C'est comme si le destin.<4>

※カラマトゥ×イッチー・カーラ×イチマトゥ


【 side:A - Episode 2 - 】

魔力は十分に補給できているはずなのに、まっすぐ翔んでいたはずのイチマトゥの身体はふらついた。数百年ぶりの次兄との再会を喜ぶ間もなく、激昂されたショックは大きかった。兄の指摘する通り、確かに警戒が甘くなっていたのかもしれない。だけど実際、イッチーが目覚めなければイチマトゥは帰ることはできなかったし、必ず兄が迎えに来てくれるとも限らなかった。もしそうだった場合、魔力が尽きたとことをカーラ以外の人間や悪魔に見つかれば一巻の終わりだ。それにカーラを誘惑したのはイチマトゥの方だ。イチマトゥが人間のカーラに騙されたわけではない。

「カラ……なんで、あんなこと……」

数百年もずっと傍に居てくれた、優しすぎるほど優しかったあの次兄があんな風に怒ったのが今でも信じられなかった。冷たい夜風に吹かれてもイチマトゥの思考は落ち着くことなく、溢れ出す涙を止められない。カラマトゥの魔力を感じて、眠るカーラを起こさないよう飛び出してきたが、涙に濡れた顔のままでは部屋に戻ることもできなかった。近くにあった時計台に降り立ち、座り込んでゆっくり深呼吸を繰り返しているとだんだん落ち着いてきた。

「おれが、悪かったのかな」

ぽつりと呟くと気分はどんどん下降していく。召喚されたのが自分の非ではないことは確かだが、勢いでカーラと契約してしまったのは間違いだったのかもしれない。イチマトゥたち兄弟は森の奥深くにある屋敷住まいで、人間との交流は無いに等しい。血を頂戴する時に攫ってきたり眠らせたりということはあれども、町に行ってもただ眺めるだけで会話をしたことなどほとんど無い。少なくともイチマトゥは一度もなかった。人間と契約ができるというのも知識として持ち合わせているのみで、兄弟の誰かに契約の経験があるわけでもない。そう考えると自分はとんでもない早とちりで契約をしてしまったのではないか、そのせいで何かまずいことになるのではと急に不安が押し寄せてきた。両翼で身体を覆い、膝をギュッと抱きしめた時―――不意に近くに感じていた魔力が遠ざかっていく気配を感じた。

「、ッ!?な、に……この気配、カラ…?」

イチマトゥが感じた魔力は次兄のものだった。イチマトゥを連れ戻しに来たが、それが叶わなかったから帰っているのだろう。それは理解できたが、その兄の魔力に寄り添うような距離にいるのは―――

「……イッチー…?」

悪魔に与えられたであろう強大すぎる魔力を、イチマトゥが間違うはずもなかった。思わず身を乗り出すが、遠くにある窓から飛び立ったカラマトゥはイッチーの身体を肩に担いですでに翔び立ってしまっていた。反射的にイチマトゥも翔ぼうとしたが、どう考えても長距離を移動するには魔力が不足している。追いかけたところで、屋敷までの半分にも満たない場所で力尽きるのが目に見えていた。遠ざかっていく2人の背中を見つめ、イチマトゥは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


×


真夜中、カーラがふと目が覚めるとイチマトゥの姿がなかった。カーラは眠い目を擦りつつ眼鏡をかけ、ベッドサイドのランプに手を伸ばして灯りを点ける。先ほどは暗かったので見間違えたかと思ったが、やはりソファーの上には彼の姿がない。

