drowning more than sugar



身体の不調は明白だった。魔力を放出するたびに重力がずしりと増したような感覚に襲われる。手指の先から足指の先まで動かすことが億劫になり、全身を気怠さが支配していった。自分の身体なのに思う通りに行かないのはひどく不快で、それによって心までもが摩耗していく。疲弊した心ではどんなに強い魔法もその威力が半減し、加えて身体の動きも鈍っているので攻撃に対する反応も遅くなる。燃え盛る火球が真っ直ぐに飛んでくるのも、普段であれば容易に打ち消せるはずだった。しかし反応が遅れたせいで回避は叶わず、腕に強い衝撃とともに激痛が襲ってくる。一瞬にして肉が焼かれ、次第に炭化して嫌な臭気が周囲に充満した。気が遠くなりそうになりながらも必死に視線を上げると、こめかみから脂汗が流れ落ちていく。腕からぼたぼたと流れ落ちる血を止めることも忘れ、オーエンは目の前に歩み寄ってきた男を睨み上げた。

「本当に動きが鈍くなりましたよね。あなた」
「…ッ、……」
「張り合いがなくて面白くないんですけど、わざと手を抜いているんですか?」
「そんなわけ、ないだろ」

ミスラの瞳は不機嫌そうに細められる。美しい翡翠は昏い色を孕んだまま、ただ静かにオーエンを見下ろしていた。不意に大きな掌が持ち上げられて、オーエンの眼前に翳される。オーエンは咄嗟に後退ったものの、ミスラが一歩を踏み出す方が遥かに速かった。顔面を掴まれ、視界が黒に染まったと思えば身動きが取れなくなる。オーエンは自らの頭がトマトのように吹き飛ばされるのを想像して歯を食い縛った。しかし、鼓膜を震わせるはずの聞き慣れた呪文はいつになっても聞こえてこない。ふっと視界が開けて身体が解放され、オーエンは地面に倒れ込んで浅い呼吸を繰り返す。意識が遠退きそうな苦痛は絶えることなく続いているが、それよりもオーエンは現状を飲み込むことができずにいた。

「オーエン」
「な、に…」
「……いえ、なんでもありません」

無事な方の腕を地面について顔を上げるが、逆光になってミスラの顔は見えない。ただ、声色がやけに低く感じられてオーエンの中には違和感が生まれる。しかしミスラは踵を返して去ってしまい、その理由を尋ねることは叶わなかった。地面に流れ落ちた鮮血が湿った土の中へと吸い込まれていく。脂汗が止まらなくなり、ただでさえ体温の低い身体からどんどん熱が奪われていった。ガンガンと激しく痛む頭は次第に朦朧として、思考に靄がかかっていく。遠くから誰の心配そうな声が聞こえてきたような気がしたが、オーエンの意識はそこでぷつりと途切れた。


×


「……ー…ン……オーエン…っ!」

今にも泣き出しそうな声がに、繰り返し何度も名前を呼ばれている。ぼんやりとした頭のままでゆっくりと目蓋を持ち上げる。降り注ぐ日差しの眩しさにぐらりと眩暈を覚えた。陽を遮るために手を翳そうとして、腕が動かないことに気が付く。まだ身体が再生しきっていないことに先刻までの殺し合いを鮮明に思い出し、オーエンは溜め息を吐く。目を眇めながら瞬きを繰り返すと、覗き込んでいる相手の髪色にぎょっとする。反射的に身体が動きそうになったが、その大きな瞳の色を目にして我に返った。

「……クロエ?」
「あぁっオーエン…!やっと目が覚めたんだね。よかったぁ……」

これ以上ないほどに眉値を下げて、クロエは安心しきった表情で微笑む。花が綻ぶような笑顔は優しさに満ち溢れていて、心がさらに磨り減っていく気がした。ただでさえ身体が動かせない状況で散々殺されているというのに、目の前でへらへら笑われてこの上なく気分が悪い。オーエンは痛む身体を強引に動かして起き上がり、近くにあった木へと背中を押し付けた。クロエは慌てて手を伸ばしてきたが、オーエンが鋭く睨めばその手は虚空でぴたりと動きを止める。澄んだアメジストの瞳が困惑に揺れた。

「オーエン……」
「何」
「……ひどい怪我をしているから。オーエンの身体、まだ回復していないんでしょう?ねぇ、何か俺にできることはない?」
「はぁ?」
「僕の治癒魔法で、少しでも回復を早められないかな」
「おまえ程度の治癒魔法で?」

オーエンは嘲笑を浮かべてクロエを睨みつける。クロエは心配そうな表情のまま、そっとオーエンの手を包み込んだ。無事な方の手ではあったが、当然のように血でべったりと汚れている。クロエは躊躇うことなくオーエンの手をぎゅっと握り込んで唇を開いた。

「≪スイスピシーボ……」
「やめろ!」

オーエンはクロエの手を払い除けた。その瞬間に鈍い痛みが全身を駆け抜け、オーエンの身体はぐらりと傾く。クロエは振り払われたばかりの手でオーエンの身体を支えた。

「ごめんね、オーエン。嫌かもしれないけど、きみがこれ以上傷つくのを見たくないんだ」

クロエはアメジストの瞳を瞬かせて、悲しげな表情で笑った。それを見て、オーエンの胸を占有していた苛立ちがすっと消えていく。オーエンは黙り込んだままクロエの腕を掴み、再び木へと背中を押し付けた。驚いた顔をしているクロエから視線を逸らして意識を集中させる。炭化していた腕が淡い光の粒子に包まれていき、同時にずしりと身体が重怠くなった。黒ずんでいた腕がだんだんと元の色を取り戻していくのを見て、クロエは大きく目を見開く。オーエンの身体を取り巻いている魔力の強さは圧倒的だ。年若い魔法使いは、それを眼前にしてただ見蕩れることしかできない。

