ノエルより甘やかに響く




スピーカーから流れはじめたのは、陳腐なクリスマスソングだった。臨也は端正な顔が歪むのも構わずに眉根を寄せる。メールが届いているのを確認した時点で、添付されたファイルには気が付いていた。画像にしては大きいファイルサイズを確認し、臨也の頭の中に忌まわしい女装動画の記憶が蘇る。あの時は大して気にしていなかったが、明らかなフェイクである動画を信じた人間は少なからず存在した。好奇から尋ねてくる場合は軽くあしらえば済んだものの、問題は本気で信じていた人間だ。人の噂も七十五日と言うものの、結局臨也は半年近くあの動画のせいで苦しめられることになった。記憶が鮮明になる前に奥底へ追いやり、臨也はマウスを握り直す。

「…………」

仕事関係でメールを送ってくる場合は、事前にチャットルームで言及してくる男だ。ふざけた内容である可能性が拭えない以上、削除してしまえばいいとこれまでの経験で理解している。しかし、臨也の人差し指は既に左ボタンを押し込んでいた。カチリ、と音がして一瞬のうちにメールが展開される。添付されているファイルは動画で、ファイル名には中身が分かるような情報は見当たらない。何をしているんだ、と思いながらもマウスを動かし、カーソルはファイル名の上に移動する。マウスオーバーされたことによりカーソルの矢印が指の形に変わった。今からでも遅くはない。上部にあるゴミ箱のアイコンを押せばメールは削除される。それなのに、臨也の指は再度左ボタンをクリックした。その途端、スピーカーから陽気な音楽が流れ出す。

「―――…!」

予測できない出来事に思わず肩が小さく跳ね、臨也は目を瞬かせた。赤い虹彩に映り込むのは、画面の中で動き回る小さなサンタクロースとトナカイのアニメーションだ。その上部から降ってくる白いものは雪だろう。毎年街で流れているせいで聴き慣れてしまった、電子音で紡がれたありきたりなクリスマスソング。耳を傾けているうちに、今の状況の滑稽さに笑いが込み上げてくる。季節のイベントは大好きだ。クリスマス、バレンタイン、ホワイトデー、ハロウィン等。聖書を原典とし、あるいは商業的な目的によって作られたその日に人々は大いに浮かれるのが常だ。中でもクリスマスは日本では恋人と過ごすことがセオリーとなっていることから、その日の為に自分磨きや恋人探しに奔走する人間が多い。既に恋人が居る者は恋人にクリスマスプレゼントを贈るために貯蓄をしたり、普段以上に仕事に勤しむ。臨也はそんな人間の常と異なる様子を眺め、時には手を貸して楽しんでいる。それが、今はどうだ。クリスマスプレゼントや愛の言葉を贈られたことは多々あれど、一分のメッセージの伴わないグリーティングカードを贈られたのは生まれて初めてだった。現状に自分の反応をも含めて笑いながら、臨也は握っていたマウスから手を離す。

『臨也くん、どうしちゃったの?』

クリスマスソングが流れ続けるスピーカーの中から、どこかあどけない響きの合成音声が流れた。臨也は笑みを浮かべたまま、静かにその声に応える。

「平気だよ、サイケ。お前が心配するようなことじゃない」
『本当に?このカード、九十九屋から?ウイルスとかは入ってなかったよ』
「あぁ……ウイルスでも仕込まれていた方がまだマシだったな」

臨也はそう呟き、浮かべていた笑みをすっと消し去った。アニメーションが流れ続けるグリーティングカードの右側―――画面の中に臨也と同じ顔の少年が姿を現わす。臨也より少し幼い見た目の少年は、不思議そうに横からグリーティングカードを覗き込んだ。

『雪が降ってる!』
「本物の雪じゃないよ」

目を丸くしたサイケに臨也は指摘すると、少年は機嫌を損ねたのか頬を膨らませる。わかってるよーと呟きながら、サイケはグリーティングカードのウィンドウにふわりと飛び乗った。電子空間に重力など存在しないのか、それとも好きに操ることが出来るのか―――臨也にはその仕組みまで理解できない。雪のように真っ白なファーがついたフードを揺らしながら、サイケはウィンドウの上で危なげなくバランスを取る。平均台の上で遊ぶような振る舞いは幼子のようだ。

『でも、そんなに面白いもの?』
「愉快……ではないかな。言ってしまえばその逆さ」

臨也は無表情の上に不快感を滲ませ、緋色の瞳を眇めた。その瞬間、画面上に通話アプリが出現してコール音が鳴りはじめる。サイケは少しも驚くことなく、アプリのウィンドウを臨也の眼前へ移動させた。

『臨也くん、着信だよ』
「いい。出ないから切って」

臨也はにべもなく斬り捨てるが、サイケは着信を切ろうとはしない。それどころか、小首を傾げて画面の中から臨也の顔をじっと見上げてきた。幼い頃の自分によく似た顔に見つめられる居心地の悪さと、クリスマスソングに被せるように鳴り響くコール音に苛立ちが募る。臨也は自らの手でアプリごと落としてしまおうとマウスに手を乗せたが、それよりも早くサイケの細い指先が動いた。臨也がマウスを動かす前に勝手にマウスカーソルが通話アプリの上に動き、通話ボタンが押下される。

「サイケ…ッ!」
『おや―――お取込み中だったかな?折原』

臨也の鼓膜を揺らしたのは、サイケとはまた異なった響きの合成音声だった。サイケの仕業なのか、直前まで鳴り響いていたクリスマスソングは消音されている。サイケも画面から自身のアバターと通話アプリ以外のウィンドウを消し、臨也の視界には通話アプリだけが映り、耳には"彼"の声だけが届く。

「…………」
『……聞こえているんだろう?居留守なんて感心しないな。あぁ、通話で居留守という表現は少しおかしい気もするが』
「うるさい」
『はは、ご機嫌麗しくはないようだ。十中八九、サイケデリックに振り回されているのかな?』
「……お前が送りつけてきたんだ。顔は俺に似せてあっても、性格の悪さはお前譲りだな」
『おやおや。俺はあいつの開発者じゃないぞ。それに、サイケデリックの性格は折原をベースにカスタムしてある。俺から何かを学習していると考えるのは無理があるぞ』

笑みを含んだ声が返ってきて、臨也は煩わしさに歯噛みした。画面をギッと睨みつけていると、やがて柔らかな声が投げかけられる。名を呼ばれただけなのに皮膚が粟立つような感覚を覚え、臨也の唇がいびつに歪んだ。

『折原』
「…………」
『そう無視されると寂しいな。返事ぐらいしてくれ』
「……何だよ」
『グリーティングカードは見てくれたかい?』
「あんなものを贈ってくるなんて、極めて理解不能だ。一人で過ごす俺を嘲弄しているつもりか?」
『とんでもない。そんな風に受け取られてしまうとは切ないな』

九十九屋は溜め息交じりに零す。合成音声では声色の変化が感じ取れない。九十九屋がどんなつもりで言っているのか理解できず、臨也は眉を顰めた。

「メッセージも無しに意味を理解しろなんて無茶にも程がある。薬物の取引暗号でもあるまいし」
『ふむ……』

九十九屋は何か考え込んでいるのか、数拍間口を閉ざしてしまった。臨也は呆れ混じりの溜め息を吐き、いよいよ通話を切ろうとマウスを動かしかける。つまらない茶番に付き合う道理など何処にもなく、ここまで相手をしてしまったことを悔いはじめていたからだ。しかし、終了ボタンを押下しても通話が切れることはない。違和感を感じてよく確認すれば、ボタンにマウスオーバーしているのにカーソルは矢印の形状を保ったままだ。

「サイケ!いい加減にしろ!」

臨也はとっさに叫ぶが、サイケは自身のアバターを現わすことなくスピーカーからさざ波のような笑い声を上げるのみだ。明確に揶揄されていることに対して臨也の中に怒りが込み上げる。いくらなんでも今日のサイケはタチが悪い。朝から妙に浮かれた様子でクリスマスについて根掘り葉掘り聞いてきたのも、九十九屋と共謀していたからではないのか。そんな疑心に駆られて再びサイケを叱りつけようとした臨也を諫めたのは、ざらついた合成音声だった。

『折原、そう怒ってやるな』

温度が感じられにくい声だというのに、九十九屋がこちらを宥めようとしているのは嫌でも理解できる。まるで子どもを窘めるような物言いが癪で、だが反論するのも子供じみている気がして唇を噛む。

『……そんな顔をさせたいわけではなかったんだがなぁ』

九十九屋はまるで目の前で表情を見ているかのように呟き、静かな声で臨也を呼んだ。ゆるゆると顔を上げると、無機質な画面の中には相変わらず通話アプリのウィンドウが鎮座している。

『ヘッドフォンはあるか、折原』
「……は…」
『つけてくれないか。何、嫌がらせをしようというわけじゃない』
「…………」

臨也はしばらく黙り込んでいたが、やがてデスク横に引っ掛けていたヘッドフォンを手に取った。師走が近いこともあり、朝から忙しくしていて疲労していた。サイケと九十九屋に振り回されてその疲労も極まっていたが、ここまで来るとどうでも良さが上回る。力なく手に取ったヘッドフォンを耳に嵌め、端子をパソコンに差し込んだ。念のために音量を確認して、それから口を開く。

「したけど」

臨也が素っ気なく言うと、間を空けずに耳元でプツリという音が鳴る。何の音だと臨也が首を捻った瞬間、鮮明な男の声が耳元に落ちてきた。

「―――折原」

初めて聴くはずなのにどこか耳馴染みのある、柔和な響きを持った声。臨也は開いた唇を閉じることも忘れて、呆然と画面を見つめた。はく、と吐息が零れる微かな音まで拾い上げたのか九十九屋は喉を鳴らして笑う。鼓膜を擽るような笑みにじわりと耳朶が熱を孕んでいった。ヘッドフォンと髪のお陰でバレないことに僅かな安堵を覚えつつ、臨也はようやく声を発する。

「なん、で……」
「録音アプリを起動するのは諦めてくれよ。まぁ仮に起動したところで、可愛いアンドロイドが強制終了してくれるだろうが」
「そうじゃない…!どうして、急に―――こんなこと、今まで一度も」

珍しく動揺を隠せない様子の臨也に笑みを零し、それから九十九屋はゆっくり話しはじめた。姿を見たこともない、長年追い続けていても尻尾すら見せない男が自らの声で喋っている。声を聴いたことで、臨也の中にぼんやりとした輪郭が浮かび上がっていくような感覚が訪れる。

「まぁ、言うなればただの気まぐれさ」
「は…?」
「今日は聖夜だろう」
「それとこれと……何の関係があるんだよ」
「贈り物だなんて恥ずかしいことを言うつもりはないが……サプライズをしてみるのも悪くないと思っただけだ。予想以上の収穫もあったしな」

僅かな笑みを含んだ声が耳元に落とされ、臨也の頬が次第に熱を持っていく。揶揄されたのだと強く認識し、悔しさにマウスを強く握り締めた。そんな臨也の様子に気が付いたのか、九十九屋は少し困ったように息を吐く。珍しく言い淀むように不明瞭な声を紡いでから、臨也の名を呼んだ。

「あー……折原?別にからかったわけじゃない」
「面白がっているのは事実だろう」
「そう拗ねるな。珍しい表情や反応が見れたのは喜ばしいことだったが、何もお前を貶めているわけじゃない。どう言えば解ってくれるかな」

九十九屋の言葉に臨也は押し黙った。困ったように投げられた言葉の距離感が妙に近く感じられて、それを違和感として認識しているのに撥ね退けられない。自分の中に咀嚼できない何かが芽生えかけていることに気付き、それを遮断しようと目を伏せた。耳元でサイケが不安そうに臨也くん?と囁く。臨也はそれを無視して口を開いた。

「そんなことはどうだっていい。他に用がないならもう切るぞ」
「おや、クリスマスなのに人間観察にも出かけないのか?」
「昨日もう十分に楽しんださ。俺だって人間だ、疲労や睡魔には勝てない」
「……そうか。残念だ」

臨也は通話終了ボタンの上にカーソルを移動させる。今度はサイケに阻まれることなく、ボタンは押下できる状態にあった。指先に力を込めようとしたが、胸の中を渦巻くモヤモヤとした気持ちが拭えない。

「なぁ折原、切る前に一つだけいいか?」
「くだらない話なら聞くつもりはない」
「くだらないと捉えるかどうかはお前次第だが」
「なに……」
「メリークリスマス」

たった一言だったが、甘い響きを伴って鼓膜を揺らした言葉に臨也は瞠目した。気が付けば手はマウスから浮き上がっていて、そのまま呆然と動きを止める。無機質なモニターには変わらず通話画面が映っていた。数拍の間があって、九十九屋が言葉を紡ぎはじめる。穏やかな声だったが、どこか躊躇いながら話しているようにも感じられた。

「一度、こういうことを言ってみたくてな。誕生日ってのも考えてみたが、妙に恥ずかしい。バレンタインは嫌がりそうだし、それならクリスマスかと思って」
「お前、なぁ……」
「……折原?」
「お前の羞恥の基準が、分からない」

臨也は重い溜め息を吐きながら額に手を当て、そのまま俯いた。画面を直視することもままならず、ただテーブルを見つめたままで動きを止める。ヘッドフォンの向こうからはしばらく無音が続き、結局その沈黙を破ったのは臨也の方だった。

「馬鹿」
「……馬鹿とは随分な言いようだな。お気に召さなかったか?」
「そういう問題じゃない」
「俺の居所が知れた方がよかったか?」
「いや、お前の所在は自分で探る。お前から教えられても嬉しくはないんでね」
「そうか。……でも、今夜ぐらいは許してくれよ」

九十九屋の声がふっと柔らかくなり、どこか甘えるように伺いを立ててくる。普段なら鬱陶しいと斬り捨てるであろう言葉なのに、耳元で囁かれるだけで拒否しきれなかった。臨也は俯いたままでぐっと唇を噛み締める。返事を待っている相手に答えなければ、と思うのに上手い言葉が出てこない。

「折原?」
「九十九屋……お前、本当に……覚えておけよ」

やっと吐き出した言葉は頼りなく、今にも消え入りそうだった。ヘッドフォンの向こうでは穏やかな笑い声が繰り返されている。臨也は恨めしい気持ちで再び溜め息を吐き、熱い頬を誤魔化すためデスクに伏せた。ヘッドフォンからは小さくクリスマスソングが流れはじめたが、先程と同じではない。サイケが紡ぐ軽やかな歌に耳を傾けながら、臨也はそっと瞳を閉じる。窓の外、煌びやかな夜景の上には真白い雪が降りはじめていた。


end.




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