死に帰った日

その少年は、待ってましたとばかりの満面の笑顔で手を叩いた。
椅子に座った足をゆらゆらとさせて、手を叩き、頬を紅潮させ、口角をあげ、そこまでは見た目の年齢に即した、サーカスを前にした子供そのままだった。愛らしく、庇護欲を掻き立てられる。
だが俺の遠い記憶はその印象のすべてを否定して、残った残骸をため息とともに吐き出させた。

「似合わないぜ、やめとけよ」

呆れが過ぎて、言えたのは漸くそれだけだった。
その一言を聞いた途端、少年はその愛らしい表情、仕草の全てを拭い去る。足をゆったりを組み、肘かけに肘をつき、背もたれに体重を預ける。口元は含む感情を変えて、その愛らしさの分だけ人をあざけりながら、ふっくらとした頬に手のひらを当てる。

「おかえり、時任。いや、時任満明」
「ただいま、大罪の主。俺の憤怒の根源よ」

柔らかな声で戯曲のようなわざとらしいあいさつを交わし、座れ、と促されたソファーに座る。ふかふかとしたクッションに体重を預けながら、沈み込む体に少し驚く。

「お前用にあつらえたものだ、いい座り心地だろ?」
「無駄遣い、の一言に尽きるな」
「お前は俺の気に入りだぞ?これくらい当然だと思わないか」
「その気に入り、の後に続くのが「オモチャ」じゃなけりゃあ喜んださ」
「…………可愛くねぇ」
「ありがとう」

膝に肘を、手のひらには顎を。決して行儀のいい姿勢とは言えないが、向かいにいる存在を思えばこの程度が妥当だろう。憎まれ口を叩くわりには少年の顔は楽しそうであり、どうせここでどんな態度をとったとしても彼は俺で遊ぶのだろうと思った。
大罪の主、憤怒の根源。
この二つが表す地位と言えば、今いるこの世界自体を統べるものだ。
今まで使っていた言葉を使って表すならば、魔王、といったところだろうか。色んな言葉は浮かぶが、どれも正解であって正解でない。
目の前にいる彼は笑っている。逃がしてやった気に入りのオモチャが帰ってきた。その事実は確かに彼の小さな、機能しているかもわからない心臓を高鳴らせたことだろう。その感情を隠しきることはできない。

「可愛くないことはわかってたはずだろう?お前はずっと俺を見てたんだろうから」
「俺は全ての人間を見てるよ、お前だけが特別なわけじゃない」
「だが俺はお前の気に入りだ」
「自意識過剰もいいところだぞ?お前にたかっていた男どもと僕は違う」
「あんなに手間暇かけて調教したのに―――」

ぴくり、彼の眉間に皺が寄る。
にんまり、俺の口が月になる。

「逃げられたのが、悔しかったんだろう?」

王ともあろうものが、たった一つの、塵にも等しい存在を自由にできないなんてな?
舌打ちが一つ、ぱちんとひとつ指が鳴る。
俺と彼と、二人の間に現れたのは机。どさりと乗った紙の束と、小さな人形が一つ。その人形には一つ心当たりがある。俺が記憶違いをしていなければ、それは確かに俺のものだ。

「テフル」
「はい、我が主」

指先ひとつで、魔力をほんの少し。人形に注いでやればそれは俺の記憶の中の姿そのままに動き出す。昔の俺と揃いのスーツ、むき出しになった顔の骨。俺の召使い。

「僕が預かってた、お前に返そう。地位もそのまま、お前には憤怒の補佐として働いてもらう」
「何か変わったことは?」
「ございません。仕事も、ある程度は私が整理しておいてございます」
「goodboy」
「私は犬ではございませんよ」
「変わったような、変わってないような……まぁ、無事に帰ってきて何よりだよ、僕は」

先ほど俺がため息をついたように、彼が今度はお返しとばかりに溜息をつく。前の俺がさんざ困らされたこの男だ、少しくらい困らせたって罰は当たらない……はずだ、彼の機嫌がよければ。俺用だというソファから体を持ち上げ、懐かしい従者の頭を一度撫でてから机や対面の椅子に背を向ける。
用はもうなくなった。
言葉ではなく背中で、そう告げてやる。

「満明」
「お前がそう呼ぶな」

ふり返ることはしない。短く答えながら、スーツのポケットに入っていた煙草、ライター、それらを捨てる。
時任であった頃の俺の名残、満明となった今でもこびりついた、彼の好みのアクセサリー。

「よく似合った名前だよ」

もう呼ばれるかはわからないけれど。
意地の悪い言葉が空気に溶けた気がしたが、それはそっと聞かなかったことにした。

*  *  *

どっと疲れた気がした。24時間も経っていない、12時間も経っていない。おそらくは刹那にも似た時間であったはずなのに、酷く疲れていた。
開いた扉の先にはこじんまりとした一軒家の玄関が広がっていて、先ほどは気にもしていなかった礼儀を思い出して脱いだ靴をそろえる。スリッパもはかないでぺたぺたと進んだ先にあるリビングでは、先ほど座っていたものにもよく似たソファが鎮座している。
そのただの家具であるはずのものを見て、俺は自分の口が緩むのを堪えきれなかった。肘置きのすぐ近くからはみ出したはだしの足が、おそらくは呼吸に合わせてゆらゆらと揺れている。
眠っているのだろう、くすぐって起こしてやってもよかったが、それは少し意地が悪い。首を吊ったのは正午程だったろうか。だとしたら今は八つ時頃のはずだ。菓子と茶でも用意して……ゆっくりと自然に起きるのを待てばいい。もし起きなかったら、そのときには夕飯にでも起こしてやろう。

「ただいま、小鳥遊」

挨拶は習慣だ。起こす目的はなく小さな声でただ呟いて、リビングに入る前に身を翻す。
砂糖たっぷりのミルクティーには何が合うか。
甘さを控えめにしたクッキー、少し苦いマーマレードを添えたスコーン、それとも小さく切りそろえたサンドイッチ。
暇つぶしがてら、指折り数えて考える。どれでもよくて、どれでも駄目だ、要するに決め手に欠ける。
頭とは反対に、この両手は手際よく冷蔵庫、棚、それぞれを確認して、湯を沸かす。
茶葉とミルクと、たっぷりと時間をかけておそらくはもらい物だろうマカロンを茶菓子に任命して、沸かした湯でカップを温める。今寝ている奴の分はあとから淹れればいい。とりあえず一人分の茶葉をポットに入れ、続いて湯を注ぐ。
ふわりと擽るように香る紅茶の香り。家ではコーヒー党であったはずなのに、それはどうも懐かしさを感じさせる。20年か、数えきれないほどの長い年月か。どちらが重いかと考えてしまえばそれも当然であった。
あの20年が些細なものであった、とは決して口が裂けたとしても言わないけれど。

「いいにおーい……」

紅茶はまだ蒸らしている段階であった。
背中にかかる重みと体温が、紅茶にかかりきりであった俺の思考をぐいと引き寄せる。
ぐりぐりと額を押し付けるそれを何とか視界に入れようともがくが、皮肉にも自分の肩が邪魔をする。

「おはよう、寝坊助」
「ときとーくん……」

正体も何もあったもんじゃない。なんとか腕を回して頭を撫でてやると、半分眠気に蕩けた声で返事になっていない返事が返ってくる。
まだ眠いなら寝ていればいいのに、と思うが、今寝かせたら夕飯時には起きてくれないだろうからそれは諦めたままでいてもらおう。

「紅茶淹れるから。おやつ食えるか?」
「たべる……」

カップや紅茶を二人分にすると、それを持って小鳥遊を引きずりながらリビングに移動する。
先ほどまで小鳥遊が寝ていたソファーの上には、かけてあったはずの毛布がぐちゃぐちゃになって置いてある。机に諸々が乗った盆を置いてから、それを畳んで座る場所を整えた。ちょこん、なんて効果音が似合うように、二人並んで座る。

「お疲れ様」

移動の隙にすっかり小鳥遊の眠気は覚めていたようで、はっきりとした声でねぎらいの言葉が掛けられる。外出していた件だろう、推測を立ててああ、と小さく返事を返せば、じーっと見つめる視線が寄越される。

「僕養うのに」
「ヒモは勘弁だな」
「家事してくれればいいよ」
「最終的に乗っ取られるのが目に見えてるから嫌だ」
「ときとーくん……」
「……ずるい手使うのやめなさい」

全部御見通しなのだ。
紅茶を一口飲んで、不毛な会話をさらりと流す。
今思えばこれこれ、と納得して思ってしまう小鳥遊のこの駄々っ子のような執着だが、やはり今これを完全にのんでやるわけにはいかなかった。
そもそも、元々大罪補佐の地位がなければ俺は小鳥遊に近づける存在ではないわけだし、こうしてともに暮らすことにも首を傾げられそうなことなのだ。周囲の声を黙らせるためには、職への復帰はしなければいけない序列第一位。しない選択肢はない。するまでの手段は随分と小ずるい手を使ったわけだが。

「魔王におねだりとか、することないのに」

俺だってしたくはなかったよ。なんて言ったら自分で弱点を晒すようなものだ、やめておこう。別に媚を売ってきたわけではないが、俺が奴に頼みごとなんて以前は絶対にしたくなかったことだ。それをあっさりしたもんだから驚いて、そして拗ねているんだろう。
昔と比べて小鳥遊の感情を読むのも上手くなったもんだ。小鳥遊自身が少しわかりやすくなったのかもしれない。
一瞬にも満たない間に思考を巡らせながら、俺はいまだこちらを見つめている小鳥遊の口の中に摘まんだマカロンを押し込む。
一度生き返って、前の人生よりもずっとずっと恵まれた数年を送ってきて、どうも俺は小ずるい手ばかり覚えてきたようだ。
あざとい。
頭の中で、自分によく似た男が一言、冷たい目をしてそう言った。

「うるさい」

言葉の持つ印象とは裏腹、優しい声で黙らせる。
頭の片隅で、カチンとジッポが音を立てた気がした。

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