが重い、かけがえのない一歩。
小さな兄の身体を越えるようにして、烏羽はそっと錫へ手を伸ばす。その気配を察して、錫も応えるように手を出すと、彼はその手を取って甲に唇を当てた。それはまるで誓いのようで、祝福する拍手のように彼の手から離れた原稿用紙が宙を舞う。
親愛なる我が読者様へ、あなたの唯一であり最も愚かな作家より。

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