そうして私は

「エマ」
私の口からその二つの音が並んでこぼれ落ちると、彼女はふわりと微笑みを浮かべながら振り返った。
白いワンピース、白い靴、白い肌、白い髪。
全てが清く整えられたその姿を目に焼き付けながら、私はそっと彼女に手を伸ばした。
短く切りそろえられた髪がふわふわと揺れている。雲というより綿飴と言い表したくなるそれに手を差し込みながら、もう一度その名前を呼んだ。エマ。エ、マ。たった二文字の名前がどうしてこんなにも癖になるのだろう。それが私にはどうしてもわからなかった。私の手をするりと交わして懐に入り込んだ彼女は、私の胸板へ楽しそうに顔をすりつけた。彼女の持つもののように柔らかくあるわけでもないのに、彼女からは鼻歌が聞こえてくる。満足げな吐息まで聞こえてくる。その様子はまるで子供のようで、私は思わずその背に手を回してゆっくりと撫でた。
時間が穏やかに流れていくのを感じている。
こんな気分になるのもどれくらいぶりであったか。いや、たった、ほんの少しの時間だったろうか?まぁいい、それもどうでもよいことだ。
彼女といるというのに、彼女のこと以外を考えることなど、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
「エプロンはどうしたの?」
彼女が一言私に問いかけた。一瞬私の思考が止まり、それからコマ送りするように動き出す。
エプロン、毎日付けていた、仕事用の。
思考の断片が一つに集結する。
自分の姿を改めて見てみれば、そこには確かに見慣れたオレンジ色の布地はなかった。
黒のセーター、細身でグレーのスーツ。胸元の薔薇だけが色鮮やかで、私の世界をモノクロから掬い上げている。
まじまじと見てから、一つ。
何故、自分はこのような格好をしている?
ぼとりと落ちて産声を上げたこの疑問は、彼女の新たな言葉によって黙殺された。
「なんだか、鉄の匂いがするわ」
腕の中から彼女の姿が消える。視線で追えば、手の長さと、あとほんの少しの隙間。ぎりぎり届かないようなもどかしい距離を持って、彼女はじっとこちらを見据えている。
こっちへ、と、そう呼びかけようと口を開きかけたその時。
「手が、随分汚れているのね」
どろり。
その瞬間に掌に嫌な感触がする。
濡れて、重い。乾いて、軋む。
まとわりついて離れない液体。
なんてことだ。見せることは勿論のこと、その名称を口に出すことすら、彼女の前ではしたくなかったというのに。
「その手で私に触れるというのね」
彼女は眉根を寄せてそう言った。
涙すら流たしてしまいそうな表情で、よりにもよって私の一番見たくない表情でそう言った。
そして私を、私が最も聞きたくない類いの言葉を、その唇で、その声で。
彼女に向けた手をだらりと下げて、私はじっと、彼女の視線に応えていた。そして、その手が持つものを視界に入れたとき、自分の目が僅かに見開くのを感じた。
「その手で、この子に触れるというのね」
そこにいたのは、小さな赤ん坊であった。
すやすやと静かに眠っている、眼の開く様子もない、まだ頭髪すら生えそろわない、動くことすらままならないだろう。そんな、生まれて間もないような赤ん坊。
誰の子だと問うことはない。それは愚問というものだ、答えは分かりきっている。
きっとその柔らかな瞼が開かれたその先には緑色の瞳があり、その頭はやがてきらきらと輝く銀色の髪に覆われることだろう。
そうでなくては納得がいかない、そうでなければいけない、そうでなければ許せない。
そうでなければ、その子供に全く「価値はない」のだから。それどころではない、それは抹殺するべき汚点に変わってしまうのだから。
「ところで、あなたはどなたかしら?」
予期していなかった問いかけ。
それがこの耳に届いたその瞬間に、視界のほぼ半分が黒く塗りつぶされた。
何かが、目を覆っている。
思わず左目に手をかざせば、慣れ親しんだ柔らかい感触がそこには埋まっている。
それは、花だ。咲き誇る薔薇の花だ。
その花を中心として、植物としてのあり方を無視して張り巡らされた茨がこの顔を覆っている。
それが、彼女の中で私を私ではなくしているのだ。
「ごめんなさいね、そろそろこの子にミルクをあげる時間なの」
ワンピースの白い背中が見える。ふわりとわずかに浮き上がる裾、彼女が足を進めて行ってしまうサイン。
私から遠のいていく。彼女が、この、私から。
「ッ、エマ!!」
その様子を指を咥えてみていることなど出来るはずもなかった。
足を踏み出し、その小さな背中に駆け寄る。
元々が数メートルもない距離、三秒もその動作にはかからない。
たった今この瞬間にも、彼女の細い肩をつか、んで……

