want a two-letter word.

※来神時代 ※バレンタイン


両手に溢れんばかりの箱や包みを抱えて廊下を歩く臨也に気付いた途端、静雄は苦虫を噛み潰したような表情になった。両腕には重そうな紙袋が引っ掛けてあり、そこからも色とりどりの包装が覗いている。当の本人は少し疲れた表情を浮かべていたものの、静雄に気付くなりぱっと顔色が変わった。抱えている箱が零れ落ちそうになるのも構わずに静雄の元へ駆け寄ってくると、上機嫌で顔を見上げてくる。

「やぁシズちゃん!今日はとても素敵な日だと思わない?」
「……やけに機嫌がいいじゃねえか」
「君はどうして今にもキレそうなのかな?バレンタインデーに陰惨な表情を浮かべているなんて……あっ!もしかして誰からもチョコを貰えなかったの?」

答えが解りきっている質問をわざとらしく投げかけ、臨也は左右に身体を揺らした。臨也の少し後ろを歩いていた新羅は駄菓子屋で買えるような小さなチョコレートを右手に持っている。興味深そうに眺める表情からするに、臨也のおこぼれを貰ったのだろう。

「新羅でさえ俺の友達からチョコを貰ったっていうのにシズちゃんは可哀想だねぇ」
「友達?信者の間違いだろ」
「やだなぁ。俺は自分を信仰させようと思ったことは一度もないよ」

静雄の指摘に臨也は大仰に肩を竦め、困ったように微笑んだ。優男という言葉がぴったりな表情だったが、静雄はそこに隠された悪意の強さを嫌というほど知っている。取り巻きの信者たちを哀れみながら、静雄は舌打ちを零した。少し話しただけでこれだけ苛立つのだから、これ以上関わり合いになりたくない。静雄が踵を返そうとすると、臨也の後ろにいた新羅がひょこりと顔を覗かせた。

「でも、君の行動が彼女たちの信仰を煽っていないと言い切るには無理があると思うけどね」
「新羅は黙ってて」
「君の取り巻きの子から義理チョコを貰ったけど、やっぱり僕は受け取れないな。バレンタインに貰うならその相手は一人だけって僕は決めてるから」
「はいはい、ご立派な一途な恋心だな。でも今年も貰える望みはないんだろ?諦めてそれを受け取っておけばいいのに。ちなみに俺はこれ以上受け取れないからシズちゃんにでもあげなよ」
「失礼な!僕はまだ諦めてないよ。……静雄くん、これ要る?」
「要るわけねーだろ」

新羅の言葉をばっさり切り捨て、静雄は再び舌打ちを零した。新羅は困ったように手中のチョコレートを弄んでいる。臨也はそんな新羅を横目で眺めながら、唐突にあっと声を上げた。突然のことに少なからず驚いた静雄が眉を顰めると、臨也は腕に抱いていたチョコレートを新羅に押し付けて肩にかけていたスクールバッグの中を漁り出した。

「何?どうしたの、臨也」
「んー…っとね……はい、これ!」

臨也はバッグの中から小ぶりな紙袋を取り出し、静雄の眼前に差し出した。新羅は両腕にチョコレートを抱えながら首を捻り、硝子の奥の丸い瞳を見開く。静雄は予想外な臨也の行動が理解できず、一歩後退って沈黙した。

「ちょっとシズちゃん、何か言いなよ。少しぐらい喜べば?」
「は……?」

反応を求められても何と言えばいいのか分からない。さらに続けられた責めるような言葉に、静雄の頭には疑問符が何個も浮かんだ。喜べと言われても、何に対して喜べばいいのか。理解が追いつかずに静雄が黙り続けていると、臨也は静雄の胸に紙袋を押し付けた。軽い衝撃とともに押し付けられたそれを反射的に受け取ってしまった静雄は、不思議そうに首を傾げる。

「なんだよ、これ」
「何、って……そんなの一つしかないでしょ」

呆然としている静雄を見上げ、臨也は少し苛立ったように眦を吊り上げる。不満そうに言葉を吐き棄て、静雄から視線を逸らした。新羅は両腕に抱えたチョコレートを落とさないようにしながら静雄の方を覗き込むと、合点が行ったように声を上げる。

