目の見えないあなたのために

自分などよりもっともっと明るい朝の陽ざしに照らされて、その人は重そうな瞼がゆっくりと上がった。ぱち、ぱち、とゆっくりと一回二回と上がったり下がったりする。ようやく開きっぱなしになっても、その目はこちらを向かずにぼーっと天井を眺めるものだがら、私はそっとその布団の傍に寄った。
「御主人」
そして一言声をかける。
掛けられたその人はようやくこちらに目線だけ寄越して、唇を薄く開いた。ほんの少しだけ息を吸ってから、小さく絞り出すように声を出す。
「灯室かい」
「俺はそう申しましたとも、御主人」
「おや、すまないね。どうも頭が半分寝ていたようだ」
起こしてくれ。
そう乞われれば、灯室はそっとその布団をめくり、敷布とその小さな背との間に手を差し込んだ。小さいだけではない、その白い寝巻に包まれた体は小さく細くそして薄い。その三点がそろえばもちろんの事「軽い」という言葉だってついてくるだろう。ひょい、と、そんな効果音がついてしまいそうなくらい軽々と主人の背を持ち上げると、脚との角度が90度になるところで止めた。背筋をぴんと伸ばして座る少女は美しい。短く切りそろえられた髪、大きくつぶらな目、まだ未発達な身体。性を感じさせない美しさを持ったその人は、首を回して灯室の方を見やるとその丸い目を細めて笑った。
「お前は今日も機嫌がよさそうだ、どこぞへ行ってきたのかね」
「いつもの公園へ」
「なんだ、いつもと変わらないじゃないか」
彼女は酷く古風で少女らしくない話し方をした。体躯に随分と差がある灯室に臆することなく、堂々とした態度をしている。
それにつき従う灯室は生き生きとしたものだった。頬を赤くし、緩め、まるで生娘のような表情をして彼女に尽くしている。
体を起こしてやった後は何をするか。もう少し時間がたてば、きっと先ほど灯室が入ってきたふすまから使用人がやってきて朝食を置いていくのだろう。それを彼女に食べさせて、身支度の準備を手伝ってやる。
そうしたら今度は彼女が灯室の世話を焼くのだろう。
自分の布団に灯室を入れてやり、縁側で陽の光を浴びながらのんびりと茶をすするのだ。うとうとしている灯室から昨晩の話を聞いてやりながら、彼が眠るまでそうしている。灯室が寝てしまったらそっと布団の傍まで行って、髪を梳いてやったり、小さな声で子守唄を歌ってやったり。まるで弟や小さな子供にやってやるようなことをするのだ。それを灯室は知っている。だから灯室は、眠りから覚めてもほんの少しの間だけ狸寝入りをした。それを彼女が知っているかはわからないけれど、起きた後彼女が満足そうな顔をするものだから、それでいいのだろうと思った。
夜になったら朝と同じように夕食を食べさせて、湯あみ代わりに濡らしたタオルで体を拭いてやって、寝かしつけたらおしまいだ。
灯室はそのあと外へ出て、次の日の話のタネを探しに行く。趣味だといった人間観察をしに行く。
これで彼らの一日はおしまいだ、今日も同じようにこのサイクルで回るのだろう。今まさに、こうしているときも。
「男の子がね、可愛いことを言ってくれて」
「いつも言っている子かい。ええと、つかさと言ったかな」
「ええ、その子。いつも僕を待ってくれてるって」
夜に触れた小さな手と比べて少しだけ冷たいその手を温めるように擦りながら、灯室は聞いてきた話をかみ砕いて彼女に聞かせた。可愛そうな男の子の話、悪魔を崇めて悪魔との邂逅を白々しく神に感謝する哀れな子。話をしている時、灯室は彼女の顔を見ることはしなかった。灯室には、自分がこの話をすることで彼女がどんな顔をするのかがわからなかったから。彼女の顔がもし歪んでしまったら、それも自分のせいで、そんなことが自分に耐えられるとは灯室は思っていなかった。ただ、この話を聞いている時、彼女は決まって楽しそうな声をしている。だから灯室は彼女に夜の話を聞かせ続けた、不確かなものであったけれど、ほんの少しだけでも彼女が楽しんでくれている可能性があるのならばと。
「っ、こほっ」
彼女が小さく咳をした。一回、二回、そこまでは小さい咳であった。
