迷い雨

※6月ホームボイス


肌に纏わりつくような湿気が煩わしい。銀糸のような髪を掻き上げて、オーエンは深い溜め息を漏らす。目覚めた時と変わらない体勢のまま、ぼんやりと視線を上げた。互い違いの瞳に飛び込んできた光は白っぽくてやけに眩しい。低い呻きを上げながら目を凝らせば、窓の外には分厚い雲が垂れ込んでいた。何度も瞬きを繰り返してからぱたりと顔を伏せる。柔らかなベッドに顔を埋めていると、目に残る眩しさが少しずつ軽減されていった。指先を軽く動かしてカーテンを閉じる。ぽつ、という微かな音が耳に届いて自然と肩がひくりと跳ねた。ぽつぽつ、ぽつぽつ、という控えめな音は次第に連続的なものへと変化していく。ベッドに顔を埋めたまま、オーエンは肺の中の空気を全て押し出した。息苦しさを感じるのに、酸素を取り込めば湿気までをも取り込んでしまいそうで嫌になる。それでもこんな理由で死んでしまうことはひどく馬鹿馬鹿しく、オーエンはそっと息を吸い込んだ。苦しかった肺が少しずつ酸素で満たされていき、強張っていた肩から次第に力が抜けていく。そのまま死体のように倒れ伏したまま、どれだけの時間が過ぎただろう。窓の外からは断続的な雨音が続いていた。この音を落ち着くと好む人間も多いらしいが、オーエンにはとても信じられない。

「…………」

室内に居てもなお絡みついてくる湿度も、昏く淀んだ陰鬱とした空の色も、煩わしくてたまらない雨音も―――その全てが忌まわしかった。一瞬だけ脳裏を掠めた古い記憶を、奥底へと無理に押し込めてオーエンは強く目蓋を閉じる。


×


やけに雨が多いですね。呟くように言うと、賢者は困ったように微笑んだ。

「ミスラは雨って嫌いですか?」

そう尋ねられて、どう答えたのかは覚えていない。人気のない魔法舎の廊下に一人で佇んだまま、ミスラは窓越しにぼんやりと外を見上げた。降りしきる雨は勢いを増していて、遠くの方では低く唸るような雷鳴が轟いている。雨が嫌いかどうかはよく分からないが、"あれ"ならば簡単だ。長年の宿敵を連想させる稲妻は、ミスラが心底嫌いなものだ。薄暗く淀んだ空からは、大粒の水滴が絶え間なく降り続いている。見つめているとさらに気が滅入りそうな気がして、ミスラは目を伏せた。睡眠不足なせいで重い頭を振って、目的などないままにふらりと歩き出す。ミスラの足は魔法舎の階段を上り続けていたようで、気付いた時には最上階である五階へ辿り着いていた。中央の魔法使いは朝から任務に出掛けている。彼の部屋に張られた強力な結界を一瞥し、ミスラは空室へ視線を向けた。今までにも散々試していることで、諦念に似た感情がないと言えば嘘になる。しかし、今は少しでも睡眠を得たいという気持ちの方がずっと強かった。溜め息交じりに伸ばした手で、ひやりと冷たいドアノブを握り込む。その瞬間、ガタンという物音がミスラの鼓膜を揺らした。決して大きな音ではない。しかし、その根源が背後の部屋だったことでミスラは動きを止めた。ドアノブから手を離し、振り返って背後の扉をじっと見つめる。物音はもう聞こえない。しかし、扉の奥から感じる気配にミスラは僅かな違和感を感じた。

「……オーエン?」

弾かれることを想定して捻ったドアノブは、抵抗なく回転した。結界が張られていないことに驚きながらも、ミスラは灯りのついていない部屋を覗き込む。オーエンはベッドに横たわっていた。眠っているのかと思ったが、視線が向けられる気配を肌に感じる。ベッドの脇には、何かの置物が転がっていた。物音の正体はあれか、と思いながらミスラは再度オーエンの名を口にする。

「だれ?」

どこか幼い響きの声が返ってくる。ミスラは扉を閉めてベッドへ歩み寄った。逃げるように壁際に寄っていく様子に僅かな違和感を覚えたものの、深く気にすることなく手を伸ばす。腕を掴んで引き寄せるとオーエンは悲鳴を上げた。

「いたい…っ!」
「はあ?この程度でいちいち騒がないでくださいよ。この前、俺が腹に穴を空けた時は意地でも痛いって言わなかったじゃないですか」
「おじさん、僕のおなかに……穴を空けたの……?」

怯えた声にミスラは顔を上げる。互い違いの瞳には困惑と恐怖が浮かんでいた。幼子のようにゆらゆらと揺れる双眸を目にして、ミスラは暫し沈黙する。

「……あなたが覚えていないなら、開けていないかもしれません」

その言葉を聞いたオーエンは戸惑ったように後退る。ミスラは構わずベッドへ乗り上げ、細い腰を抱き込んだ。逃げられると追いかけたくなるのは本能だろう。怯えた声を上げるオーエンの顔を覗き込むと、顔を背けられて苛立った。