「あぁ、それバレンタインチョコかい?」

静雄はその言葉にぴしりと動きを止め、臨也はふいっと顔を背けた。どこか嬉しそうな新羅から預けていたチョコレートを受け取り、ちらりと静雄を一瞥する。視線を向けられた静雄はどきまぎしたが、臨也は普段と変わらぬ嘲るような笑みを浮かべた。

「そうさ。誰からもチョコを貰えない可哀想な化け物に恵んであげるなんて、優しいだろ?」
「君が優しいかどうかはさておき、逆チョコってやつだね」
「それは違うよ、新羅。シズちゃんは女の子じゃないんだし。そもそも人間でもない……化け物だ」
「ッ、オイ!!」

聞き捨てならない単語に静雄のこめかみには青筋が浮き上がった。自然と手にも力が籠り、手にしていた紙袋がぐしゃりと嫌な音を立てる。臨也は退屈そうに静雄を一瞥すると、新羅を連れて歩き出した。静雄は臨也を捕らえようと手を伸ばしかけたが、遠くから女生徒が駆け寄ってくるのを見てそれを断念する。甘い声で臨也の名をを呼んだ女生徒は、頬を薔薇色に染めて手に持っている物を差し出した。綺麗にラッピングされたチョコレートを受け取った臨也は優しい笑みを浮かべて礼を言い、再び歩き出す。静雄は遠ざかっていく臨也と新羅の背中を見送り、重く深い溜め息を吐いた。やり場のない怒りと脱力感に苛まれて頭痛がする。ガリガリと乱暴に頭を掻いていると、すれ違った門田に気遣わしげな視線を向けられた。大丈夫かと尋ねられて力ない笑みを返す。皺が寄った紙袋を隠すようにスクールバッグに押し込むと、静雄は一人帰路についた。


×


「兄さん、ちょっといい?」

帰宅した静雄がスクールバッグから取り出した紙袋をぼんやり眺めていると、控えめにドアをノックする音が響いた。静雄は紙袋を隠すことも忘れて立ち上がると、弟のために自室の扉を開ける。どうした?と尋ねれば、幽は辞書を貸してほしいと口にした。

「あぁ。ちょっと待ってろ」

静雄は英和辞書を取りに本棚に向かい、すぐに辞書を持って幽の元へ戻った。しかし、差し出しても辞書は受け取られない。静雄が疑問に思って首を捻ると、幽は視線を床に向けていた。その視線を辿れば、カーペットの上に小さな紙袋が鎮座している。

「兄さん、チョコレート貰ったんだね」
「いや、あれは……違うんだ」
「……そうなの?でも、あの袋は俺も見たことがある」

その言葉に静雄が返答に詰まると、幽は何かを察したのかそれ以上は言及しようとしなかった。辞書を受け取って礼を言い、静かに部屋を出ていく。一人残された静雄は、閉まった扉を眺めて溜め息を吐いた。あの様子では、母に告げ口されるのも時間の問題だろう。とはいえ、中身については静雄自身もまだ確認できていない。帰りにコンビニの前を横切った際に捨ててしまうことも考えたが、本当にチョコレートだったらと思うと捨てられなかった。静雄はカーペットに膝をつき、紙袋を覗き込んだ。シールで口を閉じられた中には黒っぽい箱が鎮座している。手を伸ばしてシールを剥がそうとしたが、そこで静雄の脳裏には臨也の嘲るような笑みが浮かんだ。

「クソッ……」

たちまち腹立たしい気分になり、伸ばした手は宙で制止した。所在なく揺らした手を下ろし、静雄はそのままベッドへ倒れ込む。紙袋の中身はチョコレートかもしれない。だから捨てることはしないが、臨也の目論見通りに開けるのは腹が立つ。結局その日、紙袋は開封されることなく終わった。部屋の隅に追いやられた紙袋は、居心地悪そうにぽつんと立ち尽くしていた。


×


バレンタインから数日が経過した。翌日以降も臨也の様子に変化が生まれることもなく、性懲りもなく静雄に喧嘩を吹っ掛けてくる。それに対して静雄が怒り、追いかけっこになる―――そんな日常は何一つ変わっていない。静雄は臨也に対してモヤモヤした気持ちを抱えていたが、顔を合わせればそんな気持ちも怒りで吹き飛んでしまう。家に帰れば紙袋が視界に入るたびに捨ててやろうと思うのだが、そうなるとモヤモヤが再発して手を伸ばすことも躊躇われた。

「静雄くん、今帰りかい?」
「あぁ……」

帰り支度をしている背中に声を掛けられ、静雄はゆっくり振り返った。ニコニコと微笑んでいるのは新羅で、どうやら彼も今から帰宅するらしい。

「たまには一緒に帰ろうよ」
「それは構わねぇが……あいつはいねえだろうな」
「あぁ、臨也ならいないよ。図書室に寄るんだって言ってた」

臨也が居ないのであれば問題は何もない。静雄は黙って頷くと、新羅について歩き出した。新羅は想い人である同居人とどんなバレンタインを過ごしたのか熱弁していたが、静雄は集中していなかったのでその話の大半は右から左へと流れていく。やがて静雄の家が近付いてきた頃、新羅は自らの話を止めて静雄へと質問を投げかけた。

「そういえば静雄くん、あのチョコは食べたのかい?」
「は?」
「ほら、貰ってただろ。チョコレート」
「チョコなんて貰ってな…」

反射的に否定しかけて、臨也から押し付けられた紙袋の中身がチョコレートである可能性を思い出す。静雄は言い淀みながら咳払いをし、食ってないとだけ呟いた。新羅は特に驚くこともなかったが、どこか気の毒そうに眉根を下げる。

「あぁ、そうなんだ…」
「何だよ、その反応は」
「いや……もしかして中身すら見てない?」

新羅に尋ねられた静雄は正直に頷いた。新羅の反応がどういう理由から来るのか分からないが、そう言われると急に中身を確かめてみたくなる。静雄は僅かに逡巡したのち、新羅へ疑問を投げかけた。

「あれ、本当にチョコなのか」
「そうだよ。そこから疑ってたんだ」
「当たり前だろ。あいつが言うことは全部疑ってかかんなきゃまともにやり合っていられねぇ」
「それもそうか。とはいえ、中身がチョコってことは僕が保証するよ。一緒に買いに行ったからね」
「……え?」

新羅の言葉に静雄が首を傾げると、新羅は少し呆れたような笑みを浮かべた。僅かにずれた眼鏡のフレームを中指で押し上げ、丸い瞳をそっと細める。

「臨也に付き合って行ったんだ。新宿の高級店で、結構いい値段してたはずだよ」
「……いい値段って、いくらぐらいだ」
「んー…確か5,000円ぐらいだったかな」
「5,000円!?」

さらりと告げられた答えに静雄はぎょっとして立ち止まった。そもそも、臨也自身が店で買ったものだということに驚かされる。自分が貰ったチョコの一つを渡してきた可能性も大いにあると考えていたからだ。新羅は目を見開いている静雄に苦笑し、スクールバッグを持ち直して言葉を続ける。

「僕もまさか君にあげるために買ったとは思わなかったけどね」
「……買った時、あいつ誰に渡すとか言ってなかったのか?」
「うん。僕はてっきり、お母さんにあげるのかなと思ったんだ」
「母親に…?」
「うん。臨也の両親は海外に住んでいてね、来週帰ってくるって言ってたはずだよ」
「……そうなのか」

初めて知る事実に静雄は形容し難い気持ちになる。臨也は静雄対策のため静雄のことなら知り尽くしているが、静雄はといえば臨也のことを何も知らない。そもそも臨也を知るという行為が腹立たしいと思っていたからだ。年の離れた双子の妹がいるということだけは最近知ったが、両親についてなど知る由もない。新羅の言葉を聞き、臨也にも母親がいるのだと初めて思い至ったほどだ。心底嫌いで仕方がない相手とはいえ、折原臨也も人の子である。九瑠璃と舞流の存在を知った時以上に強い衝撃を受けた静雄は、それきり黙り込んでしまう。新羅はそんな静雄をじっと見つめていたが、やがて静雄の腕を掴んで歩き出す。

「君が臨也を嫌いなのは分かるけどさ、チョコは食べてもいいんじゃない?」
「あいつに貰ったモンなんか……」
「食いたくないって?でも、捨てたわけじゃないんだろ」
「……もったいねえからな」
「でも、あのチョコは何も仕込まれていないし安全だよ。せっかくの高級品なんだから、それこそ食べなきゃもったいないと思うけど」
「……まぁ……それも、そうか」

しぶしぶ頷いた静雄に微笑み、新羅はぴたりと足を止める。静雄が顔を上げると、いつの間にか家に到着していたようだった。手を振りながら遠ざかる新羅に手を振り返していると、角を曲がって幽が姿を現わした。

「……兄さんも今帰ってきたんだ」
「あぁ」
「そういえば兄さん、貰ったチョコはもう食べた?」
「えっ……いや、まだ……」
「受け取ったならきちんと食べてあげなきゃ。お返しするのは来月だけど、お礼もちゃんと言った方がいい」

まるで全てを見透かしているような弟の言葉に驚き、静雄は瞬きを繰り返した。幽は静雄の表情をどう受け取ったのか、首を傾げて兄さん?と問いかけてくる。弟に隠し事ができないことを思い知り、静雄は溜め息を吐いて頷いた。幽は僅かに微笑んで静雄を促し、玄関の扉を開ける。静雄は家に入ると、手を洗うなり真っ直ぐ自室へ向かった。紅茶でも淹れようか?という弟の申し出は、どこか気恥ずかしくて断る。流石の幽も臨也からチョコを貰っているとまでは気付いていないだろう。しかし、小さな綻びからバレてしまったらと思えば肝が冷えた。部屋の扉をしっかり閉じ、静雄は部屋の隅にあった紙袋を手に取る。カーペットに腰を下ろして、口を閉じてあったシールを剥がした。手を突っ込んで取り出した箱は真っ黒で、中央に金の筆記体で店名が記されている。静雄は赤いリボンを慎重に解くと、その蓋を開けてみた。

「おぉ」

思わず漏れ出たのは感嘆の声だった。中に入っていたのは粉砂糖とココアパウダーでコーティングされた、2色のトリュフチョコ。金箔があしらわれたそれは数こそ多くないものの、一目見ただけで高級さが伝わってくる。静雄は僅かに緊張しながら中央にあった一つを摘み、口の中に放り込んだ。上質なカカオ豆を使用しているらしいトリュフは舌の上で柔らかく溶けていく。ココアパウダーの味もほろ苦く広がるが、舌に残るほどしつこくはない。甘いものが好きな静雄は苦くないことに安堵し、口腔内に残る甘さをゆっくり堪能した。チョコレートは噛み砕いて食べることが常だったが、このトリュフは歯を立てることなく味わいたいと思わされる。―――美味い。美辞麗句を並べ立てて褒めることができない静雄は、ただシンプルにそう思った。変なものが仕込まれていないのも事実で、袋にも箱にも開封された痕跡は見当たらなかった。

「あいつは、なんで俺に……」

脳裏を掠める疑問が気になって仕方ないが、気付けば静雄の指は2個目のトリュフを摘み上げていた。粉砂糖でコーティングされているそれは1個目と味が異なるようで、溶け出したチョコレートはミルク感が強く、中心部分には苺のクリームが入っていた。ねっとりと舌に残る濃厚な甘さと僅かな酸味が印象的で、静雄はその味に舌鼓を打つ。自然と頬が緩んでしまい、ゆっくり瞳を閉じた。妙な気分だ、と静雄は思う。因縁の相手であるはずの臨也からチョコレートを受け取って、それを食べている。信じられないことをしていると思うし、今の自分が正気でない気もしてきた。しかし、口の中を満たしている甘さは紛れもなく現実だ。静雄は夢中になってトリュフを口に運び、9つあったそれらはあっという間に胃の中へと消えてしまう。空になった箱をぼんやりと見つめ、静雄は口の端についていたチョコレートを舐め取る。今まで食べてきたどんなチョコレートよりも美味かった。全てを食べ終えた静雄は中身はが増えるわけでもないのに空になった箱を揺する。甘い余韻に浸りながら箱の蓋を閉じ、転がっていた紙袋を手に取った。店名をしっかり確認しようと袋を傾けると、中から何かが零れ落ちる。フローリングにぶつかって軽く跳ね、カーペットの上にぺたりと倒れ伏した。

