セプテンバー・ラヴァーズ

※門田誕生日



9月15日は門田京平の誕生日である。夏休みが終わって二週間後という時期ということもあり、休み明けのテストなどに追われていればあっという間に過ぎ去ってしまう―――そんな一日。高校生になった門田はそこまで自分の誕生日に頓着することもなく、祝われれば嬉しいというスタンスだった。とはいえ自分の誕生日をアピールする性格でもないので、誰かに問われない限り自分から口にすることもない。しかし、他人の誕生日を口外しまくる人間が傍に居れば話は変わってくる。

「ドタチンって15日が誕生日だったよね!」

教室に到着するなり満面の笑みで話しかけられ、門田は動きを止めた。いきなり何を……と視線を向ければそこに立っているのは折原臨也だった。怒れる破壊神と恐れられる平和島静雄と互角に渡り合える唯一の人間であり、奇人と有名な岸谷新羅の友人であり―――門田のクラスメイトである。

「……お前に誕生日を教えた覚えはないんだがな」
「やだなぁドタチン、誕生日なんて君の中学の同級生の何人かに聞けばすぐに分かるよ」

門田は溜め息を吐きながら教室内に足を踏み入れ、纏わりついてくる臨也をあしらいながら自席に腰を下ろした。鞄をかけて教科書を取り出し、引き出しの中へと突っ込む。その間も臨也はどこか上機嫌で、調子外れな鼻歌などを歌っている。

「ねぇねぇ、ドタチンは何が欲しい?」
「何の話だ……というか、その呼び方やめろって言ってんだろ」
「誕生日プレゼントに決まってるでしょ」
「…………は?」

間の抜けた声が漏れてしまったのは、それが予想外の台詞だったからだ。高校生になって同性のクラスメイトから誕生日プレゼントについて尋ねられるとは思わなかった。それに加え、臨也とは特別親しい仲ということではない。仮に誰かから「折原臨也と友人なのか」と問われても、答えはNOだと胸を張って言える自信が門田にはあった。周囲からは臨也が懐いていると言われることがしばしばあるが、その多くが静雄から逃げる際の隠れ蓑にされているだけである。幸いなことに門田が二人の喧嘩に巻き込まれたことはないが、計算高い臨也が上手くバランスを取っているのだろうと予想に難くない。だからこそ、そんな臨也から突拍子もないことを言われて困惑するのは至極当たり前だろう。

「……なんでまた唐突に……」
「え?そう?でも好きな相手に贈るのって当たり前なんじゃないの」

―――今、こいつはなんと言った?門田は不自然にぴしりと動きを止め、立ったままの臨也をぎこちなく見上げる。相変わらず楽しそうな笑みを浮かべている臨也にいつも違う様子は見られない。おかしいのは、今日の言動全てだけだ。

「……なんだって?」
「だから、好きな相手に誕生日プレゼントを贈るのは当たり前でしょ?って」
「好きな相手…って、」

同じ言葉を繰り返した臨也に突っ込みを入れようとして門田は思い留まる。人間が好きだと豪語する臨也のことだ、好きという言葉に必ずしも恋愛の意味があるとは限らない。とはいえ、ここまで三年間の付き合いでこのようなことを言い出すのは初めてだ。意味を図りかねて口を噤んでいると、不意にチャイムの音が鳴り響く。臨也は不思議そうに門田を見下ろしていたが、チャイムを聞くなりひらりと手を振って自席へ戻ってしまう。軽やかな足取りにいつもと異なる点は見受けられず、門田はこめかみが痛むのを感じた。周囲のクラスメイトが小声で囁き合っているのも耳に入ってきて、頭まで痛んでくる気がする。変な噂を立てられるのは御免だというのに、また意味の分からない話に尾ひれがついていきそうな予感がした。


×


「ねぇドタチン、欲しいものは決まった?」

翌日の放課後。ホームルームが終わった途端にやって来た臨也の声はやけに弾んでいた。門田は宿題のある教科の資料集や教科書を鞄に詰めながら、視線は上げないまま薄い唇を開く。顔を見なくても臨也が笑顔を浮かべているのが分かった。

「そもそもプレゼントが欲しいなんて俺は言ってないぞ」
「……ドタチンさぁ、俺が朝言ったこと覚えてる?」

臨也の声がワントーン低くなった。門田は鞄を閉めて、ゆっくり視線を動かす。臨也はどこか不満そうにじっとりと目を細め、門田を睨みつけていた。拗ねたような表情は普段からよく見ていたが、こんなにも不機嫌を露わにした視線を向けられるのは随分と久しい気がする。立ち上がろうと椅子の背にかけていた手を戻し、門田は困惑に眉根を寄せた。

「何を―――怒ってるのか?」
「質問に答えて」
「覚えてる……が、」

あれはどういう意味だったんだと尋ねても、深い意味はないんだろうと言い切っても、色よい結果に繋がるとは思えなかった。門田は言葉に詰まって僅かに視線を泳がせ、細い腕をそっと掴む。臨也は少し驚いたように目を瞠り、それからすぐに笑みを貼り付けた。

「言葉の意味が分からなくて困ってる?」
「困らせようとして言ったんだろ」
「あはは、正解」

臨也は笑いながら軽く身を屈め、門田に顔を寄せた。周囲にいた女子生徒たちが黄色い声を上げるが、臨也は少しも躊躇する様子を見せない。門田の瞳をじっと覗き込むと、それからオールバックに固められた前髪を指先で突いた。

「おい、髪が崩れるからやめろ」
「こんだけガチガチに固めてたらそう簡単に崩れないよ。んー、でも……そうだなぁ。君は慎重派だよね」
「は?」
「俺はさ、人間のことが好きだけど……ドタチンのことは特別な意味で好きかもってこと」

そういうこと。臨也は語尾に音符が付きそうなほど悪戯っぽく笑う。周囲の女生徒たちは会話の内容までは聞こえなかったらしくざわめき立っていた。臨也はそんな周囲の喧騒を無視して踵を返すと、真っ直ぐに教室の出口へ向かって歩いていく。教室を出る寸前で一度だけ振り返り―――余計な一言を門田へ残して。

「じゃあ誕生日プレゼント楽しみにしててね!俺、ドタチンのことだーいすき!」


×


「どうして俺なんだ」

数日後の帰り道でそう尋ねた理由は、単純に理解できなかったからだ。臨也は不思議そうに首を傾げ、門田を見上げて柔和に微笑む。ルビーのような赤い瞳が細められると、猫のようにも蛇のようにも見える気がした。

「うーん、ドタチンは優しいから?」
「…………」
「え、なにその顔」

返された言葉に門田は思わず眉を顰める。曖昧すぎる上に疑問形で返されて、その言葉を信じる気にはなれなかった。門田は臨也を無視して歩き出す。ポケットに突っ込んだ腕にするりと手を回り、ぎゅっと温かい体温が密着してくる。臨也は横から門田を見上げ、甘えるように頭を擦りつけてきた。

「怒った?」
「怒ってねえよ」
「……じゃあなんであんな顔したの」

あんな顔、と言われても自分自身が浮かべた表情は分からない。そんなに嫌そうな顔をしていただろうかと視線を落とすと、臨也はあからさまに拗ねた表情だ。門田は目の前の黒髪を乱暴に掻き回す。艶やかな髪を急に乱され、臨也はぎゃっと悲鳴を上げた。

「色気のない声」
「う、うるさいなぁ。もう、ぐちゃぐちゃ……」

細い指先が乱れた髪を撫でつけようと動くのを見下ろして門田は忍び笑う。僅かに溜飲が少し下がり、視線を空へと移動させる。夕陽によって仄かに赤らんだ空は、これから色濃くなる気配に満ちていた。まだ夏の暑さを残した9月の上旬の夕焼けに、二人の背中はゆっくりと染まっていく。門田の誕生日は、数日後に迫っていた。


×


誕生日が近付くにつれ、臨也の誕生日プレゼントの希望催促は回数を増した。べたべたと人目も憚らずにくっついてこられるせいで、門田は数人のクラスメイトや臨也の友人である岸谷新羅に関係を誤解されている気がしていた。本日も例に漏れず臨也に絡まれ、重い溜め息を吐きながら臨也を引き剥がした瞬間に目の前の金属の扉が大きく開け放たれる。門田が階段を上っていた足を止めると、そこに立っていたのは明るい金髪が眩しい一人の男子生徒だ。反射的に口の端が引き攣るのを感じ、門田は隣の臨也へ視線を移す。心底嫌そうな表情を浮かべた臨也は舌打ちを漏らし、門田の腕を掴んで引っ張った。

「ドタチン、やっぱり屋上はやめよう」
「……お前が屋上がいいって言ったんだろ」
「俺がこの怪力魔人と同じ場所で昼食を摂りたいと思うの?」

本人が目の前にいると言うのに臆すことなく罵詈雑言を並べ立てられる神経だけは立派だ。門田が窘めようと口と開いた瞬間、開かれていた扉がけたたましい音を立てて閉じられた。強い力で閉じられた金属の扉はズレた状態で枠にめり込んでおり、屋上へ行くことは困難だろうと見て取れる。

「……屋上にはもう行けなさそうだな」

静雄に聞こえないよう小さく呟くと、臨也は同意のつもりなのか門田の腕に強く抱き着く。それを見て静雄は眉を顰めたが、それよりも怒りの方が強かったのか大声を張り上げた。

「おい!待ちやがれ!」

ビリビリと鼓膜を揺らす低い声が踊り場から廊下へと反響し、遠くからざわめく生徒たちの声が聞こえてくる。周りの目を集めるのを好まない門田としては、この状況を早く打開したいというのが正直なところだ。

「いーざーやーくんよぉ……会った瞬間に悪口とはいい度胸じゃねえか」
「ちょっとシズちゃん、やめてよ。俺は今からドタチンとご飯なの。邪魔しないで」
「メシだぁ……?人に謝罪も出来ねえノミ蟲野郎にメシ食う資格なんざねえよ」
「意味分かんないし暴論すぎ。ドタチン、もう行こうよ」
「お、おい、臨也っ…!」

強引に腕を引っ張られ、門田は慌てて臨也の後に続く。背後から静雄が追いかけてくる気配を感じ、背筋が冷たくなる。しかし静雄は階段を数歩下りただけで足を止めたらしい。階段を下り終わった門田が振り向くと、静雄は複雑そうな表情でこちらを見つめていた。鳶色の瞳にはどこか哀れむような色が浮かんでいる。それを目にして、門田は自分があの静雄に同情されていることに気が付いた。

「……はぁ……」

門田の口からは自然と溜め息が零れていた。静雄とは滅多に会話することがないが、その多くが臨也と行動している時にしか出くわさない。最初の頃は「お前はノミ蟲野郎の何なんだ」と疑われたものの、その疑いはすぐに晴れた。しかし門田を巻き込むことは本意ではない静雄は、門田が居ると必ず行動を阻まれる。それが臨也の仕組んだこととは理解しているが、門田を好ましく思うことはできない―――そんな空気を常に纏っていた。門田としても静雄に事情があることは理解していたが、その滅茶苦茶な喧嘩のスタイルに理解を示すことは難しいと思っている。だから互いに適切な距離を取っていたとも言えるのだが、同情されていたというのは少し情けない話だ。

「なに、どうしたのドタチン。眉間にすごい皺寄ってるよ?」

臨也は門田の様子がおかしいことに気付き、足を止めて顔を覗き込んでいた。身長差のせいで下から見上げられる形になり、臨也は手を伸ばして門田の眉間を指先で突く。お前のせいだと言ってやりたいのは山々だったが、臨也の場合はそれを知ったところで門田が置かれている状況を楽しむだろう。門田は臨也の手を振り払って再び歩き出す。屋上へ来る前に購買に寄っていたので、昼休みは既に半分ほどになってしまっている。中庭は多くの生徒で埋まっていることが明白で、もう教室へ戻るしかないだろう。門田が教室へ戻ろうとしていることを察し、臨也は不服そうに頬を膨らませた。

「教室戻っちゃうの」
「他に空いてる場所なんかねーだろ。今日はもう諦めろ」
「えー……だって、ドタチンと二人で食べたかったのに」

思わず視線を動かしてしまって、失敗した。臨也は本気なのか冗談なのか読めない笑みを浮かべている。形の良い薄紅色の唇が綺麗な弧を描いていた。からかわれているだけに決まっている。そう思い直して門田は視線を逸らそうとする。しかし、その瞬間―――臨也の瞳の奥に灯った炎に気が付いてしまった。その炎は小さいながらも情欲を色濃く滲ませて揺らめいている。それを目にした瞬間、門田は理解してしまう。臨也は決して冗談で言っているわけではない。本気で自分のことを好きなのだと。友愛を超えた恋愛の意味で、自分に想いを寄せているのだと。

「ドタチン?」
「……なんでもねえ。馬鹿なこと言ってないで戻るぞ」

動揺を誤魔化すために口にした粗暴な言葉を聞いても、臨也は穏やかに微笑む。教室まではあと数メートルだ。その距離が、門田にはひどく遠く感じられた。


×


そして迎えた誕生日当日。臨也の騒がしさはそれまでの比ではなかった。朝は校門前で待ち構えていた臨也に捕まってそのまま教室まで同行した。休み時間になるたびに門田の元へやって来た上に、昼休み中もべったりだった。門田はクラスメイト達から哀れみの視線と祝いの言葉、そしてコンビニで買って来たであろう菓子類を大量に受け取る羽目になり―――そして放課後を迎える。当たり前のようにやって来た臨也は、まだ座っている門田の手を掴んで引っ張った。ニコニコと満面の笑みを浮かべながら。

「ドタチン、一緒に帰ろ!」
「……それは構わないが、プレゼントはいらないぞ」
「えー、強情だなぁ。図書カードならドタチン使うでしょ」
「それにしても五千円分も一万円分も寄越そうとするんじゃない」
「だってドタチン、最近は洋書ばっかり読んでるでしょ?あっという間に使い切っちゃうよ」

強く腕を引かれて門田はしぶしぶ立ち上がり、尚も食い下がろうとする臨也に溜め息を漏らす。基本的には図書室や区立図書館で本を借りることが多いため、自分で本を買うことは少ない。本を購入する場合は小遣いからにはなるが、門田には臨時収入が入ることがあった。父が左官屋を営んでいることもあり、幼い頃から家業の手伝いをしている。そのため、長期休暇の時には多めの臨時収入があるということだ。実際、今も夏休みの後ということで金銭的には余裕がある方だ。

「遠慮しておく」

教室を出て歩きはじめると、臨也は許可も得ずに門田の腕にしがみついてくる。歩きにくいと漏らせば腕の力は少し弛んだが、離れると言う選択肢は臨也の中にないらしい。

「つれないなぁ。ねぇ、どっか寄って帰ろうよ」
「……ケーキ屋とかは勘弁だぞ」
「ドタチン甘いもの嫌いだったっけ?」
「嫌いじゃないが……誕生日ケーキ奢るとか言い出すだろ、お前は」

臨也はつまらなさそうに目を伏せ、長い溜め息を吐き出した。溜め息を吐きたいのはこっちだと思いながら、門田は臨也のつむじを見下ろす。このままでは平行線になるのが目に見えている。どうするべきかと考えているうちに、気付けば玄関口まで来ていた。下駄箱からくたびれたスニーカーを取り出していると、横から顔を出した臨也が何かを思いついたように笑みを浮かべる。

「あ!新しいスニーカーとか」
「遠慮しておく」
「ナイキの新作モデル知ってる?すごいオシャレなの出るんだって」
「いいって言ってるだろ」
「なんで!」
「まだ履けるじゃねーか」

即答されたことに露骨にがっかりし、臨也は肩を落とした。門田は校内用の上履きを下駄箱に突っ込み、スニーカーを履いて視線を横に動かす。トントンと爪先を鳴らしながらスニーカーを履く臨也はひどく不満そうだ。

「プレゼントはもういいからな。気持ちだけで十分だ」

スニーカーを履いた臨也はゆっくり顔を上げ、門田をじっと見つめた。その瞳の奥で炎が揺らいでいる気がして、門田はすぐに視線を逸らす。あの炎をずっと見ていたら、無理矢理固めている気持ちがぐらついてしまいそうだった。何にも気付かない振りをするのが最善であると、強く思い込んで口を開く。

「……まぁ、どこか行くなら区立図書館だな」
「えっ!」

臨也から不服そうな表情が消えてぱっと明るくなる。門田は苦笑しながら臨也の頭を軽く叩き、歩き出す。慌てて駆け寄ってきた臨也が背中に抱き着いてくる。やめろと言ってもやめようとしない臨也をあしらいながら、門田は笑みを深めた。


×


館内ロビーに入ると、涼しい空気に二人の口からは声が漏れる。臨也は暑さに弱いのか、図書館へ続くアスファルトの道を歩きながら溶けてしまいそうだった。門田は手で扇いでやりながら臨也を一瞥する。よほど暑かったのか、白い頬がすっかり火照ってしまっていた。

「平気か?水でも飲んだ方がいいんじゃないか」
「うん……」

門田に言われるがまま頷き、臨也は鞄からペットボトルの水を取り出した。柔らかそうな唇がプラスチックの飲み口に触れ、傾けられた透明な液体が流れていく。細い喉を小さく鳴らしながら水を嚥下し、臨也はゆっくりペットボトルを離した。蓋を閉めながら軽く息を吐いた臨也の唇は湿っていて、唇の色が僅かに濃く見える。うっかり視線を奪われてしまいそうになって門田は床を見下ろす。落ち着いたブラウンのリノリウムの床には、様々な人間が残した靴の汚れが染み付いていた。

「ん……もう平気。水、ぬるくなっちゃってたけど」
「中は飲食禁止だからな。飲むならここで飲め」
「ドタチンは?飲まなくて大丈夫?」

ペットボトルを差し出されて門田は言葉に詰まる。そこで門田の頬が仄かに赤いことに気付き、臨也は蠱惑的に笑った。こういう笑みを浮かべている時の臨也の頭の上には尖った角が見える気がする。門田は内心でそう思いながら、溜め息を零した。

「間接キスとかNGだった?」
「……俺は水筒持ってきてるから結構だ」

門田が鞄から水筒を取り出すと、臨也は興が削がれたとばかりに肩を竦めた。水で喉を潤し、咳払いで頬の熱を誤魔化す。臨也が面白そうにニヤニヤと見てきているのは分かっていたが、門田も無表情を装うのは得意だった。館内に足を踏み入れると、一段と涼しい冷気に身体が包まれる。随分と空いているようで、夕方だというのに学生の姿はほとんど見当たらなかった。臨也がくっついてくる気配を感じた門田は手の平でそれを遮る。胸を押し返された臨也はきょとんとした表情で首を傾げる。

「なに」
「こんなとこでくっつこうとするな。学校じゃないんだぞ」
「学校だったらいいのは何で?」
「…………」
「ちょっとドタチン、無視しないでよ」

柱に貼られた「館内ではお静かに」の張り紙を指差すと臨也は物憂そうに口を噤んだ。門田は入り口を抜けて館内の奥へと歩を進める。夏休み中、課題を片付けるために門田は何度か学習スペースを利用していた。少し前までは学生でひしめいていたそこに学生の姿は2人ほどしか見当たらない。学習スペースを抜けると、その奥には洋書を中心に置いてある海外文学のコーナーだ。臨也は興味深そうに本棚を一瞥し、納得したように頷く。

「へー、こんなにいっぱい置いてあるんだ」
「学校の図書室は比じゃないだろう。まだまだ読めてない本がたくさんあるんだ」
「ふうん。……あ、グレート・ギャツビー。作者はスコット・フィッツジェラルドだっけ。映画もやってたよね」
「読んだことあるのか」
「まぁ有名どころだしね。あとは……あぁ、ペストに百年の孤独…変身とかも」
「お前の本好きも大したもんだな。俺もその3冊は読んでるよ」

純粋に本の話が相手は貴重だ。臨也の口から流暢に出てくるタイトルに頷きながら、門田は本棚に近寄って背表紙を指でなぞる。まだ新しい本の立派な装丁から、文字の凹凸が感じられた。

「アルジャーノンに花束を、戦争と平和……ここら辺も読んでるな」
「ボヴァリー夫人は?」
「いや、読んでないな……面白いのか?」
「確かこれは実際に起きた事件を元に書かれてたはずだよ。当時ゴシップとして噂になっていた事件を友人から聞いて、ギュスターヴ・フローベールが小説にしたんだ。写実主義の傑作とも言われているね」
「へぇ」
「人間をあるがままに描いていて俺は好きだよ。……まぁ、実際の人間の方がもっと興味深いけれど」

ボヴァリー夫人の薄い水色の表紙を撫で、臨也はうっそりと微笑んだ。心の底からそう思っているのだろう。臨也はひどく楽しげだった。門田は差し出された本を黙って受け取る。手にした本がやけにずしりと重く感じられた気がした。

「借りてみるといい」
「……あぁ」
「ね、ドタチンのおすすめは?教えてよ」

臨也はぱっと表情を変え、甘えるように門田の腕を取った。人が少ないエリアということもあり、振り払うのも少し気が引ける。門田は臨也がくっついてくるのをそのままに視線を上げ、本棚を見渡した。しばらくして、少し高い位置にその本が置いてあるのを見つけて指を指し示す。

「あれだ、あそこ。分かるか?」
「んー?……分かんない」

臨也の視力は悪くないはずだが、高い位置にあることに加えて角度の問題もあって見えにくいらしい。門田は苦笑しつつ一歩後ろに下がり、背伸びする臨也を眺めた。振り返った臨也が文句を言うが、なんとなく意地の悪い気分になって門田は腕を組む。

「ちょっとドタチン、意地悪しないでよ」
「……臨也、視力落ちたか?」
「落ちてないよ!去年と変わってなかったもん」

悔しげにそう呟き、臨也は視線を本棚へ戻す。精一杯背伸びして目を凝らしているようだが、相変わらずタイトルは読めないようだ。門田は暫くその様子を眺めていたが、やがて少し退屈な気分になってくる。ここ最近ずっとつき纏われていたせいだろうか。臨也の注意が逸れている今の状況に違和感のようなものを感じる。

「臨也」
「なに……まだ読めてないんだけど」
「もう諦めたらどうだ」
「じゃあドタチンが取ってよ」
「……それは嫌だな」

臨也はこちらを一度も振り返らないまま、背伸びして左右に身体を揺らす。その反応がどこか面白くなく、門田は静かに臨也へ歩み寄った。門田が近寄っている気配は感じているはずなのに、臨也は振り返ろうとしない。じわりと胸に熱い感情が込み上げ、門田の手は自然と臨也の肩を掴んでいた。臨也は揺らしていた身体の動きをぴたりと止める。背伸びしていた踵が床について、ゆっくりとこちらを振り返った。臨也の瞳が真っ直ぐに門田を射抜く。門田を映した赤い瞳の奥で、炎がゆらりと揺れた。

「ん、……っ」

唇に、やわらかな感触と熱い熱を感じる。大きく見開かれた瞳には驚きだけが強く浮かび上がっていて、その珍しい表情を目にして門田の胸は充足感で満たされていく。臨也の肩を掴んでいる手に僅かに力を込める。軽く押すだけで臨也の身体は揺れ、本棚へ押し付けられた。門田は軽く身を屈め、口づけを深くする。戸惑うように臨也の視線が泳いだ。合間に零れ落ちる吐息はひどく甘い。門田は掴んでいた肩をそっと抱き寄せ、臨也を腕の中に閉じ込める。ここが図書館だということもすっかり頭から抜け落ちていた。誰かに見られるかもしれないという意識もどこかに置き忘れてきてしまったのかもしれない。

「―――ドタチン」

顔と顔が離れた瞬間、数センチ先にあった薄紅色の唇が動いた。小さく、しかしはっきりとした声で名を呼ばれて門田は動きを止める。至近距離で見下ろした先の臨也は、静謐そのものの表情でこちらを見上げていた。キスされた瞬間の動揺を感じさせない凛とした声が、言葉の続きを紡いでいく。

「急にキスするなんて大胆だね。俺、ちょっと驚いちゃったよ。ドタチンって結構手が早いんだ?ていうか、肉食系なのかな。てっきりドタチンは奥手のむっつりタイプかと思ってたよ。意外だなぁ」

淀みのない口調は澄んだ川の流れのようだった。しかしその口調に違和感を覚え、門田は質問に答えることなく首を捻る。伸ばした手で臨也のこめかみに触れる。ぴくりと細い肩が跳ね、白い耳朶がじわりと朱色に染まっていく。それを見て門田は合点が行った。

「照れてるのか」

疑問形ではなく断定形だったのは、強い確信があったからだ。こめかみから指を滑らせ、滑らかな頬を優しく撫でる。水に絵の具を落としたようにじわりと赤い色が広がっていく。それを目にして、自然と門田の頬は緩んでいた。

「臨也」
「……なに……」
「俺もお前のことが好きだ」

すっかり赤く染まった柔らかな頬に両手を添える。覗き込めば、臨也の瞳は涙でじわりと潤んでいく。キャンディのように溶けた瞳に、門田は甘く微笑んだ。


×


「ドタチンがあんなことするから…」
「満更でもなかったくせに」
「うるさい」
「それにお前が騒がなきゃ追い出されなかったぜ」
「…………」
「拗ねるなって、臨也」

十分後、門田と臨也は図書館の外にあるベンチに並んで座っていた。二人の間には一人分の距離が空いており、会話もどこかぎこちない。それもそのはず、二人は巡回の司書に密着しているところを見られそうになって騒いた結果―――図書館を追い出されたのだ。正しくは、臨也が悲鳴を上げたことが最大の原因だったが。

「……ちょっと、なに笑ってんの」
「いや、思い出し笑いだ」
「今日のドタチン、すごく意地悪だね」

むくれた臨也はじっとりと目を眇めて不機嫌を露わにしている。しかし目元は先ほどの涙のせいで少し赤らんでいて、凄んだところで迫力などは皆無だ。門田はそっと距離を詰め、臨也の顔を覗き込む。赤い虹彩は少し迷うように揺れながら門田を映した。

「不意討ちみたいな真似をしたことは謝る。俺もちょっと意地が悪かった」
「……本当に悪いと思ってる?あんなに楽しそうな君を見たの、初めてだったよ」
「ちょっと楽しかったんだよ」
「は…?」
「俺は多分、お前のそんな顔が見たかったんだ」

そんな顔、と言われても臨也はあまりピンと来ていない様子だった。訝しげに首を傾げ、それから心底嫌そうに眉根を寄せる。

「悪趣味」
「……随分な言いようだな」

門田は苦笑しながら顔を寄せる。先ほどより赤くならない頬を見て、少し残念だと思ってしまう自分はずるいだろうか。そう思いながら薄紅色の唇に口づける。先刻の触れるだけのそれとは違う、長くて深いキスだった。薄く開いた唇に熱い舌を捻じ込む。舌先がざらりと触れ合うと背筋が否応なく震えた。臨也の瞳は蕩けるようにゆっくり閉じられ、頬には赤みが増していく。奥に引っ込みそうになる舌に軽く歯を立てると細い肩が僅かに跳ねる。その反応に気を良くした門田は軽い甘噛みを繰り返した。

「ッ、ちょっと……ドタチン、ここ外…」

胸を押し返されて門田は仕方なく顔を離す。臨也は困惑を滲ませた表情で門田を見上げ、唇を尖らせた。

「今日はそういう気分なの?俺に意地悪しなきゃ気が済まない、的な」
「そうじゃないが……まぁ、誕生日プレゼントはもういらないぞ」
「……今ので十分だから、とか言うつもりじゃないよね?」
「そのつもりだ」

悪びれも照れもせずに言ってのけた門田に臨也は更に浮かべた困惑の色を濃くした。そんな珍しい表情すら愛しく思えてしまうのは、惚れた弱みだろうか。門田は警戒されないように臨也から距離を取り、立ち上がって自販機へと向かう。機嫌を損ねてしまった時には甘やかすに限るとよく知っていた。

「ほら、このミルクティー好きだろ」
「物で釣ろうとしてる?」
「そんなつもりじゃないさ。お詫びの品だと受け取ってくれ」
「……ありがとう」

臨也がプルタブを捻るとプシュッと軽快な音が響く。夕方になっているとはいえ、まだ残暑で風にも熱気が残っている。生温い風を浴びながら、臨也はゆっくりミルクティーを飲む。のどを潤していく優しい甘さに、おそらく無自覚だろうが僅かに表情が緩んだ。

「美味いか?」
「うん。……でも、ちょっと意外だったなぁ」
「何がだ」
「ドタチンは俺に興味ないのかと思ってた」

冷たいアルミ缶を両手で握ったまま、ぽつりと臨也は呟く。熱はすっかりクールダウンしたのか、表情は凪いだ海のように穏やかで静かだ。門田は投げかけられた言葉に苦笑を漏らす。

「……俺だって、興味ない相手に付き合うほど暇じゃないけどな」
「そう?でもドタチン優しいからさ、仕方なく構ってくれてるのかなーって」
「お前は俺を優しいと言うが、買い被りすぎだぞ。興味のない相手を仕方なく構ったりしない」
「そんなことないよ」

ミルクティーを一口飲んで、臨也は門田を静かに見つめた。赤い瞳が夕焼けを浴びて一際濃く見える。臨也は小さく首を傾げながら、柔らかく微笑んだ。

「ドタチンは優しいよ。それに俺、仕方なく構ってもらえたとしてもいいと思ってたから」

告げられた言葉の重さに息を呑み、それから門田は重い溜め息を零す。笑顔で言うような台詞ではないはずだ。手を伸ばして臨也の髪を撫で、門田はゆっくり口を開く。

「そんな気持ちで俺に好きかもなんて言ったのか?」
「あはは。バッサリ振られるならそれでいいかなって思ったんだ。でもドタチンは明確に答えてくれなかったから、本格的に俺のことどうでもいいのかなーって」
「俺なりに色々考えてたんだ」
「プレゼントも頑なに断られたし」
「……お前、ちょっと恨み節入ってないか?」
「そんなことないよ」

臨也はにっこり微笑んでいたが、目の奥は笑っていない気がした。門田は苦い笑みを浮かべて柔らかな髪を梳く。臨也を悩ませてしまったことは申し訳なかったが、門田も自分なりに色々と考えていたのだ。臨也の自分に対する恋慕が本物だと気付いてから、自らの気持ちを自覚するまでそう時間はかからなかった。しかし、受け入れれば今の関係が崩れてしまう。友人でもなく恋人でもない、その三年間続けてきた関係が変わってしまうということに対する畏れがあったのかもしれない。

「……もうそんな風に思う必要はないからな」

囁くように口にすると、臨也は丸く目を見開いて門田を見上げた。虚を突かれたような表情を見るのは、今日だけで何度目になるだろうか。じんわりと胸が満たされていく感覚を覚えながら、門田は臨也の前髪をそっと掻き上げた。露わになった額に口づけを一つ落とす。夕焼けと同じ色に染まった顔を見下ろして、門田は満足そうに笑った。



end.




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