プロローグ

綺麗なビー玉がそこにはあった。
それ以外ここには、この空間には何もない。
空、土、果ての見えない三百六十度、そのすべてが真っ白だ。
その中でそれらだけが、存在を認めるように色を残していた。
それらはぽつりと、何でもないかのように無造作に置かれている。
それらは何でもないというには過ぎたものを持っていた。
それはとても甘いビー玉だった。
飴玉というにはそれは綺麗すぎて、ビー玉というにはそれは甘美すぎた。
それは遠くからでも目立つようにキラキラと輝いて、女が魅了するかのように甘い自身の香りをふわりと風に乗せる。
玉のようにケースに入れて飾ればいつかは腐りおち、飴のように口に含んで飲み込めばいつまでも胃に残りつづけるだろう。
どちらにもなれる完全品、そして、どちらにもなれない欠陥品。
老若男女、誰もが隠しもせずに見苦しくそれを欲しがった。
美徳を簡単に捨て、代わりに悪徳を力いっぱい抱きしめ、欲望のささやきに素直に耳を傾け従った。
従うだけはさぞかし楽なことだろう。
押し合いへし合い、いくつもの手がビー玉たちに伸びてくる。
細い、太い、黒い、白い、汚い、綺麗、小さい、大きい、完全な、不完全な、様々な、手。
それはまるで一体の大きな生物のようだった。
指と指が絡み合い、互いの手の甲に爪を立て、立てられた爪を剥ぎ、赤に塗りつぶし塗りつぶされる。
壮絶な光景。
そこで起きるのは小さな、だが規模の大きい戦争だ。いくつもの勢力が利益を求めて自分以外の全てを潰す。ただの争いに苛烈さと残虐さが加わった。これは既に戦争に代わってしまった。
賞品はビー玉。小さくてきれいで甘くてもろい、七つのビー玉。幼い子供がただ見て楽しむような。橙、琥珀、若紫、深紅、撫子、露草、若葉。それぞれの色をした、儚げな球体。
そう、儚い。
戦争とは大きさ、目的に関係なく無機質なものだ。冷たく非情なもの、そうあるべきものだ。
指がビー玉に触れ、摘み、力を籠め、その形を変えようとする。ピシピシと高い音を立ててあげられた悲鳴に耳を貸すこともなく、野蛮なそれは継続した。気にはしない、気にしてはならない。それが戦争なのだから。罅の隙間から流れ出した黒が自身の身を濡らそうと、彼らの知ったことではないのだ。彼らは「勝った」「それらを手に入れた」その事実さえ受け止めることが出来るならそれでいい。
それを受け止めたものだけがこの戦争の英雄になれる。なってしまえばこちらのもの。手に入れた後など、どうせガラクタ同然に捨てられてしまうだけなのだ。
それらの価値が、彼らにわかるわけもない。

「そんなのダメだな、全然ダメ」

幼い声がした。
どこからか聞こえてきたその声は澄み切って、醜く汚れた彼らの皮膚にじんわりと響いた。
あれほど激しかった戦争がピタリと止んで、絡み合っていた手が割れるように解かれていく。
顔をのぞかせた先と袂。
割れた先には七つのビー玉。いくつかには罅が入り、とろとろと液体が漏れだしている。
割れた袂には一人の少年。微笑みを張り付けたその顔は愛くるしく、二十歳はおろか十五にも満たないように見える。
小さな彼はその小さな体に見合った歩幅で、ゆっくりと無邪気さを感じさせる足取りで、ビー玉に近づいた。
距離は近い、ゆったり八歩。一歩ごとに少年の桃色の唇が形を変える。

一歩。
「怠惰の蝋燭」
二歩。
「憤怒の時計」
三歩。
「色欲の器」
四歩。
「傲慢の茨」
五歩。
「強欲の冠」
六歩。
「嫉妬の鉢」
七歩。
「暴食の鳥籠」
八歩。
「ぜーんぶ、俺のものだ」

足元にころりと転がった七つ。
もう罅などと甘い言い方は出来ない。
ぱっくりと開いたその傷からはどろどろと、どこに収まっていたのだろう、おびただしい量の黒が漏れ出した。
床に広がったその色は水たまりを作り白の中に新しい唯一の染みを作る。まるでそれは、どこまでも底がない奈落のようにも見えてきた。
しかしその黒に浸かっていようと、ビー玉は色を失わなかった。汚れてはいたものの、まだ残った僅かな色で光を呑み、反射している。
それに満足した風な顔をして、少年はその両手いっぱいにビー玉をすくい上げた。優しく、まるで母が子を抱くようにそっと。
手が触れれば黒は容易く少年の手に移る。だが少年はそれを気にしたそぶりもない。手の中で再び輝いたそれらを喜んでいるようだ。
それらは新たに光を吸い込んで、少年の顔に自分たちの色をそれぞれ映した。鮮やかなその色とは反対に、少年の手はみるみるうちに黒くよどんで塗りつぶされていく。

「おかえり、俺の玩具たち」

少年には似合わない、本来ならば彼にかけられるべき、慈愛に満ちた声だった。
その視線にも感情は乗せられ、広げられた自らの掌に向けられている。
その掌は、彼には狭くそれらには広い玩具箱。
彼は汚れてもなおそれらを離さずに弄び続ける。それがそれらの価値なのだ。あるべき意味なのだ。
それらは逃げたがった、その狭い箱庭の中から。
それが意識的であれ、無意識であれ、それらがそう望んだ。そして、帰ってきてしまった。
胸にぽっかりと開いた傷に口づけをされて、それらの色は黒に沈む。
彼はずっと見ていた。それらが頭の先から足の先までとぷりと音を立てて沈むまで、ずっと見ていた。

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