「なんだ、これ…?」

厚みのあるそれは底紙らしく、紙袋を傾けた拍子に抜けてしまったようだった。拾い上げたそれを何とはなしに裏返した静雄は、そこに刻まれた文字に気付いてしまう。

「す、き」

見覚えのある筆跡だった。僅かに小さめで流麗な文字を、静雄の指がゆっくりなぞる。指先に伝わる凹凸感を感じながら、静雄はもう一度それを読んだ。" 好き " ―――見間違えようのない短いフレーズに心臓がどくどくと鼓動を速めていく。厚い紙に凹凸を残すほど力強く刻まれた文字は、確かに臨也の手によって書かれたものだ。チョコレートによって齎されたわけではない眩暈にくらりと頭が揺れる。静雄は底紙を手にしたまま項垂れ、深い溜め息を漏らした。なんでもないような表情を浮かべていた臨也を思い出し、腹の底が熱を覚える。どうしようもなく素直じゃない臨也の態度にもどかしさを覚えど、怒りの感情は生まれてこない。強引に自覚させられたことは腹立たしいが、それを責めようとも思えなかった。これから約1ヶ月間どんな気持ちで過ごせばいいのか―――。静雄はぐるぐると頭を渦巻く悩みを押し殺すように、手の平を顔に押し当てた。


×


とはいえ、黙って1ヶ月間を耐え忍べる静雄ではなかった。そんな忍耐力があればガードレールを引っこ抜いたり、標識をフルスイングせずに済んでいる。他校生から喧嘩を吹っ掛けられても大人の対応ができるし、そもそも臨也と殺し合いの喧嘩などしていないだろう。臨也の様子はバレンタイン翌日から少しも変わっておらず、静雄がメッセージを見た翌日も当然なに一つ変わっていなかった。普段通り、信者であろう女子生徒たちに囲まれている臨也は楽しげだ。しかし数日前から静雄に覇気がないことには気付いているらしい。喧嘩を吹っ掛けても反応に乏しい静雄を不気味そうに見て、臨也は嫌がるように眉根を寄せた。

「なぁにシズちゃん、悩み事?君の矮小な脳味噌じゃ、難しいことを捏ね繰り回して考えたところで超絶的な打開案が生まれたりはしないよ」
「……あぁ」
「何、その反応。調子狂うし気持ち悪いんだけど」
「…………」
「じっと見つめないでよ!……なに?俺の顔に何かついてる?それとも、言いたいことでもあるの?」
「……いや、」

言いたいことなら山ほどある。簡潔に言葉にするのであれば、『お前、俺のこと好きなの?』。しかし、実際に言ったところで適当に誤魔化されるのが関の山だ。臨也の固い口を割らせるためには退路を断つことが必須だと静雄は理解していた。気味悪そうに離れていく臨也の姿を視界の端に捉えながら、静雄は立ち上がる。廊下に出てみれば、ちょうど売店から戻ってきた友人の姿が目に入った。

「新羅」
「ん?どうしたんだい、静雄くん」
「ちょっと頼みがある」

新羅は不思議そうに目を丸くしたが、静雄の神妙な表情に事情を察したのだろう。にっこりと微笑んで頷くと、屋上に行こうかと提案を投げかけた。


×


「……なんでシズちゃんがまだ残ってるのかなぁ」

呆れとも怒りともつかない呟きが静寂の中に落とされる。静雄は見えない視界の中で臨也の声だけを拾い、閉じたままの目蓋を微かに震わせた。新羅へ頼んだことは、放課後に臨也と二人きりになれる状況を作ってほしいということだった。新羅は深く理由を聞こうとはしなかったが、念のためといった様子で『臨也を殺すわけじゃないんだよね?』と尋ねた。もちろん危害を加える気などなかった静雄は肯定したが、それに対して新羅は僅かに不安を覗かせる。『君にその気がなくても臨也が君を煽ることはあると思うんだ。そういう時に彼の挑発に乗って気付けば殺してた……とか、そういうことは勘弁してほしいな』逃げ場のない場所で静雄の怒りが爆発したら、と新羅は危惧しているようだった。自分の信用のなさを自覚し、湧き上がりそうになった怒りを押し殺す。黙って頷いた静雄に新羅は微笑んで、明日の日直業務を臨也に任せると言った。教室の戸締まりは日直の仕事だ。つまり、日直の生徒はクラス全員が教室を出るまで帰れないということ。

「いい加減にしてほしいなぁ。俺も暇じゃないんだけど」

苛立ちを孕んだ声が近付いてくる。コツ、コツ、と上履きを鳴らしながら臨也が歩み寄ってきていた。静雄は伏せた体勢のまま薄っすらと目蓋を持ち上げる。夕陽の淡い光が差し込む中、長い影がふっと頭上に落ちてきた。臨也は不意に口を噤み、静雄の旋毛を見下ろしているらしい。あの瞳はどんな色をしているのだろうか。どんな表情で自分を見て、何を考えているのか。もう少し我慢せねばと思うのに、自然と静雄の身体は動いていた。

