優しい悪魔2

外に出たい、なんて、遠い願いだとは知っていたけれど。自分の身の程は、先ほど言ったように十分わかっていたけれど。
そういえば、気付いたことが一つだけある。
身体が弱いと言う事は分かっていた。少し運動するだけで息が上がったし、すぐ視界がちかちかしたりする。だが事態はもっと露骨に最期を伝えにやってきた。何かといえば、背中を擦ってもらうことが増えたのだ。
朝になって日が差して、僕の苦手な時間になってくると最近決まってそうされる。そうされなければいけない状況になる。こほこほと咳が止まらなくて、時々汚い音になったなと他人事みたいに思ったら血と混じった魔力が口から溢れてくる。鉄の味と、よくわからない苦い様な甘い様な酸っぱい様な、様々が混じり合った味が舌の上を蹂躙する。俺の意志に関係なく体の底の方からあふれ出したそれはじりじりと喉の道も焼いてきて、なんとか飲み下そうとしていた俺の意志を真っ二つに折った。げぇげぇと吐いてしまったそれは全部僕と彼の間に流れて、どっちの服も盛大に汚した。普通の人間なら胃液の黄色っぽい汚れが目につくところだろうが、今目の前にある汚れはほんの少しの赤と、それ以外は無色でキラキラと輝いているだけだった。綺麗なものだった。

「大丈夫か?」

時任が聞いてくる。出来ればまだじっとしていたかったけど、その問いかけに頷いてずるりと這って元々いた寝台に戻ったる。服を着替える気にはなれない。横になってしまった今、指の一本を動かすことすら辛く感じる。

「また狩りに行ってくる。テフルを置いていくから、大人しくな」

硬い掌が額を撫でていった。目を細めながらそれを受けて、彼の背中をじっと見送る。近くで見ていれば広い背中だが、遠くから見ると、その背中はどこか小さく感じる。どこか寂しそうな、しょぼくれたような感じ。
もういいじゃないか、どうせ無駄だよ。行かなくてもいいよ。
錯覚かもしれないけれど、そう言いたくさせるような背中。
だらんとベットからはみ出した手が、ゆっくり持ち上がった。届くはずのない背中を掴もうとする。

「灯室様、手が冷えますよ」

その持ち上げた手を掴まれて、布団の中に戻されて、その上からポンポンと軽く叩かれる。
別に驚くようなことではない、置いていくから、と言われていたし、彼がいない時は大抵これが部屋の中をうろうろとしていたし。

「てふる?」

「はい、灯室様」

天井に向けていた首を横に向けると、またそこには人型だけれども人ではないものがいる。これは僕がここにいる前からここにいた。時任が飼っているものだ、使役しているものだ。他人なら彼を「使い魔」というのだろう。彼のお仕事は俺の身の回りの世話をする事。優しい彼の優しい持ち物だ。

「主はすぐ帰ってきますから、どうかお眠りください」

ポンポン、今度は胸のあたりを叩かれる。寝かしつけようとする仕草だ。テフルのするこの仕草が、僕は気持ちよくて少し好きだ。完全に眠るところまではいけないけれど、微睡の中くらいにはたどり着ける。それに浸ってるときは気分がよかった。咳を起こした後でもそれは変わらず。でもさっき見た背中が微睡に行くことを許してくれなくて、仕方なしに口を開いた。

「時任は、すぐ人の世界に行くね」

「他ならぬ貴方様のためですからね」

「でも行きたくないんでしょう」

「あまり、主は人間を好みませんから」

「じゃあ、行かなくてもいいじゃない」

僕は行ってくれなんて言ってないよ。
そう言うとテフルは困った顔をして、俺の顔を覗き込んだ。顔と言っても彼の顔は上の半分ほどが骨をのぞかせていて、表情なんて口元からでしか読めないのだけれど。

「そもそも、人間ってものがよくわからない。テフルは見たことがある?」

「お休みください、主が心配なさいます。それに、私も叱られてしまうのですよ」

彼はどうしても僕を寝かせたいようだった。普段の俺やテフルへの対応からして叱られる、というのは嘘だろうが、もし本当に叱られてしまったらと思うと申し訳ない。
もぞもぞと布団を上の方まで引き上げて、僕は目を閉じる。

「寝物語に、少しだけ昔話をいたしましょう。主には内緒ですよ」

こんもり出来ているだろう布団の山の頂上辺りを撫でながら、テフルは少し安心したような声色で言った。ゆっくり、内容をしっかり吟味する間を持ってから、テフルは話を始めた。それは人間の子供が聞くありふれたものらしい。お姫様が出てきたり、鬼がいたり、自分たちのような悪魔がいたり様々で、結局眠るどころではなく聞き入ってしまう。狸根入りで一応隠そうとはしていたけども、きっと彼には見抜かれていることだろう。話が止まないのがその証拠だ。

「きっと貴方様は、人間に触れることはないでしょう。でも悪く思わないでください。主も、決して悪意からこうしているわけではないのです」

そうしてテフルは話を切った。
ベッドから離れ、どこかに行ったと思うと扉を開ける音がする。時任が帰ってきたのだ。小さく声がする。

「灯室は?」

「眠っておられます。少し、淋しがっているご様子でした」

「…………そりゃあ、仕方ないことだ」

声から表情が簡単にわかる。眉間に皺、食いしばった歯、苦々しい顔だ。それを目の当たりにしてもなお、テフルはまだ言葉を続ける。

「あと、自暴自棄にもなられているようで」

「あ?」

「『僕は行ってくれなんて頼んでいない』と」

心臓が跳ねたような心地がした。それは悪事のばれてしまった子供のように、叱られたらどうしよう、怒られたくない、と無駄に不安があおられている。別に怒られようがどうといったこともないというのに、最近どうも不安定だ。ぐらぐらとする。ただそれでもじっとして、彼らの会話を聞いていた。

「放っておけ。あいつは何も知らないし何もできない。どう思おうがここにいるしか生きる道はないんだからな」

俺がそうした。
どこか恍惚とした、蕩けたような声だった。丹精を込めて作った、やっと完成した美術品を余すところなく眺めている、そんな時に漏れ出る感嘆。その声に酷似していた。

「壊れないための道なんてこれしかないんだ」

こちらに近づいてくる足音、それを聞きたくなくて、僕はぎゅっと目を閉じた。


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