「イチ…?どこへ行ったんだ……?」

寝る直前まで一緒のベッドに寝ようと誘ったのに、頑として床でいいと言い張るイチマトゥをどうにか宥めてソファーで寝るように言い包めたのが数時間前。ヴァンパイアは夜が活動時間帯だし睡眠も十分すぎるほど摂っていると言われたが、契約をした以上は生活リズムを合わせてもらわなければ、などと適当なことを言った記憶がある。それで渋々頷いてしまうのだから拍子抜けしたものだが。部屋を見渡すと窓が大きく開け放たれていて、そこから出ていったのだと分かった。イッチーが目覚めないことには帰れない、契約をしている以上は一定以上離れられないとイチマトゥは言っていた。だがやはり居心地が悪かったのだろうかとカーラは心配になる。魔力もまだ不安定なようだし、少し夜風に当たっている程度だといいのだが―――そう考えていると、夜闇から黒い影がこちらに近付いてくるのが見えた。

「イチ…!よかった、戻ってきたんだな」

そのままイチマトゥを出迎えようかとも思ったが、カーラが起きていればまた出て行ってしまうかもしれない。急いでランプを消し、眼鏡を外すことも忘れてベッドに潜り込む。数秒後、イチマトゥは黒い羽根をばさりと羽ばたかせて窓から部屋に入ってきた。大きな羽根を仕舞ったのか、微風が巻き起こってカーラの顔を撫でる。カーラを起こさないためか、イチマトゥはそろそろと歩いてソファーに腰かけた。しばらく部屋を静寂が満たし、カーラはその表情をそっと窺う。月明かりに照らされて見えた横顔は、目元が赤らんでおりどこか焦燥している様子だった。その表情にカーラの心臓はどくりと脈打つ。寝る前までは気を少し許してくれたのか笑ってくれていた。恥ずかしそうにこちらを見つめる瞳に目を奪われた。それなのに、この数時間で何があったのか詰め寄ってやりたい衝動が込み上げた。しかし鼻をぐすっと鳴らしたイチマトゥが、毛布を手繰り寄せて眠る姿勢に入ったのでそれは叶わなかった。数分経過すると寝息が聴こえてきて、イッチーが眠りに落ちたのだと分かった。ひどく疲れていたのかもしれない。それを見守っていたカーラも眼鏡を外すと、息を吐いて瞳を閉じる。朝が来たらそれとなく尋ねてみよう、と思いながら。


×


目覚ましの音で目が覚めると、誰かの視線を感じた。ぼんやりとしながらカーラが目を開けると、イチマトゥが部屋の隅にいてこちらを見つめている。咄嗟に昨夜のことが頭をよぎったが、いきなり尋ねるのはよくないだろうと思い、とりあえずおはようと声をかけた。

「お、おはよう……」
「気分はどうだい夜はよく眠れた?」
「べ、つに。普通だよ」

そうか、と返しながら歩み寄って頭を撫でると腕をぺしりと叩かれてしまった。野良猫に引っかかれたような感覚に苦笑すると、カーラは顔を洗うために階下へ降りていく。イチマトゥの様子はあくまで普通だが、昨夜の様子は尋常ではなかった。血が足りなくて魔力が不安定なら嫌がっても飲ませてやろう、と思いながら顔を洗っているとリビングの方が騒がしい。兄弟たちの声が聞こえて気になりはしたが、朝食の前にイチマトゥと会話をしようともう一度自室へと戻る。

「イチ、ちょっといいか」
「なに…?」

声をかけると、カーラの改まった様子にイチマトゥは目を泳がせる。単に緊張しているだけではない様子に、やはり昨夜のことを訊かなければいけないと再認識した。部屋の隅にじっと座ったまま動こうとしないイチマトゥの前に腰を下ろし、カーラはなるべく優しい口調で尋ねる。

「体調は大丈夫か?昨日はまだ魔力が不安定だと言っていたが」
「だ、大丈夫。別に困るほど飢えてないし、不安定なのはちょっとしたら落ち着くだろうし」
「オレの血はどれぐらいの頻度で必要なんだ?」
「多分一日に一回ぐらい……。カーラは昼間はガッコウ?なんでしょ?だから夜でいいよ」
「分かった。……昼間は離れることになるが、大丈夫か?」
「ガッコウってそんなに遠くないって言ってたよね?短距離なら問題ないし、大人しくしてるよ」
「そう、か…。いや、それならいいんだ。ありがとう」

落ち着かなさそうにしながらも質問にはきちんと答えてくれた上に、その内容からすると魔力は足りているようだ。情緒不安定になっていただけだろうか、と首を傾げるが分からない。どう質問しようかと考えあぐね、しばらくして口を開いた時だった。扉がノックされ、間延びした声にカーラの名が呼ばれる。末弟のトッドが朝食に呼びに来たようだった。

「……すまないイチ、時間みたいだ。学校に行かなくちゃ」
「あ、うん。分かった」

昨夜の話をしたかったが、時間は厳守しなければ兄弟たちに大目玉を食らってしまう。仕方なく制服に着替えて身支度をしていると、その間ずっとイチマトゥがこちらを見ているのが分かった。ちらりと振り返ると目を逸らされるが、何か言いたげなその表情に落ち着かなくなる。

「イチ、どうかしたか?」
「え、いや……別に」

歯切れ悪く否定するが、なにかを隠している様子なのは見て取れた。おそらく昨夜のことか、契約で何か言っていないことがあるかのどちらだと推測する。だがそう考えているうちに支度は終わり、カーラはスクールバッグを手にして立ち上がった。部屋を出ようとしたが、一言声を掛けておこうと立ち止まった時、ふいにシャツの腰あたりをぎゅっと引っ張られた。

「え?」
「―――、……あ…」

振り返るとイチマトゥがこちらを見上げていて、自分で引っ張ったはずなのに不思議そうな顔をしていた。自分でも何か言わなければと焦ってしまったのだろうか。カーラの視線から逃げ惑い、なんでもないと言い募る。その様子が可笑しくて、思わずピリピリしていた空気が解けてしまった。笑いながらイチの頭を撫でると、困惑した瞳がこちらを見る。

「オレも、話したいことがあるんだ。帰ったら話そう」

カーラがそう言うと、イチマトゥは少し驚いた顔をしてから大人しく頷いた。まだ何か言いたそうにしていたが、これ以上遅れるとカーラの朝食は無くなる上に、兄弟から間違いなく袋叩きに遭うだろう。いってきますと告げると小さな声でいってらっしゃいと返され、そのむずがゆさにカーラは自然と微笑んだ。ぱたりと扉が閉められ、誰もいなくなった部屋でイチマトゥがなにかを独りごちていたのを、カーラは知らない。


×


学校が終わるとカーラは友人からレコードショップに誘われたが、丁重に断って自宅へと急いだ。イッチーは朝呼びかけても返事がなかったので、きっとまだ部屋で寝ているのだろう。兄弟の全会一致でイッチーは今日は休みだと、学校には朝の時点で連絡しておいた。帰ればイッチーは目覚めているかもしれないし、まずイチマトゥと話をしなければいけない。先に帰っていた三男が迷惑そうに怒鳴るのを無視して玄関の扉を勢いよく開け、階段を駆け上がる。息を整えてからそっと自室のドアを開けると、蝙蝠姿のイチマトゥが窓枠に座ってうとうとしていた。近寄ってただいまと声をかけると、驚いたのか飛び上がって落ちそうになる。カーラが慌てて両手で受け止めると、つんのめって鼻をぶつけたらしく真っ赤になっていた。

「イチ、大丈夫か?」
「へ、平気。……おかえりなさい」

鼻血は出ていないかと心配するカーラを無視して、イチマトゥはソファーの上まで飛んで元の姿に戻った。目蓋がいつも以上に重くて眠そうだった。

「やっぱり昼間は眠いのか?ヴァンパイアは夜行性だろう」
「んー…いや、ちょっと寝不足なだけ……」

大きな欠伸をして目を擦る様子からするに、昨夜の件があって寝不足なのだろうと容易に分かった。話をしなければいけないことを思い出し、ソファーに腰かけると逆にイチマトゥの方が身を乗り出してきた。カーラのシャツの袖を引っ張って、こちらをじっと見上げてくる。

「イッチーの方から話すか?」
「…うん。あのね、カーラ……本当は朝、話さなきゃいけなかったんだ」
「そうだったんだな。いいぞ、話してくれ」

急ぎの件だったのだろうかと思いながらも頷き、カーラが続きを促した直後―――自室のドアが唐突に開け放たれた。イチマトゥは驚いて蝙蝠に変身し、クッションの山に潜り込む。慌ててカーラが振り返ると、侵入者は長男のオーソンだった。

「オーソン!急に入ってくるな!」
「バカ、そんなこと言ってる場合じゃねえんだよ!緊急だ!!」
「は?」
「お前、イッチー見てないか!?」

オーソンの突然の言葉に首を捻る。先ほど帰宅したばかりだが、自室に直行したためイッチーの部屋には行っていない。すれ違ったのも先に帰っていたチョロリーだけだ。しかし昨日のことを考えると、まだ疲れが抜けていないのではないだろうか。

「イッチーか?いや、今日は見ていないが…。まだ部屋で寝ているんじゃ」
「部屋にいないんだよ!」
「……なんだって?」
「窓が開いててイッチーの部屋はめちゃくちゃだ!強盗でも入ったんじゃないかって、みんな……」

その言葉に動きが止まった。部屋にいない?部屋が荒らされている?カーラの思考が半ば停止している中、視界の端でクッションの山が震えた。隙間から顔を覗かせたイチマトゥの小さな瞳が、怯えを孕んで揺れている。それを見て、合点が行った。すっと頭が冷えていく感覚に包まれ、カーラは自らを落ち着けるために大きく息を吐き出す。それからオーソンを見上げ、なるべく冷静に聞こえるように声を絞り出した。

「先に、一人で学校へ行った可能性は?」
「あの学校嫌いのイッチーだぞ?ジュシーもいないのに、一人で行くわけない。それに誰も学校でイッチーを見てないんだ」
「……荷物を持っていった様子は?」
「全部置きっぱなしだ。イッチーだけが姿を消してる。……カーラも、知らないか」

オーソンは大きく項垂れると、何か思い出したら教えてくれとだけ告げて階下へ降りていった。オーソンの足音が遠ざかり、部屋の中は重い沈黙に包まれる。先に動いたのはイチマトゥで、クッションの山から抜け出すとカーラの足元に歩み寄ってきた。小さな声でカーラ、と呼びかけるがカーラからの返事が返ってこなくて俯く。

「ごめん……カーラ、おれ知ってたんだ。でも」

黙ったままのカーラが、その言葉にゆっくり顔を上げる。その表情から色が抜け落ちていて、イチマトゥは後ずさりそうになるのをぐっと堪えた。カーラの言いつけを思い出したイチマトゥが元の姿に戻ると、カーラは手を伸ばして冷たい頬を撫でる。その手つきが優しくて、少しだけ安心した。イチマトゥがごめんなさいと再度呟けば、カーラは黙ったままでゆっくりと頷く。

「イチ、昨夜は部屋を抜け出してどこに行っていたんだ?」
「な、んで、それ……」

カーラの問いにイチマトゥは大きく目を見開く。知ってたのと言いたげな表情に思わずといった様子でカーラは表情を緩めた。怒らないよ、と穏やかに促されてイチマトゥは答えるほかない。

「イッチーの、部屋に。兄さんの魔力を感じて……」
「兄さん?」
「うん、2番目の兄さん……。おれを探しに来たって言ってた」

そう呟くと、イチマトゥは悲しそうに目を伏せた。一呼吸置くと、ぽつりと喧嘩したんだと零す。

「喧嘩?どうしてだ?」
「その、話してなかったけど、契約すると匂いが変わるんだ。カラマトゥ…兄さんにそれがバレて、すごく怒られて。カモフラージュすれば凌げたかもしれないんだけど、忘れてて……」
「匂い?イチの匂いが、契約をしてから変わったのか?」

カーラはイチマトゥの肩を掴んで引き寄せて首元の匂いを嗅ごうとしたが、驚いたイチマトゥに胸板を押し返された。赤い顔でカーラには分からないよ!と言われて首を傾げる。確かに、契約前も契約後もイチマトゥからは少し甘いような匂いが変わらずにしているように感じられる。それがイチマトゥの体臭なのか、香水のような類なのかは分からないが。

「に、人間には分からない特殊な匂いだよ」
「そうなのか?」
「うん……匂いが変わるのは契約した者どちらもだから、カーラも匂いが変わってる。おれには分かるんだけど」
「なるほどな。匂いが変わる理由は……例えば、既に契約している人間が他のヴァンパイアに襲われないため、か?」
「あ、うん。多分そうだと思う」
「それで、イチの兄さんは人間嫌いなのか?」

そう尋ねると、イチマトゥは言いにくそうに口籠ってしまう。話の流れから大体の見当はついてきたが、イチマトゥの口から聞かなければ意味がない。イチ、と呼びかければ逡巡する瞳と目が合った。じっと見つめると頷いてくれたが、その表情は強張っていて少し可哀想になる。

「人間嫌いなわけじゃ、ないんだと思う。カラマトゥは……おれが眠っている間ずっと傍にいてくれて、今回だって迎えに来てくれて……優しい兄さんだったんだ。でも、迎えにきたおれが勝手に契約してて、知らない匂いを纏ってて……頭に来たんだと思う。それで、おれが逃げ出しちゃって……そしたら少し目を離した隙に、イッチーを攫って、お…おれ、追いかけられなくて、っ…」

話している内にだんだん苦しそうに表情を歪め、イチマトゥはそこで言葉を切った。優しかった兄に怒られてショックだったことに加え、カーラと契約をして助ける予定だったイッチーを攫われ、魔力が不十分で追うこともできなかった。そういうことなのだろう。昨夜戻って来た時の憔悴した表情や朝の様子も腑に落ちて、カーラは安堵していた。イッチーが攫われたことは兄として遺憾だが、イチマトゥが嘘を吐かずに話してくれたことへの安堵の方が大きかった。瞳に涙を滲ませるイチマトゥを抱き寄せると、カーラは震える背中をそっと擦ってやった。本当は背中に手を回して抱き締めてやりたかったが、ぐっと堪えた。イチマトゥの弱っているところにつけ込むような真似をしたいのではなく、ただ落ち着くまで傍にいてやりたいだけなのだ。しばらくの間、そうやっているとイチマトゥは身体の強張りをほどいてカーラに体重を預けてきた。表情を覗き込もうとしたが、見られたくないのかカーラの肩口に顔を押し付けてくるので余計に密着する。支えるためだと言い聞かせながらカーラが腰を抱くが、イチマトゥは嫌がるそぶりはなかった。宥めるように身体を揺らし、それから名前を呼ぶと濡れた瞳が至近距離で見上げてくる。実にきれいな瞳をしている。状況に相応しくないと理解していながらもカーラはそう思った。

「ごめんね、カーラ」
「謝らなくていいさ。イチのせいじゃない」
「でも、おれが勝手に契約を持ちかけなきゃカーラも契約に縛られなかったし、イッチーだって…」
「イチは魔力が尽きそうだったんだ。不可抗力だろう」
「でも……」
「オレがあの時、嫌だって言ったか?契約を拒否したか?」

言い募ろうとするのを制止し、静かな声でカーラが問うとイチマトゥは黙って首を横に振る。ぐすりと鼻を鳴らしながら、言ってないと呟くのがいじらしかった。目尻に溜まった、今にも零れ落ちそうな涙を指先で拭ってやりながらカーラは微笑む。

「そうだ。オレは嫌だって言ってない。ちゃんと納得した上での契約だ。イチの兄さんがイッチーを攫ったのは……確かに許し難いが、向こうにも何か事情があるのかもしれない。……オレが言うのもなんだが、イッチーはイチを召喚している前科もある。喜んでカラマトゥと契約している可能性も、無いとは言い切れないだろう」

嬉々として怪しげな妙薬を調合したり、ぶつぶつ呟きながら魔導書を読み込んでいるような弟だ。考えれば考えるほど、イッチーから契約したいと言い出してもおかしくないとカーラは苦笑する。イチマトゥはというと、カーラの言葉が予想外だったらしく、大きく目を見開いていた。

「……カラマトゥとイッチーが、契約?」
「そんなに意外か?」
「わ、分かんないけど。でも昨日の様子を見る限り、カラが人間のイッチーと契約しそうには思えなくて……」
「そうか…。まぁとにかく、あれこれ考えていても仕方がない。今はイチの魔力が回復するのを優先しよう。オレも協力するから、もう泣かないでくれ」
「っ、な、泣いてない…!」
「泣いてるだろ」

強がって目元を擦るものだからまた赤くなってしまって、カーラは笑いながらそれを止めさせた。掴んだ手首の体温は低いはずなのに、人間である自分と同じぐらい温かい気がして自然と表情が緩んでしまう。イチマトゥの背中を撫でてやりながら、カーラは窓の外に視線を遣った。夕焼け空の遠く向こうにいるであろうイッチーが、無事でいることを祈りながら。


×


イッチーの行方不明について兄弟に説明するのは骨が折れた。オーソンに知らないと答えてしまった以上、適当な理由をつけて家出だとも言えない。そこでイチマトゥの魔法でイッチーの筆跡を真似た書き置きを作ってもらい、それがイッチーの部屋から見つかったと伝えた。既に兄弟がくまなく部屋を探しまわった後だったので誤魔化すのには骨が折れたが、癖のあるイッチー独特の読みにくい文字を見て納得したのか、兄弟たちは割とすんなりそれを信じた。

「それにしても、書き置きの内容がひどいよねぇ」
「"呪術の修行"だろ?まぁイッチーっぽいんじゃね?」
「オーソン兄さんは適当すぎ!イッチー兄さん、ただでさえ単位危ないんだよ?」
「うーん、まぁそれは自己責任ってことでさ。どうせ一週間もすりゃ戻ってくるだろ」

オーソンとトッドが話しているのを横目に、夕食を終えたカーラは早々にリビングを後にする。ジュッシーが観ていた音楽番組が少し気になったが、部屋にはイチマトゥが一人で待っている。階段を昇り、部屋に戻ると後ろ手で鍵をかける。部屋の中ではイチマトゥがソファーの上で寝転がっていた。電気を点けようか少しだけ迷ったが、これから吸血をすることを考えると薄暗いままの方がいいのかもしれない。カーラはそう判断し、電気は点けずにおいた。

「すまない、待たせたな」
「……お腹空いた」
「そうだよな。オレも今食べてきたから、次はイチの番だ」

カーラの言葉にイチマトゥは嬉しそうに破顔したが、恥ずかしくなったのかすぐにしかめっ面をしてしまう。素直じゃないなと思いながらカーラが手順を尋ねると、ベッドに横たわるように言われた。

「べ、ベッドでするのか…?」
「馬鹿ッ!なに顔赤くしてんだよ!?単純に、吸いやすいってだけだし…!」

頭を叩かれてしまったので大人しくベッドに横たわって待っていると、イチマトゥがふわりと飛んでカーラの上に馬乗りになる。ぎしりとベッドが軋む音にどうしようもなく緊張してしまうのは童貞の性だ。イチマトゥも緊張しているのか頬が少し赤いが、誤魔化すように首元のシャツを緩めて羽根を仕舞った。冷たい指先がカーラの首元に触れ、シャツのボタンを外していく。至近距離にいるせいで、イチマトゥの吐息を感じてしまってカーラの心臓は否応なしに高鳴った。

「イチ、オレが外そうか」

イチマトゥの指先が微かに震えていることに気付いて声を掛けるが、頑なに首を横に振るばかりだった。こうなると強情なのは目に見えていたので、カーラは諦めて身体の力を抜く。天井のシミを数えていると、半分ほどボタンを外し終わったらしくイチマトゥの指先がカーラの肌に触れた。胸を辿って右の首筋に触れたのを感じてカーラは視線を下ろす。ばちりと目が合ってしまい、少し気まずい雰囲気になる。

「……今から、やるから」
「あぁ。少し身体を起こした方がやりやすいか?」
「え、あっ……うん」

カーラはイチマトゥの腰を掴んでそのまま身体を上にずらすと、ヘッドボードに背中を預ける。右の首筋がよく見えるようにシャツを引き下げ、やりやすいように意識して力を抜いた。そのままイチマトゥを見上げると、表情は相変わらず硬いままで動く気配がない。

「イチ、我慢しないでいいんだ」

頬に触れて優しく撫でてやると、イチマトゥは少し落ち着いたようだった。目尻が少しだけ下がって、僅かに笑ったのだと分かる。イチマトゥが身体を寄せてきて、カーラは静かに瞳を閉じた。昨日のような激しい痛みを想像したが、針が刺さったようなぷつっという感覚だけで痛みはない。吸われている感覚だけはあるが、ふわふわとした不思議な状態だった。イチの喉がこくりこくりと上下しているのが見えるので、血を吸われているのは確からしい。やがて2分ほどで口を離したイチマトゥは傷口を猫のように何度か舐める。イチマトゥの唾液で透明な膜が出来上がり、出血は抑えられたようだった。

「……終わったよ」
「驚いた。今日は全然痛くなかったぞ!」
「き、昨日は乱暴にやっちゃったから……ごめん」
「そうか……いや、気にしてなんかいないさ。イチも昨日は飢えてたんだからな」
「ほんとごめん。今回痛みが少ないのは、一回吸血してるからかも……。同じ場所から吸血すると痛みが軽減されるらしいから」

カーラが自らの傷口を見てみると、透明な膜で覆われて出血はしないが傷口が閉じているわけではないようだった。おそらく次回吸血する時も同じ部分に牙を立てれば、新たに皮膚を破らないで済むのだろう。それに加え、ヴァンパイアの唾液に鎮痛作用があるのも痛くない理由だと考え至った。

「イチは器用なんだな」
「別に、それほどじゃないよ。……カーラも、痛いのヤでしょ」
「ふふ、そうだな。ありがとうイチ」

だんだん思考がぼんやりしてきて、ふらついたところをイチマトゥに支えられた。身体をずらしてベッドに寝かせてくれて、カーラの表情が自然と緩む。大丈夫?と覗き込んでくるイチマトゥの表情は、先ほどまでの緊張から解放されているようだった。大丈夫だよとカーラが返すと、安堵したようにイチマトゥは頷く。

「無理しないで寝ていいよ」
「―――傍に…いてくれないか」
「……おれなんかが、傍にいた方がいいの?」
「"なんか"じゃない、さ。オレは……イチに、いてほしいんだ…」

カーラの口から途切れ途切れに呟かれたその言葉にイチマトゥはゆるく微笑む。イチマトゥはカーラの身体に毛布をかけてやり、投げ出されていた手を取った。床に膝をついて起こさないようにそっと握ってみると、僅かな力で握り返された。カーラの目蓋はだんだん重くなっていて、おそらく無意識下での行動だろう。部屋の中はいつの間にかすっかり暗くなっていて、窓の外では夜空に三日月が浮かんでいた。不安なことはまだまだたくさんある。イッチーの安否も心配だし、カラマトゥのことだって気懸りだ。それでも―――

「お前が……カーラが必要としてくれるなら、おれは傍にいるよ」

眠るカーラの横顔を愛しげに見つめ、イチマトゥは囁く。同じように眠りの淵へと誘われていきながらも、手を握る力は自然と強まった。異なる体温を分かち合いながら、ヴァンパイアと人間は深い眠りへとゆるやかに落ちていった。


continue...




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