sugar also has horns



冷たい部屋で膝を抱え、オーエンは俯いて溜め息を吐いた。口腔内はやけに乾いていて、誤魔化すように唾液を嚥下する。胸中に渦巻く満たされない感覚が不快だ。もっと欲しいと懇願してしまいたくなるほど、堪えきれない欲望を抑えられる気がしない。いよいよ耐え切れなくなったオーエンは、勢いよくベッドから飛び降りる。乱暴に足音を立てて室内を横切ると、勢いよく扉を開け放った。

「うわ」

間抜けな声が聞こえて顔を上げると、視線の先では翡翠の瞳が瞬きを繰り返した。相変わらず目元には濃いクマが刻まれていて、満足に睡眠を取れていないらしい。驚いたような反応と寝不足であることに僅かに気分が向上し、オーエンは不調の原因たる相手を睨み上げた。

「邪魔」
「……俺は廊下を歩いていただけです。いきなり扉を開けたのはあなたでしょう」
「じゃあ立ち止まらないで。さっさとどっかに行って」

にべもなく吐き棄てると、ミスラは瞳を静かに細めた。明るい色をしていた瞳が僅かに昏くなり、機嫌が下降したことが見て取れる。空気が一瞬ピリッと震えたが、ミスラはそれ以上何も言わなかった。オーエンはにこやかに笑って、ミスラの胸を押し退ける。

「僕は今からあまいものを食べに行くんだ。邪魔をしないでくれる?」

オーエンが圧を込めた笑顔を向けると、ミスラはじっと見つめ返してくる。その反応が妙に引っ掛かって、オーエンは眉を顰めた。しかし気にかけるようなことでもないと思い直し、ミスラの隣をすり抜ける。背中にミスラの視線が突き刺さるのを感じたが、オーエンは一度も振り返らなかった。足早に廊下を突き進み、手摺りに座って階段を一気に滑り降りる。途中の階で何人かの悲鳴が聞こえた気がしたが、オーエンはそれを無視してあっという間に一階へと移動した。談話室には何人かの魔法使いが居るらしく、穏やかな笑い声が聴こえてくる。平和で生温かい空気をぶち壊してやろうかとも思ったが、今はそれよりもあまいものが食べたかった。キッチンへ向かうべく歩を進めていると、オーエンの頭をふと疑問が掠める。オーエンの部屋があるのは五階でミスラの部屋があるのは一階だ。ミスラはなぜオーエンの部屋の前を歩いていたのか。五階に居住しているのはオーエンの他にオズ、ブラッドリー、双子だ。とても昼間からミスラが尋ねに行く相手が居るとは思えない。オーエンの部屋の向かいは空室だが、そこにも用事など無いだろう。

「……もしかして」

ミスラは自分に何か用があったのではないか―――脳裏を一瞬過ぎった考えに、オーエンはぴたりと足を止めた。しかしそんなことはあるはずがないと思い直し、再び歩き出す。オーエンは談話室を横切り、ずかずかとキッチンへ踏み込んだ。冷蔵庫から野菜を取り出していたネロは、リケやミチルだとでも思ったらしい。顔も上げないまま、和やかな声を投げかけてくる。

「おー、ちょっと待っててくれ」
「僕、待たされるのは嫌いなんだよね。ネロ」
「……オーエン…?」

あからさまに引き攣った声と表情でネロが顔を上げる。冷たく見下ろしてくるオーエンを見ながら立ち上がり、腕に抱えていた野菜を調理台に置いた。まだ昼過ぎだが、今から夕飯の仕込みでも始めるのだろう。オーエンはネロに歩み寄って瞳を覗き込んだ。強い視線を浴びたネロはたじろぎ、ぐっと顎を引いて呻く。

「ぅ……え、……っと、なんか用か…?」
「僕がおまえに用事があるとしたら一つしかないでしょ」
「……そりゃそうだな……」
「ねぇ、あまいの作って。とびっきりあまくて、口の中でどろどろに溶けちゃうやつがいい」

小首を傾げて見つめると、ネロは気まずそうな表情で視線を逸らす。調理台の上に乗った野菜を見つめて、夕飯のメニューを考えているらしい。自分との会話に集中していないことにオーエンは苛立ったが、今は欲望を叶えることの方が優先だ。ネロはオーエンに視線を戻して重い口を開く。

「あまいの、つっても……ええと、料理名は?パンケーキとか、トレスレチェスとかあるだろ」
「名前なんて知らない。ケーキよりもっとあまくてどろどろのやつ」
「あまくてどろどろ……生クリームじゃ駄目なのか?」
「多分……あれじゃ物足りない」

ネロは困ったように首を傾げ、オーエンの視線を浴びたまま思案を巡らせる。生クリームよりもあまくてどろどろしたものなど、一つしか思い浮かばなかった。夕飯の仕込みは後回しだな、と思いながらネロはボウルを取り出す。市場への買い出しは今朝行ったばかりで、ちょうど材料には困っていない。振り返ってオーエンを見ると、オッドアイには濃い期待の色が浮かんでいた。ネロは苦笑して安心させるように頷いてみせる。こういう時のオーエンは、リケやミチルと同じぐらい幼く見えた。

「ちょっと待っててくれ。そんなに待たせたりしないから」
「うん」

大人しく頷いたオーエンは談話室へ向かっていく。その背中が少し頼りなく見えて、ネロは嘆息した。オーエンがあんな様子の時には必ずミスラが絡んでいる。数刻前、ミスラからオーエンの居所について尋ねられたことをネロは思い出していた。翡翠の瞳が妙にぎらついていたので、僅かに嫌な予感を感じたのだが。

「こういう時の勘って、妙に当たっちまうんだよなぁ……」

ネロは一人ごち、冷蔵庫から双子鳥の白い卵を取り出した。ボウルの中にの黄身だけを器用に割り入れ、そこへ高級星屑糖を加える。混ぜ始めると星屑糖が次第になめらかになり、白っぽい色に変化していく。あまい香りが鼻孔を掠め、黄身と混ざり合ってパチパチと小気味よい音が鳴った。下降しかけていた気分を持ち直し、ネロは静かにボウルの中身を見つめる。最近のオーエンがどこかおかしいことには気付いていた。今までならあまい菓子を出せば満足していたのに、どこか物足りなさそうな表情をする。多量の生クリームを渡しても満足しなくなっているのは、正直かなり異常だろう。だが死んでも死なないオーエンの身体と比較する対象など存在しない。破天荒な生き方でも命が尽きないということは、問題がなかった証拠だ。だとしても―――ネロはボウルの中身を混ぜる手を止め、視線を談話室の方へ向けた。キッチンからでは見えないが、オーエンはきっと退屈そうにソファーの端に腰掛けて長い足を揺らしている。ネロはボウルに向き直り、小さく溜め息を吐いた。まるで心配しているような自分に呆れてしまう。俺も随分と腑抜けちまったもんだな。誰にも聞こえないよう小さく呟いた。


×


オーエンは機嫌よく階段を上っていた。五階まで上らなければいけないのは面倒だが、今は大好きな" とびっきりあまくて、口の中でどろどろに溶けちゃうやつ "を手に入れている。オーエンは行儀悪く歩きながらヘラを持ち上げた。綺麗なクリームイエローをした物体の正体は、カスタードクリームだ。もったりとしたそれは、ヘラからぼたぼたと落ちてはボウルの中へと戻っていく。鼻先を掠めたあまったるい匂いはバニラビーンズだろうか。オーエンはニコニコと微笑みながら口を開け、ヘラについたクリームを舐め取った。舌に刻まれた紋章がクリームで覆われて見えなくなるほどの量をゆっくり味わい、うっとりと瞳を細める。確かに望んだ通りのあまさで、ささくれ立っていた気持ちが次第に凪いでいく。僅かに感じる物足りなさには意図して気付かないふりをした。そうしてクリームに夢中になっているうちに五階へ到着していたらしい。オーエンは階段を上りきって足を止めた。自室に戻ろうと身体を回転させ、視線を前へ向ける。その先に居るべきではない人物が立っているのを見て、踏み出そうとした足は元の位置へ戻った。浮かべていた笑顔をすっと消し去り、頬を引き攣らせる。

