B.潰れた蜜蜂(2)

その悪魔は彼の前で、自らの皮を何でもない、ただの布きれ同様に剥いでいく。剥いだその後の悪魔の肌は彼がとうの昔に捨てたような滑らかな肌色をしていて、彼は目をその袖口で拭わずにはいられない。目の表面に細かな傷がつき、それが視力に何らかの影響を及ぼしたとしても、彼はそれを止めずにはいられなかった。そんなことよりも彼の中にある常識がガラガラと崩れ落ちていく方がずっとずっと恐ろしい。天秤は常識を好んで容易く傾いた。悪魔は、いや、ここからはあえて私と言い直すことにしよう。その様子を見て小さく笑う。
「驚いたか」
ここにはもう配慮すべき他者は存在しない。ここにいるのは患者と私。医者としてである前に、私という「個」として接するべき者。素であるべき、そうあることを強いられる空間がここには広がっていた。そうした空間の空気に目の前の彼は耐えられるだろうか。その空気を落とした皮……アーマーとガントレットが床に傷をつけながら破っていく。すっかり軽くなった肩を回し、彼と視線を合わせる。その視線で問いかけを重ねると、彼は驚いた眼のままがくがくと首を縦に振る。それも当然の反応だろう。この時代において「完璧な生身」を保った成人など、政府に知られれば即刻保護、といえば聞こえはいいが、正しく言えば研究所のモルモットになることは避けられない。といっても私自身環境の変化に息も絶え絶えになりながら生きているわけであり、研究したからと言って何の成果も得られるとは思わないのだが。
「他言無用で頼めるか。あまりひけらかしていいものではない」
そうしたら君を治療する者はいなくなるぞ。そうした視線にも彼の首は動いた。とてもいい返事だ、子供を見ている気分になる。
「さて、では君の抱えているものについて話をしよう」
私の事はどうでもいい、さっさと本題に入ることにしよう。まずは彼の抱えているものを何とかマシにしてやることを考えなければならない。
椅子に腰かけ直し彼に向き直ると、彼は噴き出してくる汗を拭きもしないで神妙な顔をしてこちらを見つめていた。先ほどまで一向に目を合わせようとしなかった男とは思えない。だが彼からしたらそうするべき問題なのだろう。彼にとってこの症状は直す手立てもわからない得体のしれない病気だ。当然と言えば当然。こちらからしたらその様子に笑ってしまいそうなくらいなのだが。
「先ほど奥方にも説明させてもらったが……君の病気は私の中では至ってありふれたものだ。治療も十分出来る、何も心配することはない」
最終結論をカルテに書き込み、わかりやすいように彼にも見せてやる。この行為も昔には御法度で、わざわざ他言語を使ってカルテを書くといった風潮もあったらしいがそんなことは知ったことではない。こうしたものは患者自らの意識改善が必要なのだ。そのための近道が患者がきちんと自分自身の状況を把握していること。隠していたらそんなものが得られるはずもなし、昔には無駄なことが多すぎる。
「ワーカ……ホリック?」
彼が小さく読み上げる。それは昔、私のような存在がありふれていた頃には一般常識にもなりかけた病名であった。
ワーカホリック(Workaholic)漢字に直すと一気に簡単になって、仕事中毒。生活の糧であるはずの仕事に打ち込み、その他私生活を犠牲としている状態。過労死や栄養失調等の原因として挙げられることも多く、人間関係の面で言えば離婚を招くケースや孤独を引き起こしさらに神経を深くやられるケースが多数ある。日本においてはこの症状の患者が多い傾向にあり、個人の資質も発症に関係していると思われる。予備軍も合わせれば社会人の半数以上がこの病気にあてはまる。
彼の場合がこの症状が少し酷かった。過度なストレスが神経を犯し強迫観念症まで併発している。ここまで至る人間はこの時代にしては滅多にいるものではない。話を聞く限り、苛烈な労働環境がそうさせたのだろう。
「企業戦士、と昔の人間はよく言ったものだ。『死ぬまで働け』とさ」
精神病など、今の社会は全く意に介さないものであった。たとえそうなったとして、人の生活には何の影響もない。組み上げられたシステムのままに、機械の身体は動き続ける。止めることは不可能であり、その手立てとして死を持ち出してきたとしても同じこと。頭が消え去ろうがシステムがその部位の代行をする。死を克服した人間は死を冒涜し、また死に見捨てられる。人は死を捨てると同時に死に捨てられ、そして安息すらも捨てたのだ。この世界は人にやさしくなどない。人は我が身かわいさに天国を捨てたのだ。そしてその天国の一部に、心はひっそりと寄り添っている。私はその心を救いたいのだ。それがただのエゴであったとしても、それが私に求められるのであれば。
「機械とはいえ、そんなことが許されるはずもない」
どんな人であれ、ものであれ、そこに心というものが存在するのなら。
「安心するといい。少なくとも君のそれは、私が直そう」
椅子から立ち上がり、彼の足もとに跪く。彼の目は不安げに揺れてはいるものの、その不安は既に私へのものではなくなっていた。病気、身体、心、社会、そんなヴィジョンが頭の中を駆け巡っている。モニターに繋ぐまでもなく簡単にわかる。みんなみんな、ここに来るもの万人がそうなのだ。
「直す。だから私の願いを一つ聞いてはくれないか」
落ち着かない手遊びを続ける彼の手を握りしめ、私はこの上は望めない程にやさしく笑って見せた。彼にはいったいこの顔がどう映っているのだろう。先ほど自らを悪魔と称した私だが、彼にとっての私はいったい何なのだろう。それを聞く気もないし、聞いたからどうなるということでもないのだが、私は1つ気になってしまっていたのだ。
「抱きしめてくれ、出来る限り強く」
彼はこれからいったい何を抱くのか、それがひどく気になって仕方がない。悪魔か、それとも人か、それともどちらでもない化け物か。いっそ彼でなくてもいい、誰でもいいから教えてほしかった。私自身、私が何かわからないのだ。
その不穏さを感じ取ってだろうか。彼はおそるおそる、半信半疑といったふうに震える手を伸ばして私を抱く。頭を抱える。震える腕が触れて耳のあたりが少しくすぐったい。その腕を宥めるように撫でさすりながら私は目を閉じた。
とくん、と心臓が、皮膚と布越しに、さらに言えば金属までもを隔ててこちらを叩くのを聞く。それはリズムよく続き、こちらを鈍い眠りに誘う。それでありながら、それでも懸命に生きろと叫ぶ声であった。それを聞きながら、私は一人息を吸う。いや、一人ではなく二人であった。私を叩き寝かしつけようとする彼を忘れてはならない。
アベイユ、可哀想な私の患者。
私は君に「直す」と言った。
治療をしなければ、治療を。
そこがどれほど落ち着く場所であったとしても。
「君の性根は過ぎるほどに優しいな」
心臓の音は人の心を映す。女には女の、男には男の、母には母の、父には父の、老いも若きも全て違った音がする。激しい音、静かな音は人の気性に左右されるものであり、ここに来るものは病で多少乱れている事が多い。だが、その乱れの中であるはずの彼の心音はさざ波が立つ程度の穏やかさだ。なるほど、これが激務に歪んだ理由か。
「あの……」
「ん」
「大丈夫ですか?」
「ああ……」
問題はここからだ、ここで止まってはいけない。
耳を澄ませ心音だけに集中する。精神病の原因は、特にこの時代においての原因は、昔と同じように大元はストレスであるのだが、それだけが原因ではない。昔からストレスは心のみでなく体までもを蝕むものであったが、機械化してからはそれがさらに顕著になったように思う。
「左の肋骨……肩、腰……股関節」
心臓は身体の中心部、自然と各所から機関部が集まり密集する場所。もしも体に異常があった場合アラートを鳴らすのだとしたらここしかありえない。
時折うっすらと目を開けていつも以上に眉間に皺を寄せながらこうしてアラートに耳を澄ませているわけだが、それがまた聞き取りにくいことこの上ない。アラートが鳴っているとはいえ他の部位はある程度稼働しているわけだし、何より外界からの騒音が邪魔をする。
ストレスに縮こまったその体の中で、その収縮に対応しきれなかった機関部分の軋み。温かな心音の中で一つ二つ混じる冷たい音。
それを音から異常を持つ部位まで特定しなければならないというのだからこちらも神経をすり減らす羽目になる。
実際特定が可能となればトートに手術を頼みその部位の拡張、または機関部の縮小という形で根本的な解決にはならずとも大きな症状改善が見込める治療が出来る。改善が確認できればその安心感が大元すら薄れさせるだろう。
そのためには、まずこれだ。
いい年こいて「抱きしめてくれ」なんて恥ずかしいとも思うが、これが一番聞き取るうえで楽な姿勢なのだ。文句を言ってはいられない。
「もういい、すまなかった」
問題のある部位はどうやら先ほどの四か所以外は認められそうにない。彼を刺激しないようにその胸板から体を離し、一つ息を吐く。あとはカルテに問題部位を書き込み、ついでに彼の神経の繊細さについてを注意事項として加えておくことにしよう。この分ならおそらく手術の方も大分気を遣う羽目になるだろう。トートに訪れるこの先の苦労が瞼の裏に浮かぶようだ。
ともかく、ここまでくれば俺の仕事はしばらく休みである。
「あの……」
「ああ、大事ない。今後は簡単な手術を二回行ったあと、投薬とカウンセリングで経過を見る」
「二回も……?」
「部品を今の君の体に合うように取り換えるだけだ。治療が終わったと判断したら、取り換えた部品を元に戻す。だから二回だ」
安心するといい、とんとんと膝を叩くと彼は詰めていた息をそっと吐いた。
金融関係のシステム管理という重大な仕事の責任から抱えてしまったストレスが今回の発症原因だろう。原因が完全に払拭されないのであれば、今回のような症状を何回も引き起こす羽目になる。彼はリラックスするということを覚えなくてはならない。そしてそれは私が教えるのではなく、自分で気づかなければならない。
床に落ちたアーマーを拾い上げ、再び身体に貼りつける。ずしりとくる重みに頭痛を感じながら、私は仕事場に続く扉を叩いた。
ゴンゴン、重い金属の音が響く。
「トート。奥様をお連れしてくれ」
ふり返って彼の表情を窺うと、妻と別れたほんの十数分前よりもその顔色は良くなったように見えた。きっと彼はこのまま一度目の手術を迎え、無事に妻と共に帰っていくだろう。そんな笑顔の彼を想像しながら、私はその想像にほんの一握りの恐怖を抱いた。
ああ、悪い予感がする。
それは三文芝居のようにありきたりなストーリーであった。

*  *  *

彼の回復は今まで見てきたどんな患者よりもすさまじいものであった。つまりは、過ぎるほどに順調だった。
初めての診察の日、彼は私の予想通りにその日のうちにトートがメスを握る手術を終え、その後通院を始めた彼の心は見れば見るほどに上向きになった。初めはそれこそぎっしり埋め尽くされていたカルテであったが、日を重ねるごとにその文章量は目に見えて減っていく。一日目、三日目、八日目、十二日目。勿論まだまだ投薬の必要はあったものの、それさえしっかりと守られているのであれば日常生活、仕事に戻ったとしてもおそらくは問題ないだろう。そう判断を下したのは初診の日から数えて二か月。驚異的、と称せるスピードだ。年単位で治療を続けている患者だっているのに。
「どう思う」
私はトートに問わずにはいられなかった。驚異的な回復スピード、つまりは急速な変化。その変化を求めるあまり何か焦っているような様子はないだろうか。私は彼について何か見落としたのだろうか。彼だけとは言わない、どんな人間を診た時だって、私はそう問わずにはいられない。不安でたまらないのだ。
人を診て、判断を下して、直して、再び社会に送り出す。救うだのなんだの言っておきながら、彼らのこれからの人生における転換点にいる、その事実がたまらなく恐ろしい。
「トート」
情けない声を出すのが自らの喉だとは信じたくないものだ。
だがしかしそれは紛れもない事実として目の前に突き付けられているし、彼女は小さくため息を吐く。やれやれ、もう飽いてしまっただろうね。
「アンタはアンタの仕事をした。それだけのことさ」
あとは神のみぞ知る、ってやつだよ。
そして彼女は笑って私の髪を撫でる。わしわしと荒っぽくなでるその手つきは彼女の気まぐれでそれなりの頻度をもって触れているものであるはずなのに、毎回どうしてか懐かしく感じる。目を閉じれば眠ってしまいそうな、そんな感じだ。神なんているかもわからないそれに縋らなくてはならない虚しさがじんわりと解れていくようだ。恐ろしかったものが怖くなくなる。子供に立ち返り、無邪気だったあの頃に還る。目を閉じる。頬の肉がグイと引っ張られる。
「弱ってんじゃないよ、毎回。そんなんで患者に会う気かい?」
ちら、と見た時計は約束の時間を軽く過ぎようとしていた。遅刻、世間的にはあまり良いこととは言えないが、今回の場合においては喜ばしいことかもしれないと言える。時間に脅迫されることなく生きている。彼は自由だ。
「もう私は必要ない」
「アンタがそう思うならそうなんだよ」
温かいコーヒーがマグに注がれてやってくる。窓の外にあるのは初めての日と同じ、全てを焼き尽くすような真っ赤な太陽。彼の新しい出発には……少なくとも曇って薄暗い寒空に送られるよりは、ずっとずっと縁起がいい。その縁起の良さに免じて、神様も見逃してはくれないだろうか。突き刺す苦味に舌鼓を打ちながら、私はそんなことを考える。
「先生」
結局彼がやってきたのは予定時刻を十五分ほど過ぎた頃で、何度も頭を下げながらそれでも笑う彼は以前とはまるで別人だった。いや、私が触れていた彼こそが別人で、今彼はようやく本来に戻ったのだろう。
「おめでとう、治療は今回で終了だ」
謝る彼を押し止めそう言ってやると、思わずだったのだろう、足についたマフラーが二三度煙を吹いた。
そういえばこうして元気に動かしている所は見たことないな。
思わずそう呟くと、先生の身体によくないと思いまして、と頬を掻いた。なるほど、心音も納得のやさしい男め。
「今後は、まず自分のことを第一に考えるといい。でないとここに逆戻りだ」
「ええ、わかっています」
いい返事だ。彼の問題部位だった肩を一撫でしながら重ねる。
「もう二度と、ここには来ないことだ。次の発症に心が耐えるという保証はないぞ」
「大丈夫ですよ。この前同僚から電話があったんです、みんな待ってるって」
そうして彼は帰っていった。初診の時とは打って変わり、一人でやってきて一人で帰っていった。奥方ももうそこまで心配してはいなかったのだろう。本当は、彼女の方にも加えて忠告しておきたかったのだ。あの時言っておけば、もっと強く言っておけば。
「トート」
「なんだい、幸生」
引きずられてきたボディをぼんやりと眺めながら、私は色のない声で言った。電源を落とされ、ただの金属と肉の塊となってしまったそれを見ながら、私は小さく呟いた。
「神にとっては、蜂の一匹や二匹、代わりはいくらでもいるのだろうな」
来るときに何かにぶつかったのだろうか、それとも引きずられてきたからだろうか。足の機関部が少し削れたり抉れたりしていた。これがもう煙を吹かすことはない。照れながら私の健康を害することはもうない。
あの優しい心音は聞こえない。
泣き崩れる彼の妻を診もしないまま、私はそっと彼の頭を撫でた。
「二度と来るなと言ったのに」

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