Dear

翠の目をしたその人形は、弟妹たちを置いて一人その目を開いた。
寝巻きから普段着であるエプロンドレスへと着替え、ゆるく波打つ絹糸のような髪を手際よく編み上げる。
それから彼女はいまだ夢の世界へ行っている弟妹たちがこちらへ帰ってきた時のために食事の支度を始める。
眠る人形の数は十、自分の分を含めれば十一、それをたった一人で行おうと言う。
もう一人や二人手が要るような量だが、彼女は頑なにそれを求めようとはしなかった。
「だってせっかく気持ちよさそうに寝ているんだもの〜」というのが彼女の言い分である。
しかし、本人がそう言っているとしてもただ一人に負担を強いるのはいかがなものだろうか。それを是としない弟妹だって確かにいるのだ。
「織部、姉様……?」
結い上げる前の長い黒髪が寝台から零れ落ちる。
織部が目指す台所は、彼女らの寝室から見ると階下にあった。寝台からするりと抜け出して外へ通じる扉へと向かうその途中、抜け出したはずの寝台から小さく声がした。
ゆっくりと振り向いたその先には、少々寝乱れはだけた浴衣姿で目を擦る五番目の人形。撫子は小さな声で隣で寝ていたはずの織部を呼んだ。
「姉様……」
「あらあら、起きてしまったの?」
まだ起きるには早い時間、寝かしつけてしまう以外に他ない。
一度進めた歩みを戻し寝台を覗き込むと、桃色の妹はもうすっかり覚醒を受け入れて彼女に微笑んだ。
撫子は織部に次いで朝には強かった。いつも、とまではいかないが、高い頻度で朝食作りに手を貸してくれる織部にとって有難い存在。
今回もきっとそのつもりなのだろう。
「朝餉の支度でしょう?お手伝いします」
彼女は手際よく身支度を始めた。
するりと纏った浴衣から肌を現し、他の姉妹とは一風変わった、まるで着物のようなドレスで覆いなおす。
桃色の髪紐で髪を結い上げてから襷を手に取ると、彼女はあっさりと暖かな布団に別れを告げた。
「助かるけど……まだ寝ていてもいいのよ?眠いでしょう?」
「それは姉様も同じこと……お気になさるようならば、昼寝にでも付き合ってくださいな」
柔らかな言葉を交わしながら、二人は共だって部屋を出て行く。しかし撫子が望んだような安息が織部に訪れることはなかった。
今までに訪れたこともなかった。
「お〜ちゃ〜ん」
「はぁい〜?」
彼女は姉弟の長であるがゆえに、弟妹にひどく甘かった。そして弟妹たちも、自分を甘やかしてくれる織部に対してべったりであった。
姉弟の中で精神的に幼い卯の花などは特に、いつだって織部を呼ぶ。
おーちゃん、おーちゃん。
小さな口からその名前がこぼれない日など存在しないのだ。
彼女の膝に小さな弟が存在しない日など存在しないのだ。
「織部姉ちゃん……」
「あらあら、みはなだ……いったいどうしたの?」
すぐ上の兄に対して弟はよく嫉妬するものだ。
卯の花が呼べば、みはなだもまるで張り合うように織部を呼ぶ。
特に何か用があるわけではない。だがしかし、兄にこの優しい姉を取られたくはない。自分の隣にいてほしい。
そんな気持ちが透けて見えるみはなだに、織部は望まれるままに優しく微笑んだ。
そして織部の世話は呼んだ人形たちにのみ及ぶわけではない。
「錫ちゃん?困ったら呼びなさいねってお姉ちゃんいつも言ってるでしょう?」
「…………」
姉弟の中では珍しく弱視という障害を抱えている錫だが、そのせいもあってか彼女の性格はどこか遠慮がち。
手伝ってほしい、助けてほしい、そう思ったとしても中々口に出せないことが多くある。
今日とて、彼女かうっかり崩し埋もれてしまった箱の山を積みなおしながら、織部は妹に諭していた。
怒っているわけではない、彼女は怖いのだ。
人間と違って、人形は些細な傷であっても取り返しのつかない事態になる。
身だけではなく心まで灰色に染まってしまったこの妹に、織部はこれ以上傷ついてほしくはなかった。
そして他にも、傷つくこと、汚れることを厭わぬ妹がいる。
「花葉……」
「ご、ごめん姉ちゃん……」
弟妹も個性様々、何もおとなしい子達ばかりではない。むしろおとなしい子ばかりでは面白さに欠ける。そのことはもちろんわかっているのだが、織部はこぼれたため息を飲み込むことが出来なかった。
彼らは美しくあるべき愛玩人形。
そうした自覚はとっくに目覚めているはずのすぐ下の妹は、どこを歩いてきたのか埃や煤にまみれて汚れきっていた。
その洋服を洗うのは誰の役目だろうか、織部である。しかも手洗い。洗濯機などでは繊細に編みこまれた飾りがよれてしまう。
そんな哀れみを抱かせそうな格好で可愛い弟妹を客の前に出すわけにはいかなかった。
「卯の花や水縹まで巻き込んで!」
「だって暇そうにしてたんだもん〜」
先ほどまでぴかぴかの身体で自分に甘えてきた弟たちの変わり果てた姿。それを見てしまったらもう駄目だ。人の言う、堪忍袋の緒が切れた、というやつである。
「ごめんって姉ちゃん〜」
「いいから早くお風呂に行きなさい!!」
いくら温厚を長所とした姉であったとしても、叱るべきところはしっかり叱るのである。
姉という生き物はどういった環境のものであったとしても気苦労が多い。
「お前はお前の好きにしていいのだよ?そんなに他の子の世話ばかりすることもないのだよ?」
弟妹のために昼夜走り回る織部を見ながら、蘇芳は時折そんな言葉を投げた。
それはあまりにも当然のことであり、言われるまでもないようなことである。しかし言われた織部本人はどうにもわかってはいないようで、それが蘇芳の眉をハの字に変えた。
「あら、心配してくれているの?」
言う度、不思議と織部は嬉しそうに笑った。
そして、彼女の目線に合わせるように座り込んだ蘇芳の膝によじ登り、頬を撫でながら言うのだ。
「大丈夫よ。だって私、お姉ちゃんですもの」
日が沈み、月が出て、それからしばらくたった頃。
人形たちは次々と寝台に潜り込みその目を閉じた。寝室に置かれた大きな寝台には小さな身体がいくつも乗っていて、すやすやと安らかな寝息を立てている。
その光景を見て心を和ませてから、織部はそっと音もなく傍らにある窓から外へと出て行った。
窓の外はベランダになっていて、そこで休めるようにベンチまで備え付けてある。
そこから見える光景は賞賛に値するものであり、どんなものよりも高い位置からまだまだ灯りの残る人々の営みを、汚れた部分などわからないほどの遠目でただ綺麗だと眺めることが出来た。
今日はどれほどここにいることだろう。そう思いながらベンチへと視線を向けると、そこに小さな影があることに気づく。
それは人の形をして、彼女のためにレースのハンカチをそっと自分の隣に敷いた。
「こんばんは。お月見もたまにはよいものね、姉様」
ふわりと白い浴衣が風になびく。すっかり下ろしてしまった黒髪を指先でもてあそびながら、撫子は微笑んだ。
彼女の言うとおり今夜は雲一つなく、円に近い形をした月がはっきりと見えている。
こんな夜中、彼女も織部と同様に他の弟妹の世話に奔走していたはずだ。夜更かしをさせるのはあまりよろしくないことだろう。
「そうね、でも夜更かしはよくないわ……もうおやすみなさいな」
こうして彼女と言葉を交わすのは今朝ぶりのことだった。
忙しさにただただ流されて一日を終える二人、その濁流の中で二人が会える可能性など砂漠の中で真珠を見つける程度のものしかない。
「なら姉様もご一緒に。今朝だって申し上げましたでしょう?」
桃色に飾られた指先が織部の手を引く。
ベンチに腰掛けると、織部は自分自身の身体にどっと疲れがのし掛かるのを感じた。肺が溜め込んで澱みきった空気を全て吐き出し、凜と張っていた背がわずかに丸みを帯びる。
「楽しみにしておりましたのよ。姉様と共寝が出来る、と」
丸くなった背をするりと綿のように撫でられる。心地よさに瞳を閉じると、じんわり熱を帯び奥で光が爆ぜる。
「ごめんなさいね……でも、そんな時間は」
「ええ、わかっております」
わかっておりますの。
悲しげな声。
慰めなくては。
ぱちりと目を開いたその瞬間、織部の視界が傾く。90度、すっかり真横になった世界と、頬に当たる布の感触。
こんな人形の膝であっても、人のように心地いいものだろうか。
弟たちにしてやりながら織部はずっと考えていたものだが、まさか答えをこうして確かめることになるとは思わなかった。
自分は姉なのだから、こんな、膝枕なんて無縁なのだと思っていたのに。
「全て、承知しておりますわ。織部姉様」
撫子が織部の顔に影を落とす。月からすっかり隠してしまう。
すべすべとした手が頬に触れ、一つ落ちていた滴を拾った。その滴がどこから来たものなのか、それは織部自身にもわからないことなのだが、撫子が知っているというのならばそれでいい。それでいいのだ。
織部はゆっくりと再び目を閉じる。
暗闇の中、どこまでも深い黒の中。その中であったら何を吐き出しても許される気がして、ぽろぽろとこぼれ出す。頬が冷たく冷えていく。
「もう私、疲れたわ」
織部は呟く。自分の中にあるあってはならないものを、暗闇の中へ投げ捨てるように。
子を宥めるように頭を撫でる撫子。彼女に関しては問題ない。だって、彼女は全て承知していると言ったのだから。
「つかれたの」
もう何も隠す必要などないのだ。
「でもね、すきなのよ」
それは皆が?
それともその皆の世話をしている自分自身が?
問うのは自分自身のみ。撫子は何も言わない。わかっている、それが心地いい。
「すきなの……」
ゆっくりと髪を撫でる感触を感じながら、夜は更けていく。こうしていられるのはごくわずか、甘えていられるのはごくわずか。
やがて、あとほんの少し時がたてば、日は昇って朝になる。
静かで優しい時間は終わりを告げて、賑やかで慌ただしい時間が足音を立ててやってくる。
「大丈夫よ、姉様」
「私だけは、全てわかっていますもの」
「大丈夫」
「だって私がいますもの」
言い聞かせて含ませる、そんな呪文のような言葉を聞きながら彼女たちは目を閉じた。
弟妹たちの眠るベッドの端っこで、身をb抱き合うように寄せて、息を潜めるように眠る。
誰もその彼女たちの姿を目に留めることはないだろう。
彼女たちは誰よりも早く起き、そして誰よりも遅く眠る。
彼女たちの秘密は暴かれることなく、互いの中だけでひっそりと息をする。
「おはよう、私の可愛い妹」
数時間が経った後、翠の目は微睡みに浸かった桃色の目に言うだろう。
その言葉が、何よりも二人を引き裂くのだ。

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