「……すごい……」
「大袈裟」

ぽつりと呟かれた声にクロエが我に返れば、オーエンは再び嘲笑うような表情を浮かべている。しかし、その顔に先刻までの冷淡な色は感じられなかった。クロエは小さく息を吐いて、オーエンの顔をそっと覗き込む。

「オーエン、その……大丈夫?」
「はは。腕の炭化が治ったからって、今の僕が平気そうに見えるの?」
「そうじゃないよ…!ただ、あんまり心配しすぎるのも迷惑じゃないかなって…」
「……腕は治した。ぐちゃぐちゃになってたから、ついでに内臓も。これ以上は治癒力を引き出せないから安静にしてるしかない」

オーエンの言葉にクロエは目に見えて安堵した様子だった。わざとらしいほどの所作で胸を撫で下ろして、ちらりと視線を上げる。少し言いにくそうにしながらも、クロエはおずおずと口を開いた。

「またミスラと喧嘩したの?さっきすれ違ったけど、すごく怒ってるみたいだったよ」
「怒りたいのはこっちだ。あの馬鹿、また僕を何度も殺して…」
「ねぇオーエン。最近、身体の調子が良くないんでしょう」
「…………」

オーエンに冷たい瞳で睨まれても、クロエは視線を逸らすことをしない。ただオーエンからの返事を静かに待ち続けていた。オーエンは軽く溜め息を吐き、治ったばかりの手をゆっくりと握り込む。今は身体を自由に動かすことが可能だ。身体が動きにくくなるのは、決まって魔法を行使している時だった。

「双子先生が、これ以上無茶をするとよくないって言ってた」
「……だから?」
「俺は、オーエンのことが心配で…」
「身体が壊れるからやめろとでも言いに来たの?馬鹿だね。僕は心臓を隠してる。何度壊れようが何度死のうが、僕は絶対に生き返るんだ。おまえなんかに心配される必要はない。そもそも、僕は北の魔法使いだ。西の魔法使い風情が、僕のことを―――…」
「オーエン」

視界の隅でぽうっと光が弾けたと思えば、オーエンの手に纏わりついていた鮮血が綺麗に拭われていた。細い指がオーエンの指の間に絡みついてくる。ぎゅうと握り締められ、掌から温かな体温が伝わってきた。血が通わない手に伝わってくる脈動を感じて、オーエンは言葉を続けようとしていた唇を噤む。

「……ごめんね。きみに嫌な思いをさせたいわけじゃないんだ。でも、オーエンは痛いことが嫌いでしょう?怪我しているオーエンを見ていると胸が痛くなるんだ」
「……怪我をするのも、痛いのも僕だ。おまえじゃない」
「それでも、つらくなる。……ねぇ、こんな俺のことも馬鹿だって言うかな」
「…………」

オーエンは視線を上げて空を見上げる。晴れ渡った空の青も、眩しすぎる陽の光も、なにもかもが恨めしい。それなのに、掌から伝わる体温を振り払うことはできなかった。オーエンはそっとクロエの手を握り返す。はっと顔を上げたクロエの瞳から零れ落ちた雫が、晴れたの日の通り雨みたいだとオーエンは思った。


×


「ほうほう。それで、近くにいたレノックスの手を借りてオーエンを運んでくれたのじゃな」
「うん。フィガロがいないから心配ではあるんだけど……」
「普通の怪我なら問題あるまい。それに、自分でも治癒しているならば心配する必要もないと思うぞ」
「そっかぁ……」

スノウとホワイトの話を聞いて、クロエはようやく肩の力を抜いた。隣に立って一緒に話を聞いていたレノックスは、気遣うように優しく背中を叩く。

「大事ないようで良かったな」
「うん…!レノックスもありがとう。俺一人じゃオーエンを五階まで運ぶのは無理だったよ」
「役に立てたようで俺も嬉しい」

レノックスは穏やかな表情でクロエの髪をくしゃりと撫でる。不意を突かれて驚くクロエに笑いかけて、談話室の方へと去っていった。スノウとホワイトはその様子を微笑ましく見守っていたが、クロエの表情が再び陰りはじめたことに気付いて眉根を下げる。顔を見合わせると、両側からクロエの腕に抱き着いた。

「わわっ、何…!?」
「世話をかけたな、クロエ」
「おぬしが気にかけてくれて助かったぞ」
「そんな……俺は何もしてないよ。またオーエンに怒られちゃったんだ。今度こそ嫌われちゃったかもしれない」
「あやつが本気で嫌っておれば、話を大人しく聞いたりせぬ」
「オーエンはおぬしの手を握り返したのじゃろう」

寂しげなクロエを見上げて、スノウとホワイトは優しく微笑んだ。クロエは自らの手を見下ろして、確かめるようにそっと握り込む。静かに瞳を閉じて、オーエンの手の感触を思い返しているようだった。

「ありがとう……スノウ、ホワイト」
「礼には及ばぬよ。いつも世話になっているのはこちらの方じゃ」
「すまぬが、これからもあいつのことを気にかけてやってくれ」
「…うん!」

嬉しそうに笑ったクロエの爽やかな表情を目にしてスノウとホワイトも微笑んだ。ぶんぶんと元気よく手を振りながら談話室へと消えていった背中を見送り、二人は同時に溜め息を吐く。

「オーエンには、ほとほと困ったものじゃのう」
「クロエが気にかけてくれたから落ち着いたようじゃが」
「うむ。あやつらから魔力が混ざった気配は感じておったが」
「まさかここまで深刻なことになるとはのう……」

むむむ、と唸りながら二人は二度目の溜め息を吐いた。頭を悩ませている騒動の発端は、数日前にまで遡る。―――オーエンの身体の不調は、討伐任務の最中に現れた。大いなる厄災の影響で魔獣が暴れているということで出掛けた先は北の国の雪原だった。ミスラ、ブラッドリー、オーエンは競い合うように魔獣たちを攻撃しており、激しい攻撃が飛び交う中で賢者たる晶は双子の防衛呪文に守られながら三人を見守っていた。そんな中で、晶の瞳は不意にオーエンの身体が傾くのを目撃する。箒に腰かけて優雅な所作で魔法を操っていたオーエンが、突然バランスを崩しかけたのだ。慌てて咄嗟に晶が叫んだ声に意識を引き戻されたのか、オーエンは舌打ちをしてすぐに体勢を整える。晶をキッと睨みつけて、翳した掌に魔力を集中させた。禍々しい魔力が膨れ上がって氷の結晶が渦巻き、一瞬にして魔獣を氷漬けにする。しかし、その直後オーエンの身体は先刻よりも大きく揺らいだ。晶の目には、それが魔力を放出したことによってひどく消耗したように映る。異常を感じ取ったのは晶だけではなく、双子もすぐにオーエンを呼び寄せた。だが当のオーエンはそれを無視して魔獣への攻撃を絶やさない。その結果として―――討伐が終わった瞬間に、オーエンは氷が溶けるように気を失った。

「あの時ばかりは、流石の我らも驚いたのう」
「オーエンがあの程度で多量に魔力を消耗するわけがない」
「しかし、オーエンの中の魔力は明らかに変容しておった」
「ミスラの魔力を多く受け取りすぎた結果じゃのう」

ミスラとオーエンの魔力が互いの中で混ざり合っていることは、なんら異常なことではない。そもそも、魔法使いは月にも花にも恋をする生き物だ。相手の性別が女でも男でも、それ以外の両性具有や無性であろうとも異端とはならない。しかし、今回の出来事は由々しき事態へ繋がっていた。

「心身に影響を齎すのであれば、方法に問題がある。そう思って二人に中止を命じたが……」
「ちと性急だったかのう。今のままでは、悪化の一途を辿るかもしれん」

スノウとホワイトが命じたのはシュガーの禁止である。オーエンがミスラにシュガーを強請り、ミスラがオーエンへシュガーを与える―――その光景は魔法舎に於いて日常的に見られていた。もちろん原因はそれだけではないだろう。しかし、一端であることは明白なので二人はそれを禁じた。もし破れば双方へ重い罰を課すと申し渡せば、ミスラもオーエンも大人しく聞き入れるほかない。そして、今日は禁止令が出てから三日目だ。しかし、そうとは思えぬほどミスラもオーエンも著しく荒れている。

「シュガーを断っても未だ魔力が安定せぬ。オーエンが苛立つのは仕方がないじゃろうな」
「しかし、ミスラまであんなに荒れるとはのう……」

与え続けられていたシュガーを禁じられ、オーエンが荒れることは予想できた。しかし、ミスラまでも荒れるのは予想外だった。オーエンと異なり、ミスラの体調は至って健康そのものである。オーエンの魔力を多少は受け取っているようだが、ミスラ自身の魔力が強すぎて微々たる量にしかなっていないようだ。しかし、ミスラはシュガー禁止令が出されてからというもののオーエンに全力を出していない。今までであればオーエンを殺し尽くすまで魔力をぶつけていたが、オーエンが不調を見せると唐突に興を削がれたようにその場を去る。それがミスラの中で多大なストレスになっているらしい。普段であればブラッドリーやオズ相手にその苛立ちをぶつけるだろうが、ミスラは何故かそういった選択をしなかった。結果として不機嫌なオーラを纏ったまま生活しているので、賢者ですらミスラの傍に近寄れないという始末である。北の国の魔法使いで行うべき任務もあるが、ミスラとオーエンが戦力にならない現状では二進も三進も行かない。スノウとホワイトは顔を見合わせて頷き、階段の先へと視線を向ける。

「我らだけでどうにか出来る事態ではない」
「明日にはあやつが魔法舎へ戻ってくる。手を借りるとしよう」


×


「はあ?嫌ですよ。俺、今すごく気分が悪いんです。見て分かりませんか?」

にべもなく吐き棄てられた言葉に、談話室の空気が一瞬にして氷点下へ至った。各々自由にリラックスしていた周囲の魔法使いたちは、明らかに変わった空気にすっと息を潜める。警戒するように気を引き締める者、怯えるように視線を彷徨わせる者、呆れたように観察を続ける者―――そのどれもと違う者が、ミスラに話しかけた張本人だった。

「うん、そうだねミスラ。でも俺はおまえとお喋りしたい気分なんだ」

にっこりと微笑みかけるフィガロの表情はどう見ても場違いで、晶はごくりと唾を嚥下した。傍にいたクロエも同じように息を呑んでいたので、同じような気持ちなのだろう。この場に生徒たちである南の魔法使いが不在だからこその振る舞いなのだろうが、それにしても肝が冷えるような思いになった。

「たまには年長者の頼みを聞いてくれてもいいんじゃないかな?」
「嫌です。年寄りの頼みなんか聞いたところで、俺がいい思いをできることはありませんから」

ミスラは視線を逸らして歩き出そうとしたが、その肩をフィガロが掴む方が早かった。ぽん、と優しく置かれた掌から魔力は感じられない。しかし、ただならぬオーラを纏ったフィガロが再び笑顔を浮かべる。今度は、目の奥が一ミリも笑ってなどいなかった。

「ミスラ」
「………………」

浮きかけたミスラの足が元の位置に戻る。振り返った翡翠の瞳は重く淀んでいたが、その視線を向けられてもなおフィガロは笑顔を崩さない。にこにこと微笑んだまま、ミスラの肩を強引に抱いて歩き出した。身長差があるはずなのにミスラが引き摺られているように見えるのは錯覚だろうか。上機嫌なフィガロとこの世を滅ぼしかねないほど不機嫌なミスラを見送って、談話室にはほぼ同時にいくつもの溜め息が溢れ返った。

「こ、怖かったぁ……賢者様、大丈夫?」
「はい…。クロエも平気でしたか?フィガロが急に声をかけた時は驚きましたね」
「まったく、こっちまで巻き込むのは勘弁してほしいぜ」
「おや、ブラッドリー。冷や汗を掻いていますか?」
「掻いてねえよ!」

シャイロックに揶揄されたブラッドリーは反射的に言い返したが、そうですか?と微笑まれて言葉に詰まる。しかし、この場にいた者の誰一人として例外なくフィガロとミスラの気迫に圧されていたのは事実だ。晶は安堵に胸を撫で下ろしながら、この場にいない双子たちが言っていたことを思い出す。オーエンの体調不良の原因がミスラにある―――そういった内容で、フィガロの力を借りることになったと言っていた。

「フィガロはお医者さんだから、何かいい方法が分かるのかな」
「そうかもしれませんね」
「うん。……そうだといいな!」
「……クロエはオーエンのことをよく気にかけてくれますね」
「そ、そうかな…?でも、それは賢者様も同じでしょう?」

晶はクロエへ微笑んで静かに頷く。隣のブラッドリーが呆れたように鼻を鳴らすのが聞こえたが、わざと聞こえないふりをした。後からシャイロックが窘める声が聞こえて、そっと忍び笑う。

「ミスラとオーエンの関係は……なんというか、すごく独特ですけど仲はいいと思っているので。本気で仲違いしてしまうようなことにはなってほしくないんですよね」
「そうだね!俺も同じ気持ちだよ」
「それにしても……オーエンは今日も部屋に籠っているのかな?食事も摂っていないようだけど」

不思議そうなラスティカの言葉に、晶とクロエは顔を上げる。ふとキッチンから足音が聞こえて視線を移せば、ネロが顔を覗かせてこちらに苦笑を向けていた。

「騒ぎは落ち着いたか?賢者さん」
「ネロ!すごく静かでしたけど、ずっとキッチンにいたんですか?」
「巻き込まれたくなかったからな。しばらく息を潜めてたんだ」
「あはは、ネロらしいですね」
「オーエンは朝も来てねえな。昨日はクロエに頼まれてホットチョコレートを作ってやったら、一応飲んでくれたみたいだが…」

顔を見合わせた晶とクロエの表情が不安で曇りそうになったのを見て、ネロは頭を掻きながらキッチンから談話室へやって来る。晶の横にどっかりと偉そうに座っているブラッドリーを睨んでから、困ったように微笑んでみせる。

「まぁ普段から甘いものばっかり食ってる奴だし、多少なら心配することもないさ。フィガロも何か考えがあってミスラを呼び出したんだろう。賢者さんたちもあんまり悩みすぎるなよ。な?」

ネロの言葉に晶とクロエは安堵したように微笑んだ。ブラッドリーだけは呆れたように溜め息を吐いていたが、ネロに脛を蹴られて悲鳴を上げる。談話室は、ようやく和やかな雰囲気を取り戻しつつあった。


×


一方、フィガロの部屋は和やかとは程遠い雰囲気だった。強引に部屋まで連れてこられたミスラはむっすりとした表情でフィガロのベッドに腰かけている。

「それで、話ってなんですか」
「スノウ様とホワイト様から聞いてるだろう。しらばっくれる必要はないよ、ミスラ」
「……オーエンのことですか?俺は悪くありませんよ」
「何も責めているわけじゃないさ。俺は原因を明確にして対処しろと言われているだけだ」

うんざりとした気持ちを隠そうともせずに大きな溜め息を吐いたミスラを見て、フィガロは苦笑する。ミスラの態度は予想通りだったものの、相手をするには疲労が伴う。自身の年齢を痛いほど実感しながら、フィガロはぴんと人差し指を立てた。淡い光が灯ったと思えば、指先の上には小さな結晶が現れている。