「御主人」
灯室は温かい手でその小さな背中をさする。だがその程度のことで収まるほどのものではないようだった。三回、四回、五回、と、その頃にはすっかり咳は大きなものに変わってしまっていて、背は大きく揺れて喉の奥は擦れたような声とも言えない音しか絞り出せなくなっていた。覗き込めば彼女の大きな瞳にはじんわりと水が厚い膜を張っていて、一つ大きな粒がそこから零れていった。
灯室にはどうすることも出来ない。ただじっと埃を舞い上げないように体を動かさず、静かにその背を撫でているだけだった。
「御主人、大丈夫ですよ。息をして、ね?」
抱え込むようにして耳に直接吹き込めば、なんとか耳の奥まで届いたのか彼女の頭がこくこくと上下に小さく動いた。飛び出そうになる舌を何とか引っ込めて、息をしようと必死に喘ぐ。少女であろうとなかろうと、そんな姿を見た感想は痛々しいに限る。灯室は彼女のふわりとやわらかい髪をくしゃりと掻き混ぜた。髪を指に絡め、逃げてしまうことがないようにと祈っている。
「千間様、千間様はいらっしゃいますか」
遠くから小さく、そのような声が聞こえてきていた。男の太い声が、無遠慮に灯室の中に入ってきた。体が大きい、だが本人は大した教育も受けていない礼儀知らずなのであろう。荒々しい足音というおまけまで余計なお世話につけて、その声は段々と近づいてくるように思える。
ああ、これは嫌な奴だ。
灯室はとっさにそう思った、きっと抱え込んでいる彼女もそう思ったのだろう。口元を押さえていたその手はそっと離れ、灯室のシャツを縋りつくように握りしめた。その小さな手に応えるように灯室は彼女の背を強く抱き込みなおす。彼女はそっと息をついた。発作は体力を消耗させる、その目はとろんとして瞼が落ちかけていた。
「千間様」
ふすまが開く。朝のひんやりとした風が部屋の中に吹き込んでくるが、今の灯室には関係なかった。その姿は普通の人間と変わらない。白くなめらかな肌に、オレンジ色の髪と目。この姿になることは休息を取る前の灯室には些か辛いものであったが気にしてなどはいられなかった。
「まだいたのか、この穀潰しめ」
男は灯室を見下ろして言った。想像通り、その体は不必要なほどに大きく、そして顔つきはいかにもゴツい。口ぶりからして灯室と会ったのはこれが初めてというわけではなさそうであったが、灯室の頭の中のメモリには彼の姿はなかった。不必要な情報と判断したのであろう、妥当である。
「何の用だ、今主人は出られる容体にない」
灯室の身体はその魔力の少なさを反映しているのか一般的な男性よりも細く、また軽かった。目の前にいる男と比べたら彼の貧相さがよく周囲に伝わることだろう。だが、灯室は毅然として目の前に立ち見下ろしてくる男に告げた。見下ろされることなど慣れていた、怯むことなど、そんな無駄なこと、欠片もすることはなかった。
「愚問だな、皆が千間様をお待ちだ。謁見の間に出ていただく」
「その耳は飾りのようだな。外してしまえ、その方が幾分見栄えがいいぞ」
少女は「千間様」と呼ばれていた。
少女は最近まで普通の、どこにでもいるような少女であった。親に囲まれ、友人に囲まれ、よく笑い、よく泣き、よく学び、よく遊ぶ。そんな世間一般を絵に描いたような普通を体現した少女であった。それが一変したのはつい二年ほど前のことである。
彼女の父親の運転する車が事故に会ったのだ。家族で買い物に行く途中だったその車にはもちろん少女も乗っていた。父親と母親は即死、だが彼女はかろうじて一命を取り留めた。そして彼女は、人とは違う目を手に入れた。
色がない世界を想像できるだろうか。
弱視、というものは意外にも多く存在する。男性においては20分の1の人間がそれに該当するそうだ。彼女はそれと同じ診断を病院で受けた。彼女のそれは重いものであった。黒と白、それだけしかない世界。わずかな明暗が彼女にものの形を伝えた。勿論最初は戸惑っただろうが、彼女はとても前向きに、命があるだけいい、と、一年という短い期間でそれを受け入れた。周囲は彼女の姿勢を喜び、応援した。彼女の目の更なる異変を知るまでは。
