熱の余韻

※来神時代


2月初旬。まだ厳しい寒さの残る日だった。臨也は珍しく風邪を拗らせて学校を休んでいた。

「あーあ、まるで臨也じゃないみたい。こりゃ重症だ」
「……みたいだな」

新羅の手によって前髪を掻き上げられ、露になった熱い額に冷えピタを貼られて臨也は思いきり眉根を寄せる。熱い吐息を吐き出す臨也を見下ろしていた静雄は、落ち着かずに俯いた。臨也の天敵である静雄が折原家にまで見舞いに来ているのは、その原因の一端が静雄にもあるからだった。

「冷えピタ買ってきてよかったよ。臨也、熱は何度あるの?」
「ぅ、……あー…しらない…」
「知らない、って…もしかして測ってないのかい?」

新羅の問いかけに臨也は黙って頷いた。毛布を首の下までしっかり被っているあたり、身体は冷えているようだが顔は真っ赤だ。静雄の目にも明らかに高熱であるように見える。新羅と静雄の背後で、門田が重い溜息を吐くのが聞こえた。

「ちゃんと測らなきゃ駄目だよ。インフルエンザかもしれないでしょ」
「それ、は、無いでしょ」
「測ってもないのになんで言い切れるんだよ。もう発熱して3日目だろ」
「だって、症状が違うし……」
「症状は僕が今から診察するよ。ほら、いいから身体起こして。まずは熱計るよ」

早口で捲し立て、新羅は臨也の上体を引き起こした。インドアな新羅にさほど腕力はないはずだが、今の臨也には抵抗する力も残っていないのだろう。臨也は素直に上体を起こすと、新羅が差し出した体温計を受け取った。

「ほら、ボタン外して」
「……うん……」

どうにも意識が朦朧しているらしく、臨也は寝間着のボタンを外すのに幾度となく失敗した。見かねた新羅がボタンを3つ外すと、薄っすらと筋肉のついた胸板が露わになる。熱のせいか汗が伝っているそこを目にして、静雄は思わず目を逸らした。臨也は体温計を脇に挟んでじっとしていたが、眉間には深い皺が刻まれている。静雄が腕を組んで見下ろしていると、背後から顔を覗かせた門田が臨也の頭をそっと撫でる。目を細めながら、門田は呆れたように溜息を吐いた。

「……反応が鈍い。ぼーっとしてるな」
「この寒い中に傘も差さずに帰ったりしたら、風邪ひくのは当たり前だよ」
「本当にな…。臨也、もう少しきちんと脇を締めろ。体温計が抜け落ちそうだぞ」
「え、あー…?うん……」

静雄は僅かに目を伏せ、手にしたままのコンビニの袋を所在なく揺らした。中には新羅が来る途中のコンビニで買ったスポーツドリンクと冷えピタ、プリンが入っている。ずしりとした重さがあったが、乱雑に物が散乱している床に置くのも憚られて静雄はずっと手に持っていた。

「あ、鳴ったね。臨也、離していいよ」
「……ん、」

ピピッと電子音が鳴り響き、新羅は臨也から体温計を受け取って熱を確かめる。静雄はふと臨也へ視線を遣るが、閉じられた目蓋に漆黒の髪がかかって表情は窺えなかった。白磁のように滑らかな頬は熱のせいで朱に染まり、苦しげな呼吸音はひどく静雄の胸を締め付ける。

「38.5℃……」

新羅の声を聞きながら、静雄は3日前の出来事を思い返していた。


×


その日の放課後、2人はいつものように喧嘩という名の死闘を街で繰り広げていた。静雄が振り回す標識を軽々と回避した臨也は不敵に笑みを浮かべる。懐からナイフを取り出し、静雄に詰め寄ろうとした瞬間だった。ザアッという音とともに激しい雨が降り出した。臨也は動きを止め、静雄も呆然と立ち尽くす。繁華街だったが、次々に人々が避難していくのを目にして2人ともすっかり戦意を失ってしまった。臨也はナイフをポケットへ隠すと、踵を返した。

「っおい、臨也!」

静雄が呼び止めるのも聞かず、臨也は短ランの裾を翻して路地裏へと姿を消した。静雄は反射的に臨也を追いかけようと慌てて路地裏に入ったが、臨也の姿は既に消えていた。昂っていた熱が冷めやらずに立ち尽くしていると、不意に尻ポケットの携帯が震えた。携帯を濡らすわけにも行かず、静雄は近くにあった店の軒下へと逃げ込む。携帯を開くとメールの着信が入っていて、その送付元は弟の幽だった。

「なんだ…?『兄さんの鞄に折り畳み傘入れてるよ』……」

今日の天気予報では雨が降るなどとは言っておらず、静雄は傘を持たずに出てきたはずだった。半信半疑で鞄を漁ると、底の方に見慣れない薄型の折り畳み傘が入っている。おそらくこれは幽の私物だろう。なぜ雨が降ると分かっていたのかは謎だったが、静雄は短い感謝の言葉を打ち込んでメールを返信した。折り畳み傘を取り出す代わりに携帯を鞄に仕舞う。空を見上げてみるが、いっこうに弱まる気配はない。先ほど止める暇もなく駆け出してしまった臨也を思い出し、僅かに気持ちがざわついた。おそらく臨也は傘など持ち合わせていないだろう。今頃濡れながら帰宅しているだろうか。この場所から静雄の家までは10分程度の距離だが、臨也の家まではその倍近くの距離があったはずだ。モヤモヤする思考を振り払うように静雄は大きく首を横に振る。犬猿の仲の相手を心配する必要がどこにあるのだ。あんな奴は一度風邪でも拗らせて痛い目に遭えばいい。そう必死に言い聞かせながら、静雄は折り畳み傘を開いて一人歩き出した。


×


「症状から見るに、風邪みたいだね。インフルエンザじゃないのは不幸中の幸いだ」

新羅の声ではっと意識を引き戻された。静雄が声のする方を見ると、臨也は真っ赤な顔でぼーっと新羅を見上げていた。門田は心配そうに臨也の顔の前で手を振る。

「臨也?大丈夫か?」
「う、うん……だいじょぶ……」
「ほんとかよ。……ま、とりあえずインフルエンザじゃなくてよかった」
「そうだね。そういや臨也、ご両親は?」

聴診器を片付けながら新羅が何気なく口にした疑問に、臨也は苦々しい表情を浮かべた。横になったまま床に視線を落とし、小さな声で呟くように返事をする。

「……先週から出張」
「うわ、タイミング悪いなぁ。いつ帰ってくるの?」
「来週の頭、だったかな…」

臨也の曖昧な返答に新羅は額を抑え、門田が横から口を挟む。この部屋の扉には内側から鍵がかかっており、大きく立ち入り禁止の張り紙がされていた。それを思い出しての言及だったのだろう。

「九瑠璃と舞流はどうしてる?」
「……絶対部屋に入るなって言ってある。あいつら、俺が風邪だろうとお構いなしで悪戯してくるから……食事はレトルトとかコンビニ弁当で済ませてる、はず」
「そうか。3日目となると栄養面が不安だな」
「門田くん、料理できるんだっけ?」

顎に手を添えた門田に新羅が首を傾げる。門田は頷きながら、臨也の頭を軽く撫でた。

「あぁ、多少はな。臨也、冷蔵庫に食料は?」
「野菜も肉も少しはある、と思う……」
「分かった。あいつらが帰ってくる前に夕食を作っておく。あとお前の分のお粥もな。台所借りるぞ」
「うん……ありがと、ドタチン……」
「おう、お前は早く風邪治しちまえよ。そんなんじゃ調子狂うぜ」

優しい微笑みを浮かべ、門田は部屋を出て階段を下りていく。大きな背中を見送って、新羅は呆れ混じりの溜息を吐く。

「ほんと臨也って門田くんには素直だよねぇ」
「ドタチンは、新羅と違ってすごい優しいもん」
「あーはいはい。僕は君を診察してあげたんだけどなー?」

新羅が僕にお礼は?と催促するが、臨也はふいと視線を逸らす。その逸らされた臨也の熱で潤んだ瞳が、ふと静雄を捉えた。ばちりと視線が合い、その気まずさに静雄はぱっと顔を背けてしまう。新羅は曖昧な笑みを浮かべると、静雄からビニール袋を受け取った。

「静雄くん、荷物持たせたままでごめんね」
「あ、いや、別に」
「臨也、冷えピタとスポーツドリンクはこの机に置いておくからね。冷えピタはぬるくなったら取り換えて、きちんと水分補給もすること」
「……うん」

先ほどまでと比べて明らかに覇気のない返事を返す臨也は、視線を逸らした静雄の横顔をじっと見つめるばかりだ。新羅は臨也の気のない返事に苛立ち、床に散乱した衣類を適当に拾い集めて部屋の一角に積み上げた。それから臨也の回転椅子を引っ張り出し、静雄に座るよう促す。

「静雄くん、ここ座って」
「え?いや、俺はいいから岸谷が……」
「僕、これからセルティと約束があるんだよね」
「は?」

有無を言わせない口調に静雄が座った瞬間、新羅はあっけからんと言い放った。静雄が返事をするのも待たず、新羅は臨也の顔を覗き込んで笑みを浮かべる。

「ごめんね臨也。頓服薬もここに置いておくから、きちんと食事を摂ってから飲むこと。飲む時は水かお湯だからね」
「……え?新羅、もう帰るの…?」
「僕が居なくて寂しいのは分かるけど、残念ながらね。門田くんも用事があるって言ってたから、夕食を作り終わったら帰るんじゃないかな」

新羅はそう言うと、返事を言い淀んだ臨也にもう一度笑いかけた。新羅は静雄を振り返ってじゃあと片手を上げた。ちょっと待てと静雄の手が伸びるよりも早く新羅は扉を開け、部屋を出ていった。新羅の背中が扉の向こうに消える直前、臨也は掠れた声でありがとうと呟く。囁きに近いそれを聴き取ってしまい、静雄はむずがゆい気持ちで俯いた。新羅が居なくなったことにより、部屋の中には時計の秒針と臨也の呼吸音だけが響く。

「……臨也」

沈黙に耐えられず、静雄は口を開いた。臨也は僅かに充血した瞳で静雄を見上げる。潤んだ瞳に見つめられ、静雄は頬が熱くなるのを感じた。

「ごめん、な」
「……なんで、シズちゃんが謝るの」

絞り出した声で謝ると、臨也は目を見開いて静雄を凝視した。重い静寂が落ち、静雄が再び言葉を紡ごうとすると臨也は自嘲的な笑い声を零した。その声に視線を移すと、臨也は薄弱な笑みを湛えて静雄を見上げる。

「俺の、自業自得だよ。……シズちゃんの親切を無下にしたんだから」

熱のせいか震える手を臨也は静雄の方へと伸ばす。静雄が掴むと、触れた皮膚は火傷しそうなほど熱い。熱の高さを改めて実感することになり、静雄は思わず重い息を吐き出す。それを勘違いしたのか、臨也は口元をいびつに歪めて苦笑した。

「……呆れた?」
「そうじゃねぇよ。ただ、俺が無理やり引き留めればよかったと思って」
「そんな義理ないでしょ。あの時の喧嘩だって、俺から吹っ掛けたんだし」
「まぁそうだが……喧嘩を反省するぐらいなら、その無鉄砲さをどうにかしろよ。お前は」
「……シズちゃんに言われたくない」

臨也は不機嫌そうに口を尖らせた。その様子にいつもと変わらない雰囲気を感じ取って、思わず静雄は頬を緩めた。

「静雄」

軽いノック音とともに名を呼ばれ、静雄は立ち上がって扉を開けた。門田は開いた扉の隙間から臨也の様子を伺うと、静雄に視線を移す。

「どんな様子だ?」
「あぁ……まぁ、ちょっと元気はねーけど大丈夫だと思うぜ」
「そうか。岸谷は?」
「あいつならもう帰ったぞ。お前も用事あるんだろ?」

俺が残るから、と静雄が言うと門田は意外そうに目を丸くする。平気か?と尋ねる門田の声に滲む心配そうな気持ちを察して、静雄は苦笑した。

「九瑠璃と舞流もそろそろ帰ってくんだろ。それに、んな顔しなくても今のあいつ相手に喧嘩したりしねーよ。心配すんなって」
「……じゃあ頼んだぜ。あと静雄、お前もあんまり気負うなよ」
「え?」
「臨也の風邪のことだよ。お前のせいだけってわけじゃないからな」

門田は静雄の髪をくしゃりと撫でる。静雄は頷くと、門田は夕食の置き場や食器の片づけについて伝えて帰っていった。階段を降りる音が遠ざかっていき、静雄が部屋の中を振り返ると臨也が少し不満そうにこちらを見つめていた。

「なに話してたの」
「大したことじゃねーよ。夕飯、作ってくれたって」
「……頭、撫でられてたじゃん」
「お前もいつも撫でられてるじゃねーか。妬いてんのか?」
「違っ…!―――もう、いいよ。ばーか」

臨也はあからさまに拗ねた様子で顔を背ける。怒るなよと囁きながら、静雄は臨也の手を握った。一回り小さな手は相変わらず発熱のせいで熱い。僅かに握る力を強めると、臨也は焦れるほどゆっくりと振り返って視線を合わせた。

「……シズちゃん」
「なんだよ」
「……なんでも、ない」

熱によって潤んだ瞳をじっと見つめ返していると、次第に目蓋が重くなりやがて静かに閉じられる。薄く開かれた臨也の唇からは、安堵したような熱い吐息が零れた。ようやく安心した表情で目蓋を閉じた臨也は、静雄の瞳には普段より幼く映る。つないだ手から伝わる熱を感じながら、静雄は静かに目を伏せた。


end.




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