I want to make love to you tonight. <前>

※ステ煙草ネタ



「俺、煙草って嫌いなんだよね」

そんな言葉を聞いたのは本当に偶然だった。その日、放課後の来神高校の教室で折原臨也は岸谷新羅と世間話に興じているようだった。人気のなくなった教室に静雄が訪れたのは陸上部の助っ人に駆り出されていたせいで、教室に忘れた教科書を取りに来たのが理由だ。あと数歩で教室の前に差し掛かるということで足を止めたのは、単純に運動をした後で疲労していたからだ。身体は熱を持っていたし、疲労感から少し眠くて頭もぼんやりしていた。そんな中でも耳に飛び込んできたのは、爽やかで凛とした声。静雄はそれが臨也のものだとはっきり理解していた。姿が見えなければ、悪巧みをしていなければ―――こんなにも綺麗な声をしているのに。そんなことを思ってしまったのも疲れていたせいだろうか。静雄がそっと教室を覗き込むと、真っ赤な夕陽が差し込む教室で臨也と新羅は顔を突き合わせていた。自分の机にべたりと伏せている臨也と、その前の席で逆向きに椅子に座っている新羅。臨也の黒髪を指先で弄びながら、新羅は少し退屈そうに目を細める。

「煙草ねぇ。君の家はご両親も不在がちだし、お婆さんも煙草は吸わないでしょ?」
「あぁ、うちの家族は誰も吸わないよ。でも、街に人間観察に出ると必ず遭遇する。あんなにも有害で悪臭のあるリスクしかないようなものを吸っている人間は愚かしいけれど、同時に興味深くて好きだ。でも……まぁ、なんて言うのかな?単純に生理的に受け付けないというか」

伏せていた顔を上げて肘をつき、臨也は新羅を見つめた。胡乱げな表情は、煙草の臭いを思い出しているせいだろうか。形の良い眉が顰められ、ほんの少し皺が寄っている。

「なるほどね。意外だな、折原くんに死んだ魚の目以外に苦手なものがあるなんて」
「俺だって人間だ。苦手なものぐらいあるさ」
「あぁ、もう一つあったかな?死んだ魚の目と、煙草以外にも」

新羅がそう言った瞬間、臨也の表情が僅かに曇る。微かな変化ではあったが、それを見逃さずに笑った新羅は笑みを浮かべたまま口を開いた。

「平和島静雄」

臨也が表情を動かすことはなかったが、新羅としてはその反応に満足したらしかった。椅子から立ち上がると、燃えるような夕陽を眺めて微笑む。

「もし静雄が成人して煙草でも吸うようになれば、君は彼に近付くことすら嫌になるのかな?」

夕日が眼鏡に反射し、静雄からは新羅の表情は窺えない。臨也は黙り込んだまま座っていたが、やがてふらりと立ち上がる。窓の方へ歩いていくと、静雄からは完全に背中しか見えなくなった。

「―――最悪の組み合わせってことは確かだろうね」
「……へぇ?」

静雄には、臨也が特におかしなことを言っているようには思えなかった。しかし新羅は臨也をからかうように語尾を上げた。あまつさえ口元を歪ませて、少し笑っているようにも見える。腹の立つ言動であることは確かだが、静雄だって大嫌いな臨也が大嫌いなギャンブルに興じていれば最悪の組み合わせだと思うだろう。もっとも、臨也は既に中学時代に野球賭博に手を染めていたのだが静雄は知る由もない。

「なに、その顔」

臨也は声を低めて不愉快そうに呟いた。しかし、新羅はその声色の不穏さに気付かないのか―――気付いている上で無視しているのか、ニコリと微笑んでみせる。

「いや別に?ただ、君って本当に素直じゃないね」
「はぁ?」

理解できないと言いたげに臨也は声を上げた。それから数拍間黙り込み―――新羅を見たままで不自然に声のボリュームを上げる。まるで、新羅以外の誰かに語りかけるように。

「ていうかさぁ、いい加減に出てきたら?それで隠れてるつもりなのかもしれないけど、バレバレだから。いつまでも隠れてるなんて、化け物のくせに似合わない真似はやめなよ。気持ち悪いことこの上ない」

化け物、という単語を聞いた瞬間に静雄の身体を巡る血液は沸騰しかける。静雄が勢いよく教室の扉を開けると、けたたましい音が響き渡った。顔を上げた新羅は大きく目を見開いているので、静雄の存在には気付いていなかったのだろう。臨也は静雄が大股で歩み寄ってくるのに気付いているはずなのに、席に座ったまま立とうとしない。新羅が巻き込まれまいと退避しようとすると、ようやく臨也は立ち上がって静雄を振り返る。窓から吹き込む、生温い夏の風に艶やかな黒髪が揺れた。印象的な緋色と視線が合わさった瞬間、静雄は手近にあった椅子を掴んで振り上げる。しっかりと狙ったはずなのに、椅子を叩きつけた場所に臨也の姿はない。ただ古い木の床が少し陥没しただけだ。いつの間にか入り口付近に退避していた新羅の視線の先―――静雄の斜め後ろで臨也は微笑む。汗一つ滲ませることなく静雄の常軌を逸した攻撃を回避して、余裕すら感じられるその姿に静雄の怒りのボルテージは上がっていく。

「臨也ァアアアア!!」
「なに?逆ギレかい、シズちゃん。盗み聞きしてたのはそっちだろ。俺はただ出てきたらって言っただけだよ」

人のことを化け物呼ばわりしたことなどおくびにも出さず、臨也は大仰に肩を竦めてみせる。まるで自分には何の非もないという態度に苛立ちが募り、静雄はひしゃげた椅子を放り投げた。

「ふざけんな。手前はいつも一言余計なんだよ」
「おやおや、自分の短気を棚に上げて責任転嫁かい?まるで俺が悪いみたいじゃないか」
「臨也が一言余計ってことには僕も完全同意するけどね」
「お前には言われたくないよ、新羅」
「……ゴチャゴチャうるせぇな……。そのよく回る口、塞いで喋れなくしてやろうか?」
「うわー……それ、どういう意味で言ってんのシズちゃん。ドン引きなんだけど」

臨也は引き攣った表情でそう言いながら、いつの間にか取り出していた愛用のバタフライナイフを静雄に向けた。丹念に手入れされている銀の刃が夕陽に煌めく。ふっと臨也の姿が視界から消えたと思うと、教室内に並ぶ机の上に飛び乗って一気に間合いを詰めてくる。静雄が机を掴もうとして手を滑らせた瞬間を逃さず、懐に飛び込んできた臨也はナイフで静雄の首元を一閃した。鋭い痛みが走り、鮮血が木の床に滴り落ちる。強固な筋肉のお陰で傷が深くないが、痛みを感じないわけではない。静雄は呻きながら今度こそ机を掴み直す。天板がひしゃげるのを感じながら持ち上げ、振りかぶろうとしたが臨也は既に素早く身を翻していた。静雄は机をそのまま投擲したが、ロッカーに直撃しただけで臨也に命中することは叶わない。臨也は耳障りな金属音に思いきり顔を顰めたが、すぐに涼しい顔で制服の埃を叩き落した。静雄に向かってひらりと手を振ると、スキップでもするような足取りで教室を飛び出していく。

「じゃあねシズちゃん。ちなみに教室用ロッカーの相場は5万円らしいよ」
「待ちやがれ、臨也ァッ!!」
「俺がそれで待った試しないってこと、いい加減に覚えた方がいいよ?まぁ、シズちゃんの脳味噌じゃ無理な話だろうけどー」

短ランの裾が見えなくなる前に静雄は床を蹴って走り出す。一人残された新羅は曖昧な苦笑を浮かべ、無惨に変形しているロッカーを眺めた。

「まったく相変わらずだなぁ。それにしても……成人したら、か。高校卒業後の二人のことなんて、考えたこともなかった」

新羅は一人ごち、今にも沈みそうな夕陽を窓から眺める。自分の将来については設計図が浮かんでいる。愛する同居人との暮らしを継続していくために医者になる―――一般的には逸脱している道だと言われるかもしれないが、常識外れの父を持つ新羅にとっては特段おかしくはない。しかし、あの犬猿の二人がどのような大人になっているかは一度も想像した試しがなかった。高校生活の三年間をお互いを潰し合うためだけに費やしてきた二人を見てきた新羅は、正直もう飽きてくる頃だろうと思っていた。しかし卒業が近くなった今でも、二人は飽きることなく殺し合いの喧嘩を繰り返している。

「大人になっても変わらなかったりして……」

新羅の頭の中に、大人になった二人が街中を駆け回っている光景が浮かんだ。まるで非現実的なその想像に思わず笑いが込み上げ、新羅はまさかねと首を横に振る。いくらなんでも大の大人になってまで喧嘩三昧なわけはないだろう。きっとその頃には二人とも落ち着いていて、ちょっとした口喧嘩で済むようになっている。そうでなければ、セルティと結ばれるはずの未来が壊されてしまうかもしれないじゃないか。頭の隅を掠める悪い冗談のような想像を追いやり、新羅は鞄を持ち直して教室を出た。

「―――それに、甘党の静雄が煙草を吸っている未来なんて想像できないしね」

ぽつりとそう呟きながら。

×

「……昔はそう思ってたんだけどねぇ」
『何の話だ?』
「あぁ、いやちょっと昔のことを思い出していただけだよ」

差し出されたPDAに打ち込まれた文章を読み、新羅は微笑んだ。白魚のような細い指で文字を打ち込んでいた彼女は、少し不思議そうに身体を揺らす。

『珍しいな。学生時代のことか?』

彼女に首があれば首を傾げていたのかもしれない。そう思いながら新羅は彼女の顔―――正しくは首の断面から立ち昇る漆黒の影―――を見つめながら頷いた。一見すると不気味な光景かもしれないが、新羅と彼女にとってはなんてことのない日常風景だ。池袋にある高級マンションの一室で、新羅とセルティは野生動物のジオグラフィック番組を見ながらゆったりと会話を交わしている。首を持たない彼女はPDAに文字を打ち込むことでしか言葉を伝えられないが、それによって意思の疎通が憚られるということは一切ない。人間ではない彼女、セルティ・ストゥルルソンは新羅の恋人だ。

「そうだね。来良学園がまだ来神高校だった頃の話だよ」
『静雄と臨也は喧嘩三昧だったと以前言っていたな。よくお前や門田は無事に卒業できたものだ』
「あはは。門田くんも喧嘩は強かったからね。サイモンほどじゃないけど、たまに二人の仲裁をしたりもしてたよ。僕は……まぁ、逃げ足だけは速かったから」
『なるほどな。それにしても、静雄は甘いものが好きなのか?初耳だよ』

セルティが打ち込んだ文字列を見て、新羅は僅かに瞠目した。それから自らの記憶を辿るように視線を窓の外へ向ける。

「あぁ、セルティは知らなかったんだ?いつからだったかな。小学生の頃は普通だったはずなんだけど……高校で再会した頃にはすっかり甘党になっていてね。バレンタインには自分で大量にチョコ買ったりしていたよ。それを臨也に馬鹿にされて怒ってたけど」
『そうなのか……でも確かに、そんなに甘いものが好きなら、煙草を吸うのはあまりイメージできないな』
「でしょ?不思議だよね。今でこそ金髪がトレードマークになってるけど、あれも先輩だった田中さんに言われて渋々染めたって高校の時に言ってたし。煙草なんて百害あって一利なし。弟くんに貰って今でも大事に着てるバーテン服にだって、嫌な匂いがついちゃうのにさ」

新羅はそう呟いて肩を竦めた。ジオグラフィック番組はいつの間にか終わり、将棋の対局放送へと移り変わっていた。セルティはそれを見て臨也のオフィスにあった囲碁の盤を思い出す。チェス、オセロ、将棋の駒を用いた謎のゲームは理解が追い付くようなものではなく、楽しそうにその駒を弄ぶ臨也はもっと理解不能だった。

(静雄が煙草を吸う理由も分からないが、臨也のことはもっと理解できないな)

×

「本当に君って理解不能だよ」

臨也は嘲るように呟いて口角を持ち上げる。構えたナイフの切っ先が向けられたのは、池袋の自動喧嘩人形だ。金髪、サングラス、バーテン服がトレードマークの男―――平和島静雄は、咥えていた煙草から紫煙を吐き出す。二人の距離は一メートルも離れておらず、正面に立っていた臨也の顔に紫煙は直撃した。副流煙の匂いと目に沁みる感覚を堪えながら赤い瞳を見開き、臨也は表情を僅かに引き攣らせた。

「あのさぁシズちゃん、毎回毎回そうやって煙を吹きかけるのやめてくれないかな」
「あぁ?俺の正面に立ってる手前が悪いんだよ」
「相変わらずジャイアニズム100%って感じだね。そういう君の利己的なところ、本当に嫌いだよ」
「……俺が利己的だぁ?お前にゃ言われなくないぜ……いーざーやーくんよぉおおおッ!!」

怒声が響き渡った瞬間、既に臨也の姿は視界から消えている。静雄の動きを瞬時に察知した臨也は猫のようにしなやかな身のこなしで繰り出された拳を回避し、次の攻撃を避けるための準備を行っていた。静雄は拳を避けられたことに舌打ちをして次の拳を繰り出すが、それもひらりと回避されてしまう。軽やかなジャンプで静雄から距離を取った臨也は余裕たっぷりに溜め息を吐くと、コートのフード部分を細い指先で摘み上げる。

「あーあ、最悪。お気に入りのコートにシズちゃんの煙草の臭いがついちゃったよ」

心底嫌そうに眉を顰め、静雄を鋭く睨みつけた。しかし次の瞬間には貼り付けたような笑みを浮かべ、フードを摘んでいた手を大きく振ってみせる。

「じゃあね、シズちゃん。俺は君と違って忙しいんだ。これ以上君に構ってる暇はないんだよねぇ」
「ッ…、待ちやがれ臨也ァ!!」
「だからさぁ、俺がそう言って待った試しあった?……じゃ、お疲れー」

ひらひらと軽い調子で手を振りながら臨也は小走りで駆けていく。ビルの壁面を駆け上がり、カラオケ店の看板に飛び移る。窓枠を足掛かりにして、まるで飛んでいるような身軽さで階段の手摺りへ着地する。それから金属製の階段に降り立つと、呼吸一つ乱さずに駆け上がり―――細い背中はあっという間に屋上へと消えていった。

「クソッ……相変わらずちょこまかと……」

静雄は苛立ち交じりに呟きを零し、一度も当てることの出来なかった拳を強く握り締める。ギリリと嫌な音が鳴り響けば、遠巻きに見ていた群衆は息を呑んだ。そんな静雄の広い背中に、間延びした声が投げかけられる。

「おーおー、終わったかぁ?静雄」
「……トムさん」

ぱっと振り返った静雄の表情からは先ほどまでの怒りはすっかり消え失せていた。握り込んでいた拳もふっと解かれ、純朴そうな青年の表情に戻る。トムは少し呆れたような笑みを浮かべて静雄を見上げた。

「折原も暇な奴だな。毎週のようにやって来てはお前をからかって……」
「あいつ、忙しいなんて言ってるらしいっすけど絶対嘘ですよ。情報屋なんて胡散臭い仕事やってるみたいっすけど」
「情報屋ねぇ……。しかし静雄、今日は道路標識を引っこ抜かなかったんだな。偉いじゃねーか」

そう言いながらトムは静雄の乱れた金髪を乱暴に掻き回す。静雄はくすぐったそうな笑みを浮かべ、視線を左右に泳がせる。

「や、やめてくださいトムさん。恥ずかしいっす」

年齢相応の表情になった後輩を微笑ましく見上げていたトムだが、そこで不意に手を止めて真顔になる。何かを考えているらしい上司に首を傾げ、静雄は疑問を投げかけた。

「トムさん?どうしたんっすか?」
「……あー、そういや静雄、アレっていつもやってんのか?」
「アレ?」
「なんつーか……その、煙草の煙を……」
「あぁ、そっすね。最近はよくやってる気がします。ただの嫌がらせっすけど……ま、あんまり効いてる気はしないんですけどね」

それがどうしたんっすか?と言いたげな静雄にトムは言葉を言い淀み、静雄の頭に載せていた手を引っ込める。特に何も考えていない行動であろうことは予想できていたが、問題は相手がその行動に含まれる理由を知っていないわけがないということだった。いくら静雄と旧知の仲とはいえ、踏み込んではいけないラインというものは存在している。トムも踏み込んで痛い目を見るのは本意ではないため、胸中に渦巻くものはそのラインを超えるものだと判断し―――無理矢理作った笑顔を貼り付けるに至った。

「いや、なんでもねぇわ!それより静雄、今日の昼はどこで食いたいとかあるか?」
「え?……えーっと、昨日はロッテリアだったんで、うどんとか…?」
「うどんもいいな!そういや駅前の牛丼屋、新メニュー出たばっかりらしいぞ」
「そうなんすか?……じゃあ、久しぶりに牛丼もいいかもしんないっすね」
「おう!じゃあ昼まで張り切って回収行くぞー!」

やけに上機嫌なトムに肩を抱かれ、静雄は不思議そうに目を瞬かせた。しかし、それ以上を尋ねることはなく大通りを歩き出す。―――そんな静雄の背中を遠くから見下ろす影が一つ。屋上へと消えたはずの臨也が、廃ビルの外階段に腰掛けながら静雄を見つめていた。先ほど煙草の煙を吹きかけられた端正な顔を僅かに顰め、それから静かに息を吐き出す。静雄の吐く紫煙とは異なり、臨也の吐息は無色透明だ。副流煙の匂いもしなければ、肌や服に匂いを残すこともない。臨也はコートのフード部分を再び指先で摘み上げ、それをゆっくり顔へと寄せる。柔らかなファーやコートの布地が顔に触れた。瞬間、臨也の鼻孔を擽るのは少し薄くなった煙草の香りだ。臨也は静かに目蓋を閉じる。長い睫毛を僅かに震わせながら、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

「―――シズちゃん……」

消え入りそうな声で臨也が呟いたのは、先刻まで相対していた仇敵の名だ。ルビーのような虹彩に恍惚を浮かべてうっそりと微笑む。仄かに赤らんだ頬は、相手を心底憎く思っているとは言い難い。

「意味なんて知らずにやってるんだろうな。シズちゃん、馬鹿だし」

呟かれた言葉は静雄を嘲っているようだが、その声色はどこまでも甘い。臨也はしばらくコートに顔を埋めたまま何度も煙草の臭いを吸い込み、静雄の姿が視界から消えるとその場に立ち上がった。地上から数十メートルの高さにある外階段に立っているというのに、今にも折れそうな金属製の手摺りに体重を預けて凭れかかる。

「それにしても、あの上司も余計なこと言ってないみたいでよかったよ。シズちゃんは馬鹿なままが可愛いんだからさぁ」

まるで数十メートル離れた場所の会話をすぐ近くで聞いていたように呟き、臨也は形の良い唇を歪めて笑う。―――臨也が煙草嫌いというのは嘘ではない。それにたった一つの例外があるだけだ。臨也は、静雄の吸う煙草の臭いが好きだ。アメリカンスピリットメンソールライトならば良いというわけではなく、静雄が吸う煙草なら他の銘柄でも好きになるだろう。静雄が去った大通りの先を眺めて臨也は目を細める。

(……ほんと、重症だよね)

静雄のことが、好きだった。学生時代からずっと変わることのない想いは燻ぶったまま今も肥大化し続けており、自分でもよく分からないほどに拗れきっている。成人して数ヶ月後、静雄が急に煙草を吸い始めた時にはひどく驚いた。甘いものを好んでいた静雄が苦い煙草に手を出すことなど予想もつかなかったからだ。しかし、その匂いを嗅いだ瞬間に心を奪われた。煙草なんて百害あって一利なし、臭いし有害だし本当に最悪だ―――そんな固定概念など一切無視して。静雄が吐き出す煙草の匂いは、喧嘩が終わって別れた後も臨也に纏わりついて離れない。自分を見失った静雄が叫ぶ声を聞きながら裏路地を駆ける間、フードに顔を寄せてみる。まるで静雄に抱き締められているような気持ちになれて、臨也は笑みを零す。叶わない想いだと痛いほど理解していた。静雄がその身体に吸い込んで吐き出した、その匂いに包まれる―――それだけでどうにかなってしまいそうだ。

「……さて、可愛いシズちゃんにサプライズプレゼントでも贈ってあげようか」

臨也は爽やかな声で呟き、コートのポケットから二台の携帯端末を取り出す。迷いのない指遣いで二つの端末を交互に操作すると、楽しそうに両手を広げて階段を上りきった。サマーコートの裾を初秋の風に揺らめかせ、誰もいない屋上で楽しげにステップを踏む。くるくる、くるくる、くるくる―――高い太陽の日差しを受けながら臨也は一人踊り続ける。不意に電子音が鳴り響くと、臨也はぴたりと足を止めた。送られてきたメールの文面を一通り読み終え、蠱惑的な笑みを浮かべる。

「喜んでくれるといいなぁ」

×

「えーっ!?ドタチン、それほんと!?」

上がったのは女の悲鳴だった。しかしそれは恐怖による声ではなく、多分に喜色が含まれている。その声の主の隣に立っていた男は、訝しむように眉根を寄せる。

「嘘じゃねえよ。……ていうかお前、なんで喜んでんだ?」
「え?やっぱりそういうことなのかなーって!」
「……そういうこと?」

嫌な予感を覚えつつも問い返し、ドタチンと呼ばれた男は直後に自分の言葉を悔いることになる。真っ黒なワンピースを身に纏った女は、鼻息も荒く人差し指を立てた。頬を桃色に染めながら満面の笑みを浮かべる。

「イザイザってシズシズのことが好―――もがっ」
「おい狩沢っ!それ以上恐ろしい妄想を口にするんじゃない!」
「ほんとですよ狩沢さん!ギタギタのギニャーにされちゃいますよ!?」
「またそれか……狩沢、鳥肌が止まらなくなるからマジで勘弁しろ」

口を塞がれた上に三人の男からほぼ同時に突っ込まれ、狩沢はぱちぱちと瞬きを繰り返した。どうして?と言いたげな狩沢の表情に溜め息を吐き、長身の男は狩沢の口を塞いでいた手を離す。

「あのなぁ……言っていい冗談と悪い冗談があるだろ」
「冗談なんかじゃないよドタチン!だって、シズシズの嫌がる顔が見たさに高校時代から嫌がらせを繰り返してたなんて……イザイザは絶対にシズシズの気を引きたかったんだよ!」
「それは違うだろ。……というか、俺のことをドタチンと呼ぶのはやめろ。俺の名前は門田京平だ」

門田はげんなりとした表情で呟き、狩沢の頭を軽く叩いた。暴力反対と訴える狩沢を軽くあしらっていると、その様子を眺めていた遊馬崎が何かを思い出したように声を上げる。

「そういえば門田さん、そのニックネームなんっすけど……」
「あ?」
「臨也さんが命名したってほんとっすか?門田さん、学生時代は彼と仲良かったんっすねぇ」
「お前、誰からそれを…?」
「本人からっすけど」
「……本人、って……」
「先週、たまたま池袋で臨也さんと会ったんっすよねぇ。聞いてもないのに教えてくれたっすよ?」
「……いや、別に仲がいいって程ではなかっ―――」
「えっ!?ドタチン、イザイザと仲良かったの!?そ、それってもしかして……シズシズに恋するイザイザに、俺にしておけよって甘い声で囁いたことがあったりなかったり」
「あるわけないだろ!!」

あらぬ疑いを全力で否定した門田はがくりと肩を落とし、疲弊した表情で遊馬崎を睨む。余計なことを言ってしまった自覚があったのか、遊馬崎は申し訳なさそうに視線を逸らした。相変わらず生き生きと妄想を巡らせる狩沢を横目に、渡草はワゴン車のミラーに視線を移す。そして、ミラーに映り込んだ人物を見てぎくりと背筋を凍らせることになった。

「お、おい、お前ら…っ!」

焦燥を孕んだ渡草の声に振り返った三人は、そこに違えようもない人物の姿を見ることになる。

「おう、門田。久しぶりだな」
「し、静雄……」

仕事終わりなのか、静雄は少し疲労の滲む表情で首を回しながら門田に右手を挙げた。目を輝かせる狩沢が余計なことを言わないように遊馬崎は彼女の手を引いた。遊馬崎が狩沢をワゴン車内に引き摺り込むと、渡草は見事な連係プレーでワゴン車の扉を閉める。静雄はバタバタと騒がしい三人を訝しげに一瞥したが、さほど親しい間柄でもないこともあり特に言及することはなかった。口に咥えていた煙草を軽く揺らしながら、門田をじっと見つめる。

「お前は今日休みなのか?」
「あ、あぁ。こいつらに付き合って、本屋巡りをしてきたところだ」
「そうか。……なぁ、聞きてえことがあるんだけどいいか?」
「……俺に?」

意外な言葉に門田は目を見開き、静雄を見上げる。顔を合わせば軽い会話はするが、それほど深い仲というわけではない。静雄から何かを聞かれたり相談されるということは極めて少なく、予想外の言葉に少なからず動揺した。

「もちろん構わねぇよ。なんだ、珍しいな」
「その……今日、ノミ蟲野郎が池袋に来やがってたんだが……」

(―――胸騒ぎがする)

背筋を冷たいものが伝うのを感じ、門田は横目で遊馬崎と渡草を見遣った。狩沢をワゴン車に閉じ込めておいてよかった。二人ともそう言いたげな引き攣った表情を浮かべている。

「そ、そうか。あいつも懲りない奴だな」
「臨也の野郎は煙草が嫌いなんだ。だから俺、最近はあいつに会うたびに煙草の煙を吹きかけてるんだけど」
「……え?」
「今日、トムさんに……いや、特に何か言われたわけじゃねえんだ。ただ、トムさんがそのことについて何か言いたそうにしててさ。今帰りながらそれを思い出して、なんかモヤモヤしちまったんだよ」

落ち着かなさそうに零した静雄は本気で悩んでいる様子だった。門田は静雄が嫌がらせのために煙を吹きかけていたと頭では理解していたものの、世間一般的に言われる意味がどうしても脳裏を掠めてしまう。思考をクリアにするべくわざとらしく咳払いを繰り返し、門田は静雄の肩に手を置いた。

「静雄。その、だな……煙草の煙を吹きかけるって行為には意味があるんだ」
「意味?」
「あぁ。いくつか意味はあるんだが、田中さんが思ったのは、多分―――マウンティングだろうな」
「まう……なんだ、それ?」
「マウンティングっつーのは、"相手より上の立場に立ちたい"ってことだ。まぁ、分かりやすく言えば闘争本能ってとこだな」
「……なるほど。トムさんはそれを言いかけたのか」
「多分な」

三つの意味の中で一番マシなものを選び、その意味を少し湾曲させて門田は口にした。静雄は少し難しい表情を浮かべてはいたが、やがて納得したらしく何度か頷いた。その様子に門田と遊馬崎と渡草はほっと胸を撫で下ろす。しかし、すっかり忘れていた狩沢の登場によってその安寧は一瞬で崩壊することとなる。

「シズシズ、ドタチンの嘘を信じちゃダメだよ!」
「……あ?」

静雄が振り返ると、ワゴン車の窓を全開にした狩沢が満面の笑みを浮かべている。遊馬崎と渡草は悲鳴を上げ、門田は自分の体温がすっと下がっていくのを感じた。静雄は慣れないニックネームで呼ばれたことと、あまり話したことのない狩沢に話しかけられたことで少し戸惑っている様子だ。狩沢はそんな静雄に構うことなく、少しも臆すことなく身を乗り出した。

「マウンティングの意味は"相手より上の立場に立ちたい"ってだけじゃないの。"相手より上の立場に立って独占したい"ってことなんだよ!」
「ど、独占……?」
「そう!あと二つの意味はね、"可愛いと思った時の愛情表現"と"今夜お前を抱く"だよ!シズシズってイザイザのこと好きだったんだね!キャーッ!」
「―――……は?」
「「「ギャーッ!!」」」

狩沢の黄色い声と共鳴するように男三人組は野太い悲鳴を上げ、瞬時にワゴン車に乗り込んだ。静雄は呆然と立ち尽くしていたが、四人はその静雄の反応を気に留める暇もない。門田は狩沢を車内の奥に追いやると、全開になっていた窓から声を掛けた。だらだらと全身を脂汗が流れ落ちていくのを感じたが、無言で去るのはあまりにも惨いだろうという優しさからの行為だった。

「し、静雄!俺たちこれからメシなんだ!悪いが先に失礼するぜ!」
「「し、失礼しましたーッ!!」」
「またねーシズシズー」

脂汗を滲ませた男三人と呑気な女一人の四人組を乗せたワゴン車は、アクセル全開で遠ざかっていく。一人残された静雄は狩沢に言われた言葉を何度も頭の中で繰り返し反芻し―――完全にフリーズしてしまった。夕方の池袋の公園前で静雄に話しかけようとする猛者は誰も居ない。しかしそのお陰で静雄はそのまま数時間その場に立ち尽くして夜を迎えることになった。気付けば周囲には誰の姿もなく、静雄は重い足を引き摺るようにしてアパートへと帰りつく。腹は減っているというのに夕食を作る気力もなく、買い置きのカップ麺を適当に手にして湯を注いだ。三分間待っている間にも脳裏に浮かぶのは、狩沢に言われた言葉だ。

(相手より上の立場に立って独占したい…?可愛いと思った時の愛情表現…?今夜お前を抱く…?)

どれもが自分に言われたものだとピンとこない。そんな感情を誰かに抱いたこともない静雄にとっては、まさに寝耳に水という表現が相応しかった。気付けば既定の三分間はとっくに過ぎてしまっている。伸びに伸びきった麺を無心で啜りながら、静雄は言われた言葉の意味をもう少し考えてみることにした。相手より上の立場に立ちたい―――これは自分でも納得できる。臨也より下の立場に甘んじたくはないし、臨也より上の立場にいれば少しは溜飲も下がるだろう。しかし、静雄が納得できたのはそれだけだった。

(独占したい…?可愛いと思った時の愛情表現…?今夜お前を抱く…?……俺が、―――誰を?)

『シズシズってイザイザのこと好きだったんだね!』

狩沢に言われた言葉が頭の中で大きく反響し、脳味噌を激しく揺さぶられる感覚に襲われた。静雄は机に額から倒れ込み、汁だけが残っていたカップ麺の容器を盛大にひっくり返した。醤油ラーメンの香りが部屋中に広がっていき、スラックスに染みを作っていく。静雄はギリギリ割れなかった机から汁塗れになった顔を上げ、瞳を大きく見開いた。

「俺が、臨也を、好き……?」

呆然と呟き、虚空を見上げる。静雄の脳内に思い浮かぶのは様々な表情の臨也だ。学生時代の試すような笑み、街中で出会った時の引き攣った表情、喧嘩中のギラギラとした赤い瞳が印象的な壮絶な笑み、逃げる時の嘲るような表情―――今まで憎たらしくて仕方ないと思っていたその表情の全てが、一瞬で違うものに変わってしまった感覚に襲われる。整理できない感情の波に困惑しながらも、静雄はひっくり返したカップ麺の容器を拾い上げた。周囲に充満する醤油ラーメンの臭いで自分の動揺の大きさをようやく実感する。なんとか後片付けを終わらせると、ぼんやりした頭のまま入浴を済ませて布団に入った。まだ就寝には随分と早い時間だったが、布団に入ったところで到底すぐに寝れる状態ではない。結局そのまま数時間は悶々と悩み続け、眠りに落ちたのは深夜を回ってからだった。翌朝になって目が覚めてからも頭はすっきりせず、逆にモヤモヤは悪化している。

「……どうしろってんだ」

こんな気持ちを抱えたまま仕事に行ける気はしない。かといって休みの電話を入れる勇気もなく、静雄は重い溜め息を吐きながら玄関の扉を開けた。


continue...




ホーム / 目次 / ページトップ



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -