優しい悪魔3

背中に、温かいものが触れてきた。しばらくじっと耐えていれば、すうすうと小さく寝息が聞こえてくる。そう広くない、掌ほどの面積が背に触れている。それ以外は触れるか触れないか、微妙な距離感。パチリと目を開けた僕はくるりと体を回して熱源に触れた。それはぐっすりと深く、よく寝ていた。これは珍しいことだ、彼は眠りがあまり深くない。そもそも寝ることすら稀で、このベッドは僕専用と言ってしまっても過言ではなかった。それでも彼は今ここで眠ってしまっている。珍しい、でも僕はこうなることがわかっていた。わからないほど短い付き合いではなかった。子供を狩るとこれは、時任は、こうして僕のベッドに入ってくる。心臓があったその場所に手を当てて、酷く深く眠る。

「……そんなに、?」

きみがそんなだから、僕は興味を持ってしまった。怠惰のくせに、この小さな箱庭から出たいと思ってしまった。きみが出したくないと駄々をこねているこの箱庭から。ここは悪くない。ここはすこぶる心地がいい。狭くて暗い、毛布は暖かいしご飯も食べられる。何も困らない、ずっと堕落していられる場所。それでも、

「ごめんね」

仕方ないじゃないか、気になってしまったのだから。
自分の身に感じている悪い予感の全てをその一言で流してしまう。弱っても仕方ないよ、気になってしまったのだから。死んでも仕方ないよ、気になってしまったのだから。もうこれで綺麗さっぱり、俺を止めるものは何もなかった。

「じゃあね」

目の前で泣きそうになっている彼も、それにはなり得なかった。もう何年そばにいたことだろう。両手両足の指では足りないことくらいしか、もうわからない。だがそれでも足りなかった。それは怠惰故か、それともその怠惰の領域を越えてしまった好奇心かは知らない。決して少なくない恩を抱いた彼に残していけるのは、よく眠れるようにと涙を拭った指先だけ。
重いはずの、重いと思っていた扉は思いの外たやすく開いて、外の空気が隙間から室内に流れ込む。その風は冷たかった、ぬるま湯につかりきった頭の中に流れ込んで、指の先からその感覚を鋭敏にした。薄紫色をした靄が体に巻き付いたが大した枷にもならない。ごちゃごちゃとそこら辺に転がる髑髏や朽ちたガラクタも、邪魔だとは思うが障害ではない。何も問題はない。
目指すのならば上だ。上へ上へ。
地上界へ続く大きな大きな螺旋階段は、大きく口を広げて灯室を迎えた。一番下の段は黒い、ひょっこりと上をのぞくとその色は輝かしい白になる。一段上る度に息が上がるような気がした。体がずっしりと重くなって、べしゃりとつぶれるような予感がした。でも歩みは止めないまま、上へ上へ。
必要かどうかもわからない酸素が薄い。苦しい。帰りたい。残してきたあの人の笑顔がちらちらと頭を掠めていく。今ならまだ間に合う、帰ったっていい。バレやしない、バレたってきっと少しは怒られるだろうけど許してくれる。でも、それはどうしてもしたくはなかった。
それがなぜかなんて、どうしてかなんてわからないけれど。

ピシッ

白が黒に戻った瞬間は、ガラスの割れる音がする。
上って上って上った後は、落ちると相場が決まっている。頭に風を感じ、恐怖感からかとっさに人型に擬態した。オレンジ色の髪の毛が下から吹いてくる風に従って上へ流れる。上から見えたのは地面を埋め尽くす光の点滅。チカチカとそれは目に痛く、だが目を離したくないくらいに綺麗だった。そんなことを思っている間にもだんだんとそのは近づいてきて、正確には僕から近づいていっていて、このままだと悪魔といえど潰れてぺしゃんこだ。それは大変だ、ゆゆしき事態だ。どうにかしなければ、そう考える頭はどこかのんきだった。
弱いとは言っても、下級の下級といえど、一応は悪魔だ。人以上のスペックくらい持っていなくては困る。使い方さえ見誤らなければ何とかなるだろう。
とりあえず視界の中にある一等高い木を見つけ、そこにつっこもうともがく。あまり使いたくはないが、手から炎を出してロケット代わりにした。魔力消費のせいだろう、くらりとして頭がおぼつかなくなる。いけない、でもこれでいい。木につっこめば後は楽だ。枝をひっつかみ勢いを殺す、頃合いを見て離してはまた新しい枝。間隔が恐ろしく短い、手先の運動の繰り返し。最後の一本をつかんだ頃には速度は粗方落ちていた。ここまできたらもういい。手を離し、着地することもなくべしゃりと地面に落ちる。
地面は砂利だった、しかも形が丸い石で整っている。自然の土地ではない、そこは明らかに人の手が加わっていた。となれば、夜といえど人が来る可能性がある。ここにいては危険だろう。むくりと起き上がると石たちが擦れあってジャリジャリと音をたてた。さながら大合唱だ。うるさいうるさい、人が来てしまうじゃないか。

「だれかいるのかい?」

ほおら、やっぱりこうなった。
どうやらここは邸宅の庭のようだ。目の前の建物からはぽつぽつと光が見える。よく観察すれば今いるのは外れの外れ。目の前にあるお屋敷の離れ部屋の中から、その声は小さく聞こえてきた。まだ中から出てくる気配はない、だが少し厄介な状況になってきた。
悪魔というのは普通の人間には見えないものだ、たてる音すら聞こえない。ただそこに影のように存在し、頭の中に直接語りかけて惑わす。だが、その手法はあくまで普通の人間に対しての者であり、全ての人間に通用するものではない。霊力の高い人間、教会に仕えている清いもの、それらには程度の違いはあれど、悪魔の姿が見える。それらを惑わす手段というのも一応あるのだが、余程自信のあるものしか手は出さない。きっと上級の者でも稀だ。見えていることに気づいて逃げ出すものが大半だ。ばれたらあれやこれやと厄介なことに巻き込まれそうであったし、とにかくその対処が面倒なのだ。まぁ、これは全部受け売りの知識なのだが。
さぁて、とにかく人間界へはたどり着いたのだ。次はどこへ行こうか。
もぞもぞ、ばたばた、じゃりじゃり。
砂利に足を取られながら何とか立ち上がる。声が聞こえてきたのは襖の奥。それさえ開かなければ怖いことなんて何もない。
寒い所は嫌だ、暖かい所へ行こう。湯に浸かったような生温い空気を含んだところへ行こう。
そう思いながら、出来るだけ音を減らした状態で歩き出す。

「貴方は誰」

もう一度声が聞こえた。その言葉尻に問いかけるような雰囲気はない。命令されている、自然とその事実を飲み込んだ。

「誰」

声がさらに言葉を重ねた。
時間が止まったように動けない。思考すらピタリと止まる。何を考えてもまとまらずに霧散する。

「灯室」

開いた口が紡いだのは自分の名前。言う気なんて全くなかった。逃げることだけを直前まで考えていた。それなのに、

「そう。おいでや、灯室」

じゃりっ。
足がゆったり動く。引きずられているのか歩いているのか、その中間といった動き。音を殺す余裕すらなくて、大合唱が再び巻き起こる。
おかしい、こんなはずではないはずなのに。
じゃりじゃり、じゃりじゃり。
煩い砂利の音。土足のまま木で出てきた縁側に上がり、その襖の前でへたり込む。
だらりと床に落ちた手足がどこか面白い。自分のものではないようだ。

「あまり、強いものではないようだね」

襖が開いた。その奥で微笑んだそれに頭を下げて、俺の意識は沈んだ。

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