*  *  *

「スラ様!!」
呼ばれた自らの名前に弾かれたように目を開ける。
反射で動く手、途端に響く破砕音。
真横に目線をやれば身の丈ほどの大剣が深々と石畳に食い込んでいる。
ああ、命拾いをしたものだ。
防御の際に落とされなくなってしまった左手を茨で再構築しながら、頭上の影に視線を向ける。
「起きてしまったか、何故起きた。そのまま安らかに死に逝けばいいものを」
視線の先にあったものは白く巨大な甲冑。
その姿は、他の悪魔からしたらであるが、滅多に見られるものではない。
天と地の間、こちらとあちらの間、私と彼女の間。その狭間にある危うい平穏を守る者。私にとってはただ人の道を邪魔するのみしか出来ない愚か者。
門番、と、ここに住む者はやつのことを呼んだ。それをやつが否定することは無い。
ただやつは黙々と、天界へ通じるその門が許可なく開かないよう、ここで番をしていた。
「この向こうに何がある、お前の手の中に何がある。どちらも無よ、双方にとって役に立たぬ、故に存在すら認められぬガラクタよ」
「ああ、五月蠅い。お前の長ったらしい口上は聞き飽きたし意味もわからない」
生憎と私には全く学がない。
門番が地面から大剣を引き抜くのとほぼ同時、腕の力で跳ねるように起き上がる。
この甲冑と戦うときは常に身体が砕かれる。
記憶をたぐり寄せて思い出すのは、骨が数本折られ、内蔵のいくつかは潰され、肌の裂傷など数え切れなかったこと。しかし今見るこの身体は骨は治り、内蔵も八割回復、裂けた肌の上では血がすっかり固まっている。
どうやら、気絶してから相当の時間が経過しているらしい。
「コラン」
私を起こした……命の恩人とも言える私の使い魔は、眠る前の私よりももっと、最早ボロ雑巾と言って構わぬほどに傷だらけであった。あちこちに巻かれた拘束用のベルトは千切れて風に揺れ、むき出しになった骨もひびが入り、今も尚倒れて地面とキスをしている。
この門番相手に時間稼ぎでもしたのだろう。私ですらこの有様だというのに、なんという。
「思った以上に……阿呆だな、お前は」
「これでも貴方様の……従僕でございますから」
なるほど、そう言われてしまうと納得するしかない。
確認するようにパチン、と指を鳴らすと、そこには既に茨はなく、確かな肉と骨の感触があった。神経接続、反応速度良好、問題は何もない。悪魔という身体は、随分便利である。
「まだやるというのか、この不毛な戦いを。意味などない、価値などない、ただ消え失せるためだけの戦いを」
「無論。私がお前を殺すまで」
「どんな喜劇にも勝る言葉だ。そのようなこと、未来永劫、どこまで行こうがあり得はしない」
「それはいったい、どこの誰が決めたことだ?お前の承諾はいざ知らず、私の承諾も得ずに、誰が勝手にそう決めた?」
聞く義理はない。
笑いたければ笑うがいいさ、そう、勝手に。
これが私の生き方なのだ、傲慢と指差された、私のあり方なのだ。


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