「やだっ……おじさん、こわい…!」

飴玉のような瞳がじわりと潤む。激しく首を横に振るオーエンを見下ろしてから、ミスラはその身体を抱き寄せた。困惑したような声が一言、二言ほど聞こえたきり、オーエンは急に黙り込む。ミスラは嘆息して背中をそっと撫でた。

「怖くありませんよ。ここに来たのも、物音がして気になったからです」
「物音……」
「あれは、あなたが落としたんですか?」

ミスラが指さした先には、棚から落下したと思しき置物が転がっている。ミスラが薄らとした記憶が正しければ、彼が気に入っていた物の一つだったはずだ。オーエンは俯いて黙り込んでいたが、やがて小さく頷く。それからミスラの胸に額を預けて、掌を押し付けるように両耳を覆った。むずがるように小さく頭が揺れ動くのを見て、ミスラは視線を窓へ向ける。分厚いカーテンに覆われて外の景色は見えないが、激しい雨音は絶えることなく続いていた。

「オーエン、あなた雨が嫌いなんですか」

濡れた瞳でミスラを見上げ、オーエンは耳を覆ったまま頷いた。

「……雨は、暗くて、じめじめしてて……」

言葉はそれ以上続かなかったが、少なくとも好ましく思っていないことは明白だった。置物を落としたこととの因果関係は分からない。それでも、オーエンの沈み込んだ表情を見ているとミスラの心には靄ついた感情が込み上げてきた。ミスラは暫し考え込み、オーエンの腕を引いてベッドから立ち上がる。よろけそうになった細い腰をしっかりと抱き、精神を集中させて掌を前方へと翳した。

「わ……っ!」

まばゆい光とともに部屋の中心には大きな扉が現れる。無邪気な歓声を上げたオーエンを見下して微笑み、ミスラは片手でその扉を押し開いた。ギイと軋みながら扉が開くと、同時に突風にも似た強い冷気が流れ込んでくる。ミスラにしがみついて身を竦めたオーエンは自身で魔法を使うことを失念しているようだ。ミスラは呆れながらオーエンにも防寒魔法をかけてやり、掴んだままの手を引いて歩き出す。そんなミスラを見上げ、オーエンは僅かに困惑を滲ませた。

「おじさん……」
「その呼び方はやめてください。そんなに歳は離れてないでしょう」
「えっと、ミスラ…?どこに行くの?」
「どこって、見れば分かるでしょう。あなた、雪は嫌いじゃないはずですよ」

ミスラはオーエンの手を引いて扉を踏み越えた。真っ白な雪原へ同時に降り立つと、オーエンは冷たい空気を吸い込んでふっと息を吐く。強張っていた身体の力が抜けていく様子を見てミスラは表情を緩ませた。オーエンはといえば、ミスラに手を引かれるまま不思議そうな表情でじっと見つめてくる。

「なんです?いくら俺の顔が好きだからって見すぎでしょう」
「……ミスラも、騎士様なの?」
「はあ?何を言ってるんです―――」

ミスラの言葉が不自然に途切れたのは、ふと視線を投げた先にあったオーエンの表情に面食らったからだ。まるで夢見るような眼差しはひどく熱っぽい。頬を仄かに赤らめて、歌うような口調でオーエンは囁いた。

「だって、湿った暗い場所から僕を連れ出してくれた」

期待するような眼差しから逃れるように、ミスラはふっと視線を逸らす。

「……騎士なんかじゃありませんよ」

繋いだ手を強く握ると、オーエンはあどけない表情で瞬きを繰り返した。

「俺は俺です。あなたも同じでしょう」

翡翠の瞳がオーエンを映し込んで煌めいた。オーエンは魅入られたようにその双眸を見つめ、柔らかく微笑む。両手で包むようにミスラの手を握り返した。

「……うん。ありがとう、ミスラ」

素直なあなたは気味が悪いですね。普段のミスラであればそんな言葉で揶揄していただろう。しかし、ミスラは黙ったままそれ以上は何も言わなかった。

「死の湖へ行きましょう。あなたの好きな夕陽を見せてやりますよ」

ミスラは呪文を唱えて箒を取り出すと、オーエンを前に乗せた。痩躯を後ろから抱き締めれば擽ったそうな笑い声が上がる。凍てつくほどに冷たい風を切って、ミスラは死の湖を目指して真っ直ぐに空を飛んだ。防寒魔法で寒くないはずなのになぜか首を竦めるオーエンが可笑しい。触れ合っている部分から伝わる熱を感じながら静かに耳を澄ます。鼓膜を揺らすのは、雨の音ではなく風の音だ。


end.




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