「お前に何がわかるというのだ。千間様からの宣託を、救いを求める者たちの気持ちが、お前にはわからんだろう」
「わかりたくもないな。私にはそのような有象無象たちより目の前にいる主人だ」
「狗のふりが上手いことだな、この狐め」
「あんたは善人のふりが酷く下手だ。少なくとも俺の前ではやめてくれないか、反吐が出る」
「口を慎めよ」
「あんたがな」
宣託。
彼らは彼女の、千間の持つ目の異変についてそう呼んだ。
簡単に言ってしまえば、千間には人の持つオーラと言ったものが見えるのだろうだ。それも赤、青、黄色、緑、彼女の失った色で輝いて見えるらしい。そのオーラの色によって、彼女はその人間の持つ運命がほんの少しだけだが見える。たとえば、オーラの色が赤いなら災厄が待っている、とか、そういったように。その人間の瞳を覗けばその災厄の詳細までわかるらしい。
これは素晴らしい力だ。
千間の周りの人間は彼女を称えた。そして彼女に群がり、頻繁にその宣託を求めたらしい。
彼女の体が弱いのはこのせいだ。過度の疲れ、ストレス、それがずっと拭いきれない状態なのである。
だがまわりはどんどんとエスカレートしていった。彼女を中心とした宗教を打ち立て、規模を大きくし、今いるこの御殿を建て、彼女を囲っている。今では彼女には親族も友人もいなくなってしまった。そこにいるのは教団の関係者、そして信者だけなのである。
灯室を除いては。
「とにかく、今日は宣託なんて無理だ。信者は帰らせろ」
「それはお前の言うことではない、千間様にお聞きすること」
「その目も飾りか、刳り貫いてやろう。この姿を見てよくそのようなことが言えたものだ」
「っ、つい先日ここに来た浮浪者が、よく私に楯突けたものだな!」
「お前が何者だかに興味なんてない。僕はただ主人を」
「おやめ、灯室」
舌が不自然な形で止まった。そのままぱく、と口を閉じると、何も言えないままで灯室は目の前にいる男を睨みつける。灯室の腕の中で呼吸をしていた千間はようやく正常な状態になったのか、ぽんぽん、と灯室の腕を叩いて解放を望んだ。
「御主人」
小さくそう呟いた灯室の声には心配の二文字がにじみ出てきていた。灯室は彼女を呼ぶその呼び名だけで多くの感情を語る。表情は決め込んだような無表情であるのに、そのギャップがひどいのだ。それはもちろん、千間に対してのみであるのだが。
「大丈夫だ、何も心配することはないよ」
千間はそう言って、もう一度灯室の腕を叩く。
その仕草に観念したようにおずおずと腕を開くと、それを待っていたというように男が千間の前で膝を折った。
「ああ、井沢だったのか。申し訳ないね、手間を取らせた」
「いえいえ千間様、このようなこと、手間などではありません」
「灯室も私を心配しての言葉だ、過ぎたものもあったろうが、勘弁してやってくれないか」
「勿論ですとも」
白々しい。
灯室はじとりと男、井沢を睨みつけたまま、その文字で頭の中を満たしていた。
灯室を見ていたあの鋭い目つきと、今千間に向けている目つきは全然違った。目じりを下げ、見るからに蕩けているような、いかにも幼児が好みそうな優しい顔つきであった。だがきっとこの顔でだませる幼児などいやしない。目の奥では嫌な光がやけに強くギラギラと輝いていて、どうしても長い間直視は出来そうになかった。安物の偽ダイヤの輝きを見たことがあるだろうか、きっとあれによく似ていることだろう。汚いものほど、その汚れを隠そうとして光で霞ませようとするのだ。
「灯室」
「はい」
呼ばれれば灯室の視線は即座に千間へと移った。
彼女の目は弱った体とは裏腹に、本物のダイヤのような品のある強い輝きを持っていた。その目が、しっかりと灯室を縫いとめる。そして、言葉もなしに、大丈夫だな、と問いかけてくる。
それに灯室がゆるく首を振ると、彼女は困ったように笑うのだ。
「大丈夫だ、私はそんなに柔ではないよ。お前はそれを知っているだろう」
「…………身体は、必ずしも心についてきてくれるものではない。あなたはそれを知っているでしょう」
行っては駄目です、行かないでください。
それは灯室がする唯一の懇願であり、そして甘えであった。
行かないでほしい、行ったらその体が壊れてしまうのが目に見えているから。
行かないでほしい、そして眠る自分の頭を優しくなでていてほしい。
その二つの理由が混ざり合って、一つのお願いにまとわりつく。
彼女は灯室にことごとく甘かった。そして灯室はそれを知っていた。
彼は卑怯者であった。だからこそ、素直に願いを言うこともないまま遠回しな忠告だけで思い通りにして見せようとする。
あなたは聡い人でしょう、私の言うことがきっとわかっているでしょう。
そう目線で問いかけて、一番困らせたくない人を困らせる。
重ねて言う、彼は卑怯者であった。それも自覚済みの。
「それは、もちろん知っているよ」
千間の言葉に、灯室の顔が明るくなった。それならば、と畳みかけてきそうな唇に指を当て、小さく笑った千間は、灯室より先に言葉を重ねる。
「だが私には責任というものがあるのだよ。信者は私のために集まって私のために色々と身の回りのことをこなしてくれている。私はこれに報いなければならない。ギブアンドテイク、というやつだ。わかるね?」
わかりたくもない。
だが灯室にそんな台詞を吐けるわけもなかった。ただしょぼんと頭を垂れさせて、まとう雰囲気をほんの少しだけじとりと湿らせる。困らせるということはわかっていた、だがわかっていてもやめられないことというのはもちろんのこと、灯室にはあるのだ。そもそも彼は我慢するということ自体あまり得意でない。
「御主人……」
「わかると言ってくれ、私はきっとこうでもしないと生きてはいけないんだよ」
そこまで言って彼女が悲しそうな顔をするから、灯室は漸くそこで頭を小さく上下に振った。そのオレンジの髪に白い、雪という表現以外適切なものが見つからないほどに白い指が、通される。
お返しだよ。
そう言って笑う声が体の中にじんわり滲んでいくような感覚がして、灯室は吐きたいような衝動に駆られた。だって、もったいないじゃないか、と。
「帰ってきたらご褒美をあげるよ。だから大人しくここで待っておいで。なんなら私の床で寝ていたって構わないから」
「千間様、参りましょう」
「はいはい。すまないね、随分と待たせてしまった」
「この程度、私も信者たちも気には致しませんよ」
井沢に連れられて、千間はよろよろと部屋を出て廊下を歩いて行った。待っていろと、そう言われてしまった灯室はそこから動くことはない。ただじっと、足音が遠ざかるのを聞きながら、まだぬくもりの残る千間の布団の中に入っていった。
温かい。
それだけがなんとなく伝わるだけで、そこに彼女の気配はなかった。自分はここで眠れるだろうか。そんなぼんやりとした疑問を抱きながら、灯室は重くなりかけている瞼を開いたり閉じたり、繰り返している。
一時間、二時間、三時間、時間は刻々として過ぎていく。その中で灯室が考えたのはただ一つ、主人の容体だけであった。
今あなたは何をしているの
今あなたはどうなっているの
今あなたは……
そればかりが頭の中を駆け巡っていく。それを止める人は誰もいなかったし、唯一止める術を知っている人は帰って来るかもわからなかった。
ただ灯室はそこで待ち続けるだけだ。彼女が言ったように、大人しく、床に横になって。
そういえば、あの人は寝ていたらご褒美をくれると言っていたね。
それを思い出すと、ようやく灯室は眠りにつこうと目を閉じた。
何もすることのない時間から夢の世界へ逃げ出して、きっと来るだろう彼女がいる世界まで飛んで行こうとしたのだ。
ご褒美はなんだろう、こんなにお利口にしていたのだから、きっといいものに違いない。
そんな期待だけを胸いっぱいに詰めて、心配なんていう寝付くためには少々重苦しい荷物を投げ出して。
ああ、お腹がすいてしまったなぁ。
そんなほんの少しだけ不吉な気がする欲求には蓋をしておくことにして。


[ 9/14 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -