I want to make love to you tonight. <中>

※ステ煙草ネタ



扉が開いた瞬間、若い男が悲鳴を上げながら吹っ飛んでいく。それは極めて異常な光景だったが、真顔で眺めていたドレッドヘアの男は首を傾げた。なんとなく違和感を感じる。常人が見ればキレた平和島静雄が暴れているという光景だろうが、付き合いの長いトムにはその動きがどこか精彩を欠いているように見えた。

「静雄、回収は終わったぞ」
「トムさん……」
「なぁ、何かあったのか?」

トムに尋ねられた静雄は鳶色の瞳を軽く見開くが、すぐに首を横に振ってしまう。トムは静雄の様子がおかしいことを察知し、少し早めの休憩を取ることにした。公園の自販機で二人分の缶コーヒーを購入し、トムはベンチに腰掛ける。ブラックが苦手な静雄のために一本は加糖だ。缶を受け取った静雄は顔を上げて笑顔を作ろうとしたが、どうにも上手くいかないようだった。曖昧な表情を浮かべる後輩を横目にトムは缶コーヒーを煽る。ブラックコーヒーの苦みが口腔内に広がっていき、鼻から抜けていく香りが心地よい。缶のプルタブすらも開けようとしない静雄にトムは苦笑した。

「どうしたんだ?静雄」
「別に……何もない、っすよ」
「それが何もないって顔かよ。なんだぁ?トムさんには言えないことか?」

おどけた笑みで問うと、静雄はぶんぶんと首を横に振った。少々ずるい質問だとは自覚していたが、この手が効果覿面だとトムは理解している。それに、こうして素直な反応をしてくる静雄は中学時代の面影を感じて少し可愛らしい。微笑ましい気持ちになりながらトムは静かに後輩の言葉を待った。静雄は両手で持った缶を見下ろしたまま口を噤んでいる。やがて、何度か言い淀みながらも言葉が紡がれた。

「そっ……、んなことは、ない…っすけど」
「じゃあ話してみろよ」
「―――絶対に……誰にも言わないって、約束してくれますか」

僅かな逡巡の後に、静雄はちらりと視線を上げてトムを見た。念を押すような言葉は少し意外だったが、トムは笑いながら逆に質問を投げかける。

「俺が今までお前との約束破ったことあるか?」
「……ないっす」
「誰にも言わない。約束するよ」
「……じゃあ、話します。ちょっと長くなるかもしんないんっすけど……昨日のこと」

(昨日のこと?)

トムは瞬時に嫌な予感に襲われる。結局―――そのトムの予感は的中することとなり、静雄が仇敵への恋心を自覚したことを吐露される。とんでもないことになったと頭を抱えそうになったが、トムはそれを必死に堪えて真顔を貫いた。静雄は本気で悩んでいるようで下手なことは言えない。トムは静雄の語りを全て聞き終え、深く溜め息を吐き出した。

「……なるほどなぁ……」
「すみません……こんな話しちまって」
「なんでお前が謝るんだよ。話せって言ったのは俺なんだから」

自分から踏み込んだからには適当なことを言って誤魔化すことはできないだろう。トムは腹を括って残りのコーヒーを飲み干した。空になった缶をゴミ箱に投げ込むと、綺麗な軌道を描いて吸い込まれていく。それを見届けると、不安そうに眉根を下げている後輩の顔を覗き込んだ。

「静雄は、今まで自覚してなかったってことだよな」
「自覚、っつーか……そもそもそんな風に思ったことすらなかったです。俺もあいつも、お互いのことが嫌いだって―――それを疑ったことなんて一度もなかったんで」
「なるほどなぁ。でも、単純な思い込みってことはねーか?その女の子に言われて勘違いしちまってる可能性は?」
「……思い込み……勘違い……」

静雄は呟くようにトムの言葉を反芻し、そのまま黙り込んでしまった。トムは自分の言葉を静雄が肯定してくれることを心底祈ったが、その期待は次の瞬間あっさりと打ち砕かれることになる。

「あの、トムさん。それはないっす」

ぽつりと零された声に視線を向けると、静雄は平静そのものの表情で缶のプルタブを捻った。漆黒の液体を凝視する後輩の頭の中には、きっと同じ色の髪を持つ男の姿が浮かんでいるのだろう。トムはなんとなく視線を地面に逸らし、静雄の言葉を待った。

「……俺、自分でも考えたことなかったんですけど、あいつに自分がどうして執着するのかって考えてみたんっすよ。むかつくから、気に食わねえから潰してやりたいって、単純にそう思ってるだけだと思ってました。でも、マウンティングって言われてはっとしたんっすよね。……俺、きっとあいつのことを独占したいんです。だから自分の手で捕まえたいって思うんじゃないか、って……思って」

辿々しい口調で、しかし止まることなく静雄は語り続けた。僅かに迷いは感じられるものの、導き出した答えに疑問を持っている様子はない。コーヒーを一口啜り、静雄は再び口を開く。

「俺があいつに執着する理由は、多分―――…」

静雄は口を閉ざして俯いた。トムもその先を促すことはせず、ただ黙って静雄の頭を撫でる。少し色が抜けている金髪は見た目よりもずっと柔らかい。遠慮なく掻き回しても、静雄は文句一つ言わなかった。

「そっか。自分の気持ちは自覚してるんだな」
「……はい」
「でも、それなら何を悩んでるんだ?認めたくないわけじゃねえべ?」
「そ、れは……その、どうしたらいいのか分からなくて」
「え?」
「自覚したら、あいつにどう接したらいいのか分かんなくなっちまったんです」

煙草の煙を吹きかける意味については理解した。自分の気持ちも自覚した。だからといって素直に告白するというのは無理があるし、露骨に態度を変えるのも悪手だろう。告白をするなんてことは到底考えられないし、これから顔を合わせた時にどうすればいいか分からない―――およそ、そのような内容のことを静雄は口にした。トムは声にならない呻きを漏らし、突き抜けるほど真っ青な空を見上げた。

(思春期の学生かよっ…!)

自分のことではないのに頬が熱くなる感覚に襲われ、トムは静雄の視線を感じながら咳払いをする。下手なアドバイスをすれば今後に大きく響くことは明白だ。

「いいか、静雄。よく聞くんだぞ」

トムは慎重に言葉を選びながら、真剣に後輩の顔を覗き込んだ。

×

「俺の話、聞いてた?」

廃業したキャバクラのネオン看板の上に立ち、臨也は冷たく静雄を見下ろした。赤い双眸は真っ直ぐに静雄を射抜いている。対する静雄は道路標識を右手に持ったまま、乱れた呼吸が整っていない。朝から知りもしないチンピラ連中に絡まれ、そいつらを全員倒したところに現れたのが臨也だった。状況的に無関係と思う方が難しく、静雄は全力で臨也を追いかけ回した。しかし、臨也は静雄が追いかけにくい狭い路地ばかりを選び―――呼吸一つ乱していない現在の状況に至る。余裕綽々の表情で静雄を見下ろし、臨也は歌うような軽やかさで言葉を紡いだ。

「……聞いて、る、ってんだろー…が」
「あはは、すっごい息切れしてるじゃん。本当に俺と同い年?シズちゃん意外と体力ないよねぇ」
「ッ、うるっせえ!お前がちょこまか、狭い道ばっか通るせいで…っ!」
「あーはいはい。説教なら遠慮しておくよ」

臨也はつまらなさそうにそう言うと、ネオン看板に腰を下ろしてうっそりと瞳を細めた。暗い路地だというのに、ルビーのような虹彩が不気味な輝きを放っている。眉目秀麗と称される容貌も相俟ってぞっとするほどに美しい。臨也は静雄を見下ろしたまま、細い指を顎に添えた。まるでこちらを推し量るような目つきは、静雄にとってひどく居心地が悪い。

「……なんなんだよ」
「だから、シズちゃんもいい加減に学習しなよって話。身に覚えもないような喧嘩を売られたって言うけどさ、毎回ご丁寧に相手するからいけないんだって」
「うるせえ!手前に言われる筋合いあるかよ!どうせ今回も手前の差し金で……」
「俺の差し金だろうとなかろうと、いちいち相手してたら駄目だって。そのうちヤクザの抗争に巻き込まれちゃうかもよ?」

臨也はわざとらしく肩を竦めてみせ、脚を組んで静雄を見下ろした。ようやく呼吸が整ってきた静雄はといえば、臨也を無視することに決めたらしい。視線を逸らしてバーテン服の胸ポケットに手を伸ばした。それはおそらく、無意識下での動作だったのだろう。その指先が何も掴まなかったことで我に返って呻き声を上げ、溜め息を吐いてガリガリと頭を掻いた。その様子を眺めていた臨也は、呆れきったと言わんばかりの表情で口を開く。

「ねぇシズちゃん、君には禁煙なんて無理だと思うよ」
「…………」
「理由は知らないけど、急に昨日から禁煙チャレンジ始めたんだって?無理無理。小学生……いや、幼児以下の忍耐レベルしか持ってないようなシズちゃんがニコチンの禁断症状に打ち勝てるわけないよ」
「…………」
「現に今だってイライラが募る一方でしょ?煙草で誤魔化してたストレスが行き場を失えば、君の破壊行動は更にヒートアップするんじゃないかなぁ。静かに暮らしたいなんて夢はさらに遠のいていくばかりだね。まぁそもそも、煙草吸ってようが吸ってまいが君の夢なんて一生叶うわけもないだろうけど!」
「…………うるせえ」
「ほーら、また馬鹿の一つ覚えみたいにそればっかり。シズちゃん語彙力も学生時代と変わってないね。成人して変わったのは煙草が吸えるようになったことだけかな?お酒は随分と弱いらしいよねぇ?」
「……うるせえって言ってんだろうがァッ!!」
「あーはいはい。君の語彙力はこれからも一生貧困なままだろうねぇ。じゃあ精々、その無駄な禁煙チャレンジに勤しむといいさ。俺としては、"明日にでも耐えられなくなる"に賭けさせてもらおうかな」
「人の禁煙チャレンジを賭博対象にするんじゃねぇ!おい、待ちやがれッ…!」

ネオン看板の上に立ち上がった臨也はひらりと手を振ると、隣の廃ビルの螺旋階段へ飛び移った。静雄がビルの壁面に右手を掛けようとした瞬間にはもう姿は消えてしまっている。静雄はやり場のない苛立ちを持て余し、傍にあったペール缶を蹴り飛ばした。金属製のそれは一瞬で無惨に変形し、けたたましい音を立てて路地の奥へ転がっていく。

「ッ、クソ……俺がどんな思いで禁煙してると思ってやがる……」

一人ごちた声は誰に届くこともない。静雄が急に禁煙を始めたのは、言わずもがな臨也への想いを自覚したのが理由だ。今までは副流煙の有害さを知りながら、臨也の寿命が少しでも縮めばいいと思っていた。しかし臨也が好きだと気付いた今、好きな相手の寿命を縮めたいなどと思うはずもない。もちろん臨也はそんな理由まで知ることはなく、静雄が禁煙に挑んでいることをからかうためだけに現れたのだろうが―――幼稚な煽りでさえ、今の静雄には効果抜群だ。

「……あの、馬鹿野郎」

×

静雄から逃げきった臨也は、池袋の路上を歩きながらフードを深く被った。全身を包むコートに鼻を寄せてみても、香るのは自身の香水のみだ。少し前までなら静雄と会った後に必ず煙草の臭いが残っていた。今はそれがまったく感じられない。静雄が禁煙を始めたことを知ったのは今朝で、早々に仕事を片付けて池袋にやって来たのはほとんど衝動的だった。急に禁煙をする理由は検討もつかず、勝手なことをした静雄に対する怒りも強い。臨也は整った顔が歪むのも構わずにフードの下で眉根を寄せる。静雄が自発的に禁煙を始めるような理由は思いつかない。となると周囲―――トムや新羅、門田やセルティに言われたことが原因か。静雄が煙草を吸い始めた時も驚かされたものだが、こんなに唐突にやめようとするのも予想外だ。

「どんな理由か知らないけど、ばっかじゃないの」

拗ねたような声が漏れたのは不本意だったが、実際のところ臨也は拗ねていた。静雄の身体は通常の人間とは違うのだから主流煙をいくら吸ったところで大した害にはならないはずだ。だから臨也は静雄の身体を心配したことは一度もない。静雄が煙草を吸い始めた理由も、煙を吹きかけてくるのも自分に対する嫌がらせなのかと思ったことはある。静雄が煙を吹きかけることの意味を知っているとは思えないのが大きな理由ではあるが―――臨也はそれでもいいと思っていた。秘めた気持ちを伝えようと思ったことはただの一度もない。きっとこの想いは隠したまま、墓場まで持っていくのだと漠然と思っている。だからこそ、静雄と会える僅かな時間の後に残る煙草の香りを楽しんでいたかった。同じ銘柄の煙草を自分で買ったこともある。吸えもしない煙草を吸って噎せ、煙が尽きるまで放置してみたことも。それでも静雄が吸っている時とは香りが異なるように感じられて、駄目だった。

「……シズちゃんが吸う煙草じゃないと……」

零れ落ちた呟きは池袋の喧騒の中に一瞬で掻き消える。臨也は深くフードを被り直すと、人混みの中にその黒衣の姿を紛れ込ませた。

×

その男の背中は人混みの中へ吸い込まれるように消えていく。借金を踏み倒した中年男がトムに詰め寄られてボロアパートを飛び出したのは十分前。必死に男を追いかけていたトムは、息を切らせながら垂れ目の眦を更に下げる結果となった。後ろから追いかけてきた後輩も、トムが男を見失ったことに気付いて曖昧な声を上げる。

「すまん、見失っちまった」
「別にトムさんは悪くないっすよ。往生際悪く逃げたあいつが悪い」
「……まぁ明日には家に戻ってるだろ。また明日だな。次はしっかり絞ってやんねえと」
「ですね」

落ち着いた声で頷いた静雄は昨日の苛立ちっぷりが嘘のように落ち着いている。トムも禁煙したいという言葉を聞いた時は驚いたものだったが、三日目にして強い禁断症状が見られないのは驚きだ。

「静雄、今日は落ち着いてるな」
「え?あぁ……禁煙のことっすか?昨日、新羅の奴にアドバイス貰ったんです」
「アドバイス?」
「はい。一昨日、臨也が馬鹿にしてきてすげーむかついたんで、絶対に禁煙できる方法を教えろって脅…言って」

(……今、脅してって言いかけなかったか?)

トムは声に出せないツッコミを心の中で入れながら静雄の横顔を眺めた。闇医者を営んでいるという友人にまともな禁煙アドバイスができるのか少し疑問ではあったが、実際にそれは効果を発揮したらしい。

「禁断症状のこと、正しくは離脱症状って言うらしいんですけど。それを我慢するための方法が三つあるって教えてもらったんっす」
「あぁ……俺も聞いたことあるな。行動パターンとか環境を変えるやつだろ?」
「はい。それを環境改善法って言うらしいんっすけど……それは俺、初日からやってたんです。煙草とかライターを処分して、喫煙してる奴には近付かないっていうやつ。でもそれだけじゃ無理だったんで、代償行動法…だったかな。それを試してみたんっすよ」

晴れやかな表情で言う静雄は随分と穏やかな雰囲気を纏っている。昨日の触れただけでブチキレそうな様子とは大違いだった。トムは聞き覚えのある単語を反芻するように口にし、首を傾げる。

「代償行動法―――煙草の代わりに別のことをする、とかか?」
「そうです。イライラした時に意識して深呼吸したり、飲み物を飲んだり……口寂しい時はガム食ったりして」
「あー、そういや朝からコンビニ寄ってたよな。珍しいと思ったんだ」
「俺、今まであんまりガム食ったことなかったんっすけど……今のガムって美味いですね。味も色々あるし」

静雄が胸ポケットから取り出したのはフルーツ味のガムだった。いかにも静雄が好きそうなフレーバーを見て、トムは思わず頬を緩める。いきなり禁煙なんて無理をしているのではないかと思っていたが、本人が真面目ならば応援してやるしかないだろう。

「そうか。頑張れそうなら良かったな!俺も応援するぜ、静雄!」
「ありがとうございます。トムさんも一緒にやります?」
「うーん、俺にも禁煙したくなるほど好きな子がいればなぁ……」

トムは静雄の言葉に苦笑しながら空を見上げる。ここ数日晴れていた空は今朝から少し曇りがちだ。僅かに胸騒ぎを覚えるが、それを振り払うように首を横に振る。後輩の背中を軽く叩くと、セカンドバッグを持ち直して笑い声を上げた。

「じゃあその調子で取り立ても頑張ろうぜ!今日はまだまだ回らないといけないからな」

×

「回る回る〜!目が回るよ〜!」
「ぐるぐる回ってバターになっちゃうっすよ〜!」
「じゃあ回るのをやめろ!」
「……何やってんだ、お前ら……」

乙女ロード近辺の路上で手に手を取って回り続けているのは狩沢と遊馬崎だった。門田は腕組みをして二人を叱っていたが、まるで効果は期待できなさそうだ。渡草はワゴン車の運転席に座ったまま、スマホ片手に呆れた目をしている。今日も聖辺ルリの情報収集に忙しい渡草は、毎日確認している複数の掲示板を確認するため視線をスマホに戻す。ファンたちの妄言や信憑性の薄いデマを読み飛ばしながら、掲示板を移動していると無関係の書き込みが目に飛び込んできた。聖辺ルリに関係のない書き込みには興味がない渡草だったが、その内容はどうにも目を引く。

「……おい、門田」
「あ?」
「見てみろよ。この書き込み」

渡草はワゴン車に凭れ掛かっていた門田に声を掛ける。スマホの画面を覗き込んだ門田は、その書き込みを見ると途端に眉根を寄せた。門田の表情に渡草は思わず声を潜めて尋ねる。

「これ、マジなのか?」
「いや……俺は聞いたことないな。ただ、こういう書き込みをする奴に心当たりはある」

門田はスマホの画面から目を逸らし、重い溜め息を吐いた。門田がこういった顔をする時、決まってその原因は一人の男にあると決まっている。渡草は声を潜めたまま、新宿の情報屋の名を口にしかけて―――その口を慌てて噤む羽目になった。

「なになに?何の話ー?」
「二人だけで密談っすか?俺たちも混ぜてくださいよ!」

急に割り込んできた狩沢と遊馬崎を避けるようにスマホをポケットに直し、渡草は素知らぬ表情を浮かべる。門田は胡乱げな瞳で狩沢と遊馬崎の襟首を掴むと、開いていたワゴン車の後部座席に放り込んだ。情けない悲鳴が上がるのを無視して扉を閉めると、低めた声で渡草に耳打ちをする。

「狩沢には絶対見せるなよ」

渡草は静かに頷いてシートベルトを締める。後ろから上がる声を無視してエンジンをかけながら、脳裏を過ぎるのは聖辺ルリではなく黒衣の情報屋だ。あまり関わりがあるわけではないが、あの男の執念深さは門田と行動を共にしている影響でよく知っている。

(それにしても……こんな書き込みするなんて、嫌がらせに余念がない奴だよなぁ)

半ば呆れつつ、渡草は書き込みの内容を思い返す。甘楽というハンドルネームの人物からの書き込みは若い女のような口調で綴られていた。―――"平和島静雄には懇意の女がいて、その女の為に禁煙チャレンジを行っている"という内容が。それだけなら大きな問題はないかもしれない。しかし、問題はその後に続く書き込みだ。

『私は平和島静雄さんのこと詳しくないんですけど、人間離れをした力を持ってて背も高くてかっこよくて彼女持ちなんてすごい高スペックですねっ!男ならみんな憧れちゃう、って感じ?あの羽島幽平が実弟だって噂もあるし、顔もすごくかっこいい!静雄さんがモテるのも彼女持ちなのも当たり前…カナ?(笑)』

褒め称えているように見えて煽るような言い回しは絶妙で、なんとなくイラッとさせられる。平和島静雄に劣等感を抱く不良共を煽るためと思われる、その書き込みには大量の否定レスがついていた。最新のレスには過激な犯罪予告とも取られかねないものまであり、静雄の元に不良たちが大挙して押し寄せるのは時間の問題だろう。渡草は嫌なものを見てしまったと重い気持ちになるのを振り払うべく、カーラジオのボタンを押す。こういう時に癒してくれるのは、永遠の女神である聖辺ルリを於いて他にない。

×

「俺を癒してくれるのはエミちゃんだけなんだ…っ!だ、だからさ、頼むよ……見逃してくれ!あと数年もすれば俺は会社を起業して億万長者になってるんだ!借りてる金はその時に返す!利子もたっぷりつけて、なんなら倍にしてやってもいい!なぁ、後生だから俺を見逃してくれよ!」

汚れたアスファルトに頭を擦りつけ、土下座をしているのは初老に差し掛かっているだろう年齢の男。それを見下ろしていたトムと静雄は顔を見合わせ、同時に深い溜め息を吐いた。この手合いの言い訳は飽きるほど耳にしていて、怒りよりも呆れの方が先に出てしまう。静雄が出る必要はないとばかりにトムはその場に屈み込み、男の首根っこを掴んだ。

「あのなぁおっさん、俺たちもお仕事なの。見逃してたら仕事になんねーだろ」
「そ……それは、そうだ、がッ…!?」

トムに強く顎を掴まれ、男は言葉に詰まった。引き攣った表情で視線を動かすと、ぞっとするほど冷たい瞳に射抜かれる。先刻まで飄々とした雰囲気を醸し出していたはずのトムは、その身に纏う空気をガラリと変えていた。

「なぁおっさん。いい年した大人だろ?聞き分けよく話を聞いてくれよ」

声色は明るいのに表情は絶対零度の冷たさだ。男は情けない声を上げながら壊れた人形のように首を縦に振る。それを横目で見ていた静雄は自分の出番がないことを察し、狭い路地裏へ入っていった。禁煙を始めてから五日が経過した。相変わらずここ数日間は天気が悪く、離脱症状もあって静雄の気分は低迷している。新羅に言われた代償行動法を試してはいるものの、だんだんと苛立ちを抑えるのが困難になってきていた。

「……思ってたより、しんどいな」

低い声で呟き、バーテン服のポケットへ手を伸ばす。取り出したガムのパッケージをぼんやりと眺め、板ガムを一枚取り出そうとした瞬間―――頭上から爽やかな声が降ってきた。

「やぁシズちゃん。まだ出来もしない禁煙に勤しんでるのかい?」

指で摘んでいた板ガムをパッケージに戻し、静雄はゆっくりと視線を上げる。3階建てのアパートの屋上、サマーコートを風に靡かせて一人の男が立っていた。両手をポケットに突っ込んで静雄を見下ろしていた臨也は落ちそうなほど身を乗り出す。にっこりと満面の笑みを浮かべたかと思うと、屋上から軽やかに飛び降りた。猫のような跳躍で金属製の外階段に着地すると、ダンッと激しい音が周囲に響き渡る。

「……臨也ァ……」
「あれれー?随分と苛ついているみたいだね。やっぱり禁煙は上手くいってないのかな?」
「うるせえ。余裕に決まってんだろ」
「普段食べもしないガムまで噛んで離脱症状を誤魔化したところで君には無理だと思うよ」
「無理だと決めつけんな!大体、なんで邪魔してくんだよ。……放っておけばいいだろ」
「俺はね、君が出来もしない禁煙に挑んでるのが面白くてからかってるだけさ」

臨也はクスクスと笑い、外階段を下りながらいつの間にか取り出していたバタフライナイフを手中で弄ぶ。ギラリと鋭利な刃が煌めくそれを手にしながらも、視線は一度も静雄から逸らさない。

「ほんとにさぁ、なんで禁煙なんて始めたの?ネットじゃ君に懇意の女が出来たって話題だよ」
「……それも、どうせ手前が流したデマだろうが」
「えぇー?なんのこと?」

臨也は立ち止まってわざとらしく肩を竦め、手摺りに身を乗り出した。赤い瞳を丸く見開き、何のことか分からないと言いたげな笑みを浮かべてみせる。静雄は頭に血が昇るのを感じながら手近にあった角材を掴んだ。しかし力加減に失敗し、一瞬で粉々に砕け散ってしまう。チッと舌打ちをしながら拳を開き、静雄はパラパラと木屑を落としながら視線を上げた。

「昨日一日、変な奴らにずっと絡まれっぱなしだったんだよ!女が出来たのかとかお前ばっかりモテやがってとか、妙な因縁ばっかりつけられてなぁ!?」
「へー、そうなんだ?シズちゃんには彼女がいないどころか、モテたことすら一度もないのにねぇ。馬鹿な奴らもいたもんだ。俺、昨日は新宿にいたから全然知らなかったなぁ」
「……すっとぼけやがって……」
「言いがかりだよ。なんでも俺のせいにするのは君の悪い癖だね。自分に原因があるんじゃないかって、考えたこと一度でもある?」
「あー……本当にむかつくな、手前は……。何度もしつこくつき纏いやがって、何がしてぇんだ、よッ!」

静雄は地面に転がっていた鉄パイプを拾い上げると、それを握りながら臨也を睨み上げる。爆発寸前の怒りで鳶色の瞳はギラギラと輝いていた。肉食獣に似た激しい視線に晒された臨也は、背筋を駆け上がる震えに思わず笑みを零す。燃え上がる怒りが自分だけに向いているという高揚感は臨也に強い満足感を齎した。外階段を降り切って湿った地面に足をつける。正面に立つ静雄は鉄パイプを肩に乗せて距離を詰めてきていた。じっとしていれば確実に叩きのめされる。そう分かっていても、心を焦がすような衝動は抑えられそうにない。

「だから、シズちゃんをからかいたいだけだって」

赤い舌を覗かせ、臨也は悪びれもせずにそう囁いた。静雄が大きく一歩を踏み込んできた瞬間、身を屈めて爪先にぐっと力を込める。鉄パイプが頭上を一閃していく感覚を感じながら、臨也は手にしていたナイフを振るった。静雄のシャツの肩部分が破けたことを確認すると、軽くバランスを崩した静雄の懐に飛び込む。ビュッと風を切る音が響いたと思えば、静雄の腹部―――バーテン服とシャツが切り裂かれていた。頑丈な皮膚まで刃は到達しなかったらしく、血が出ていないことに臨也は舌打ちを漏らす。

「ほんと、ナイフが刺さらないなんてどうかしてるよ」
「手前の腕が鈍ってんじゃねえのか」
「……言ってくれるね」

臨也は美しい顔を怒りに歪めてサバイバルナイフを握り直す。静雄は鉄パイプを臨也の頭目がけて大きく振り下ろすが、臨也はそれを紙一重で躱して笑みを浮かべた。そのまま鉄パイプとナイフの攻防は十分間ほど続く。しかし、お互いの息が次第に上がっていくばかりで決着がつく気配はない。流石に疲労が滲んできたらしい臨也がそろそろ逃げようとほんの一瞬、視線を逸らした瞬間―――静雄の伸ばした手がフードをがしりと掴んだ。臨也は逃げ出そうと激しく暴れたが、静雄は細い身体をそのままコンクリートの壁面に押し付ける。衝撃で息が詰まった瞬間に顔を寄せられ、臨也は完全に身動きが取れなくなってしまった。

「ちょっと、離してよ」
「離すわけねーだろうが。ねちねち馬鹿にしやがって……」
「なにそれ?俺はただ事実を述べてるだけだよ。シズちゃんに禁煙なんて無理だって」

囚われている状態だというのに、臨也は笑みを崩さないまま静雄を見上げる。臆することのない赤い瞳に見据えられれば、静雄の心はささくれ立っていった。目の前の男のために禁煙を決めたというのにその本人に禁煙を阻害されている。いくら理由や自分の想いを知らないとはいえ、この状況がひどく滑稽に思えた。ずっと渦巻いていた苛立ちが増大し続けていることもあり、静雄は無意識の内に拳を強く握り込んでいく。その間も臨也は静雄の気持ちなど無視して喋り続けた。

「ねぇ、そんな我慢してまで続ける意味ある?煙草吸わないとイライラするんでしょ?そこのコンビニで煙草とライター買えるんだからさぁ。吸ったらきっとスッキリするよ」
「俺がイライラしてんのは、手前のせいだろうが……」

地を這うような低い声で静雄は呻くが、臨也は薄紅色の唇を閉ざそうとはしない。嘲るように瞳を眇めながら静雄をじっと見上げる。

「煙草吸ったら今まで禁煙なんて馬鹿なことしてたなーって思うんじゃない?禁煙なんて君には無理なんだからさ、潔く諦めなって…」
「―――うるっせえ!!」

堪忍袋の緒が切れた、そんな表現が適切だろう。ブチリとキレた静雄は手にしていた鉄パイプを振り上げ、臨也の顔の真横に突き刺した。激しい音がしてコンクリートの壁面に深々と鉄パイプが突き刺さる。臨也は衝撃音と埃に一瞬だけ顔を顰めたものの、静雄から視線を逸らすことはなかった。凪いだ水面のように静かな瞳には何の色も浮かんでいない。こちらを推し量るような視線に静雄は思わず怯みかけるが、喉元まで込み上げていた怒りを抑えることは叶わなかった。

「いい加減に、しろ…ッ!俺は真剣なんだ!……俺が禁煙しようが、手前の知ったことじゃねぇだろ。いちいち絡んでくるんじゃねえよ。手前、鬱陶しいんだよ!」

静雄は一旦そこで言葉を切って深く息を吸い込んだ。臨也が静かに見上げているのを気付いてはいたが、その視線を振り払うように俯き―――粗暴な言葉を吐き棄てた。

「もう池袋に来るな」

臨也のフードを掴んでいた手を離し、壁に突き刺さっていた鉄パイプを抜き去る。ガランガランという乾いた金属音が何度か響いて、やがて路地裏には静寂が訪れた。強い怒りを感じながらも後ろめたさを感じていた静雄は、一度も臨也の顔を見ずに背を向ける。そのまま大股で歩いていき、やがて静雄の広い背中は消えていった。一人残された臨也は壁に凭れたまましゃがみ込み、右手で顔を覆って俯く。重く長い溜め息を吐き出すと、唇を歪めて笑おうとして―――失敗した。

「はは……やっちゃった」

笑みともつかない曖昧な、いびつな表情でぽつりと呟く。頬に冷たい感触が落ちてきたと思えば、遠くからゴロゴロという音が聴こえてくる。髪を濡らす感触は雨だと分かっているのに、臨也はその場から動くことができなかった。どう考えても自業自得だ。引くべきポイントを見極められなかったのは失態でしかない上に、それほど余裕を失っていた自分に落胆を覚える。

(もう限界、かな)

臨也は壁に手をつきながらゆっくり立ち上がる。足に上手く力が入らなくて、よろけてしまう自分自身に笑いが込み上げた。臨也はフードを被って路地裏から出ると、そのまま真っ直ぐに池袋駅を目指して歩いていく。ずぶ濡れの臨也を見て街行く人は怪訝そうに眉を顰めたが、それを気にするような気力など残ってはいない。そうして臨也は新宿へと帰っていき―――その日を境に、池袋に姿を現すことはなくなった。


continue...




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