C.空想収集癖(1)

「おい、起きろ幸生」
どんな夢を見ていたかはすっかり忘れていたが、きっとその夢はこの現実から比べればずっとずっと優しいものであったのだろうなと思った。ゆっくり、差してくる眩しすぎるくらいの光に少しずつ馴らすように目を開けながら、その奥に見えてきたものに私はため息を吐いた。奥に見えてきたもの、私の視界の三割ほどを黒く埋め尽くす影。ちょろちょろと動き回るその影は、時折上下に弾んで私の腹部に圧迫感を押し付けてくる。静止している時はそうでもないのだが、身体の上でそうされれば流石に苦しい。
不服であると隠すことのないその声は絶えず私の名前を呼び、いつものように与えられるまま任せられるような、ゆるりとした平穏に身を預けるような起床を許してはくれない。
起きろ、起きろ。
この声に従うしか私に残された選択肢はない様だった。とても、不本意である。
「私を起こしたいというのなら、まずそこから退くことだ。コレット」
「…………ちぇ」
コレット、私がそう呼んだ少年は渋々ではあったものの大人しく私の腹の上からフローリングへと降り立った。途端消え去った圧迫感から一度二度腹を撫で摩ると、再び乗られる前に体を起こしてしまう。くらりと歪む視界に苦しみながらなんとかベッドサイドへ目を向けると、顔、というか頬を大きく膨らませた少年の姿がそこにはあった。
コレット・グル―。私の抱えている患者の一人である。
「おはよう、コレット。お前がここにいるということは私は寝坊をしたというわけか?」
「おはよう、幸生。いいや、俺が早く来すぎただけだ、時間までまだ12863秒はある」
「3時間のフライングか……それで私を叩き起こした、と。状況はわかった」
入ってくる光からもわかるように今日も過ぎるほどの快晴、窓越しでも肌が焼けそうだ。開け放たれたカーテンを閉めてしまうと、私も目の前の彼に続いてベッドから冷たいフローリングへと足場を変える。まずは着替えをしなくてはならない。すぐわきに置いてある小さなクローゼットから、シャツ、ジーンズ、ベスト、特にいつもと変わり映えのしない洋服たちを一式、ポンポンとベッドへと放り投げる。こうした場面に立ち会うことが当然のことながら珍しいのだろう。コレットは服が宙を舞う様子をまじまじと見ていた。
「目を閉じているか、部屋から出ていろ。着替えを見られて喜ぶ趣味はないぞ」
「ん、じゃあ閉じてる」
ぱこ、と小さな手がその両目を覆ったことを確認して、着ていたものを脱ぎ去る。寝巻にしているシャツのボタンを外しまじまじと自分の身体を見てみると、そこにあるのは1つ2つではない、数えきれないほどの細い皮膚の隆起。指で撫ぜてもざらりとして肌触りが悪く、その見目から感触から、全てが気色悪く感じる。
これは見せるわけにはいかないな。
片方の肩をシャツから抜いたところで、念のためと首だけでコレットの方を振り返る。
「…………ッ、」
用心しておいてよかった。
指の間から覗く緑色の目が狼狽えているのがよく見える。
「えっち」
「!!」
ここまで言えばもう覗きはしないだろう。
指の隙間がぴたりと閉じるのを確認してから、私は出来るだけ素早く着替えを終えた。おかげでタイすら結べないままだ。
目を閉じたままの彼の肩を叩き、リビングへと促す。朝食を摂ろうと思うが、彼のフライングのおかげで時間はいつもよりも大分早い。準備がされているかというのが唯一の不安だったのだが
「ああ、起こしてきてくれたんだね。ありがとう、コレット」
その一言で心配がただの杞憂であったのだと察した。トートに向かって元気よく返事をしたコレットは、昨日まではなかった3つ目の彼の席へ一目散にかけていく。なるほどなるほど、この女の差し金か。
「トート……」
「折角早く来たんだ、待たせるわけにはいかないだろ?ほら、今日のジャムは何にする?」
「ラズベリー」
もう何でもいい、とばかりに私の中で定番となった味を言い渡せばはいはいと彼女は苦笑気味に返事をした。今日の朝食はスクランブルエッグにソーセージ、フルーツにトースト、そしてコーヒー。マーマレードの方がまだよかっただろうかと思ったが、好きな味だ、何とかなるだろう。これと同じメニューが、コーヒーの部分をオイルへと変えてコレットの前にも並べられる。彼の幼い体はまだ消化器官を機械化していないのだろう。この先消え去ることだろう旺盛な食欲が、食事を目にしたその眼球をキラキラと輝かせる。その勢いと言ったら、今にも皿にかぶりつきそうだ。
「いただきます、を忘れるな」
「わかってる、そんなこと」
軽口をたたいた後、いただきます、と二人声を揃える。ナイフとフォークを手にとっても、その年にわりには行儀がよく音がしない。
ふわふわとしたスクランブルエッグは起きたばかりの胃に優しく、それをクッションにするように続いて飛び込んでくる肉の塊はガツンとした衝撃で胃を本格的に起こしてくれる。それら食材をゆっくりと噛みしめている私とは反対に、見る見るうちにその中身を減らしていくコレットの皿を見ているのは楽しかった。
これが若さというものか。
そう思うとどこかシャレにならない感じもする。
「どうした、幸生」
彼が怪訝な目をしながらそういうものだから、私は取り繕うように食事に集中した。そんな慌ただしいのか落ち着いているのかよくわからない食事を終えると、その後は彼のための時間が待ち受けている。本来はあと2時間程度後の予定であったが、その程度の誤差、午前中で且つ前倒しであるというのなら構いはしない。彼が私たちと長い仲であるというのであれば尚更、この程度が許せなくてどうする。
「さ、診察を始めよう」
定位置の揺り椅子に身を預けながら私が切り出す。トートが食器を片づける音が響いているが、その生活音も彼に対する診察に限るならまた良し。私にもう隠すことなど何もない。5年も共に季節を数え続けていれば気安くもなるだろう。
「今日は何?」
「お前が何をしたいか、だ。お前が選ぶといい」
「じゃあ、また話を聞いてくれ」
「お前がそれを望むなら」
彼はいたって普通の人間であった。
故障のない体を持ち、中流階級の何一つ不自由のない家庭に生まれる。茶色の髪、緑の目、特異な身体的特徴も存在しない。両親同士の仲も、両親と当人の仲も良好、同居している祖父母とも関係は悪くない。ペットに犬型のアンドロイドが1頭いる。頭脳、運動神経はよくもなく悪くもなく平々凡々、学校の通知表は5段階評定で大体は4……時折得意科目では5がひょっこりと顔を出す程度。ほどほどに友人がいて、ここに来る以外の外出は友人と共に遊ぶためのものでその頻度も一般的なそれに等しい。恋人は……やめておこう、いくら10代前半の少年でプライベートなどあってないものであるとしても、これは特にデリケートな部分だ。あまり意識してやらないのが彼のためだろう。
とにかく、彼はそんな「普通」をそのまま体現したような子供であった。ここに通っているというのに、その生活ぶりすら「普通」。日常は学校と家との往復に大部分の時間を費やしている。
そんな誰も文句を持たぬような彼に不満を溜め込んでいたのが、彼自身であった。私に母を装って電子メールを寄越して予約を取り、いざ目の前に姿を現した彼は、少し驚いて面を食らっていた私に一言言ったのだ。
「こんなのは『俺』じゃない」
普通に生き、普通の中で死んでいくこと。それが彼の中ではただの恐怖でしかなかった。
「自分」というものを何かに残しておきたい。
このままありふれたものの一つとして忘れ去られていくことだけはどうしても避けたかった。だがしかし彼の周囲は彼の忌む「普通」を理想として崇め、突出することを許さない。叫ぼうが一蹴されるこの葛藤を、彼はどう克服したのか。彼はそっと自分の部屋に鍵をかけることにしたのだ。その部屋の中であれば、彼はなんだって出来た。
声を上げ、手当たり次第に物を投げ、壁や机をその拳で叩き……そしてその荒れた状況に嘆きながら空想にふける、逃避する。
その嵐の末にある空想こそ、彼の本当の逃げ場所であった。現実というしがらみを一切合切すべて取り払って、本当の自由が与えられる場所であった。
彼はそこで様々なものに姿を変える。魔法使い、悪魔、超能力者、退魔師、それこそ現実にいるはずもない荒唐無稽であるものから、医者、博士、パイロット、探偵、幼い子供の夢であると笑われるものまで。それこそ日替わりでなんにでも。リアリティの追求のためだろうか、彼のライブラリーの検索履歴は他の人間には見せられない程雑多で、彼の「普通」には役に立たないものばかりであった。だがしかし、その無駄とも言える知識が彼には何を差し置いても必要であった。その知識が彼の自由を広げ、加速させる。加速させられた空想が、彼を取り巻き恐れさせる「普通」を切り裂き、解放する。
彼は幸せだった、それはもう、幸せの絶頂と言ってもいい。しかし、その幸せは、もたらされる解放は永遠か?そう問うた答えは残酷なことであるがNOと一言で言いきれてしまう。寧ろ、その答えがもしもYesであったならば、彼と私がこうして顔を突き合わせることはなかっただろう。
感謝すべきなのだろうか?
この問いに関しては私の可愛い助手がその拳で答えてくれるだろう。
「今日の議題は『悪魔と天使の交配について』だな」
「……今日のお前はいったい何なんだ?」
「宗教関係の研究者だ。幸生はどう思う?」
「そうだな……」
悲しいかな。そうした経緯を経て、彼はこの小さな病院に通い続けている。うちの中で言えば立派な古参の部類だ。そしてそれについて、長く触れすぎてしまったがゆえに離れがたく感じている私がいる。だから、長期の患者は苦手なんだ。どう接していいか、時折わからなくなる。
「今日は何の話をしてるんだい?あたしも混ぜな」
「え、トートにわかるのか?」
そしておそらく、その離れがたさを感じているのは私だけではない。その事実が、またさらにもの悲しさを感じさせる。彼に対しては私よりもむしろトートの方が思い入れが強い様だった。それも当然かもしれない。今回のようにまだ私の起きる前に彼がやってきたときには、室内に彼を迎え入れ二人で茶会を開いているほどだ。それも1度や2度の話ではない、今回のように起こしに来る方が珍しい位だ。それに私が書類仕事に掛かりきりにならなければいけないときは、待ちくたびれたコレットをトートが膝に抱きかかえ、二人揃って寝こけている時もある。彼が帰るたびに彼女からは「次はいつ来るんだ?」なんていう疑問が投げられてくるし、彼用のティーセットはいつだってピカピカで、気づいたときには磨いているようだ。いっそわかりやすすぎて溜息が出る。経験の差か、彼女の方が人との縁の切り方は上手いと思っていたのに、拍子抜けだ。
今だってお仕置きと称したじゃれ合いの真っ最中、俺の出る幕は何処にもない。二人ともまるで猫か何かのようだ。
さて、ここいらでコレットに助け舟でも出してやることにしよう。
「教授、僭越ながらここで私の意見を聞いてもらっても構わないだろうか?」
そういう私を、コレットはじゃれ合う手を止めて見つめた。その目は先ほどとは別の輝きをしており、彼はいつも私を輝かしい何かを見るように見つめた。一度、その目をする理由について尋ねたことがある。その頃はまだここに通い始めて日が浅いころであり、彼も私もまだ互いに遠慮がち、その一言は話のきっかけとしてなんとなく、と言ったふうに投げられた。気を抜けばいつ忘れ去られるかもわからない、他愛のない記憶。その中で彼は少し照れくさそうな顔をして、この一時だけ、愛した空想を手放した状態で言った。
『理由なんてないよ。なんとなく、ただ眩しいなぁと思って、ついそうするんだ。駄目?先生見られたら恥ずかしい?』
今思うと言われたこっちが恥ずかしくなってきそうなセリフだ。今ではその言葉のたどたどしさも、私の事を「先生」と呼ぶ殊勝さも彼の中には見つかりはしない。それでも彼の目には、今になってしても必ずその輝きが存在した。それは私個人にとってしても、医者としてであったとしても、喜ばしいことであり誇らしいことなのだろうと思う。
彼の好みそうな詭弁を舌先に乗せながら、私はそんなことばかり考えていた。彼の貪欲であり純粋さに満ちた瞳を一身に受けながら、このまま時間が止まれば幸せであろうに、なんてバカでも笑うような妄想に思いを馳せた。
しかしそうした温かい時間が流れ過ぎ行くのは実に早く、時計の長針どころか短針までもが見る見るうちにその足を進めていく。登り始めたばかりだった太陽もいつのまにか昇りきり、そして沈み始めた。この時間は確かに楽しい、だがしかしそうしてばかりもいられない。そうした現実を理解し受容することで、人は大人になっていくのだろう。そして彼はそれをし切れずにいる子供であり、まだ庇護されるべき存在だ。ここのことは親に話していないだろう、そんな場所に長時間拘束しては心配されて当然だ。そうすればこうして気軽に遊びにこられるかどうかすら怪しくなってしまう。なんといっても彼は「普通」なのだから。
「さ、もう今日の診察は終いだ」
パン、と手を叩いて椅子から立ち上がる。揺り椅子が立った拍子に揺れたままでいるのを名残惜しそうに見ているコレットの頭をわしゃりと一つ撫でながら、私は一杯の珈琲をトートに強請る。彼との診察の後の恒例だ。話が終わったら、私とトートには一杯の珈琲、コレットには一杯の甘いココアを。飲み終わってしまえば、名残惜しかったとしてもその日は解散。与えられた湯気の上がるマグカップを小さな両手を使って抱え込み、背を丸めてちびちびと熱いココアを飲む。そのコレットの姿は何度見ても年相応で愛らしかった。その姿をオカズにしながら……というとまた意味合いが怪しくなってきそうだが、とにかく彼を見ながら、私は殊更ゆっくりと黒い液体で口腔内を満たし、やがてはカップの底を乾かしていく。一方彼はまだまだゆっくりと甘味を楽しんでいるようで、それならそれでよし。私は仕事でもしてゆっくり待つことにしよう、カルテの整理を始めた。時折目があっては恥ずかしそうに逸らされるのだが、それで彼が私のなけなしの父性をどれほど刺激しているか彼は知らないのだろう。
「ごちそうさま」
彼がマグカップを空にするその頃には、中に入っていた液体はとうの昔に冷め切ってその甘さと粘度を増していたことだろう。盆を持ってやってきたトートに対し空になったカップを預け、彼はふと息をつく。椅子に深く腰かけ直し、体重を背もたれにぐったりと預けてしまうと、吐息と共に「あ〜」と、情けないようなそんな声を出した。時折、私自身そう言った仕草をすることがある。きっとその真似をしているのだろう。そう気づいたのはどれくらい前の事だったろうか。それから幾度もその仕草を見てきたというのに、飽きるということを知らず、数えることを諦めてもトートはこれを笑う。
「本当、そっくりだねぇアンタたちは」
隠すように口元を押さえたいかにもと言った仕草で、幼そうなその容姿で年を重ねた美しさを匂わせながら、笑う。それにこそ私はむっとした、年甲斐もなく、というなら言ってもらって一向に構わない。そんなに笑うようなことだろうか、と、なぜかコレットではなく私が言われるたびにそう思っているからである。
「そんなに似てるのか?」
「ああ、そんなにだよ。口調だっておんなじじゃないか」
それに関しては私も気づいている。最初のころはもっと幼い、じんわりとした温かみのあった話し方であったのに、今では全く違う。冷たさの目立つ、キンとした話し方だ。おそらくここだけで、外に出ればあの元の話し方に戻るのだろうが……少し心配になる。
その心配が表情にも出てしまっていたのだろうか。くすくす、くすくす、新しい笑い声が部屋の中に響く。響くたびに、私の胸の中には正体不明のもやが溜まっていくのだ。
ああ、やめてくれ、そんな話は。
その一言が言えてしまえば随分と楽になるだろうと思うのだが、トートだけならまだしも、楽しそうにしているコレットの顔をゆがめるほどの事かと思うと舌が止まる。自分で思っている以上に、私はこの子に甘いようだ。
疲れたように椅子に座りなおせば、ぎしり、と木が軋む。もういっそ仕事に没頭してしまえばいい、と、目の前に積まれたファイルの一冊を手に取って最新のページを開いた。白紙のページに今日の日付を書き込む。インクの香りが薄くしてきて、辺りに漂うコーヒーの残り香と混ざり合っては私の平穏を取り戻そうとしてくれた。
その試みは成功したか?
その問いには首を横に振らなければならないのだけれど。
「幸生の子供のころを、トートは知ってるのか?」
ドプリ、と紙の上に嫌なインクの沼が出来る。カキン、と歯車が一つ抜かれたかのようにフリーズする身体。悟られてはならない。おそらくこちらに視線を向けているだろう彼女を見もせずに、私は何とか抜かれた歯車を元に位置に戻した。カリカリ、カリカリ、ペン先がこれまでと変わらず紙をひっかく。しかしその文字は今までとは打って変わって、読めるかどうかも怪しいまでに震えていた。
「……ああ、知っているとも」
トートの声もいくらか小さい。今私が抱えているものと同じようなものを感じているのだろうか。そうに違いないという確信がある。だからこそ、その言葉の先は出せないまま、しばしの沈黙が空気の中に溶け込んでいく。その沈黙は、私の頭の中の地層から眠っていた、眠ったままにしておきたかった記憶をぼろぼろと掘り起こしていった。頭を抱えたくなるほどの記憶の濁流。私はついにペンを放り投げ、空いたその手でそのまま目元を覆った。
もう、やめてくれ。
改めてそう言いたい気分だった。
「気になるな、幸生がどんな子供だったか」
子供の純粋さとは尊いものだ、しかし時にはこの上なく憎らしくもなる。
仕事が終わったと思ったのだろう、言葉の矛先が私へと向かう。掘り起こされた記憶たちがその言葉を皮切りにしてぎゃあぎゃあと騒ぎ出すのが聞こえた。不快だ、何よりも、比較するものがないほどに不快だ。蝶をねじ切られ、胃を握りつぶされ、身体の中に詰まった血肉の全てを絞り出されているような気分だった。
「聞いて面白いことなど、何もない」
たったの一言、なんとかそれだけをうめくように呟いて、その場から逃げ出した。おそらくはこの世界の誰よりも治療を求めている私の弱い心を、どうか許してくれ。

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