C.空想収集癖(2)

前回のコレットの診療から既に二週間という時間が経過していた。沈みに沈んで大荒れになるだろうと思っていたその二週間は思った以上に平穏なものであり、私もトートも、それぞれ好き勝手に過ごしてはただ無駄に時間を費やすという極上の贅沢をしていた。寝て、起きて、太陽は昇り、そして沈む。そうした私にとって至極ともいえる無味な生活の中で、やはりコレットという存在が頭の中に住みつき、煩わしくカラカラと気にせざるを得ない音を立てていた。前回の診療の時に犯してしまった失態が、今でも胸の中で靄となって残り続けている。やってはいけないことをやってしまった、という自覚は確かにある。というか、ひどく大人げなかったと思うし自分が恥ずかしい。彼があの一連の私の動作を拒絶と受け取ってしまえば症状はまたどれだけ悪化することか。それを思うとぞっとするし今まで積み上げてきたものが崩れ落ちていく音がする。
結局あの日、あれ以来の私はどうしようもないポンコツ状態で、再び使い物になるまで一日、いや、一日半はたっぷりかかった。だがしかしそんなことは何の免罪符にもならない。あの子の年齢はあの見た目の通りまだ子供だ、ならば私は?大人だと胸を張りたいというのならもっとうまく取り繕うといい。幼稚にもほどがあるぞ。
「トート」
「なんだい?」
「やはり、私は随分と彼を怒らせたようだな。それとも落胆かな」
許してもらえないほどのものなのだろう。
隣に鎮座する空っぽの椅子を見ながら問いかける。
今日は彼の診察予定日であった。午前十一時、カレンダーにはその時刻と彼の名前がボールペンでくっきりと書かれている。間違えようがない。だがしかし現在時刻は正午過ぎ、予定時刻を一時間ほど過ぎた頃。目の前にいるのは悲しげな顔をしたトートと、その原因を作っただろう私のみだ。居た堪れない。
人との関係は脆く儚いと知っていた気でいたが、まさかその想定を軽く上回って来るとは知らなかった。五年間で築き上げてきたものが、たった一日、たった数分、たった一言で崩れるのか。これでは築き上げる意味すら分からなくなりそうだ。いろいろと飛び越えて笑えてくるぞ。その自嘲の笑みが漏れだしていたのだろうか、コツコツとブーツの音を立てこちらに近づいてきたトートが、その機械の手で私の口元を覆う。むせ返りそうな金属とオイルの匂い、その中でほのかに漂う女の香りが少し。彼女の顔を覗き込もうとして、やめた。
「ちょっと遅れてるだけさ。待ってりゃ来るよ」
「連絡もなしにか」
「端末の電池が切れてんだよ、きっとね」
茶でも飲んでりゃ、いつもみたいにチャイムが鳴りだすよ。
そう言って指し示されたコーヒーカップの中ではすっかり冷めきった黒い液体が躍っていた。到底飲めるものとは思えないそれを、恐る恐るわずかに口に含む。一回り黒さが増して、苦味も酸味も倍増して、うま味なんてものは欠片も見当たらなくて、最早えぐいとしか言えないような代物で……。それでも、さらに一口飲んだ。この女は、子供をその気にさせるのが私の知る限りでは一等うまい。気持ちが悪くなった喉元と、延々と何かをわめき散らしている胃は椅子にでもぶつけてやり過ごすことにしよう。乱暴に体重を揺り椅子へと預ければ、理不尽だとばかりに椅子が鳴く。ただ、鳴くだけ。
ピンポン。
そしてそれに続くように、小さくチャイムが鳴った。ああ、これは彼に違いない。自然とそう思いトートが顔をほころばせて玄関へ向かい、それを見送りながら私はコーヒーを飲み干した。どうにも、信じられなかった。トートには悪いのだが、こんなに人生上手くトントン拍子に行くわけもない。飲み終わった後、私は呆然としたままそこで動けずにいた。軽快な足音は自分の想像を信じて疑わない。女は強いな、自分自身を信じ抜く力がある。私は自分を信じられない、信じたくないというのに。私の予感はよく悪い方に当たるから。
「ミスティア・グル―と申します」
今回だって希望通りの結果は得られないままだ。来訪したその女性は、つばの広い帽子に薄いヴェールで覆われて、その顔をよく見ることが出来なかった。しかしグル―夫人、コレットの母親。その薄い布地の下には彼とよく似た丸っこくてかわいらしい形をした目があるのかもしれない。だがこの先もきっとそれを拝むことはないだろう。私が身支度をしている間すっかり待たされていた彼女はどうもご立腹のようだから。トートの出した茶にも手を付けていない辺り、それは相当なものだろう。
「今日は、息子のことで参りました」
こちらが自己紹介をする隙もなく、夫人は本題に入り始めた。私たちがどういった人間であるかは最早承知しているのだろう。その表情は真剣そのもの、かつその刃は的確に私たちを貫き抉っている。つられて自分の表情も引き締まっていくのを感じながら、私も夫人の目を見つめ返した。そのヴェール越しにでも眼光を窺うことは容易い。おそらくは機械製の義眼だろう。鋭すぎる光を反射するその眼球に、私はどこか遠い記憶を見た気がした。
「単刀直入に申し上げますと、あの子はもうここへは来ません」
「…………失礼ですが、あの子の状態はご存じで?」
「勿論ですわ、親ですもの」
なるほど、彼女の敵意に満ちた目の理由も口ぶりからわかるというものだ。自分の子が、自分たちではなく他者に助けを求めたことに随分と憤っている様子。夫人は勝ち誇ったような笑みを浮かべると、意図しないものであったのかさっとそれを手袋に覆われた手で隠した。冷静なのか、そうでないのかわかったものではない。
黙りこくっているトートに目線を向けると、こちらは対照的に不安そうな表情を隠しきれないでいた。つけ込んでくれと言っているようなものだ。
ああ、女は弱い。先ほど言った事と矛盾するようだが、強くて弱い生き物なのだ。
「あの子は私たちにきちんと話してくれました。私たちは親として、あの子にちゃんとした治療を受けさせる義務がありますの」
「なるほど、至極真っ当ですね」
「だから、もうこちらへは来させません」
言外にここがちゃんとした医者ではない、と言っているわけだが否定することは出来ない。
夫人はその言葉に違うことなく、コレットを出来うる限り最高の設備の整った病院へ連れて行くだろう。何回も入念に検査を繰り返し、不具合の元を見つけ、手術を施し、そうして彼は健常へと戻っていくのだろう。…………それが普通の病気であったのならば。
「夫人。彼は自分の病気について、何と言いました?」
「…………まだ子供です、病名は言いませんでした。ただ『頭がおかしいのだ』とだけ。今まで怖くて自分の選んだ医者にこっそり通っていたのだと」
「それで?」
「……それでも治らないから、『ちゃんとしたところに行かせて』と」
目を伏せた。なるほど。なるほど、なるほど。
それならば、私の取るべき行動は1つだけしか残されていない。それを確かめるすべは私にはない。
「了解しました。親御さんと本人の意向が揃っているなら、私に言うことはありません」
私は机の上に置かれた膨らんだファイルから数枚の紙を取り出して、夫人の目の前にかざした。
「彼のカルテです。中身を確かめてください」
紙の表面に目線を滑らせてから、夫人はゆっくりと頷く。それを見て私は優しく、と念じながら深く微笑んだ。そして縦向きに持っていたそれを横向きに持ち変える。
ビリィッ。
その音は思った以上に高らかに響いて、そしていつまでも耳の奥の奥に残り続けた。その音が消える前に次、そして次の音が消える前にまたその次。音がどんどん層状に重なってリフレインする。
ああ、うるさい。
そう思いながらも、まだまだカルテは細かくなって、やがて雪のように部屋中に舞い散った。雪?いや、桜?どちらも儚く消えていくところに差はないが。
「御子息はもう私の患者ではない」
お引き取りを。
そう一言言う前に、夫人はさっと椅子から立ち上がった。きっとこれが目的だったのだろう、息子についての記録を、このスラムにほど近い場末の怪しい病院から消し去ることが。それもまた当然といえば当然のこと。彼から聞いていた通りの親だと思った。
「幸生」
彼女が去ったその瞬間に、疲労がどっとやってくる。労わろうと声をかけてきてくれるトートがやけに遠くに感じて、自分がおかしいのだと自覚した。
少し疲れた、眠らせてくれ。
姿勢などどうでもいい。椅子にぐったりと体を預け、そして目を閉じる。濡れたように感じるはずの瞼が、まるで灼熱のように熱かった。

*   *   *

もう月日を数えるなんてやめようと思った。
昇り、そして落ちる太陽を日がな一日ポツンと眺めながら、一人私はそう心に決めた。時間は虚しさを倍増させていくだけであるし、他に何を運んでくるわけでもない。あの静かな嵐と言ったふうな夫人がやってきてもう八日。私にもトートにも、よく人々が言うような優しい忘却は訪れないまま、夫人の突き刺していった事実がさらに奥まで差し込まれてずぐりと重い痛みを発するだけ。その痛みは時間を追うごとに増していく。時はただただ残酷だ。ならばそんなものは忘れたまま生きていくのが幸せではないだろうか。
そう思い立ったが故の結果である。
カレンダーを破り捨て、時計を壊し、あとは何をすべきだろうか……そんなくだらないと一蹴されそうなことを考えている。いつもなら止めてくれるはずのトートが買い物に出てしまっているからこそのこの愚行だ。早く帰ってこないだろうか……
まさにそう思った瞬間、玄関のチャイムが鳴る。
「悪いね、荷物が両手がふさがってるんだ。開けてくれないかい?」
扉越しに聞き慣れた声が言う。いつもだったら自分で開けるのだが、納得の理由だ。仕方がない。向こうを窺いながらゆっくりと開けていく。勢いよく開けてぶつけようものならなんと言われるかわかったものではない。それを考慮したうえである。
その開いた先。
「幸生……」
小さい体躯、泣きそうな声、三週間心の中に居座り続けた人物。
パタン、ガチャリ。
思わず扉を閉じて施錠した。いやいや、これは幻覚だとしても見てはいけない部類のものだろう。あるわけないことだ、いやいやまさかまさか。
ガチャリ。
「アンタ、何閉めてんだい」
あとで覚えてな。
わざわざ自分の鍵で入室を果たしたトートの後ろを、小さい影が追っていく。幻じゃない、ちゃんとそこにいる。そうか……脱力した手が目を覆った。口元が力なく笑っている。
「コレット」
名を呼べば彼が振り向く。最後に会った時と大して変わらない顔つき、体躯。男子三日会わざれば刮目せよ、とはもう古いのかもしれない。だがそれでよかった、変わらないその姿に酷く安堵する。寄ってきた彼を伴って居間へ行きいつものように隣り合った椅子に座ると、彼は落ち着きがなくきょろきょろとあたりを見回していた。環境に慣れず怯えている小動物と仕草的には大して変わらない。
「今日はどうした?」
母親からもう来ないと聞いていたが、という一言はあえて言わないことにした。この小動物の傷を抉ってしまいそうだし、大体の推測はつく。この様子から察するに、あの母親の言は信用してはならなかったのだろう。向こうは私たちの事を気に入ってはいないようだし、世間的にもままよくあることだ。
「家出、してきたんだ」
「ほう」
やはり、そうか。
「…………びっくりしないんだな」
「あの母親だ、わからなくもない」
少し図星をついてやればあっさりヒステリーになりそうだ。
そう言ってやれば硬い顔をしたままだったコレットは漸くその顔を和らげた。少しホッとする。危惧していたほど、私たちの関係にひびは入っていない。トートの入れてくれたカフェオレとコーヒーをすすりながら、私たちは話を進めた。雰囲気は先ほどよりも幾分柔らかい。
「それで、理由はなんだ?それによって私の対応は変わってくる」
「ああ……母さんが紹介してくれた医者、行ったんだ」
もごもごと言いにくそうに話をするコレットだったが、その気持ちもわからなくない。そもそも男とは陰口を言うのに向いていない生物だ。子供なら尚更、親が対象ならば更に。気長に、数えることを止めた時間をたっぷりと使いながらその言葉を引き出してやる。
「でも、そこ、こことは全然違った……」
「怖かった?」
「うん……」
全然違う、のは最早わかりきった事実だった。どこの世界を漁れば、時代遅れの「聴診」なんて方法を取り入れている医者が見つかるだろう。どこの世界に精神疾患を専門に取り扱っている病院があるだろう。きっとどこにもない。あるならば見せてほしい位だ。もし普通の病院でそんな症状を訴えようものなら、取られる方法はおそらくひとつだろう。
「頭を開くんだって。今ある俺の脳味噌はおかしいから、チップ入れて矯正するんだって」
そう、それが普通だ。だから、普通ならば一歩踏みとどまる。本当にこれをしていいのだろうか、するべきものなのだろうか。そう考えて一度自分というものに対して考え直す。その見直しによって立ち直っていった例も少なくなく、寧ろ世間一般ではそうした人の方が患者内の割合では多い方だろう。何と言ってもそうした行為は今存在している人間の人格の全否定に繋がる。欠陥のある人間の人格から、作り上げられた完全なるアンドロイドとしての人格への乗り換えだ。そもそも人道的によろしくない。もっとも、とっくにこの世界から「人権」などという言葉は消えてしまっているので、全く意味をなさないわけだが。
「ねぇ、俺ってそんなに悪いの?」
一言ポツリと漏れた言葉が床に落ちた。その言葉から、私は目を離せずにいる。
「いろいろ説明されたけど、よくわかんなかったけど、あれって俺の頭の中全部真っ白にするってことだろ?」