「おまえがオーエンに与えたシュガー。それが全ての発端だ」

フィガロの言葉を聞いてもミスラは表情一つ変えようとしない。フィガロもまた瞬き一つせずにミスラを見つめて、ぱちんと音を立てて指を鳴らした。途端に無数のシュガーが生まれて、ふわふわと宙を漂いはじめる。部屋中が甘い香りに包まれると、そこでようやくミスラの表情に変化が生まれた。

「……強請ってきたのはオーエンの方です」

ぽつり、言い訳のように零された言葉は幼子のようだった。僅かに眉根を寄せて、じっと床に視線を落とす。フィガロは小さく呪文を唱えてシュガーを小瓶に詰め入れると、それを机の上にそっと置いた。きらきらと輝く小さな結晶たちは甘くて魅惑的だが、その中毒性はあまり知られていない。

「そうだろうね。オーエンの甘いもの好きは病的だが、普段からあれだけ食べていても異常が出ていないんだ。シュガーをいくら与えたところで平気だろうとおまえが思うのもおかしくない」
「……そうでしょう」
「でもね、ミスラ。平気じゃなかったから問題になってるんだよ」

その言葉にミスラは眉を顰めた。考え込むように目を伏せて、それから再びフィガロを見つめる。答えを求めるような視線を受けて、フィガロをゆっくりと唇を開いた。

「ミスラ。シュガーと一緒に与えたものがあるだろう」
「………………」
「シュガーと同じように、お前の魔力が含まれるものさ」

黙り込んだミスラに、フィガロは問い詰めるように畳みかけた。深く椅子へ腰掛けて、組んだ手の上に顎を乗せる。じっと視線を送り続けていれば、ミスラの薄い唇から重い溜め息が零れ落ちた。

「―――…唾液です」
「唾液……なるほどね。キスでシュガーを与えたのか」
「こんなことを聞いて楽しいですか?南の優しい医者とやらが、随分と下世話な趣味を持っているものですね」
「おや、おまえらしくもないね。もしかして照れてるのかな?」
「殺しますよ」

フィガロの揶揄にミスラはすぐさま反応した。鋭利に研がれたナイフのような殺意がぎらりと煌めいたが、フィガロは取り合うことなくへらへらと笑ってみせる。

「あはは、それは勘弁。冗談はさておき……魔法使いの中には特異な体質を持つ者がいる。それは" シュガーと体液が反応すると含有魔力が増幅する "という体質だ」

フィガロの表情から笑顔が消えた。色を無くしたような顔でミスラを見据えて、鋭い声で名を呼ぶ。咎めるような冷ややかな声の響きは、ミスラの背筋を本能的に震わせた。

「おまえはこの体質に当て嵌まるようだね。そして、その自覚も持っていた。違うかな?」
「…………」
「沈黙は肯定だと捉えるよ」
「……仮にそうだとして、あなたは俺が悪いと糾弾したいんですか?俺の魔力に耐えきれなくなるようなオーエンの弱さが原因でしょう」

ミスラの言葉にフィガロは呆れた様子で首を横に振る。開き直ったような態度のミスラを見つめ、静かに瞳を眇める。

「オーエンから強請ってきたのだとしても、オーエンがおまえより弱いのだとしても……加減なく魔力を与え続けたのはおまえだよ、ミスラ。他者に魔力を注がれることは心に介入されることに等しい。その意味を分かっていないとは言わせないよ。……それに、一番の問題は何が原因かじゃない。おまえたちの相性だ」

ミスラは目を瞬かせてフィガロを見つめ返した。不思議そうな表情のミスラを見て、フィガロは困ったように苦笑して足を組む。冷ややかな雰囲気は消え、すっかり呆れたと言いたげな雰囲気を纏っている。

「その証拠はおまえがシュガーを与えはじめてすぐに現れていたと思うけどね」
「俺が、オーエンにシュガーを与えはじめてすぐ……?」
「おかしいと思わなかった?普通ではないような身体の変化だったはずさ」

フィガロの言葉にミスラの鼻先を甘い香りが擽った―――ような錯覚が訪れた。あの日、オーエンが血塗れで部屋に現れた時の違和感をはっきりと思い出す。生臭い鉄の臭いではない、菓子に似たあまい香り。ミスラの瞳が徐々に見開かれていくのを見て、フィガロは浮かべた苦笑を柔和な笑みへと変化させた。

「シュガーを与えるだけで変化していたのが証拠だ。おまえとオーエンは相性が良かった。まぁ、この場合は悪かったと言うべきかな?さらにおまえ自身の体質で、シュガーと体液が反応して含有魔力が増幅した。いくらオーエンといえど、魔力酔いするのは当たり前だろうね」
「…………」
「もちろん、オーエンにだって責任はある。今みたいな状況は、おまえだけが強引に事を進めて作られるものじゃないからね。シュガーを強請ったのも許可を与えたのも、オーエンの方だろう」

フィガロは椅子から立ち上がり、ベッドに座るミスラへ歩み寄る。ミスラは俯き加減で視線を合わせようとしなかったが、もう言い返そうともしてこなかった。フィガロは赤い癖毛を軽く撫で、払い退けられる前に腕を引く。

「最初にも言ったけど、俺はおまえを責めるために呼んだわけじゃない。原因を明確にして対処するためだ。でも、俺がこれ以上介入するのは違うと思うんだよね。ミスラはどう思う?」
「……分かりましたよ」
「うん、いい判断だ。対処のヒントは教えてあげよう。さてミスラ。フィガロ先生のお話、きちんと聞けるかなー?」

にっこりと微笑んだフィガロをミスラは焦れるほどゆっくり見上げる。美しかった翡翠は、苛立ちをぐつぐつと煮詰めたように仄暗く濁っていた。

「その腹の立つふざけた喋り方、全てが解決したら二度と出来ないようにして差し上げますよ」

年若い魔法使いならば、この淀んだ視線と溢れ出す禍々しい魔力を浴びただけで卒倒しているだろう。しかし、地を這うような低い声で呪詛じみた言葉を吐かれてもフィガロは爽やかに微笑む。―――かくして、ミスラの忌々しげな舌打ちを合図に、フィガロ先生による特別授業が開始されたのであった。


×


降り続く雨の音が耳障りだった。毛が逆立った猫のように心が苛立っていて、その怒りが続いているのと同じ分だけ疲れてもいる。手触りのいい毛布を手繰り寄せて、痛み続ける身体を包み込んだ。柔らかな触感は肌に優しく寄り添ってくれるのに、氷のように冷えきった感情は温まることを知らない。ざあざあという音を聞いているだけで気が狂いそうで、思考するよりも先に唇が動きかける。しかし、言い終える前に口を閉ざしたオーエンは黙って膝を抱え込んだ。どこまでも静謐な故郷の地が恋しく、暗澹たる気持ちになる。それは魔法舎に来てから幾度も感じてきたことだった。特に今日のような雨の日は最悪で、胸の中にどろっとした澱みが広がっていくような感覚に囚われる。身体は鉛のようになる感覚は、魔法を使うと襲ってくる症状と酷似していた。そう、自由なはずの身体に重たい枷をつけられているような―――

「最悪……」

重く、鈍く、冷えきった何かが全身を覆い尽くしていく。オーエンは小さく息を吐き出して、窓の外を見遣った。灰色の空は重苦しい雲に覆われていて太陽は見えない。オーエンは身体を半ば引き摺るようにベッドから降りて、部屋の隅に置いていた箒を手に取った。窓を大きく開け放つと、生ぬるい湿った風が滑り込んでくる。肌を舐めるような感覚が鬱陶しく、絶えず鼓膜を揺らす雨音も不快だ。しかし、オーエンはそれを振り払うように箒に腰かけて瞳を閉じる。身体がずしりと重くなる感覚はあったが、オーエンほどの魔法使いであれば飛行術に消費する魔力はごく僅かだ。辿り着く前に力尽きるようなことはないと判断できる。ふっと息を吐くように魔力を纏わされた箒が音もなく滑り出す―――その刹那、張ってあった結界ごと部屋の扉が吹き飛ばされた。

「―――、ッ…!?」

箒に乗ったオーエンの身体は爆風に煽られて大きく揺れる。驚きに見開いた瞳を向ければ、巻き上がる砂埃の向こうに黒い影が浮かび上がった。オーエンは咄嵯に身構えるが、攻撃してくる様子は見受けられない。ただ静かに佇んでいる相手が持つ、圧倒的で禍々しい魔力には嫌というほど覚えがあった。その予感にオーエンが神経を尖らせていれば、やがて視界を覆う煙が晴れていく。オーエンは目を細めながらぐっと眉根を寄せた。嫌な予感は見事的中し、そこに立っていたのは白衣の男―――ミスラである。長い裾をマントのように優美に揺らしながら、ミスラは首を傾げてオーエンを見つめた。

「オーエン、どこへ行くつもりですか」

窘めるようなミスラの声色は鋭く、ピリついた空気にオーエンは唇を引き結ぶ。驚きや焦燥を悟られたくなくて、わざとにっこり微笑んでみせた。

「どこだっていいでしょう。おまえには関係ないことだよ」

オーエンの言葉を聞いたミスラは不機嫌そうに顔を歪めて歩み寄ってくる。箒で飛び出しても追いつかれると判断し、オーエンは呪文を唱えるため唇を開きかけた。しかし、それよりミスラの呪文の方が遥かに速かった。

「≪クアーレ……」
「≪アルシム≫」

聞き慣れた呪文が聞こえたかと思うと、窓の外に大きな扉が出現する。ミスラは一瞬の隙を突いてオーエンの腕を掴み、窓枠を軽々と飛び越えた。浮遊感とともに扉の中へ引き摺り込まれ、焦って開きかけたオーエンの唇は柔らかな感触に塞がれる。焦点が合わないほどの距離で見つめたミスラは、ただ真っ直ぐにオーエンを見つめていた。扉が閉じると同時に、二人の身体は重力に従って落下しはじめる。オーエンはミスラの身体を押し退けることも忘れ、目蓋をぎゅっと瞑って次に訪れる衝撃に備えた。しかし、想像していた痛みはいつまで経っても訪れない。不意に頬を冷たい風が叩いて、全身がひやりとした冷気に包み込まれる。はっと瞳を見開けば、燃えるようなミスラの髪の奥にはどこまでも白が広がっていた。吹き荒ぶ雪は激しいが、いつの間にかミスラとオーエンの周囲には防御結界が張り巡らされている。強く腕を掴んでいた感触が離れてオーエンは目を瞬く。触れ合っていた体温が遠ざかる気配に、寒さが強まったような気がした。

「なんで、北の国に……」
「あなたが来たかった場所でしょう?」
「……別に、僕は」

言葉が途切れた理由は分からない。不意に手を握られ、伝わってくる体温が落ち着かなくてオーエンは視線を上げる。翡翠の瞳に見下ろされるだけで、熱い何かが込み上げてきそうになり口を噤む。ミスラはそんなオーエンを静かに見つめていたが、やがて何も言わずに歩き出した。なんだか腹が減りましたね。少し歩きますよ。独り言のように、そんなことを喋り続けながら。


×


ぱちぱちと爆ぜる薪の音を聞きながら、オーエンは燃え盛る炎をじっと見つめていた。芯まで冷えた身体が少しずつ温まっていくが、血の通わない指先はいつまでも冷たいままだ。何度擦り合わせても変わることのない温度にオーエンは溜め息を漏らす。ふと隣を向けば、ぼんやりと座り込んでいたミスラと視線が交わった。何を考えているのか、ミスラは茫とした表情のまま見つめ返してくる。しかし結局何も言わないままで、やがて互いの視線は外れていった。オーエンが黙っているせいか、ミスラの口数も次第に減っている。死の湖の湖畔にあるこの小屋に着いてからというものの、二人はそんなやり取りを何度も繰り返していた。

「…………」
「…………」

静寂の中に薪の爆ぜる音だけが響き渡る。長く、長く続いたその沈黙を破ったのはミスラの方だった。オーエンの名を呼んで、翡翠の瞳を僅かに眇める。

「……なに」
「俺が、責任を取ると言ったことを覚えていますか」
「は…?」
「あなたが多少わがままになる程度なら付き合うと言いました」
「……そう、だっけ」

忘れたふりをしたのはわざとだった。本当は、この上ないほどはっきり覚えている。じわじわと込み上げる熱の温度も、形容しきれない擽ったい感覚も、つぶさに思い出せるほどだ。じっと覗き込んでくる視線にオーエンは落ち着かない気持ちになる。視線を外しかけると、ミスラの骨ばった指が銀糸を撫でた。

「オーエン」
「………………」
「……俺は、俺なりに考えていたんです。あなたが覚えていないならそれでも構わない」

呟いたミスラの指先がオーエンの髪を梳き、再び視線が絡み合う。整った鼻梁が近付いてきたと思えば、ミスラの香水の香りがオーエンの鼻孔を擽った。触れ合った唇はひんやりとしていてすぐに離れてしまう。至近距離で見つめてくるミスラの顔には僅かに熱が浮かびはじめていた。そのことに気付いたオーエンは呼吸の仕方を忘れ、息を呑む。ミスラが再び近付いてくると、オーエンは反射的に腰を引いてしまった。ミスラはぴたりと動きを止めてオーエンを見つめている。じわりと視界が滲みそうになった瞬間、オーエンの身体は抱き寄せられていた。

「……、っ…」

肩口に額を押し当てられてオーエンは困惑に身動ぐ。ミスラの腕の力が強くなり、身体同士がぐっと強く密着した。抵抗するような気にはなれず、オーエンはそっと息を吐いて身体の力を抜く。そのまましばらく抱き締められていたが、やがてミスラの腕の力は少しずつ緩んでいった。薄暗い小屋の中で、暖炉の炎だけが二人を照らしている。雪の大地で決して見失うことのない鮮赤は、くすんだような橙へと色を変えていた。オーエンはミスラの頬を掌で挟み込む。その指先は氷のように冷たいが、ミスラは表情一つ変えようとしない。オーエンの唇が静かに動いて、言葉を紡いだ。

「責任を取るなんて、世界一おまえに似合わない言葉だね」
「……やっとまともに喋ったと思えば、あなたって本当に生意気ですね。オーエン」
「うるさいな。おまえに言われたくない」

ミスラはオーエンの言葉に薄く微笑んだ。頬に添えられている手を取り、そのまま自分の胸に押し当てる。冷たいオーエンの指先から掌へ伝わるのはミスラの鼓動だ。伽藍洞のオーエンの胸には存在しない心臓が生み出す脈動は、体温とともにオーエンへ流れ込んでくる。

「生きてる」
「あなただってそうですよ。心臓を隠していても生きていることに変わりはないでしょう」
「……うん」
「いい加減、俺に隠し場所を教えてくださいよ」
「嫌に決まってる。教えたりしたらおまえは僕を殺すだろ」
「はい。……いや、どうだろうな……案外、殺さないかもしれません」
「はぁ?」

どこか曖昧に紡がれた言葉にオーエンは目を見開く。ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、ミスラがぐっと顔を寄せて覗き込んできた。

「だって、あなたを殺したら責任も取れなくなるでしょう」
「おまえ、まだそんなこと……責任?笑わせないでよ。まさか、僕と約束でもするつもり?」
「多分、約束とは違います」
「……多分って何。そんな曖昧でいい加減な…」
「曖昧でもいい加減でもありませんよ。オーエン、さっきも言ったでしょう。俺は、俺なりに考えていたんです。だから、」

珍しく速い口調で言葉を続け、ミスラはそこで一度言葉を切った。握っているオーエンの手を強く自分の胸に押し当て直す。ミスラの体温に馴染んでオーエンの手は指先まですっかり温まっていた。それを自覚した瞬間、オーエンは存在しないはずの心臓が脈打つ錯覚に陥る。指の先から痺れにも似た熱が広がっていく。ミスラの薄い唇が開いて、そこから零れた言葉にオーエンは息を呑んだ。

「あなたの心は俺が貰います」

ひどく傲慢で、無茶苦茶な言葉だった。けれど、オーエンの身体の奥底を震わせるには十分な力を持っている。まるで魔法にかけられたように、オーエンは美しい翡翠をただ見つめ返した。

「……心臓を持たない僕から、心まで奪うつもり?おまえって、本当に横暴で最悪だね。魔法使いから心を奪うなんて、僕を殺したいってことでしょう」
「違います」
「何が違うわけ」
「俺にこんなことを言わせたのはオーエンですから。あなたにも責任があるし、責任を持ってもらわないと困るんですよね」
「なに―――…」
「俺の心を奪ったのはあなたが先じゃないですか」

言葉の意味を理解するより先に唇を塞がれた。今度はすぐに離れることなく、何度も角度を変えて口づけられる。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように酸素を求めて唇を開けば、熱い舌先が潜り込んできた。歯列の裏側をなぞられ、オーエンはぞくりと背筋を震わせる。身体が浮き上がる感覚があって、気付けば背中が柔らかなベッドに触れていた。いつの間にか覆い被さってきたミスラの身体が影となり、オーエンの視界を埋め尽くす。

「オーエン」

低い声が甘く囁くだけでオーエンの身体から力が抜けていく。ようやく唇を解放された時には息が上がり、意識はぼんやりと霞んでいた。オーエンは肩越しに見える天井の梁を眺めながら、荒くなった息を整えようとする。そうしている間にもミスラはオーエンの外套とスーツを脱がせ、ネクタイを抜いてシャツをはだけさせた。細い首へ顔を埋めると、鎖骨付近の薄い皮膚を強く吸う。引き攣れるような痛みにオーエンが顔を顰めると、顔を上げたミスラは満足そうに口角を上げた。

「……おまえ、またそれ…っ……!」
「これ、気分がいいんですよね。あなたが俺のものって証みたいじゃないですか?」
「僕はおまえのものじゃ―――、ッ…!」
「心は俺のものなんです。それなら、身体だって同じでしょう」

ミスラは構うことなく行為を続けた。首筋や胸元に熱い呼気が落ちてきて、柔らかな唇の感触にオーエンの肌は粟立つ。場にそぐわない可愛らしい音が響くと体温が高まっていった。羞恥と焦燥が綯い交ぜになって心が掻き乱される。ミスラの言葉が頭の中で再び反響して、オーエンはぎゅうと強く瞳を閉じた。あんな言葉は冗談だ、質の悪い嘘に決まってる。そう思い込みたいのに、乱された心はオーエンの言うことを聞いてくれない。まるで、とっくに奪われてしまったようだった。ミスラはオーエンの胸に耳を押し付ける。伽藍洞のそこに心臓は存在しない。それなのに、ミスラは鼓動を確かめるように目を伏せていた。

「……何もないのに」
「はい。でも、聴こえるような気がします」

そんなの嘘だと言ってやりたいのに、オーエンの唇が言葉を紡ぐことはない。その代わりに、囁くようにミスラの名を呼んだ。ミスラが顔を上げて視線が交差する。互いの瞳の中にいる自分を見つけて、二人はほとんど同時に瞬きをした。オーエンの空っぽの胸の中へ、その空白を埋めるように身体を焦がしそうな灼熱が広がっていく。唐突に訪れた理解は違和感なく収まって、オーエンはその感情の名前を知っていたことに気付かされる。内側で燻っていた火種が一気に燃え上がり、オーエンの熱い指先がミスラの頬に触れた。

「好きだよ」

大きく見開かれた翡翠を見つめて、オーエンは柔和に微笑んだ。ミスラはただオーエンのことを見つめ返していたが、やがてうっそりと微笑む。満足そうな笑みはオーエンの存在しない心臓を高鳴らせ、心を掻き乱した。ミスラの首に腕を回すと力強く抱擁される。縋るように身体を寄せて、ぴったりくっついた胸から伝わる心音を全身で感じ取った。先ほどよりも速まった鼓動が答えを示しているようで、自然とオーエンの表情は緩む。ミスラの腕の力が緩んで、柔らかく唇に吸いつかれた。

「俺も―――オーエン、あなたが好きです。誰にも渡したくないと……俺だけに依存させたいと思うほどに」

熱に浮かされた声がオーエンの鼓膜を震わせる。ミスラは額を押し当てて、祈るように目蓋を閉じた。長い睫毛が小さく震えるのを見て、オーエンは思わず手を伸ばす。指先で頬を撫でると、ミスラは誘われるように目を開いた。宝石めいた輝きの美しさは筆舌にし難く、うっとり見蕩れていれば笑い声が落ちてくる。

「好きなのは俺の顔だけですか」
「そうだって言ったら?」
「質問しているのは俺ですよ。……本当に腹が立つな」

言葉とは裏腹に優しい声色で囁いて、ミスラはオーエンを抱き締める。外で吹き荒れていた吹雪は、いつの間にか止んでいた。



continue...




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