「やぁシズちゃん。狸寝入りなんてどうかと思うよ?」

顔を上げた静雄と視線が合うなり、臨也はそう言って唇を歪めた。静雄が寝たふりをしていたことはとっくにお見通しだったらしく、その声には警戒が滲んでいる。臨也はいつでも逃げられるようにか一歩後ろへ後退った。手を伸ばせば届く距離だったのに、と静雄は舌打ちしたい気持ちになる。

「……気付いてたならもっと強引に起こせばよかっただろ」
「やだよ、めんどくさい。それに、この前みたく校内でナイフを使うと後々面倒だしね。何を考えているのか知らないけど、君の茶番に付き合うほど暇じゃない」

静雄の思考が読めないと言いたげに臨也は赤い瞳を眇めた。まるで毛を逆立てている野良猫のようだ、とぼんやり静雄は思う。警戒心だけはいっちょ前に強くてまったく懐かない。そのくせ顔や挙動だけは可愛くて、触れたいのに触れられないもどかしさばかりが募っていく。

「……ねぇ、何?」
「あ?」
「今日のシズちゃん、本当におかしいよ。君の行動や思考が奇怪なのは今に始まったことじゃないけど―――そうやって俺の顔じっと見つめてきたり、……妙に口数も少ないし、何を考えてるのさ」

臨也は静雄から視線を外さないまま、上履きの爪先をトントンと鳴らした。どこか苛立っている様子で、表情は不満そうに燻ぶっている。静雄はどうするべきか考えあぐね、懐から一枚の紙を取り出した。静雄が手にしている紙を覗き込むと、臨也は訝しげに首を傾げる。

「なにそれ」
「気になるなら、こっちに来て見てみろよ」

臨也は警戒を解かないまま慎重に歩み寄って紙を摘んだ。そのまま紙を奪い取ろうとするが、静雄が指の力を強めたせいで紙を抜き取れない。臨也の非難するような視線を受け、静雄がゆっくりと口を開く。

「忘れてんの?」
「は?」
「お前が書いたんだろ」

静雄の言葉を耳にした途端、緋色の瞳が大きく見開かれた。紙を摘んでいる細い指先から力が抜けていく。静雄は裏返しにしていた紙をゆっくり回転させた。臨也にとっては見覚えのありすぎる文字が瞳に映り込む。たった二文字の言葉を目にして、臨也は分かりやすく動揺していた。

「―――……」

臨也としては静雄が気付くはずもないと思っていたのだろう。自己満足、もしくは一時の気の迷いだったのかもしれない。しかし静雄の手に渡り、見つかった時点でそれを秘めておくことは叶わなくなった。反射的に逃げを打とうとした臨也の腕を掴み、静雄は立ち上がる。邪魔な机を強引に押し退けると、けたたましい音が鳴り響いた。臨也は嫌がって身を捩るが、静雄に身体を引き寄せられて無駄な抵抗に終わる。

「そんな顔すんなよ。手前らしくもねえ」
「……俺らしいって、どんな顔?」

臨也は低く呟いて顎を持ち上げた。再び視線が合わさった時には不敵な笑みを浮かべている。先ほどまでの動揺を綺麗に隠して、薄っぺらい笑みを貼りつけていた。静雄はその表情が気に食わなくて瞳を眇める。上辺だけの笑顔で本心を覆い隠す時の臨也はろくなことを考えていない。今も例外ではなく、もっと追い詰めて引き剥がしてやりたいと狂暴な気持ちが牙を剥きそうになる。

「あはは!そんな紙切れ一枚を信じ込むなんて君は馬鹿だね。もしかして、真に受けて喜んじゃった?それとも、からかわれたと思って怒ってるのかな?」
「……」
「それを俺が書いたなんて証拠は無いよ。そもそも、あのチョコレートを俺が買ったなんて保証すらどこにも無い」
「新羅から聞いた。新宿まで買いに行ったんだろ」
「……あぁなんだ、新羅から聞いたのか。じゃあ今日、日直を押し付けてきたのも君があいつに頼み込みでもしたから?へぇ、そんなに俺と二人きりになりたかったんだ。随分と熱烈だね」
「これ、お前の文字だろ」
「さあ、どうだろうね?俺の筆跡なんてそんなに特徴的でもないと思うよ。大体、たった二文字で俺の筆跡だと思い込むなんて君も単純だね。それに、たとえ俺が書いていたとしても本心から書いたとは限らない。君の気持ちを弄ぶためにわざわざ紙袋の底紙に仕込んだのかもしれないじゃないか」

臨也はとめどなく喋り続ける。静雄の視線を浴び続けてもなお、怯むことなく睨み上げて微笑んだ。美しい笑みは完璧に見えるのに、どこかいびつだ。

「ねぇシズちゃん、大嫌いな俺から好きだなんてメッセージを受け取ってどんな気持ち?胸糞悪くなった?それとも、本気だと思ってドキドキしちゃったかな?君が人間なら俺に遊ばれて揺れ動く心の機微まで愛してあげたけれど、残念ながら君は化け物だ。俺が愛するには値しない存在だよ」
「……へぇ」
「―――怒らないの?……本当に今日の君は気持ち悪いね。化け物は化け物らしく理性を失くして怒り狂うのがお似合いだよ」

静雄の気のない返事と無表情さに焦れたらしく、臨也は焦燥も露わに舌打ちをした。普段なら怒りのボルテージを容易く上げていく言葉の数々も、今は静雄の耳を右から左へとすり抜けていく。臨也は言葉を巧みに使って追及を逃れられると思い込んでいるようだったが、臨也がこうやって饒舌になっている時は嘘を吐いているか調子に乗っているかのどちらかだ。そして今はその両方に相当すると理解している静雄の感情が、怒りに傾くことはない。

「手前、嫌がらせの為に5,000円もするチョコを買うのかよ」
「あんまり安価なチョコだと君を騙せないと思っただけさ。まぁ君は安物でも喜んで食べるだろうけど……包装や箱がしっかりしている方が"本気"みたいだろ?それに君、無駄に勘だけはいいから」
「へぇ?でも意外だな。悪戯なら毒でも仕込まれてるかと思ったが、匂いも味も変なところは一つも無かったぜ」

静雄が呟くと、臨也は顔を上げて瞠目した。ルビーのような瞳が軽く見開かれ、表情が僅かに引き攣る。薄紅色の唇が小さく開いて乾いた声を吐き出した。

「……もしかしてシズちゃん、食べたの?」

信じられないと言いたげな反応が理解できず、静雄は首を捻った。食べてほしくて渡したんじゃないのか。臨也の顔を数秒間じっと見つめたが、何を考えているのかは理解できなかった。静雄は小さく頷いて口を開く。

「当たり前だろ。もったいないじゃねえか」
「……ははっ、もったいないからって普通食べる?」
「食うだろ」

静雄が即答すると臨也は面食らったように黙り込んだ。反応からするに開けられることもなく捨てられると思っていたのだろうか。それならば、袋の底に仕込んだメッセージを見られることがないと高を括っていたのも理解ができる。小さな反応の一つ一つから臨也自身がメッセージを書いて可能性が濃厚になっていることに、静雄は知らず知らずの内に頬を緩ませた。

「俺から貰ったチョコを食べるなんて、これだからシズちゃんは…」
「ありがとな」

臨也の言葉を遮って静雄は礼の言葉を口にした。熟した果実のように赤らんだ陽光が教室に差し込み、それを浴びた黒髪が艶めき輝く。臨也は黙ったままで静雄を見上げている。臨也が既に逃げ場を失っているのは明白だった。強引に言葉を引き摺り出したい気持ちもあるが、そうするべきではない気がする。静雄が考えあぐねていると、臨也の肩が居心地悪そうに揺れた。

「シズちゃんって、つくづく馬鹿だよねえ」

ふと視線を戻すと、臨也は眉根を寄せて静雄を睨んでいた。様々な感情が綯い交ぜになった表情で静雄をじっと見上げ、それから深い溜め息を吐く。呆れた様子で肩を竦めて微笑んだ。

「……馬鹿じゃねえよ」
「馬鹿だって。普通はね、殺し合ってる相手からチョコ貰っても口にしたりしないんだよ」
「貰ったモンをどうしようが俺の自由だろ」
「それに、わざわざ袋の底からメッセージを見つけ出したりもしない」

臨也は静かな声で呟いて瞳を眇める。窓の外から差し込む陽光を眩しがるような表情で、静雄をただ見つめた。臨也の視線を浴びながら、静雄はどこか神妙な気持ちになる。礼の言葉など、一生言うことのない相手だと思っていた。変なこともあるもんだと思いながら、何の気もなく手を伸ばす。触れた肩を引き寄せてみると、何の抵抗も感じられない。すっぽりと腕の中に収まった臨也の体温はひどく心地よく、落ち着いた。

「……何やってんの」
「何やってんだろうなぁ。俺も、手前も」

―――馬鹿なのは俺だけじゃない。静雄はそう思いながら臨也を抱き締めた。されるがままの臨也は反論の言葉を失ったように黙りこくっている。静雄は緊張感で詰まりかけた息を吐き出した。急激に喉が渇いて、吐き出した声が掠れそうになる。

「チョコ、美味かったぜ。高そうだしゆっくり食おうと思ったのに、気付いたら全部食っちまっててよぉ……」
「9個もあったのに一気に全部食べたの?いくら甘いもの好きでも限度があるだろ」
「仕方ねえだろ。美味かったからどんどん手が動いちまってたんだ」
「……ふうん」
「食わねえで捨てる方がもったいないと思ったけど、ちょっと後悔したな。もっと味わえばよかった」

そう口にすると、あの時食べたトリュフの味がひどく恋しくなった。濃厚で甘ったるいあれを、また味わいたいと思う。静雄は腕の力を緩めて腕の中の臨也を見下ろした。

「なに?」
「……惜しいことしちまったなと思って」
「君の食い意地の汚さには流石の俺も閉口するよ。俺だったら胃もたれしてるね」

呆れたように肩を竦める臨也を見つめながら、静雄は記憶を反芻する。一際甘かったあのトリュフに入っていたのは苺のクリームだった。甘いチョコレートの中に秘められた甘酸っぱい苺―――静雄はそれを臨也に重ねる。赤い瞳だけではなく、薄く色づいた艶やかな唇まで似ているような気がした。

「?……シズ、ちゃ…?」

臨也の頭上にふっと影が落ちた。ぱちぱちと瞳を瞬かせた直後、唇に柔らかな感触が訪れる。ピントが合わないほど近くにある静雄の顔に、臨也の思考は完全にストップした。触れるだけの口づけは一瞬で終わり、臨也は呆然と静雄を見上げる。静雄は熱っぽい瞳で臨也を見下ろしたまま、唇を舌でなぞった。まるでチョコレートを舐め取るような所作に、臨也は言葉を失う。

「なあ、臨也……貰ったチョコは美味かったけどよ、あれじゃ満足できねえわ」
「……は?」

唐突に落とされた言葉に、臨也はようやく反応できるだけの余裕を取り戻した。熱を帯びた靄が晴れた先の視界では、静雄がどこか不満げに瞳を眇めている。その表情を見ていると急激に怒りが込み上げてきて、臨也は静雄の腕から抜け出してびくともしない胸板をドンドンと殴りつけた。拳が痛むが、今そんなことはどうでもいい。静雄の好きにされたことに加え、横柄な発言に臨也は苛立っていた。

「ちょっと、なにその顔。勝手にキスしておいて謝罪もないわけ?それに、高級チョコで満足できないなんて化け物のくせに生意気だ…!」
「あー……」

静雄は不明瞭な声を上げながら臨也を見下ろしていたが、不意に溜め息を吐くと臨也の拳を掴む。あっさり受け止められた拳はどれだけ力を込めてもびくともしない。このまま粉砕されてしまうのでは、と臨也は嫌な予感に襲われた。しかし、静雄はそれ以上手に力を込めることなく、呆れたように半目で臨也の顔を覗き込む。

「……その生意気な化け物を好きなのは一体誰だよ?本当に嫌なら拒めただろうが。俺のことを好きだから拒まなかったんだろ」
「そんな、わけ……っ!」

透き通ったルビーの虹彩が焦燥に揺れる。それを見逃さなかった静雄は、吐息混じりの笑みを零した。

「それによぉ、来月まで待つことないぜ。今すぐ、手前が満足するまで仕返ししてやるからな」

静雄は受け止めていた臨也の拳を握り直し、強引に引き寄せる。もう逃がしてやるつもりはなかった。臨也自身の口から2文字の言葉を引き出すためなら、甘美な唇を再び味わうのもやぶさかではない。


end.




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