B.潰れた蜜蜂(1)

そもそも私は出かけること自体があまり好きではなかった。もう周知であろうが、街自体が嫌いなのだ、それはもっともであることだろう。今の時代で唯一良しと思っていることは不必要な人とのやり取りがどんどん削られているといった部分で、人との接触は対面ではなく基本電子メールでのやり取りや音声通信で行われている。こちらはそれで一向に構わない、むしろこの方が好ましい。もしもそれで不服だとするならば向こう側からこちらに出向くように唆させてもらっている。駄々をこねているのは向こうなのだ、このくらいはしてもいいだろうよ。まぁ、それはともかく。とにかく昨日のような気まぐれを除くのであれば、私は外界と完全に一線を引いたような生活をしていた。今日もそんな陸の孤島の一日が始まる。
朝起きてぱちりと目を開けたとき、今日も起きてしまったのだとほんの少しの落胆を覚えた。身体を起こしたとき、ずしりと来る倦怠感に口から溜息がぼろりと落ちた。カーテンを開けた窓から見る空は昨日と打って変わり過ぎるほどにギラギラと輝いている。それを見ながら「ああ、今日がこんな日か」とまた少し気分が落ち込んだ。この日ごとにコロコロと変わりゆく気象にはいくら経っても……たとえ半世紀を生きていたとしても慣れることはない。こうした急激すぎる環境の変化もこの気分の落ち込みやすさに身体の中から影響を与えているのだろう。これもまた難儀なことである。
自然が今こうしたふうになってしまったのは、俺が生まれるずっとずっと前の事であったらしい。昔に暇を持て余し、古いデータライブラリを漁っていたことがあるのだが、2000年になりたての頃、またはそれから少し経った頃、世界では何と言ったか……「地球温暖化」というう問題を抱えていた。全体的に気温が数度ほど高くなり、北極南極に深刻な影響を与えていた、そんな情報が羅列していたが、俺の目を奪っていたのはそんな情報ではない。その頃確かにこの国には、他の国には存在しない「四季」というものが今のように名前だけでなく確かに存在していた。その事実が俺にとっては至極羨ましいものだった。少しくらい暑くなったからなんだ、今と比べれば全然涼しい位なものだったに違いない。氷河が融けたくらいなんだ、今では海ですら時々干上がるぞ。木が無くなって二酸化炭素が?今では機械が二酸化炭素を酸素に変える。その当時の人が今に来たとしたら、その人は機械様々だと咽び泣くだろうか。
「反吐が出るな」
自分の想像のせいとはいえ、今日もまた普段通りの胸糞悪い朝であった。座ったままだったベットから降り、シャツにジーンズ、ラフな格好に着替えてからリビングへ移動する。扉を開けたその瞬間からふわりとコーヒーのいい香りが鼻の中に満ちる。小さくコポコポと聞こえてくるのは気に入りのサイフォンのもので、外の雑音とはまた違った、雲泥の差でよい心地がする。これ自体は相当昔のものでいわゆるアンティークと言われるものがだ我が家では十分現役だ。物は使ってこそ、飾って眠らせておくなど勿体なさ過ぎて気絶してしまう。
「おはよう、幸生」
「ああ、おはよう。トート」
その音と香りに満ちた天国にも等しく思える空間で、彼女は忙しなく動く。その動きに合わせてクラシカルなワインレッドのワンピースの裾がひらひらと揺れた。髪型はいつもの形にまとめ上げてはあるものの、少し巻きがゆるいようでふんわりとしていた。だらしなくはないようなのでそれも彼女のこだわりの末のものなのだろう。今日も文句なし、変わらず美しくある彼女だが、残念、私の関心は彼女の手の中にある朝食なのだ。
「ヨーグルトにトースト、コーヒー。ジャムはどうするんだい?」
「ラズベリー」
「…………相変わらず好みは可愛いね、あんた」
男に可愛いという褒め言葉は通用するのだろうか、否、きっと今のは褒めたわけではないのだろう。彼女の手の中からトーストの皿をかっさらって、定位置と化している揺り椅子に腰かける。脇の小机に皿を預け、眠気を振り切ろうと1度伸びをした。ギシギシ、朝の挨拶とでも言わんばかりに椅子が鳴く。2、3度呼吸をすると喉の奥が乾いてきたようで、コホ、と一つ咳をすると彼女が返事をするように溜息をつく。昨日窓を開けていたせいだろうか?だからだと彼女は責めているのだろうか。そんなことはないはずだ、たかだかそんなことで、そんな。
「空気が乾燥してるんだ」
そうだ、そうに決まっている。
昨日閉めたはずのカーテンはすっかり開け放たれていて、私はそこから差し込む眩しい光を睨みつけた。そんな短い間にも、小机には皿が増え、朝食が一式形を揃え、良い匂いで私を待っている。その匂いでようやく気を静めると、私はそっと両手を合わせた。
機械化した人間が増え、人の主食は百年ほど前からオイルとなった。今でもこうした食べ物で栄養を摂るものがいないわけではないがやはり珍しく、こうした旧時代的な食事はわりと高価なものであった。
「いただきます」
ゆえに感謝は忘れることが出来ない。一口一口、惜しむようにそれらを味わいながら、この口の中でかみ砕かれていくものの原料たちに思いを馳せる。小麦、イースト、塩、ラズベリー、佐藤、牛乳、コーヒー豆。次々と湧き上がってくるヴィジョンに中々頭が追いつかないこともある。これらを生産する者たちが世界に何人いることか。この時代になってからその職で生計を立てられぬ者たちがどれだけ出たか。ここまで考えてしまうと、過ぎると思う反面止められず涙が出てくることもある。だが今日は幸いにもそんな醜態を曝すこともなく、あっさりと朝食の時間は終わった。そのあっさりの一つの要因として私が少食であるということもあるわけなのだが、これに関しては誰にも責める権利はない。いつもは健康面の事に対しあれこれと口を出してくるトートだが、これに関しては目をつぶってくれているようだ。量もそれを考慮して調整してくれているし、私は私でそれを残すこともないのだ。言うこともないだろう。唯一口の端に残ったラズベリージャムの赤色を舐めとりながら、椅子に深く腰掛け直す。それに合わせて揺れる椅子に、目がとろりと融かされていくのを感じた。起きたばかりではあるが、腹が満ちれば眠くなるというのは耐え難い人としての性というものだろう。どうしようもないことに抗う気力はなく、私はじわじわと近づきつつある睡魔と戯れはじめた。ギシリギシリと鳴く木の軋みさえ、今の私には子守歌に等しい。首がまるで赤ん坊のように座らず、どこか落ち着かずに揺れた。
このまま負けてしまってもきっと良いのだ。
折角頭の中の誰かがそんな優しい声をかけてくれたというのに。
「アンタ、昨日に続けて今日も仕事をサボる気かい?」
鬼のようなこの女はその声に従うことを決して許してはくれない。
さっさと朝食の皿を積み上げて片づけてしまうと、彼女はその位置に代わりというには随分と過ぎた分厚い紙の束を置いた。その枚数は置いたときに響いた音から察するに、何十ではきかず何百といったものだろう。普通の人間ならば見るだけで気が遠くなりそうなものであったが、私の場合仕事柄、それなりに馴染みのあるものだった。少なくとも卒倒はしないレベルで、であるが。むしろ1日この仕事を放棄していたというのにいつもと変わらぬ量であることに疑問を感じる。
「減ってるな」
「ああ、減らしたのさ。昨日珍しく引きこもりをやめてお疲れな誰かさんのためにね」
彼女のこの行為を余計な世話だと一蹴することは出来なかった。確かに今日は起きた瞬間から気が滅入っているし、今も睡魔に抗えない程度の倦怠感、疲労感が身体の中に溢れている。本来ならここリビングではなく仕事場でやるべきことであるはずなのに、その気すら起きないのだから最悪だ。それだけ外に出るということは私の負担となるらしい。だから嫌いだと言うのだ。
「今日はここで仕事をするんだね。アタシに見えるところで、さ」
どうやら頭痛までしてきた。溜息をついて束から紙を1枚取り出すと、それだけで眉間に皺が寄る。中身を見ればなおさらだ。
今日、そうか今日だったか。これは失念していた。
「初診面談、一人でやるにゃあツラいだろう?」
訪問予定は午後1時。今は午前10時であるから、あと3時間もすればここに私の「患者」がやってきてしまう。
「私も一応、そりゃあブランクはあるし科は違うけども『医者』だ。助手くらいはしてやるよ」
「そうか」
小さく返事をして、まだ八割白紙のカルテを脱力し切った胸の上に乗せる。そうそう、そういえばまだすっかり言いそびれてしまっていたが、私も彼女と同じく、いや同じくとは言いづらいものだが、世間的には「医者」と呼べるものであった。



時間なんていうものは砂が手からこぼれるよりも早く過ぎ行くものである。その砂がこぼれていくほどに日は高くなり、それにつれて気温はぐっと上がり、室内にいるというのに窓を見ただけで暑いと感じてしまう。
私は朝は遅くに起きて、朝食と昼食を兼ねてしまうタイプであるが、トートは決してそのような不健康な生活はしていない。彼女用に作られた昼食、その香りだけをともに味わい、それによって残酷にも時間の経過を告げられながら、食後の珈琲だけは相伴にあずかりつつ、私は何とか溜まった未処理カルテの山を少しずつではあるが消化した。経過観察か隊員か、入院なのか通院か、そんな選択を症状と共に書き込み、時折目薬で自分の目を労わりながら山を崩す。処理済の山が築きあがっていく光景には達成感すら覚えた。だがしかし今全てを終わらせる必要は全くないし、寧ろ終わらせることなど不可能であるということはわかっている。時折休憩を入れても良さそうなものだが、始めたからには出来る限り、という私の性格と、目の前の鬼のような女がそれを許さなかった。自分と彼女、その二人が同時に私の首を絞める。その手をあっさりさっぱりと切り落とし、私に解放と同時に絶望をもたらすのもまた、時間という砂なのである。
ジリリリリリリリリリリ
その砂の形は耳障りで古風なドアベルの音。
12時から1時までの間、時間を全く意識することはなかった。まさかここまで時間の経過が早いなんて誰が想像するだろう。その想像は彼女も及ばなかったらしく、玄関まで走りながらもその手は焦ったように身支度を整えている。そんな彼女を見送りながら、私はというと彼女が客人を多少足止めしてくれることを信じていつものように寝室から持ってきたアーマーとガントレットを装着した。金具とベルトがやたらと多く厄介な代物であるが、特に焦ることはしない。こうした私の性格を、彼女は理解してくれているだろう。全てを付け終えて椅子に腰を戻したときにはもう疲れ切って、忌々しい重みのかかる肩を労わるように叩いた。叩いたとしてもそこはガンガンと音を立てるのみで全く効果のほどはないのだが、気休めにはなる。叩いた側の手はジンジンと熱さにも似た痛みを訴えるが、気が重いよりもずっとましだろう。こんなものを肩と腕どころか全身にくっつけて動き回り、「幸せだ」とにこにこと笑っているのだから、世の中の人間は狂っているとしか言いようがない。こんな世の中だから私のような人間が高かろうがなんだろうが美味い飯にありつけてしまうのだ。今や全世界の人間が私の家のドアベルを鳴らすべきなのである。
「幸生、お見えになったよ」
いつもよりずっとゆっくりとした足取りでトートがリビングまで帰ってくる。その背後には見知らぬ男と女、いや男の方は見覚えがある。こけた頬に青白い肌、細い手足におぼつかない足取り、きょろきょろと動く視線。それらの全てを取り払った、健常であった頃の彼を、写真で私は見たことがある。なるほど、確かに依頼のメールにあったそのままの症状だ。私は彼から目を離すことのないまま、手探りでカルテに書き込みを入れる。その時間は短く30秒ほど出ったと思うが、彼とは一向に目が合わない。
「はじめまして、アベイユさん。おかけください、勿論奥様も」
運んでおいた二脚の椅子をすすめ、さらに反応を見る。妻が先に座り、それから彼。歩いている時もそうだった、必ず妻を先に置く。レディファースト、では決してないのだろう。彼の様子と合わせてみれば大体の予測はつくのだが、念には念を、保険はかけておくべきだろう。
「では、メールの通り問診から入りましょう。奥様はそのまま付き添う、という形でよろしかったですか」
「はい、それでお願いします」
問に答えたのは妻だった。彼本人はうつむいて、その細い指を両手で組み合わせては解いてを繰り返している。初めてきた環境に慣れず落ち着かないのだろう。微笑みを絶やさないように気を付けながら、再びカルテに書き込んだ。紙の3分の1が埋まる。
「すべて簡単な質問ですから、気を楽に。無理に思い出そうとはせずに、わからなければ素直にわからないと言ってくださって結構です」
こうした質問は今の時代、ことさら私の診察においては本当に形式的なものとなりつつあった。そんなことをせずとも、大体の状況は機械部にモニターを繋げば情報を吸い上げることが出来、下手に口頭で説明されるよりもずっと正確だ。こんなものは「ここは病院で、ちゃんとした診察をこれから行いますよ」といったアピールに他ならない。一番重い症状、発症時期、そのきっかけ、精々使うとしてもその程度の情報。生活環境やライフスタイル、幼少期の発育や発症歴、近親者の持病の有無、そんなことを聞いても私の診察の役には立たない。お遊びのようなものだ。
「御職業は銀行のシステム管理と伺いましたが」
「ええ、そうです」
話を続けても口を開くのは妻だけ。ここまで徹底されているとなると最初から妻に向けて話していた方が最早楽な気はするのだが、それが出来ないのが面倒なところである。「彼」を見ている、そのことを彼自身が理解してくれなければ意味がない。
「勤務時間の方は」
「不定期です、ここ最近は忙しいのか泊まり込みが多くて……」
「その間休憩などは?」
「さぁ、それは……」
妻の目が困惑と共に旦那へ向く。そこまでは口裏を合わせてはいなかったようだ。視線を向けられたとたん、彼の身体はびくりと震えて縮こまった。
そんなものはない。
聞こえてきたのはたったそれだけで、しかも蚊の鳴くような、耳を澄まさなければいけないような声量だった。なるほど、これは重症だ。妻が相談してくるのも納得だな。
「仕事が俺の生きがいだ。休憩なんていらない、それ以外の事なんてしたくもない」
彼の口がようやく私にもわかる程度に開いてきた。内容はさておくとして、なるほどいい傾向だ。話したいだけ話すといい、こちらの話はそれからだ。
「仕事がしたい、パソコンに触れていたい」「今何時だ」「休んでしまうなんて」「仕事に戻らないと」「キーボードの音がする」「冷却ファンが」「手の震えが止まらない」「何か問題が起きていたら」「俺が居ないと」「あ、ああ、メリッサ」「俺はおかしいのか?そうなのか?」「どうしよう」「どうしよう、どうしよう」「どうしよう、どうしよう、どうしよう」
「はい、結構です」
錯乱しかけ、いや、し始めていた彼の言葉を断ち切る。これ以上話させても彼が混乱を極めていくだけだ。止めたところで走り始めた不安は止まらず、ぶつぶつと何か呟いているようだがこれは大して気にすることではない。心配そうな眼をして彼の背をさする妻、今はこちらへの対応の方が大事だ。二次災害なんてものは是非とも避けたいものであるし、次のステップの障害にもなる。
「奥様、メリッサさんとお呼びした方が?」
「は、はい」
先ほどまでは落ち着いてしっかりとした応対が出来ていたが、どうやらそれは仮面であったらしい。心配から来るものであろうし問題はないのだろうが、ぱっと見た限り彼とよく似た症状が出始めている。夫婦間のシンクロ?厄介なものだ、人というのは。患者とその近親者、ではなく、患者二人を相手取っている気分になる。
「症状は把握しました、治療は可能です」
「本当ですか?」
「ええ、これからカウンセリングに入ります」
トートに目線をやると、やっとかと言わんばかりに一歩前に出る。
「それにつきまして、旦那様と二人で話す必要があります。どうか御退席を」
本来ならばここは仕事場であり、彼女には今いるこのリビングで待っていてもらう必要があるのだが今は勝手が違う。彼女には仕事場の方で待っていてもらうことになるだろう、そのことはトートにもわかっているはずだ。その意図を先ほどの目線だけで汲み取って、彼女は別室へと誘導されていく。そんな妻を見る彼の不安そうな瞳を見ただろうか。その彼と同じような色をした彼女の瞳を見ただろうか。それは世界の終りの色をしている。もう二度と会えないような、これから死に別れに行くような、そんな最上の不幸を目の前にしたような、私にとってみれば汚泥と等しい色をしている。それは本来、もっともっと美しい色であっただろうに。
「では、治療を始めましょうか」
二人きり、取り残される。
「アベイユさん」
無情にも閉まったその扉の前で、彼はまさしく悪魔との対面を果たしたのだ。

[ 2/7 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -