C'est comme si le destin.<7>

※カラマトゥ×イッチー・カーラ×イチマトゥ


【 side:B - Episode 3 - 】

自ら戒めていた想いをカラマトゥに吐露したことで精神的な負担が軽くなったのか、イッチーの様子は比較的落ち着いていた。泣くことはなくなっていたが、同時に悲しげな表情でぼーっとしていることが増えた。それ以外はカラマトゥに怯えることも減り、気を許したように笑うことも多い。

「イッチー」

夕方になり、イッチーを書斎へ迎えに来るとカラマトゥの声も聴こえないほど集中していることが殆どだった。今日も例外ではなく、扉を開けて声をかけても返事がない。イッチーは地頭が良いようで、知識の吸収がとても早かった。本の内容について質問すると、淀みなくすらすらと答えてくるのでカラマトゥが驚かされることもしばしばだ。少しでも気を紛らわせればいいと与えた呪術書だったが、魔力が増幅している以上は実際に使わせるわけにはいかない。危険リスクを減らすためにも契約は必須と言っても過言ではない。しかし、カラマトゥはどうしても無理に迫る気になれなかった。

「―――……イッチー、」

ソファーの近くまで歩み寄り、もう一度声をかけるとイッチーはようやく顔を上げた。もうそんな時間?と言いたげな表情に思わず苦笑する。カラマトゥが頭を軽く撫でると、イッチーは仔猫のようにうっとりと目を細めた。最初のころに比べ、随分と気を許されたものだと頬が緩みそうになる。まだ読みたいのかと尋ねれば、うんと素直な返事が返ってきた。

「今日は少し迎えに来るのが早かったかもしれないな。なに、時間はまだあるんだ。しばらく読んでいていいぞ」
「……ん、」

カラマトゥの言葉に頷き、イッチーは再び本に目を落とした。カラマトゥは隣に腰かけると、庭園の薔薇を眺めながら軽く息を吐いた。少しはイッチーの気が紛れるかと思ってこの書庫に連れてきているが、ここは云わば箱庭のような場所だ。イッチーが不満を漏らすことは一切ないが、こう考えると幽閉しているのとなんら変わらない。もう少し自由にさせてやりたい気持ちもあったが、オソマトゥが手を出してきそうで気が抜けないのだ。せめて弟たちと喋るような機会を与えてもいいか、とぼんやり思いを馳せる。と、不意にカラマトゥの袖を引っ張る感覚があった。

「カラ、」
「……あぁ、どうした?分からない箇所でもあったか」

教えてやろう、とカラマトゥが本を覗き込むと胸を押し返されてしまった。瞠目すると、不服そうな顔でイッチーがこちらを見上げている。

「そうじゃないよ。……すごい顔してたから」
「え、」
「眉間に皺寄せてた。なんか、怒ってる?」

思いもよらぬイッチーの言葉にカラマトゥは目を瞠った。ポーカーフェイスには自信があったが、見抜いたイッチーの洞察力の高さに驚かされる。カラマトゥが思わず眉間を触ると、イッチーは堪えきれずに噴き出した。笑われたことは少々気まずいが、こうして笑っているイッチーを見ると安堵する。笑い続けるイッチーに手を伸ばし、口を抑えていた手を退けると柔らかい頬を摘んでやる。少し驚いた様子だったが、カラマトゥのじとりとした目線にさらに笑いが止まらなくなったようだった。ぐにぐにと弄っているとだんだん痛くなってきたのか、細い指がカラマトゥの指にかかる。

「や、も、ひゃめてよぉ……」
「なんだ?よく分からないな。ちゃんと言えてないぞ」
「っ……、カラが摘むからでしょ!」

カラマトゥの指を引き剥がし、イッチーが非難する。どうやら摘みすぎたらしく、赤くなった頬が痛々しいやら面白いやらで今度はカラマトゥが笑う番だった。本を閉じたイッチーは拗ねたのか、カラマトゥに背を向けてしまう。

「怒ったのか?」
「当たり前でしょ。痛かったんだから」
「そうかそうか。すまなかったな」
「……まったく誠意が感じられない……」

カラマトゥはイッチーの肩を引き寄せ、赤くなった頬をそっと撫でた。最初は不満そうな顔をしていたが、カラマトゥの冷たい指先が気持ちいいのか次第に目を閉じる。しばらくそうやって撫でていると、イッチーがおずおずと口を開いた。

「カラ、怒ってない?」
「……最初から怒ってないさ。ちょっと考え事をしていただけで」
「考え事って、なに。……おれに、関係すること?」

ゆっくり目を開けたイッチーの静かな瞳に見つめられ、カラマトゥは言葉に詰まる。嘘を吐いてもバレるだろうと素直に肯定する、とイッチーは悲しげに目を伏せた。

「……やっぱり、おれのこと迷惑?」
「違う。そうじゃない」
「でも、カラはおれのせいで悩んでるんでしょ?」

また泣かせてしまいそうで、カラマトゥはイッチーの腰を抱き寄せた。されるがままの細い身体は抵抗なく抱き締められ、カラマトゥはその背中を宥めるように数回撫でてやる。それから安心させるように優しく耳元で囁いた。

「オレはお前を迷惑だなんて思っていない。契約のこともゆっくり考えてくれればいいんだ。無理強いはしない。……お前の、兄のこともだ」

次兄のことに言及されたイッチーはびくりと身体を震わせたが、しばらくするとゆっくり頷く気配があった。カラマトゥは身体を離し、イッチーが手にしていた本を書架に戻してから手を差し出す。イッチーは逡巡していたが、やがてその手を握って立ち上がった。カラマトゥを見上げる瞳は不安そうに揺れていたが、強く握り返してやると幾許か安心したようだった。どうにも精神的に少し不安定な部分は否めないが、こうして傍にいて触れてやると落ち着くようだ。今まで縋ってきた兄から自分で離れたとはいえ、まだ一人で立てるほど強くはないのだろう。だが、カラマトゥを見るイッチーの目はそこに兄の姿を見出しているようではない。それは、少なくともカラマトゥにとって喜ばしいことだった。


×


「ねぇカラマトゥ兄さん、イッチーは元気?」

夕食を終え、自室に戻ろうとしたタイミングでそう声を掛けてきたのはジュウシマトゥだった。少し心配そうな表情に、そういえば一番最初に打ち解けていたのはこいつだったなと苦笑する。あの時は大人げなく嫉妬してイッチーに嫌味を言ってしまったが、ジュウシマトゥが優しく接してくれたからイッチーも安心したのだろう。

「あぁ。今は朝から夕方の間、オレの書庫へ連れて行っている。本が好きらしくてな……。あまり広くはないが、中庭も自由に行かせているよ」
「うーん、そっかぁ。……ね、外には出してあげないの?」

ジュウシマトゥの言葉に、カラマトゥは返答に窮した。おそらくジュウシマトゥは既にイッチーと契約済みだと思っているのだろう。カラマトゥと契約をしていれば、イッチーを外に出しても襲われる確率は低くなる。どうしたの?と首を傾げてくるジュウシマトゥから視線を逸らしていると、背後から背中をぽんっと叩かれた。

「まだ契約してないんでしょ?カラマトゥ兄さん」
「……トドマトゥ……」
「ほーら図星だった。最初に連れて来た時とは大違いだねぇ」

面白がっているのを隠しもしない様子に少なからず苛立つが、その通りなので言い返すこともできない。トドマトゥの言葉に驚いたジュウシマトゥはなんで!?と叫ぶ。

「声が大きいよジュウシマトゥ兄さん」
「あ、ごめんちゃい」
「カラマトゥ兄さんのことだし、あの子に入れ込んじゃったんでしょ?」
「えっ!?そうなの!?」
「ちっ…違う!誤解だ、ジュウシマトゥ」
「誤解でもなんでもないでしょ?しらばっくれるのやめなよ」
「いや、だから違うと言って……」
「ていうか、本当に大丈夫なの?彼は」
「……イッチーのことか」
「他に誰がいるの」

トドマトゥにじっとりと見つめられ、カラマトゥは大きく息を吐く。口が達者なこの末弟に問い詰められて、今まで一度として上手く躱せた試しがない。周囲にオソマトゥの姿がないことを確認すると、カラマトゥは両手を上げた。

「正直言うと、あまり良くない。よく笑うようにはなったが……その、イッチーは失恋したばかりらしくてな。傷心のあまり……オレに、攫ってほしいと口走ったらしいんだ」
「はぁ!?失恋!?」
「……そうだ」

あまり具体的に話すのも憚れてぼんやり濁すと、トドマトゥは信じられないと口をあんぐり開けた。ジュウシマトゥは可哀想だねぇと呟き、悲しそうに顔を歪めている。

「あの子、ほんとにどんな性格してんの!?めちゃくちゃすぎない!?」
「……オレもそう思う。おそらく自暴自棄になっていたのだろう」
「いやいや、そんなにあっさり片付けられること?兄さんも簡単に受け入れすぎ!」
「でもさぁ、イッチーはそれぐらい大好きだったんでしょ?」

ストレートなジュウシマトゥの言葉に、カラマトゥは俯いた。ジュウシマトゥの言う通りだ。それほどに好いていたからこそ、今なお諦められず、恋の残滓に苦しめられている。時折ぼーっとしているイッチーの瞳はいつだって悲しそうだった。黙り込んだカラマトゥの様子を目にしたトドマトゥは、額に手を当てて深い溜息を吐く。

「本当にあの冷酷無比なカラマトゥ兄さん?嘘みたいだね」
「……はは、褒め言葉か?」
「ばっかじゃないの」

罵倒にしては優しすぎる声色でトドマトゥは呟いた。それから心配そうなジュウシマトゥに頷きかけ、カラマトゥを見上げる。

「ねぇ、ぼくたちも部屋に行っていい?兄さんだけじゃ難しいでしょ」
「ぼくもさんせーい!あの子ともっとお話ししたいよー!」
「……しかし……」
「あの子、兄さんのこと嫌いじゃないんだと思うよ。でもね……多分、うまく呼吸できてないんだよ」

唐突な提案にカラマトゥは一瞬面食らったが、トドマトゥの言葉に苦い笑みを零した。早く行こうよと急かすジュウシマトゥを宥めながら、カラマトゥは大広間の扉を開く。自室への道を弟たちと共に歩きながら、少しでもイッチーの気分が上向きになればいいと、そう願うばかりだった。


×


「イッチー、ただいま」

扉を開け、自室のテーブルについて一人チェスをしていたらしいイッチーが顔を上げる。カラマトゥを視認しておかえりと紡ぎかけた唇からは、次の瞬間には悲鳴が出ていた。ジュウシマトゥが勢いよく部屋に飛び込んだせいだった。

「ちょっ、待ってジュウシマトゥ兄さ」
「ドゥーン!!イッチー元気にしてた!?ぼくは元気いっぱいハッスルハッスル!!」
「ひぇ、な、なに……!?」

部屋に駆け込んだジュウシマトゥは一直線にイッチーへ向かっていき、驚いて立ち上がったイッチーは慌てるあまり椅子を引き倒しそうになっていた。流石にいきなり混乱させるのもまずいと思い、カラマトゥは大股で歩み寄ると五男の襟首を掴んだ。

「ジュウシマトゥ、ウェイトだ。イッチーが驚いてるだろ」
「あれ、そうだった!?ごめんねイッチー!!元気だった?」
「っえ……あ、あれ、迷宮魔法を解いてくれた、人…?」

暴れる様子がなかったので手を離すと、ジュウシマトゥは両手でイッチーの手を包んだ。ジュウシマトゥの体温の低さに一瞬声を上げていたが、見知った相手だと気付いて少し安心したようだった。

「人じゃないけどそうだよー!ぼくのこと覚えててくれたんだ!」
「う、うん」
「ジュウシマトゥたちがお前に会いたいと言ってな。少し遊んでやってくれないか」
「え、あ……うん。でもおれと遊んでも楽しくないんじゃ…」
「ねぇ何する!?おにごっこ!?かくれんぼ!?」
「えっ」
「室内で静かに遊びなさい。トランプかチェスがいいだろ?イッチー」
「うん、でもジュウシマトゥは……それでいいの?」
「いいよー!あっ、でもぼくルールわかんない!どうしよう!」
「じ、じゃあおれが教えようか…?」

ジュウシマトゥの奔放さに振り回されつつも、イッチーはどこか楽しそうだ。独特な感性を持つ弟だが、真逆とも思えるイッチーとの相性はなぜか良いらしい。

「さっそく打ち解けているな」
「なに、兄さんもう妬いてるの?短気だねぇ」
「トド……そうじゃなくてだな……」
「あはは、冗談だって」

トドマトゥは軽く笑って受け流すと、リビングへと行ってしまった2人を見送った。一緒に遊ばないのかとカラマトゥが問えば、疲れるから嫌だよと彼らしい返事が返ってくる。苦笑してコーヒーを淹れる準備をしていると、トドマトゥはイッチーが先程まで使っていたチェス盤を見下ろしていた。

「どうかしたか?」
「……これ、あの子が自分で覚えたの?」
「あぁ、オレが教えたわけじゃない。自分で指南書を読み込んでいたよ」
「本当に頭がいいんだね」

コーヒーをカップに注いで渡すと、トドマトゥはその香りを堪能し―――、ふと表情を曇らせた。不意に声を潜めてカラマトゥに問いかける。

「あの子、屋敷に来る前まで何かに憑かれてた?」
「……あぁ、おそらく悪魔だろう。まだ身体に魔力が残っている」
「やっぱり。最初に会った時に穢れた魔力を感じたんだよね。今見た感じでもちょっと違和感あるし。……ねぇ、まだ魔力残ってるなら危ないでしょ?それ理由に契約すればいいじゃん」
「…………」
「あーはいはい、分かったよ。無理強いはしたくないんだ?」
「……そうだ」
「ま、それはいいけどさ。今こうやって知識を与えすぎると危ないんじゃないの?もし魔力が暴走したら制御できないでしょ」
「それは……そう、だな。間違いない」

否定できずに俯くと、トドマトゥは呆れたように息を吐いた。実際に危惧していたことだし、そう考えると契約の必要性を説くのも間違いではない。

「暴走した時に危険なのはこっちだけじゃない、術者―――イッチー自身もだよ。詠唱が合っていても魔力が不安定なら失敗することもあるんだから。……それと、」
「何だ?」
「イッチーの家族は?ボクたちと同じ6つ子なんでしょ?攫った時にカモフラージュはしたの?」
「いや、特に何も」

トドマトゥはやっぱり、とこめかみを細い指先で叩く。呆れながらコーヒーを一口飲み、カップをソーサーに戻した。

「そうだろうと思った。……人間界じゃ急に子どもが消えたら大事なんだよ!分かってる?」
「……そこは、配慮不足だった。すまない」
「ハァ……まぁいいや。で、イチマトゥ兄さんは知ってるの?」
「聡いイチのことだ。おそらく気付いているだろうな」

カラマトゥの返答にトドマトゥは眉を顰めた。イチマトゥを連れて帰らなかった経緯については話してあるので、考えているのだろう。カラマトゥがコーヒーを口に含んでいると、トドマトゥがねぇと声を上げる。

「イチ兄さんが気付いてるならカモフラージュはしてくれてるかもね。でもイチ兄さんの契約相手の―――カーラも、カラ兄さんが攫ったって知ってるんじゃない?」
「……あぁ。イチは随分と心を許しているようだった」
「ねぇ、それまずくない?イチ兄さんってかなり魔力強かったでしょ?」
「トドマトゥ、それはどういう…?」
「―――その2人の契約内容に、イッチー奪還が含まれていたら?」

トドマトゥの言葉にカップを持ち上げていたカラマトゥの手が止まる。カーラとイチマトゥの契約内容についてまで考えたことはなかったが、イチマトゥの様子からしてあの人間にかなり入れ込んでいた。そして、契約としてもお互いの不利益になりそうにはない。

「―――……、」
「イッチーは魔導書の術式を使ったことで潜在魔力が目覚めたんだよね?イッチーと血が繋がってるなら、カーラも同じぐらいの潜在魔力があってもおかしくない。……2人が契約してから随分経ってるし、危険だよ」
「……イッチーを取り戻すため、こちらに向かってくると?」
「うん。2人にとっては契約を果たすためって理由もあるだろうし、強硬手段に出る可能性もあるよ」

カラマトゥはカップをテーブルに置くと、深く息を吐いた。イチマトゥと喧嘩別れになってしまった以上、カーラに肩入れした彼がこちらを敵視するのは不自然ではない。カラマトゥとイッチーの契約については向こう側は把握できていないはずだ。それに、こちら側が未契約の状態で屋敷の護りを突破されてしまえばイッチーを攫うことなど容易いだろう。

「もう一度、よく話し合った方がいいんじゃない?」
「……そのようだな」
「ボクは、兄さんが決めたことにとやかく言わないよ」
「あぁ。お前は、今までもそうだったよ」
「でも兄さんがあの子を手離したくなくても、イッチーの本心は帰りたがってるのかもしれない。……か弱い人間の子を手籠めにしたいだけなら、流石のボクも黙って従うのは難しいよ」
「肝に銘じておく。……ありがとう、トド」

トドマトゥの言葉は真っ直ぐカラマトゥの心へ突き刺さる。忌憚のない意見が、むしろ今は有り難かった。冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干し、そっとリビングを覗く。ジュウシマトゥとイッチーは楽しそうにトランプをしていて、イッチーは随分とリラックスしているようだった。

「……やはり、少し妬けるな」
「大人げないなぁ。兄さんも一緒に遊んできたらいいじゃん」
「いや、ちょっと席を外すよ。トド、2人を見ていてくれないか」
「はいはい」

カップをトドマトゥに渡し、美味かったよとカラマトゥは微笑む。ばたりと扉を閉め、部屋を去った兄の背中にトドマトゥは何度目とも知れない溜息を吐いた。不器用な人だとは思っていたが、これほど思い詰めているのも珍しい。トドマトゥにしてみればイッチーはただの冴えないゴスにしか見えないが、カラマトゥにとっては違うのだろう。リビングから聴こえてくる2人のはしゃぐ声を聞きながら、トドマトゥもまた冷めたコーヒーを飲み干したのだった。


×


屋敷の地下へとやって来たカラマトゥは、最深部の祭壇へ飾ってある水晶玉に手を翳した。ぼんやりと白い靄を内部に映していたそれは、カラマトゥの魔力に応じて映すものを変化させていく。靄が渦巻き、見覚えのあるシルエットへ変わろうとしたが、一瞬で霧散する。予想外の反応に首を傾げたカラマトゥのが再度手を翳すが、何度やっても同じだった。祭壇から離れたカラマトゥは、6つ並んだ棺の一つへ腰かけた。棺の蓋部分には紫のマークが印され、荒々しくナイフで刻みつけられたイチマトゥの名があった。凹凸のある名前部分を指先でなぞると、カラマトゥは重苦しい息を吐き出す。トドマトゥの予想が当たっていたこともだが、ここまで警戒されていると苦笑を禁じ得ない。

「追跡対策までしてあるとはな。しかも守護魔法まで……入念じゃないか」

完全に敵と見做されているのだと、カラマトゥは気が滅入った。ただ愛する弟を護り続け、傍に居れればよかったはずだった。しかし神に歪んだ情愛を見透かされてしまったのかもしれない。ヴァンパイアのカラマトゥは神なぞ信じていなかったが、こればかりは天罰かもしれないと思わざるを得なかった。トドマトゥにはイッチーは失恋したと言ってしまったが、実際にはイッチーもカラマトゥと同じように告白はしていない。元来のネガティブな性格も起因してか、自らの恋心を封じ込めて消してしまいたいと―――毎日願っていたそうだ。兄の優しさを喜ばしく思い、胸が高鳴る度に許されない想いだと自分を恥ずかしく思った。気持ちを抑えられずに酷い態度を取るようになってからもカーラは変わることない優しさでイッチーに接した。イッチーはその苦しさを罰だと思っていたという。だから同じ屋根の下で24時間一緒に居るような地獄から抜け出せるなら、ヴァンパイアに攫われたかったのだと、そうも零していた。今まではイッチーに対してマイナス思考すぎると思うことが多々あったが、今はカラマトゥにもその諦念が痛いほどに分かった。

「こちらから追えないのであれば、守備を万全にするしか術はないか」

重い腰を上げ、カラマトゥは床に落ちていたチョークの欠片を拾い上げる。こうして陣を描くのは随分と久しい気がして、思い出したその記憶に乾いた笑みが零れた。カラマトゥが最後に陣を描いたのはイチマトゥが封じられる前、彼が大事にしていたアンティークの調度品を壊してしまった時だった。猫の意匠が施された小さな置時計で、イチマトゥのお気に入りだった。不注意で壊してしまった時、カラマトゥは下手な誤魔化しをしてしまい、イチマトゥを激昂させてしまった。その後は他兄弟が呆れる中、カラマトゥはひたすらに平謝りをして最終的には許してもらえた。威厳もクソもない土下座で謝るカラマトゥの頭をぺしりと叩き、直してくれるならいいよと。その時には既に弟に対する恋心を自覚していたカラマトゥは、そのつっぱねた物言いも可愛く思えて仕方なかった。魔法で元通りになった置時計をおずおずと手が差し出された手に返してやると、途端に表情がふんわりと嬉しそうに綻んだのをよく覚えている。それを見たカラマトゥは嫌がるイチマトゥを抱き締め、結果として大きな平手打ちを頬に食らってしまったのだが―――その痛みさえも、あの時はただ愛しかったのだ。

「あの時はお前の為に陣を描いたのに、今はお前を退けるために描いているなんてな……」

苦々しく零しながらもカラマトゥは陣を描く手を止めない。やがて描き上がった陣をくまなく確認した。カラマトゥは懐に仕舞っていたナイフで指先を少し切りつけると、血液を陣の中央部になすりつける。ざらついた石畳の床に擦れた傷口が痛んだが、気にも留めない。淡く発光しはじめた陣から離れると、カラマトゥは目を閉じて詠唱を始める。小さかった光は次第に大きくなっていき、痺れるような地響きが鳴り響く。この魔術は屋敷全体にかかっている守護魔法を強固にするためのものだった。詠唱を終えても屋敷全体を揺らす地響きは数分間続き、陣の発光が弱まるのと同じように治まっていった。これだけ大きな魔術反応を出してしまえば兄弟から問い詰められることは必至だったが、カラマトゥにはそれより先に確認するべきことがある。相変わらず白い靄だけを映す水晶を一瞥し、カラマトゥは地下室を後にした。


×


部屋に戻ると、退屈そうに本を読んでいるトドマトゥに迎えられた。リビングを覗くとジュウシマトゥとイッチーは遊び疲れたのか、仲良く絨毯の上で眠っている。

「ぐっすり寝てるよ。お陰で地響きにも気付かなかったみたい。守護魔法を強化してきたの?」
「あぁ、イチマトゥの様子を確認しようともしたが……弾かれてしまった」
「そっか。対策はバッチリされてるってことだね」

開いていた本をぱたんと閉じたトドマトゥはイッチーの寝顔を眺める。ボクにはただの子どもに見えるよ、と彼が零したのにカラマトゥは思わず苦笑した。

「まぁ、そうだろうな」
「ねぇカラマトゥ兄さん。兄さんは……イチマトゥ兄さんのこと―――」

そこまで呟いてトドマトゥは閉口した。大きな瞳が逡巡しているのが見て取れ、しかしカラマトゥは止めなかった。数拍の沈黙の後に桜色の唇が開かれたが、はくと空気が零れ落ちたのみだった。トドマトゥは俯いて首を大きく横に振り、次の瞬間には笑顔をカラマトゥに向けた。

「なんでもない。ボク、ジュウシマトゥ兄さんを連れて帰るね!」
「トド」
「余計な詮索はしない。……それがボクの信条だよ」

にっこりと微笑んだその表情に、ほんの少しの寂しさを垣間見てカラマトゥは言葉を失う。どこかイチマトゥと似通った部分があり、強がることが多い末弟のこんな表情は初めてだった。兄達のことを疎ましく思っていることを隠しもしない普段の態度からは考えにくいが、トドマトゥは人一倍イチマトゥのことを慕っていた。イチマトゥが姿を消してから一番感情も顕わに悲しんでいたのは、紛れもなくトドマトゥだったのだ。イチマトゥが行方を眩ましただけでも悲しいだろうに、カラマトゥが連れ帰らず敵対することになったと知ってつらいだろう。

「……本当にすまない、トドマトゥ」
「あーっもう謝らないでいいってば!湿っぽいのはヤだし!!」
「でも、」
「とにかく!ちゃんとイッチーと話して、何か決まったら教えてよね。出来る範囲なら協力するから」

そう言い切るとトドマトゥはリビングへ行き、ジュウシマトゥの身体を半ば引き摺るように持ち上げて部屋を出ていった。途端に静かになったリビングでは、イッチーがすうすうと寝息を立てている。カラマトゥはその傍らに座り込み、起こしてしまわないように柔らかな頬をそっと撫でた。ひんやりとした指の感触に身じろぎはしたが、起きる気配はない。穏やかな表情をしばらく眺め、それから細い身体を抱き上げた。起きる気配はないので抱いたまま寝室に入り、イッチーをベッドの上に降ろそうとした時、その瞳がゆっくりと開かれる。ぼうっとした瞳が何度か瞬き、カラマトゥだと気付いた瞬間にイッチーは悲鳴を上げた。

「ひゃ、な、なんで」
「ジュウシマトゥと一緒に寝てただろう?覚えてないのか?」
「あっ……そうだった。ごめん、大丈夫だから降ろして」

ベッドの上に降ろしてやると、イッチーは気まずそうにもう一度ごめんと繰り返した。

「気にしなくていい。あのままじゃ風邪をひきかねなかったからな」
「うっ……ト、トランプが白熱しちゃって……」
「ジュウシマトゥに振り回されたんだろう?我が弟ながら、あいつのテンションにはついていけないからな」
「……カラマトゥでも?」

おそらく兄弟の誰もがそうだろうな、と言ってみればイッチーは目を丸くした。意外だと言いたげな表情に思わず笑みが零れる。

「オレに苦手なものがあるのがそんなに珍しいか?」
「う、うん」
「ははっ、そうか。あぁ……でも、イチだけは違ったな」
「……イチマトゥは、ジュウシマトゥと仲が良かったの?」

イッチーの言葉にカラマトゥは少し意外な気持ちで頷いた。いつも踏み込んで質問してこないイッチーにしては、気になることを隠そうともしない様子だ。

「2人の性格は真逆なんだが、幼い頃からいつも近くにいた。どうにも一緒にいると落ち着くようでな」
「……そう、なんだ」
「お前がオレに質問するなんて珍しいな。イチのことが気になるか?」

カラマトゥが尋ねると、イッチーは少し迷いながらも頷いた。しかしその瞳はこちらの顔色を窺っているようで、カラマトゥは首を傾げた。

「……どうした?」
「あっ、あ、いや……な、なんでも」
「隠さないで言うんだ」
「―――その、カラも同じなのかなって思って……」
「同じ…?何がだ?」
「ぼくが、カーラのこと好きだったみたいに……その、カラも好きだったのかな、って」

怒られると思ったのか、イッチーはそこまで言うと言葉を切った。俯いてしまったイッチーの表情は重たい前髪で隠れて見えない。イッチーの手が小刻みに震えていることに気付いて、カーラは苦笑ながらその手を握った。驚いて顔を上げたイッチーの瞳には怯えの色が浮かんでおり、カラマトゥは情けない気持ちになる。少しは心を許してもらえていると思っていたが、どうにもイッチーを怖がらせてばかりな気がした。

「そうだ。オレはイチのことを好いていた。兄弟としてではなく」

カラマトゥの答えは予想できていたようで、イッチーは悲しそうに目を細める。それからイッチーはカラマトゥの手をぎゅっと握り返し、そっと身を寄せてきた。イッチーからカラマトゥに触れようとしてくるのは初めてで、カラマトゥは目を見開いた。

「……同情、してくれるのか?」

苦く微笑んだカラマトゥの表情にイッチーは息を呑んだ。胸元をぎゅっと抑え、それからゆるゆると首を振る。イッチーの瞳は少し涙に濡れていて、表情は苦しそうだった。

「同情、なんかじゃないよ。もっと……違う、ごめん…うまく言えなくて」

自身の中に渦巻く感情を整理しきれていないのだろう。それでも必死に伝えようとしてくれる様がどうしようもなく愛しくて、カラマトゥは手を握る力を強めた。

「ありがとう、イッチー」
「そんな、おれ……お礼言われるようなこと……。カラ、怒らないの?」
「怒ったりしないさ。イッチーは自分から話してくれただろう?これでおあいこだ」

カラマトゥの言葉にイッチーは少しだけ笑みを零した。大きな手が髪を撫でるとイッチーは目を細める。やがてゆっくりと目蓋が閉じていき、やはり疲れていたのかとカラマトゥは苦笑する。

「もう眠いか?」
「ん……ごめんなさい、カラ……」
「構わないさ。少し話をしたかったが、明日にしよう」

耳元で低く囁くと、イッチーは小さく頷いてカラマトゥの胸に頭を預ける。小さな寝息とともにイッチーの胸が規則正しく上下しはじめ、眠ってしまったのだと分かった。カラマトゥはしばらくその髪を梳いていたが、イッチーの寝姿を眺めているうち、重くなる目蓋に抗えず瞳を閉じていく。深い眠りに落ちていく2人は知らない。屋敷の近くに2つの影が姿を現したことを―――。


continue...




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