「俺が俺じゃなくなるってことだろ?」
「俺は、俺のままじゃいけないの?」
「俺は、いらないの?」
次から次へ。ボロボロとこぼれ出す言葉を拾ってやることは私には出来なかった。ノイズのかかっていく声、時折聞こえてくる鼻をすする音。上を向くことをそれらが止める。他の誰でもない。問うてくる彼自身が止めるのだ。
「…………」
彼は答えを催促することはしなかった。答えて、なんて言えないのだろう。Yesと言おうがNoと言おうが、目の前にはそれを信じられない彼(自分)がいる。自分ではどうしようもない、他者なら尚更。そこはただの袋小路だ。
三週間前の自分を恨んだ。この事態を招いてしまったのは紛れもないこの私、そういっても過言ではない。
この袋小路から出してやることも、同じ瞬間に私の仕事となったのだ。息を整えようともがいている彼の姿を視界に入れながら、私は切り出した。
「一つ、昔話をしてやろう」
それは可愛そうな男の子の話だった。虐げられる身分にあり、同じ身分であった少女を好きになり、彼女のために世界を変えようと足掻いた末、その理由であった少女を失い、生きる気力すらも失って、そして死を迎える。そんな救いのない、気分が悪くなるようなお話。彼は終始黙って、神妙な面持ちでその話を聞いていた。
「お前は、主人公についてどう思う?」
話が終わって、一つ聞いてみた。
ただ流されているだけ、されるがままの人生であった。やがて一人の少女を救おうと立ち上がり、挫折して、今までのように流されることすらままならず、ただ死んでいく。彼に対して、どう思う?馬鹿だと笑うか。可愛そうだと嘆くか。一途な男と称えるか。
コレットは重い口を開いた。
「羨ましいと、思った」
そして、照れたように付け足す。
「俺だったら、好きな女の子だって作れない」
「バカ」
言いたくないのならばそれでもいいと思った。その感想だって、彼から出たのだとすれば理由を推測できなくもない。羨ましい、なるほど、そうとも取れるのか。人とはどこまでも不思議なものだ。
ピンポン、ピンポンピンポン
チャイムが鳴った。一回ではない、立て続けに数回鳴り響く。誰が来たのか、そんなことはインターフォンにでなくともわかりきったことだろう。焦りからか激しい音を立てて椅子から立ち上がろうとするコレットを制し、ゆったりとした足取りで玄関へ向かう。こうした状況では焦った方が負けなのだ。玄関に出ようとするトートも部屋に戻らせ、扉を開ける。
そこには想像通り、すましたように見せかけて繕い損ねてぎらついた眼を露わにしたグル―夫人が立っていた。どうやら外では雨が降っているようだ。この前と同じ帽子とヴェールがしっとりと濡れている。
「コレットは、ここにいるのでしょう」
「はい、夫人。こちらに」
「返して頂戴、なんて馬鹿なことを」
返してくれ、とはまた妙な。まるで私たちがさらったとでも言うような言いぐさじゃないか。おかしい女だ。
「それは彼次第です。帰ると彼が言うなら、今すぐにでも」
「おかしいことを言うのね、そんなの決まってるわ」
私の脇をすり抜けてリビングへ向かう夫人を追いながら、私は自分の頭に奔る痛みを感じていた。これは厄介なことになる気がする。夫人のあの目がただのガラス玉に見えたのだ。
「コレット!!」
夫人が名前を呼ぶと、呼ばれた張本人は椅子の上でびくりと体を震わせた。明らかな怯えの仕草、だがしかしこの母にはそれすらみえていないようで、剣幕を緩めることはない。早く連れ戻さなければ、それしか頭にないのだろう。悲しいことだ。
だがしかし今それをさせるわけにはいかない。この状態で彼を返したその時には、彼がどうなるかわかったものではない。
「早く帰るわよ。明日またお医者様に行くと言ってあったでしょう。変なところに来て病気でも貰ったらどうするの」
「お医者様……」
「そうよ、この前言っていた手術をするの。あなたは直るのよ」
この前問診をして、今日もう手術か。驚くほど速いという話でもなかった。そう言った手術は患者と適合するチップさえ見つかってしまえば即手術、即日退院、なんてことも十分にあり得る。適合するチップが見つからない方が稀なケースで、こうして逃げる猶予が与えられただけ彼は幸運だった。
「大丈夫、寝てれば終わる簡単な手術だわ。起きたらあなたは「生まれ変わる?」」
口を挟んでみれば夫人はまるで何か信じられないものを見る目で私を見た。口を挟んでくるとは思っていなかったのだろうが、何も語らず大人しくしている、なんて宣誓をした記憶は私にはない。ここは私の病院だ、私の城だ。ここで私が何をしようが何を言おうが、とある一人を除いて誰にも咎める権利はない。さて、そのとある一人に許可をもらうとしよう。
ちら、とトートに目線をやると、もう一人の城主はこくりと頷いた。私はもう自由であった。
「眠り、手術を受け、眠りから覚めれば新しく輝かしい世界が待っているのでしょう。何もかもが鮮やかではっと目が覚める。新鮮な驚きに満ち溢れて好奇心が尽きない。当たり前ですね、生まれ変わったその脳になら」
「……何が言いたいのかしら」
「何も言う気はありませんよ、これから人を殺そうとする人なんかには」
人殺し。
そう一言添えれば夫人は絶句した。意地の悪い笑顔をしているのだろうと自分でもうすうす感じている。避けるように私は夫人からコレットへと顔を向けた。コレットも母親と同様に声を出せなくなっていて、信じられないと目が語っていた。こういうところで母娘を感じさせてくれるとは。
「この世界で最早肉体の死というものは訪れないだろう。人は機械と融合したことで死を克服したと思っている。だがしかし、死という概念そのものがなくなったわけではない」
コレットのたちのような若い世代には「死」というものすらわからないかもしれない。全くもって理解されないかも知れない。だが言わずにはいられなかった、言っておきたかった。こうした問題を抱えてしまったこの親子には。
「死とはいったいどうしたものなのだろうか?この問題には昔から様々な分野において議論されてきたが、結局決定的な答えは出ずじまいだった。なぜならば確かめる術がなかったからだ。誰がどんな答えを出そうと、それは正解であり不正解となる。受け取る人間がどう思うかにゆだねられるわけだ。では、ここにいる人間たちに向けて私から一つの回答を提示させてもらおう」
息を飲む音が聞こえる。その音が聞こえるほどに周囲の空気はクリアで、1つの淀みさえも存在しなかった。
「死とは尊厳の喪失だ」
もし私がこの持論を肯定したならば、私の中で私はとうの昔に死んでいるのだろう。今この世界にいる私は目的もなくさ迷い歩く亡霊そのものなのだろう。だがしかし今はこの亡霊たる者の声に耳を傾けてほしい。亡霊が生者を救うなどそうそうあることではない、笑い話にでもするといい。そうしてくれるならば少なくとも私は救われる。この透明な心臓に意味を感じることが出来るから。
「自分が自分であること、それに対する誇りを失った瞬間に人は死ぬのだ。さぁ、夫人。そのガラス玉でよぉく見てみてください。今の御子息にそれはあるか?」
――――俺は、いらないの?
彼は私にそう聞いた。自分自身の価値を他人から知らされねば、そしてたとえ知らされたとしても、信じられないようになっていた。それでも『彼は生きているか?』
「生まれ変われば、彼は自分の価値観を定め直して自分に新しい価値を付与するだろう。それははたして、今の彼と同じものであるとしていいのか?」
貴女は、自分の子を、殺すのか?
言い放って、私はコレットに歩み寄った。もう大分落ち着いているように見える彼は、私をその瞳の中に収めると顔をふにゃりとほころばせる。その顔には一欠片の緊張も怯えも見られない。きっと、もう大丈夫なのだろう。
「相当なことを言ってしまったが、大丈夫だろうか?」
「平気だろう。あれくらい言わないとあの人は聞かないさ」
実の母親に何たる言いぐさ、と本来ならば言ってやるところなのだが、実際目の当たりにしてしまうとどうも擁護しづらい。
これからどうする、と問うと、彼は小さく、考えてみる、と言った。
「自分が何をしたいのか、自分が何をどう思ってるのか。改めて考えないと」
「そうか」
そうするのであれば、もう私の存在は必要ないだろう。あの時カルテを破ってしまったのは、あながち間違いでもなかったらしい。これからは一人の患者としてではなく、コレット・グル―として、彼を扱わなければいけない。名残惜しい、もう少しここに、私やトートはそう望んでしまいそうになるが、そういうわけにもいかない。これは祝福してやるべきことだ。
「では、最後の診察をしようか」
その代りと言ってはなんだが、最後に小さい我儘を言ってもいいだろう。彼の入る程度に腕を広げ、微笑む。
「抱きしめてくれ」
もう二度と聞けないだろう心音は、様々な世界の音がした。

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