女にされる

「それじゃあよろしくね!」
疲れた顔に無理矢理笑顔を浮かべ、同僚はそう言い残した。前と比べてまた細くなったように思うその背を見送ってから、もうどれくらいの時間が過ぎていっただろう。傍らのテーブルに置かれたグラスの氷は、一回りほど小さくなっただろうか。ちら、と周りに視線を巡らせても、時を教えてくれるようなものはこの場に存在しない。涼やかな音を立てて崩れるそれだけが頼りだった。
カラリ
また一つ、音を立てた。こんな所では、氷が溶けるのだって随分と早い。
上から注がれるスポットライト、他の人間よりも高く掲げられた壇の上、周囲に群がる人混みの多さ。勿論運転しているのだろうエアコンでは御しきれないほどに、この空間の温度は上がりきっていた。服の中でじんわりと汗をかき始めた。べたべたと貼り付いて気持ちが悪い。
日常とはかけ離れたこんな場所に身を置いて、思うことはたった一つだ。
『どうしてこんなことになったのか』
その理由を客観的な事実として思い返すのは実に簡単だ。記憶力にはちょっとした自信がある。
ここは同僚、リャーガンの経営しているクラブのうちの一軒だ、それも上納金の多さがトップレベル店である。リャーガンがそれはもうにこやかに金勘定をしているのを何度か見たことがあり、ついでに店名を見たので覚えている。そこに今日は取り立て人として来るはずだった。上納金がトップ、というのは客が多いと言うだけではなく、客単価が高い、ということである。単価が高ければ、サービスに溺れ、料金を抱えきれず破産する、という人間も多い。借金する人間も後を絶たず、このクラブで仕事を行うのも一度や二度のことではなかった。客に対して会員証を一々確認するガードマンも、俺のことはすっかり顔パスで通してくれるようにもなった。嬉しいような嬉しくないような。サービスがよければ料金も高い、ここでの仕事は金になる。今日もすっかり仕事をする気満々でいったのだが、それは同僚の直角に近いお辞儀で削がれることになる。
「今日だけホストしてください」
ホスト、つまり接客をしろと言うことだろうか。面白い冗談である。答えは勿論ノーだ。
吸いかけの煙草を携帯灰皿に収め、本来ならばここで席を立ち店を出るところだが、まぁいい、と理由だけでも聞いてやる。俺の同僚でこの業界でまだ息をしているやつは珍しい。ちょっとした情けくらいは掛けてやろうじゃないか。やつが涙ながらに語った理由はこうだ。なんでも、一番人気のホストが食中毒で急遽休み、しかも今日はコネクションのある政財界のお偉いさんがやってくる日、最上級のもてなしが求められている。いつもだったらその穴はリャーガン自身が埋めるのだが、今日はその接待のせいで手一杯で埋めることが出来ない。ステージに穴が開くなどと見苦しいことこの上ない。いかがしたものだろうか、と言うところでそこにやってきてしまった俺。
……なるほど、やはり答えはノーだ。
情けを掛けようとした俺が馬鹿だったようだ。回れ右をして即座に帰ろうとする。別に俺の仕事は一日サボ……もとい、休んだからといってどうとなることではない。態度さえ大目に見てもらえるならば穴を埋めることくらいは分けないだろう。だがしかし、一応こんな性格がクソな俺だけれども恋人がいるわけで、それを裏切るわけにも行かないわけで。ほぼ同期入りで世話になったし世話したやつの頼みでもこれは無理だ。俺がその恋人にゲロ甘なことはこいつも知ってのことだろうし、諦めてもらうほかないだろう。
「諦めろ、俺はやらん」
「座ってるだけ!座ってるだけでいいから!」
「童貞男の『先っぽだけだから!』と同じ雰囲気がするぞ。却下だな」
「お礼するから!給料も別で払うし!」
「俺の満足いく礼がお前に出来るとは思えん」
「賞賛なく挑むほど、無謀な男に見える?」
ぎらり、とリャーガンの目つきが変わる。いかん、と思ったが、引くべきタイミングはもうとうの昔に過ぎ去ってしまっていた。
無謀??いやいや、すぎるほどに慎重な男だよお前は。
「小鳥遊さんと温泉行きたい、って言ってたよね?知ってるよ?お休み二人揃って二日、取れないんだよね?口利きしてあげてもいいよ」
思わず顔を覆いたい気分だった。やられた、と胸の中で憎々しげに呟く。
小鳥遊、というのが先ほど出した俺の恋人にあたるのだが、薬の元締め、というなんとも大きく膨らんだ仕事をしているせいでべらぼうに忙しい。一日休むだけで次の日の仕事は山になる。小鳥遊じゃないと上へ通せない仕事が多すぎるのだ。休めば休むほど損失も出る。上に休みを、と申請しても渋い顔をして先延ばしにされることが多かった。腹立たしい。
小鳥遊自身が元々仕事人間であり、外出も好まない人間であるが故に今まで特に困ることはなかったのだが、今回は事情が違う。
『今度、たまには温泉行く?』
まさかの、お誘い。言われた瞬間に驚き、浮かれ、ついつい何も考えずに承諾してしまったが、目の前にある障害はすぎるほどに大きかった。一日だけでも骨が折れる休暇申請を続けて二日だと。断られるのは火を見るより明らかだ。しかしこいつは簡単にその申請を通すという。
「出る損失はこっちで補填してあげる。事務処理用の人員も貸し出すよ。頭の機嫌も……まぁ頑張って取る。君が協力してくれるならね」
どうする?