「どうしておまえが居るんだよ、ミスラ」
「……あなたが戻るのを待っていたんですよ」
「は?まさかずっとここに居たわけじゃないよね」
「その通りですけど」

理解できないミスラの行動に首を横に振り、オーエンは手に持つボウルをぎゅっと握り直した。表情はいつもと変わらず眠そうにしか見えないが、ミスラはどこか怒っているようにも見える。オーエンは気分が急降下していくのを感じながら、鋭い視線を向けたまま歩き出した。ヘラが落ちないようにボウルの中に戻し、何をされても死守できるよう手に力を込める。

「いったい何の用?空間移動魔法も使わずにドアの外に来るなんて、おまえらしくもない」
「直接部屋の中に扉を繋げた方がよかったですか」
「いいわけないだろ」
「そうでしょう?だからわざわざ部屋の外で待っていたのに」

意味のない問答に嫌気が差し、ミスラが立っている場所から数歩手前でオーエンは足を止めた。視線をずらして確認すると、ミスラはオーエンの自室の目の前に立っている。ミスラが退かないことには部屋に入れないのは明白だ。苛立ちに唇をゆがめ、溜め息交じりに言葉を吐き出す。

「用件も言わないなら退いて。僕は今からこのクリームを食べるんだから」
「……それで誤魔化すつもりですか?」
「は?誤魔化すってなに…」
「オーエン、あなた腹が減っているんでしょう」

オーエンの部屋の扉に凭れ掛かり、ミスラはそう言った。僅かに唇の端を持ち上げ―――笑ったようにも見える表情を浮かべながら。揶揄されたと思い込んだオーエンは、頭の中で何かがぶちりと切れる音を聞いた気がした。

「だから何。腹が減ったからネロにクリームを作らせた、それだけ。おまえには何の関係もないだろ」
「何の関係も?……へえ、そうですか。でも、代用しようと思っても無理だと思いますよ。あなたが食べたいのはそんなものじゃないはずです」

ミスラは薄く微笑んで扉から身体を離す。オーエンの目の前に歩み寄ってくると、身を屈めて顔を覗き込んだ。互い違いの瞳が警戒の色を濃く滲ませているにも拘らず、どこか楽しげに笑い続ける。その機嫌のよさに身震いしたオーエンは、ミスラの胸を押し退けようとした。しかし逆に腕をがしりと掴まれてしまい、そのまま自室へ引き摺り込まれてしまう。咄嗟にドアノブを掴もうとするが、腕の中からボウルが抜け落ちる感覚にオーエンは動きを止めた。視線を上げると宙に手を翳したミスラの頭上でボウルがゆらゆらと揺れている。

「これ、ひっくり返してもいいんですよ」
「……ミスラ」
「あなたの部屋を汚すのは忍びないですし、大人しくしてくれません?」
「ふざけるなよ」
「はあ、仕方ないですね」

オーエンの言葉を聞くなり、ミスラは翳していた手の指先を僅かに曲げた。その動きに従ってボウルがぐらりと揺らぐ。中に入っているクリームがたぷんと揺れ―――オーエンは反射的に固く瞳を閉じた。しかし、予想していた音も衝撃も訪れない。オーエンが目蓋を持ち上げると、ボウルは空中で傾いたまま絶妙なバランスで動きを止めていた。重い溜め息が聞こえて視線をずらすと、ミスラは呆れたような表情でオーエンを見下ろしている。

「冗談です」
「……は!?おまえ、いい加減にしろよ!」
「そんなに怒らないでくださいよ。それとも、本当にひっくり返されたいんですか」

オーエンがぐっと唇を噛んで黙り込むと、ミスラは曲げていた指先を元に戻す。傾いていたボウルは水平に戻り、中身が零れることなくオーエンの元へ戻ってきた。オーエンは伸ばした腕でそれを受け取り、怪訝な表情でミスラを見上げる。相変わらず何を考えているのか分からない、眠そうな瞳と視線が合う。じっと見つめてみたところで相手の真意が理解できるはずもない。

「なんなんだよ……」

ミスラの思考が理解できず、オーエンは力なく肩を落とした。愛用のトランクを開けようかとも考えたが、腹が減っているせいか戦意を奮い立てることは難しい。ボウルの中の美しいクリームイエローは、ボウル越しに伝わるオーエンの体温や外気の影響で次第に溶けはじめていた。長い指が肩に触れるのを感じておとがいを上げると、ミスラが観察するようにこちらを見つめている。オーエンは居心地の悪さを感じて顎を引き、ボウルを強く抱き締めた。

「おまえ、本当に何がしたいわけ」
「俺が何かしたいというより、オーエン……あなたの方に望みがあると思ったんですけど。違いますか?」
「だから、その回りくどい言い方をやめろって!何が言いたいんだよ」

苛立ったオーエンが叫ぶと、ミスラはオーエンの背後の壁に手をついた。囲い込むような体勢のせいでオーエンはミスラを見上げるしかない。灯りのついていない部屋は薄暗く、翡翠の瞳は湖底を思わせる深い色に映る。

「腹が減ってるんですよね。しかも、そんなあまったるそうなクリームをネロに強請るほどあまいものが食べたいんでしょう。でもそんなものじゃ代用はできないですよ。あなたが欲しいものは別にありますから。……ほら、前みたいに強請ってみたらどうです?簡単なことでしょう」

オーエンの顔を覗き込みながら、ミスラはずいと顔を寄せた。鼓膜を揺らす低い声とともに熱い呼気が首筋に落ちてくる。心臓が次第に鼓動を速めていくのを感じないようにしながら、オーエンはふいと顔を背けた。無駄に美しすぎる整った顔も、視界に入らなければ心を乱してくることはない。そう思ったオーエンだったが、その顎をミスラは指先で撫で上げる。薄い皮膚を愛撫するような手つきに背筋が震え、思わず視線を戻してしまう。

「オーエン、俺を見て……あなたの口から聞かせてくださいよ。俺もここまで来て断ったりするほど鬼じゃありませんから」
「……言、わない、っ…!」

返事を聞いたミスラは軽く瞬かせた瞳をゆっくり眇める。温度が一度下がったような気がして、肌を撫でていただけの指がオーエンの顎を強く掴んだ。これ以上下手な返答をすれば顎を砕くという脅しだろう。オーエンは顎を掴まれたまま、静かにミスラを見上げる。

「……へえ。どうしてですか?」
「別にどうだっていいだろ」
「また俺に隠し立てするつもりですか?いい加減、無駄な足掻きだと分かってくれませんかね……」
「ッ、ちょっと……なに、して…」
「あなたは口で言っても分からないようなので」

抜けそうな強い力で手首を掴まれ、オーエンの痩躯はなす術もなくミスラによって引き摺られていく。落としそうになったボウルはミスラによって棚の上に移動された。呪文を唱えようと開いたオーエンの口は大きな手で鼻まで覆われ、呼吸さえもままならない。ようやく解放されたと思った時にはベッドの上に投げ出されていて、起き上がる間もなくミスラが覆い被さってきた。両手首と下半身が動かないように抑えつけられた状態で、オーエンは必死に肺へ酸素を取り込む。ようやく頭に酸素が回ってきて視線を上げると、冷ややかな視線が降り注がれていた。極寒の北の国を思わせる冷たい瞳に本能的な恐怖が脳裏を掠め、頭の中で警鐘が鳴り響く。

「簡単なことでしょう?俺のシュガーが欲しいと言うだけです。ほら、言ってみてくださいよ」
「嫌だ」
「頑固だな……なぜそこまで意固地になるんです?少し前までは可愛くお強請りできていたじゃないですか」

ミスラは胡乱げな表情でオーエンの薄い唇を指でなぞる。たった一瞬触れるだけの接触でシュガーを食べさせられたことのことを思い出し、小さく喉が鳴った。その動きを見逃さなかったミスラは、喉の奥で笑いながら繰り返しオーエンの唇を撫でる。慰撫するようなその動きだけで口腔内に唾が溜まっていき、腹の底から衝動が湧き上がってきそうになった。オーエンは必死にそれらを抑えつけ、目元に力を込めてミスラを睨み上げる。

「そうやって虚勢を張っているあなたを見るのも、そう悪くはないんですが……」
「…!」
「俺もいい加減に待ちくたびれました。ほら、あなたが欲しいものです」

薄闇の中に現れた" それ "はきらきらと光り輝いていた。角度によって色が変わり、その煌めきも変化を見せる。ミスラの指先の上でくるくる回ると、ミスラの手の動きに伴ってオーエンの傍へと漂ってきた。薄紫色の結晶はどこから見ても完璧な形で、あまい匂いをふわりと漂わせている。オーエンは我慢できずにごくりと唾を飲み込んでしまい、ミスラはひどく愉しそうに笑った。

「我慢なんて似合わないです。たった一言ですよ、オーエン?」

穏やかなミスラの声がオーエンの鼓膜を優しく揺らした。美しいシュガーは、オーエンの唇から数センチの場所をゆらゆらと漂っている。鼻孔から入ってきたあまい香りが脳髄を痺れさせ、オーエンから正常な判断力を奪っていった。衝動に抗えなかった薄い唇がゆっくりと開かれていく。紋章が刻まれた赤い舌が覗くのを見て、ミスラは口角を持ち上げた。

「そう……自分に素直になって」
「ミスラの、シュガー」
「そうですよ。俺のシュガーが食べたくてたまらなかったんでしょう?」
「欲、しい……」

ミスラはオーエンに顔を寄せ、ざらりとした低い声を鼓膜に流し込むように囁いた。まるで催眠にでもかかったかのように、オーエンはその声に従って口を開ける。ミスラが手の動きを止めると、シュガーも同じように宙で動きを止めた。オーエンはシュガーが落ちてくるのを待ち続けていたが、ミスラはふいに意地悪く目を細める。オーエンの顔の横に手をつき、体重をかけるとベッドが軋んで音を立てた。そうしてミスラは顔を寄せ―――大きく開けた口で、オーエンが待ち侘びたシュガーを飲み込んでしまう。

「あ…!」
「やっぱりあまいですね。こんなものが好きなんてやっぱりあなたは変わってますよ。……あはは、すごい顔してますね。食べられなかったことがそんなにショックですか?可哀想に」

ミスラはシュガーをガリガリと噛み砕き、挑発するような笑みを浮かべる。オーエンは言葉も失い呆然とミスラを見上げていたが、やがてその表情は怒りで覆われていった。雪のような白い肌がじわじわと赤みを帯びていくさまは壮観である。ミスラは思わず見入ってしまい、跳ね起きたオーエンが胸倉を掴んでくるのに対応できなかった。

「お、っと」

オーエンは荒い息を吐きながらミスラの胸倉を掴み上げる。首元が締まったことにより、ミスラは小さく息を詰めた。薄く開いたミスラの唇からあまい香りが漂い、オーエンは眉を顰める。激しい怒りに染まっていた互い違いの瞳の奥に、ちらりと炎にも似た "何か" が覗いた。その異変に気付いた時には―――ミスラの唇に、柔らかな感触が訪れていた。予想だにしなかったオーエンの行動に流石のミスラも瞠目する。オーエンはミスラの視線を遮るように瞳を閉じ、ミスラの頬を両手で挟み込んだ。冷たい掌の感触が心地よく、ミスラも静かに瞳を閉じる。オーエンはやがてミスラの唇を割って舌を滑り込ませてきた。柔らかな舌はミスラの口腔内に侵入すると、噛み砕かれた残滓を絡め取るように動き回る。縦横無尽で気遣いの欠片もない舌の動きは、ただシュガーだけを求めていた。

「ん、っ……ふ、ぅ、ン……」
「はあ……オーエン」

しばらく好きなようにさせていたミスラだったが、オーエンの後頭部に手を回して引き寄せた。口づけが深くなったことにオーエンはくぐもった声を上げたが、ミスラは意に介すことなく舌を絡め取る。シュガーを奪ったオーエンの舌を窘めるように吸い上げ、歯を立てた。そうしていれば、シュガーはやがて残滓さえも残らなくなってしまう。息継ぎのため一瞬離れた合間に、ミスラは自らの舌の上にシュガーを生み出す。それをオーエンの口の中へ転がしてやると、赤い瞳が爛々と見開かれた。色違いの琥珀の瞳は今にも蕩けそうな恍惚に染まっていく。ミスラはじゅわりと溢れてきたオーエンの唾液を零すことなく吸い取り、逆に自らの唾液を流し込む。互いの熱によって溶けたシュガーと混ざり合ったそれを、オーエンはうっとりとした表情で嚥下した。こくこくと喉を鳴らす様子はどこか幼く、あどけなさの中に凄絶な色香を孕んでいる。そうして何粒かのシュガーをミスラの唾液とともに嚥下したオーエンは、瞳を蕩けさせたままゆっくり唇を離した。二人の間を繋いでいた銀の糸がぷつりと切れる様を見てミスラは笑う。オーエンの口の端から垂れた雫を拭いながら、囁くように尋ねた。

「まだ欲しいんですか?」
「欲しい……」
「最初からそう言えばよかったんですよ。変な意地なんて張らずに」
「だ、って」
「なぜ我慢なんてしたんです?」

滑らかなオーエンの頬を撫でながらミスラは静かに問う。オーエンは僅かに言い淀んだが、やがて肩から力を抜いた。背中からベッドに倒れ込むと、ミスラの手を掴んで軽く引っ張る。ミスラは誘われるままその横に寝転び、天井を見上げるオーエンの横顔を見つめた。

「シュガーだけが欲しいわけじゃなかったから」

ぽつりと零された言葉にミスラは首を捻る。不思議そうに目を瞬かせて、そうなんですか?と尋ねた。オーエンは天井から視線を逸らそうとせず、ただ黙って頷く。

「シュガーは欲しかった。でも、それだけじゃ……なくて」

オーエンは歯切れ悪くそこで言葉を切り、首を動かしてミスラをじっと見つめる。もの言いたげな視線を受け、ミスラはようやく何かを理解したように頷いた。

「ああ……そういうことですか。オーエン、あなた俺の唾液が…」
「それ以上は言わなくていい!」
「どうして?事実でしょう。シュガーと混ざり合った唾液の味が忘れられなかったんですよね」
「ぅ、……」

目を伏せたオーエンの頬はうっすらと赤らんでいた。伸ばした指先で慈しむように優しく撫で、ミスラは満足そうに微笑む。名を呼べば、ゆるゆるとオーエンの視線は上がっていく。上目遣いでミスラを見上げた瞳の奥では、いまだに消えない欲望の炎が揺らめいていた。

「まだ物足りないって顔をしていますね、オーエン。本当に中毒になってるみたいですけど……大丈夫なんですか?」
「誰のせいだと思って……」
「俺のせいですか?それなら、責任を取らなければいけませんね」
「責任…?」

ミスラの口から出るには似つかわしくない言葉にオーエンは頬を引き攣らせる。ミスラはオーエンの腰を片手で引き寄せて、嬉しそうに笑った。オーエンは警戒するように身体を硬直させたまま上機嫌なミスラを睨む。

「おまえ、なに考えてるんだよ」
「何って、あなたが考えている通りのことですよ。満足するまでシュガーと唾液の両方を与えてあげます」
「、っ……!」
「あはは、また赤くなった。今日のあなたは面白いですね。本当に、俺を飽きさせない人だ……」

最後は独白のように呟いて、ミスラは触れるだけの軽い口づけを落とした。オーエンは目を瞬き、ミスラの胸を押し返そうと手を伸ばす。しかしミスラは逆にオーエンの手を取ると、その掌に溢れんばかりのシュガーを生み出した。受け止めきれなかったシュガーはシーツの海へ溺れていく。ミスラは手を使わずに一粒のシュガーを唇で食み、顔を寄せた。オーエンは抵抗することも忘れて唇を開き、シュガーとともにミスラを受け入れる。溶けたシュガーの甘味が混ざり合った唾液はあまりにも魅惑的で、オーエンは与えられるがままにそれを嚥下した。ゆるやかに身体を満たしていく魔力に陶酔し、生理的な涙によって瞳が潤んでいく。全身をあまく痺れさせるような錯覚は、まさに中毒じみていた。強張っていた肩や腕からはすっかり力が抜け、シュガーを零さないよう水平に保っていた掌は傾いていく。ざらりという音とともにシュガーがばら撒かれても、それを気にかけるだけの余裕はもうオーエンに残っていなかった。ミスラは上体を起こしてオーエンに覆い被さると、落ちているシュガーを一粒拾い上げる。だらしなく開かれたオーエンの口にそれを落とし、口腔内に溜まった唾液を流し込みながら口づけた。

「はッ…ぁ、……っ、ふ、ぅ……」

オーエンは無意識のうちに縋るようミスラのシャツを掴む。皺になりそうなほど強い力でシャツを掴まれ、ミスラは口づけの合間にふっと微笑んだ。自分からミスラを引き寄せる形になっていると気付かないまま、オーエンは与えられる甘露を飲み込む。分厚い舌で上顎の裏を舐められればぞくりと背筋が震えた。呼吸ごと飲み込まれるような感覚に陥りながら、オーエンは意識を保つため必死で目の前の男にしがみつく。やがて永遠にも思える長い接吻が終わり、オーエンは何度も荒い息を繰り返した。ミスラも息を乱しながら顔を上げ、口の端から零れた唾液をべろりと舐め取る。

「満足、しましたか?」
「ッ、馬鹿……酸欠に、なるかと思った……」
「俺とのキスで酸欠になるなんて面白いじゃないですか。そういえば、血や異物を喉に詰まらせて窒息死するあなたは見たことがありますが、酸欠で死ぬあなたは見たことがありません。ちょっと見てみたいな……一度試してみません?」
「嫌に決まってるだろ。苦しいのは嫌だ」
「でも気持ちいいと思いますよ」
「嫌だってば!」

変な好奇心を起こしているミスラにぞっとして、オーエンは今度こそミスラを押し退けた。先ほどまで全身を満たしていた恍惚感が嘘のように脱力し、深く肩を落とす。乱れた銀髪を無造作に掻き上げ、じっとりとミスラを睨めつけた。

「おまえ、本当にムードもへったくれもないね」
「ムード?そんなもの必要ないでしょう」

ミスラはそう言いながらも何かを考えるように視線を巡らせ、オーエンの腕を掴んだ。男にしては随分と華奢な手首は、ミスラの長い指で掴めば隙間が生まれる。ミスラはオーエンの腕を持ち上げて顔を寄せた。噛みつかれるのではないかと身構えていたオーエンは、手首の内側に訪れた感触に目を見開く。柔らかく触れた唇は、小鳥が啄むような軽い口づけを繰り返していた。咄嗟にオーエンが腕を引きかけると、ミスラはそれを引き留めるように優しく吸いつく。チリッとした微かな痛みを感じたオーエンは眉根を寄せた。ミスラが唇を離した場所には、雪原に残る足跡のようにくっきりと赤い痕が浮かび上がっている。

「な、に……して」
「あはは。あなたの肌は白いからよく映えますね」

ミスラは楽しげに笑って再び手首に唇を寄せようとする。オーエンは慌てて腕を引っ込め、もう一方の腕で隠すように引き寄せる。ミスラは玩具を取り上げられた子供のように不満そうな表情になる。

「なんですか。痛くしていないでしょう」
「どうして、こんなこと」
「あなたが言ったんじゃないですか。ムードが欲しいんでしょう」
「別に欲しくない…!」
「そうなんですか?」

少し楽しかったのに、残念です。そんなことを呟きながらミスラは退屈そうに寝転がった。翡翠の瞳はぼんやりと虚空を見上げていて、すっかり普段通りに戻ったようだ。ミスラの行動を疑問に思いながら、オーエンは手首に視線を落とした。赤く刻まれた痕跡はどうにも見慣れなくて、微かな痛みを思い出して顔が熱くなりかける。オーエンは首を横に振り、ぎゅっと膝を抱えてミスラを見下ろした。

「おまえ、気付いてたの」
「何にですか?……ああ、あなたの欲求不満ですか」
「よっきゅ…まぁ、間違ってはいない……けど」
「当たり前でしょう。あんなに分かりやすく避けられたり八つ当たりされたら分かりますよ。それに、ずっとシュガーを強請ってきていたのにぱったり俺の元へ来なくなったじゃないですか。それで、今度はネロにべったりくっついて何度もあまいものを強請っていたでしょう。腹が立ちましたよ」
「は?どうしておまえが怒るわけ」
「だって、俺のシュガーが一番だと言っていたのに」

呟いたミスラの声色はどこか幼かった。まるで拗ねているような物言いにオーエンは瞳を瞬かせる。翡翠の瞳が静かに見つめてきたと思えば、伸ばされた手がオーエンの指を撫でた。節くれ立った長い指は先刻までのキスを思い起こす熱を帯びている。指の一本一本を確かめるようになぞり、戯れのように絡められた。オーエンはそれを払い退けることはせず、意識を逸らしてミスラを見つめ返す。

「実際、依存性は高まっているようですね」
「だから、お前のせいだろ……それは」
「そうなんですかね?俺の体液―――唾液がシュガーと反応しているのは確かですが、あなたとの相性も関係しているのでは?」
「は?相性?」

オーエンが訝しんで声を低めるとミスラは静かに頷く。オーエンの人差し指と中指を二本まとめてぎゅっと握り込んで、柔和に微笑んだ。花が綻ぶような笑みを向けられ、オーエンは言葉に詰まる。

「はい。あなたの身体と俺のシュガー、俺の体液との相性が……」

そこまで聞いてオーエンは握られていた手を引っ込めようとした。しかし、存外強い力で握られていたらしく抜け出せない。ミスラはオーエンの指を握ったまま身体を起こし、アッシュグレイの髪を掻き上げた。逃げ場を失ったオーエンは顔を逸らしたが、その耳朶は赤く染まっている。

「……満更でもないようですね」
「だ、れが…!」
「まあ、あなたが多少わがままになる程度なら俺も付き合いますよ。責任を取ってね」

むっつりと口を噤んでしまったオーエンの滑らかな髪の感触を楽しむように梳き、ミスラは細い肩を引き寄せた。二人の身体はぼすんとほぼ同時にベッドへ倒れ込む。ミスラは痩躯を掻き抱き、オーエンの肩口に額をすり寄せた。燃えるような赤い髪が首筋に触れてくすぐったく、オーエンは肩を竦める。

「ちょっと、やめてよ」
「昼寝をしましょう、オーエン」
「なんで!」
「俺はあなたのわがままを聞いてあげるんですよ。それなら、相応の対価を差し出すべきでは?」
「だから、この僕を抱き枕にするつもり…?」
「はい。そうですけど」

即答されたオーエンはがくりと脱力した。ミスラは動くことなく、静かに目を閉じていた。僅かに力が弛んだ腕の中で身じろぎ、オーエンはミスラの顔を覗き込む。濃いクマには疲労まで滲んでいるように見えた。指先でそっと撫でてみると、ミスラの目蓋はぴくりと震える。眠れる保証などないだろうに、ひどく穏やかな表情を浮かべていた。オーエンはミスラの顔を静かに見つめながら思案する。作りものめいた美貌の顔は彫刻のように美しい。睡眠不足でも肌は荒れることなく、陶磁のように滑らかだった。

「ふふ……まぁ、許してあげるよ。僕はおまえの顔、好きだし」

オーエンは小さな声でそう呟いた。手を伸ばして形の良い唇に口づける。シュガーも唾液もないのに、触れるだけのキスはあまく感じられた。ミスラの頬から手を離して上掛けを引っ張る。ミスラの身体を覆いきることは出来なかったが、そう簡単に風邪などひかないだろう。オーエンはふと忘れかけていたカスタードクリームの存在を思い出す。視線を動かせば、変わらず棚の上にボウルは鎮座していた。中のクリームはすっかり溶けきってしまっているだろう。ネロが知ったら悲しむだろうか。そんなことをぼんやり思ったが、今のオーエンはこの上なく満たされていた。あれほど欲しかったはずなのに、あまったるい味を想像してみても欲求は呼び起こされない。自身を包む体温に導かれるように、オーエンはそっと目蓋を閉じた。


continue...




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