どうするも何も俺にとるべき選択肢は一つしかない。
にこにこと笑うリャーガンの顔に拳をぶち込みたくなるのを必死にこらえながら、俺は首を縦に振った。
どう見ても脅迫だろ、これ。出るところ出たら勝てるんじゃないだろうか。
そんな一連の流れを経て今いる舞台へと上がった訳だが、リャーガンが当初言っていた通り、座っているだけの楽な仕事であった。
会員制、というのだけあって客は皆身なりのいい、かつしっかりと俺たちの常識を理解した人間だけのようだ。視線にもじっとりとした嫌な感じはない。「鑑賞」であると、しっかり割り切られているふうに思う。経験上、視線に敏感である自負はある。リャーガンと変な雰囲気を感じたら即帰る、という取り決めを交わしたが、帰れなくて残念だ。
壇上に設置されているのはテーブルとソファ。このソファの上だけが俺に許されている場所なのだが、これもまた上質で座り心地がいい。ふかふかで、肌触り抜群。新品で同じものがあったら即座に買いに走りたいくらいだ。
二度目になるが、随分と楽な仕事だ。
恋人が出来る前だったら、むしろ進んでここに上がったかもしれない。ある一点を除けば、という条件付きだが。
【時間になりました。ホストはこれより、お色直しに入ります】
アナウンスが流れ、一度壇上から降りてスタッフルームへ戻る。俺だけじゃない、同じように衣装を着せられた様々な観点において「美しい」とされるのだろう男どもが共にぞろぞろと奥へ引っ込んでいく。椅子に座り込んだり、酒を含んでみたり、煙草を吹かしてみたり、スマホを確認していたり、やってることはバラバラだ。かくいう俺はと言えば何をするわけでもなくただ壁にもたれて息を殺している。
この異様な光景にどうも慣れる気がしない。このスタッフルームには大きな鏡が設置されているのだが、それに自分が映り込む度にため息が止められなかった。
黒いネクタイに、自分ならば確実に選ばないだろう暗赤色のシャツ、細身の黒のスラックス。それだけならば自分もここまで抵抗を持たずに不特定多数の視線にも耐えてみせただろう。しかしそれだけで済んでいたらきっとこのクラブはとっくの昔に潰れている。自分の腰を掌でなぞる。いつもならば寸胴、真下にすとんと落ちるだけの掌は、緩く内側に弧を描いていた。掌が見るよりも確かに事実を伝えてくる。要するに、くびれ、が出来ているのだ。女性であれば喜ぶことなのだろうが……
「全くもって嬉しくない……」
コルセット、と呼ばれるその装身具がこのクラブの売りであった。
固く直線で構成された男の身体を矯正し、丸く女性のようなしなやかさを持たせる。大の男に、女を埋め込む。
なんとも、変態紳士が好みそうなコンセプトである。そして面白いほど狙い通り、このクラブはその変態紳士で溢れかえっていた。
休憩時間が空け、持ち場に戻ると俺のブースの周りには更に人が増えごみごみとしていた。一層上がる体感温度に眉根を寄せ、唯一用意された道を通って再び上がりたくもないステージへと上がる。
カツ、と一歩階段を上る度に細いヒールが音を立てる。膝まで伸びるブーツタイプの靴は、大分動きにくく、また慣れているはずもない。ソファに戻る頃には休憩を取ったばかりだというのに疲れ果てていた。
一通りぐるりと観衆を見回すと、やはり先ほどの印象通り人が増えているようだった。ステージ周辺だけでなく、遠くで立ち尽くすようにこちらを見る者もちらほらと見えるし、スタッフやボディーガード、黒服と呼ばれる店側の人間も増えた。皆暇人か。もっとマシなものを見ろ、そう言ってしまいたい。ぎらぎらとした視線に最早痛みすら感じてしまいそうだ。休憩前とは大違い。
だがしかし色直しが終わればもう後半戦。またぼーっと座っていればいいだけなのだから気にすることはない。
ちょっとした精神的なダメージで休みがもぎ取れるならまぁ、安いものだろう。
深呼吸するように息を吸い、凝り固まった首をほぐす。
「失礼します」
気合いを入れよう、と思った矢先、思わず身体から力が抜ける。ステージに上がる階段のすぐ下で、黒服の男が一人頭を下げた。その手にはお盆、その上にはカクテルグラスが一つ。
ああ、と俺はこの店のシステムについて思い返した。
原則、客がホストに触れることはない。壇上で好きなようにくつろぐホストを見ながら、酒やつまみをついばむだけの店。しかし、金を積めばある程度のサービスを受けることも可能であるらしい。サービスというのも、酒を飲んだり、ソファに座って談笑することが出来たり、そのまま奥に連れ立ってしけ込むことができなり……まぁ、色々だ。金を積めば積むほど、制約は緩く緩くなっていく。
それは至極当然のことだ。
しかし俺は正規のホストではない、ある意味ではゲストだ。そう簡単に買われてしまっては俺が困る、俺に殴られるであろうリャーガンも困る。そのため、俺を買うための金額はこの店の最高額に0を1つ足した額が設定されているのだが……まさか買われたのだろうか。
壇上にやってきた黒服がどう見ても苦笑と言うしかない表情を浮かべている。どうやら俺はとことんまで険しい表情をしてしまっているらしい。罪を憎んで人は憎まず。買ったやつに罪はあれど、こいつに罪はない。ちょいちょい、と指先で呼び寄せると、黒服は口を開いた。
「『共にお酒を』とのことです。このあと、別のキャストを連れ立って壇上に来ますのであとはご随意に」
ご随意にってなんだ、どうしろってんだ。
身を引く黒服。
ポーカーフェイスの奥で若干の冷や汗をかきながら、頭の中はひたすらにてんやわんや回り続ける。
よりにもよってまさかの酒。禁酒中だぞ、こっちは。座ってるだけでいい、大丈夫、っつーから乗ったんだぞ責任者出せ。いやでも高々一杯、一杯だけならなんとか。帰るまでに間を開ければアルコールも抜ける……か?そもそも今日あいつ何時に家帰るっけ……昼?泊まりコースか?バレない?セーフか?そもそもリャーガンが言い出したことだし、あいつこれくらい計算してるんじゃ?畜生俺の稼ぎ全部振り込ませるからな!
考えているうちにまた新たな人影が壇上に現れる。視線だけ寄越すと、それはそれは、見た目だけは完璧な「紳士」であった。
グレーのスーツがよく似合う細身の身体。これだけ暑い店内に関わらず、汗をかいている様子は見受けられない。きっちりと整えられた頭髪。鋭い目つきと銀縁の眼鏡が潔癖なようで逆に色っぽい。
「変態なのが残念だな」
薬漬けにして売ったら経歴込みで言い値がつきそうだ。仕事柄こういった思考回路しか持てない俺も大分残念なんだろうがそれにはあえて触れないことにする。
男の手には俺が持っているのと同じカクテルグラスが鎮座していて、それがさらに残念さを増している。
この一杯のために七桁、残念にもほどがあるだろう。
本来ならばこのソファに二人で座り、酒を飲み交わすのが正しいスタイルだ。しかし俺がソファーに横向きに陣取ってしまっているため、男の座る場所がこの壇上にはない。どうする気なのだろう、そう思っていると、男は躊躇うことなく地べたに跪いた。
「は?」
思わず声が出る、男は何も言わない。言葉を交わす権利までは付属しなかったのだろうか。あまりの設定にこの変態がいっそ可哀想になってくる。俺はどこまで高飛車に振る舞えばいいのだろうか。
もう一度目線だけを会場中に配らせると、先ほどまでぽっかり穴が開いていたところにリャーガンの姿を見つけた。接待は終わったのだろうか。壁に寄りかかり、こちらの視線に気づいたのだろう、ひらひらと手を振っている。
覚えてやがれよ、この野郎。
目線に恨み辛みを込めてやると、やつの顔が意地悪くにんまりと笑っていた。風俗営業の元締めをやっているだけあって、その笑顔はどこか色っぽくていやらしい。
『随分大人しくしてるじゃないか』
笑顔に。そう言われているような気がした。借りてきた猫のようだ、と言う言葉が頭をよぎっていく。この状況のどこに、君が大人しくしている理由があるのかな、と。
なるほど。もらった酒を一口含む。
甘ったるい味がして、少しずつ飲み込む度に喉元が熱くこみ上げてくるような感じがする。久しく味わっていなかった感覚、もうこれから先味わうことはないだろうと思っていたもの。こんな形で破ることになろうとは全く思っていなかった。
「不味い」
さぁ、好き勝手にしよう。水遊びをしよう。小さい頃にやったことはあるだろう。水の掛け合いだ。水道水、泥水、海水、それが今回はお酒になってしまっただけ。
男の灰色のジャケットが色を濃くする。空になってしまったグラスをサイドテーブルに置き、ぽかんとしている男を突き飛ばしながら小さく言った。
「御馳走様」
その瞬間に、ぶわりと周囲の熱が上がるのを感じた。沸いている、空気も、こいつらの頭も、何もかもが。足の先から頭までじんわりと茹だっていく。
遠くで楽しそうに笑っているリャーガンが心底憎い。上手く乗せられてしまっている。もうあいつの頼みは二度と聞かない。
吹っ切れてしまってからはもう包み隠すことを忘れてしまっていた。
周りの男たちを汚いものを見るような、気持ち悪いものを見るような目で見る。
苛立ちを顕わにし、ヒールを床に打ち付けながら音を鳴らす。
ため息の数はもう数えても無駄であるし、眉間のしわは取れないだろう。
態度が悪いにもほどがある、しかしそれでも、先ほどの男を皮切りに俺を買おうとする男たちは後を絶たなかった。世も末だ。一人を処理しているうちに、二人、三人と次が溜まっていく。一人やったら次をやらないわけにはいかない。たかが一口、といっても、数を重ねればそれなりに酔いというものは回ってくるものだ。身体はぽかぽかと温まり、最初は緩めるだけに留まっていたネクタイも今ではなくなってしまった。
何人も何人もぶっかけまくった結果として、酒はステージの上に水たまりを作り、そこからふわりと漂うアルコールの香りも又たまらない。どんどん強くなっていく錯覚する感じる。
ヒールを脱ぎ、素足で水たまりに触れても、ライトの熱ですっかりぬるい。
とにかく熱い、それしかもう考えられなくなってきた。頭が馬鹿になっている。
しかし、大分時間も経ってきた頃合いだろう。埋まるべき穴が埋まったなら俺の仕事はもう終わりだ。このステージを降り、ふざけた衣装を脱ぎ、酔いを覚ましてから家に帰ればいい。家に帰ったらシャワーを浴びて、何事もなかったように恋人を迎えればいい。
あとはそれだけ。任務完了だ。
もう少しで終わる、それだけを支えに酔いでふらつく身体を叱咤する。
黒服がまた新しいグラスを持ってやってきた。
大丈夫ですか?と声を掛けられたが、まともな返事を返してやれたかがわからない。とにかく大丈夫だ、と手をひらひらとただ振った。
「時間が時間ですので最後の方になります。頑張ってください」
何を頑張るんだ。
熱いを通り越して段々目蓋が重くなってくる。このままだと酔いを覚ますのではなく、ここの仮眠室を借りて一眠りすることになりそうだ。ああでも、ここで眠るくらいなら近くのビジネスホテルにでも止まった方が貞操的な意味では安全かも……とにかく眠い。
早く済ませよう。
受け取ったグラスに口を付ける。
同じ酒の味、頭にかかる霞の味。これで最後だと思うとほんの少しだけ旨く感じる。
最初は少し苦しかったコルセットも今ではすっかり馴染んでしまった。そういえばこのくびれってちゃんと脱いだら元に戻ってくれるんだろうか。怪しまれたりしないだろうか。
バレたら、どうなるんだろうか。
「時任くん」
聞き慣れた声がする。
「お酒、飲まないって言ったのに」
ああ、こんな感じで怒られるんだろうか。なるほど、それっぽい。
「こんなえっちな格好しちゃって」
するりとくびれのラインをなぞられる。触られるなんて思っていなくて、ちょっと変な声が出た。恥ずかしい。
「お仕置きしなくちゃね」
視界いっぱいが黒で埋まってしまう。
よしよし、って頭を撫でられて、ふわふわとした頭がさらに浮いてしまいそうになる。
あれ、と、頭の中が疑問符で一杯になって、唇が勝手に名前を呼ぶ。
「たかなし?」
「なぁに、時任くん」
「ほんもの?」
「偽物の僕がいるの?」
「いつから?」
「さて、いつからだと思う?」
お色直しのあとから楽しそうだったよね。
つまりは、その前から見ていた、と。
ずっと見られていた、と。
「はずかしい……しにたい……」
観衆はもう見えない、歓声も聞こえない。
バレてしまった、怒られる。そう思ってサーッと引いていく血の気。
怖いと思うと同時に「お仕置き」という一言に熱くなる吐息。
ぐちゃぐちゃに溶けていきそうな頭の中で、誤魔化しにもならないけれど、甘えるように頬を肩口にすりつけた。
「いいよ、いくらでも。僕の上だったらね」
じゃあころしてくれよ、なんて、

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