C'est comme si le destin.<3>

※カラマトゥ×イッチー・カーラ×イチマトゥ


【 side:B - Episode 1 - 】

ベッドに横たわり青白い顔で寝息を立てる少年を見下ろす、男の瞳は仄昏かった。微弱ながら感じるイチマトゥの魔力を辿り、あちこちを這いずり回ってカラマトゥは数時間前に市街地のへ辿り着いた。この一帯には、この少年以上に魔力を持つ者が存在しないことも確認している。あの光の反応からするに、イチマトゥが強制的に召喚されたことは間違いない。それに伴ってこの少年のような、強大な魔力が必要になるということも。少年の弱まった魔力の中から僅かに穢れた気配を感じるので、悪魔か何かに取り憑かれて魔力が増幅していたのかもしれない。しかしカラマトゥはとても同情する気にはなれなかった。

「何故、このような人間風情が……イチを……」

押し殺した怒りでカラマトゥの周囲に風が巻き起こり、狭い部屋にあった物が大きく揺れる。カラマトゥは少年の枕元に歩み寄ると、その顔を覗き込んだ。魔力と一緒に生気まで消費してしまったのか、心臓の鼓動が一時的に微弱になっている様子だった。部屋にある物は呪術の道具や魔導書ばかりで、少年が魔術に対して強い興味を持っていることが窺えた。だからと言って弟を奪われて黙っていられるほど、カラマトゥは大人しくはなかった。少年の頭上に手を翳すと、暗い光がポゥ…と顕現する。部屋の温度が一気に下がり、少年の息が苦しげに乱れ始めた。

「本来なら、専門ではないが―――致し方ないだろう」

翳した掌をゆっくりと閉じ始めると、少年の息が不規則になり、喉がヒュウヒュウと鳴り始める。これ以上苦しむのも辛いだろうと、ひと思いに握り潰そうとした瞬間だった。

「カラマトゥ兄さん!」

聞き覚えのある―――数百年と遠ざかっていた、懐かしい声に名を呼ばれた。反射的に声がした背後を振り返ると、窓の外にはあれほどに恋い焦がれた人物の姿があった。

「イ、チ……?イチ、なのか?本当に…?」

思わず声が震えた。弟のイチマトゥは両翼を大きく広げたまま、窓から身を乗り出していた。

「うん。おれだよ、カラマトゥ」
「あぁ……よく、無事で……よかった…本当に……」
「あの、そ、その子は悪くないんだ。……お願いだから、その手を下して…」

イチマトゥの言葉に逡巡したが、ここで少年の命を奪えばきっと失望されるだろう。力を治めて手を下ろすと、イチマトゥは安心したように胸をぎゅっと押さえた。そして立ち尽くしたままのカラマトゥの元までゆっくり翔んでくると、部屋に降り立ち両翼を仕舞った。イチマトゥがゆっくりと頬に手を伸ばしてくる。冷たい指が皮膚をそっと撫でた、その感触にさえカラマトゥは歓喜してしまいそうだった。

「ごめんね。その、おれを探しに来てくれたんでしょ」
「いや、オレが勝手に来ただけだ。お前は気にしなくてもいい。……あぁ、本当にイチなんだな…?」
「え、あ―――うん。心配、かけて…ごめんね」

カラマトゥが我慢できずに身体を抱き寄せても、イチマトゥは抵抗しなかった。おずおずとカラマトゥの頭に手を伸ばし、宥めるように数度撫でてくれて、それだけで涙がじわりと込み上げてきてしまう。しばらくの間、カラマトゥは抱き締めたままでいたが、ようやく離した頃には堪えきれなかった涙が頬を伝ってしまっていた。それに気付いたイチマトゥは苦笑しながら、指先でそっと拭ってくれる。

「カラ、いつの間に泣き虫になったんだよ」
「仕方ないだろう。お前のことが、心配で堪らなかったんだ」
「……うん。ずっと傍に居てくれたね」
「無事で、よかった」
「うん。もう大丈夫だよ。それに……その子、イッチーだけど、悪い人間じゃないから」

イチマトゥはベッドに歩み寄ると、優しい手つきで少年の額に触れる。自分を攫った元凶だと理解していないのか、と怒りがこみ上げるのをカラマトゥは必死で抑え込んだ。

「その人間と…お前は直接、会話をしたのか?」
「ううん。イッチーはおれを召喚して、すぐに倒れちゃったから……」
「では、なぜ無害だと判るんだ」
「その……この子の兄弟と話をしたから」
「……兄弟?」

首を傾げかけ、そこでカラマトゥは違和感に気付く。イチマトゥの匂いが変質しているのだ。匂いを追って来た時には変わっていなかった。イチマトゥ自身の香りだった。それが此処に到着してからの数時間で別の物に塗り替えられている。

「イチお前、匂いが」
「……その子の、兄と……契約を、して」

ドクリと大きく心臓が脈打つ。恥ずかしそうに目を伏せる弟の姿に、視界がぐらりと揺れる感覚を覚えた。ようやく数百年越しに再会できた最愛の弟が、よりにもよって人間の男に誑かされている。全身の血液が沸騰しそうなほど激しい怒りの感情に、一瞬で支配された。

「―――、何故だ」
「え、あ……その、魔力切れで……」
「ッ、オレを!待っていればよかっただろう!!」

激昂して怒鳴りつけると、イチマトゥは怯えてびくりと肩を震わせた。先ほどまで再会を喜んでいた瞳が、畏怖でゆらゆらと揺れ始める。だがカラマトゥは我慢できるはずもなく、弟の肩を強く掴んで揺さぶった。長い爪が食い込み、イチマトゥが痛みに呻くがカラマトゥには構っている余裕などなかった。

「お前は攫われたも同然なんだぞ!?それなのに勝手に知らない人間と契約を交わして……無防備にも程がある!」
「で、でも、カーラは優しいし……利害も、一致してるし」
「優しい?ハッ、笑わせる。人間なぞすぐに嘘を吐く。どうせこの少年も、その兄だって!お前を丸め込もうという魂胆に違いないさ。騙されてるんだ、お前は」
「な、んで……そんなひどい、こと」
「酷いこと?いいや、そうじゃない。……事実だ」

今にも泣きそうに顔を歪めたイチマトゥをバッサリ切り捨てると、それきり俯いてしまった。言いすぎたかと一瞬怯むが、ここで引いてはイチマトゥの為にならないと思い直してカラマトゥは再び口を開く。しかし、それよりも早くイチマトゥは姿を蝙蝠に変えて窓から飛び出してしまった。窓から身を乗り出して追おうとするが、魔力が一瞬で霧散して追えなくなる。おそらく人間と契約したせいで魔力は補給できているのだろう。カラマトゥは舌打ちをし、重い息を吐きながら額を抑えた。力なく項垂れながら部屋の中を振り返り―――思わず声を上げる羽目になった。

「弟さん、追わないの?」

先ほどまで眠りに就いていたはずの少年は、重たい前髪の下から怯むことなくこちらを見据えていた。

「……お前……」
「おれのこと、殺さないの」

淡々と呟く少年の瞳には色がない。カラマトゥが眼前に手を翳してもそれは変わることがなかった。先ほどのように魔力を込めようとしたが、弟の言葉が反芻されて結局手を下ろしてしまった。それを見て、イッチーは意外そうに眉を顰める。

「ヴァンパイアってもっと冷徹だと思ってたのに」
「なんだ、お前死にたいのか?」
「……別に」
「生意気だな。先ほどの会話も盗み聴いていたのか」
「息苦しくて目が覚めたらそっちが人の部屋で勝手に話してたんだ。聴こえたんだから仕方ないだろ。そもそもアンタたち、不法侵入だし」

悪びれずに言ってのける様子に苛立ち、カラマトゥはイッチーの胸元を掴み上げるが眉ひとつ動かさない。睨んでみても効果はなく、ぞっとするほど冷めた瞳が見上げてくるだけだった。

「不法侵入だと?我が弟を攫ったのはお前だろう」
「攫ったわけじゃないよ」
「―――…何故、イチを召喚した」
「別に、彼を狙って召喚しようとしたわけじゃないよ」
「なんだと……?」
「魔力の強い悪魔とかヴァンパイアとか、なんでもよかったんだよ」
「何の為に」

そう問うと、イッチーは初めて瞳に感情を浮かべた。悲哀に満ちた瞳は、だがしかしすぐに閉じられる。諦めを孕んだ表情に、カラマトゥは胸がざわめくような感覚を覚えた。

「さぁね。あんた、どうするの?弟さんはカーラ…おれの兄と契約してるみたいだけど」
「オレの弟と契約したお前の兄も、ここに居るのか」
「うん。……どうする?弟を誑かした人間を始末でもする?」

自らの兄の生死が懸かっているというのに、まるで夕飯を尋ねるような気軽さに言葉が出なかった。しかし、実際にカーラを殺せばイチマトゥがどう出るか分からない。下手を打てばイチマトゥ自身が身を投げ打つことにもなりかねなかった。カラマトゥは瞳を眇めてイッチーを見下すと、唇を湿らせた。捕食者じみた舌なめずりを目にし、イッチーは初めて怯えのような色を見せる。

「……そのつもりだったが、気が変わった」
「ひゃ……あ、わっ…!」

目を見開いたイッチーの腕を掴んで引き起こすとあっという間に肩に抱き、カラマトゥは窓の桟に足をかける。視界が一変して高所になったせいでイッチーは引き攣った悲鳴を上げたが、躊躇いなく飛び降りた。落下していく感覚にイッチーは息を呑んで硬く目を瞑る。

「落としやしない。目を開けてみろ」
「―――え……?」

カラマトゥの呆れたような声に、イッチーはゆっくりと目を開ける。その眼前にあったのは見事な満月だった。頬に当たる夜風はひんやりと冷たく、高さにいまだ恐怖はあるものの心地よさもあった。落ちないようにとカラマトゥのマントを掴むと、可笑しそうに嗤う声が耳に届いた。慎重に背後を振り返ると、漆黒の翼が音も立てずに大きく羽ばたいていた。

「そうやって素直にしていればいいものを」
「な、なに言って……」
「反抗しなければ、悪いようにはしないと言っているんだ」
「……あんた、おれを攫うの?」
「そうだな」

カラマトゥは事もなげにそう言ってのけるとまた黙り込み、イッチーは深く息を吐き出した。イチマトゥを召喚してしまったのが自分の召喚が原因だ。そのせいでこのヴァンパイア兄弟の仲が拗れ、カーラとイッチーの仲にも亀裂が生じるかもしれない。この粗暴なヴァンパイアがどんなつもりで自分を攫おうとしているのか定かではないが、大人しくしていれば殺されることはないらしい。イッチーもどうなるか分からない状況で無茶をするほど、馬鹿ではなかった。

「……いいよ、あんたの好きにして」

その言葉にヴァンパイアは唇を吊り上げる。マントを大きくはためかせ、2人の姿は夜闇に溶け消えた。


×


「はぁ!?人間の子どもを攫ってきた!?」
「……トドマトゥ、もう少し声を落としてくれないか」
「いやいや、落ち着いていられるわけないでしょ!?なに冷静な顔しちゃってんの!?」

キーンとする感覚に耳を塞ぎながら、カラマトゥは大きく息を吐き出した。眼前に仁王立ちした末弟は両手を腰に当て、逃がすつもりはないと言外に語っていた。

「ちゃんと説明してよね!イチマトゥ兄さんが攫われたから助けに行ったって聞いたのに、帰ってきたら全然知らない子ども連れてるし!?」
「だから……その、話せば長くなるというか……」

口籠る兄に焦れたのか、トドマトゥは視線をついと下げる。カラマトゥのマントの後ろに見え隠れしているのは間違いなく人間の子どもだ。一瞬顔を覗かせた瞬間に視線がバチリと合い、相手はギャッと悲鳴を上げてまた隠れてしまう。

「その子、契約もしてないでしょ。匂いがすごいよ」
「まぁ、色々と事情があってだな」
「此処に置いておくって言ったけど、例えボクたちが許しても契約しないままじゃ……」
「……それも分かってる」
「本当に分かってる?―――ちゃんと説明しないなら、その子が干乾びるまで血吸うけど」
「ヒッ」

少年の引き攣るような声に今度はカラマトゥも振り返り、トドマトゥの険しい表情に諦めたのか項垂れた。

「分かったよ。説明するから、これ以上こいつを脅さないでくれ」
「別に脅してるわけじゃないけどさぁ」
「……カラ…………」
「あぁ大丈夫だ、血を吸ったりしない。これはオレの弟だから」

兄のことを愛称で呼ぶ少年と、宥めるような声で話しかける兄。尋常ではない様子に、トドマトゥは頭が痛くなるのを覚えた。冷酷無比で有名だった次男が人間に入れ込むようになるなんて、まるで天変地異だ。

「イッチー、ここから真っすぐ進めば大広間がある。先にそちらへ行ってくれ」
「えっ、カラは……?」
「後から行くから安心しろ」
「他の兄さんたちを呼んでくるから。先に行っておいて」

なるべく優しい声を心がけてトドマトゥが話しかけると、イッチーはぎこちなく頷く。カラマトゥのマントから手を離すと、何度か振り返りながら廊下を歩いて大広間へと向かっていった。その背中を見つめながら、トドマトゥは二度目の溜息を吐いた。じろりと兄を睨み上げると、引き攣った顔で目を逸らされる。

「とりあえず彼には軽く"洗礼"を受けてもらうからね」
「……あぁ」
「最初は殺すつもりだったって本当?かなり入れ込んでるように見えるけど」
「入れ込んでは、いない」
「ほんとかなぁー?」

ま、これぐらい乗り越えられないなら放り出して悪魔の餌になってもらうだけだけどね。にっこりと微笑む末弟に、カラマトゥは背筋が凍る気持ちだった。イッチーが消えた先の暗闇を見つめ、せめて無事を祈ることしかできそうにない。


×


心許ない蝋燭の火を頼りにイッチーは長い廊下を歩いていた。真っ直ぐ進めば大広間があると言われたが、屋敷が広すぎるのか歩けども歩けども先が見えてこない。だんだん怖くなってきて引き返そうと振り返るも、背後も暗闇へ続いていて足が竦んでしまった。先ほど会ったカラマトゥの弟というヴァンパイアは、可愛らしい顔立ちをしていたがイッチーを見る瞳が冷え切っていた。話している最中も、笑顔のまま襲われそうで血の気が引く思いをした。別れる時にカラマトゥからお守り代わりだと渡された、銀のロザリオ―――直接触れられないためかベルベットの布に包まれていた―――をぎゅっと握り直し、イッチーは顔を上げて歩き出す。その時だった。

「ねぇねぇ、キミひとり?」
「―――…ッ!?」

場違いなほど明るい声が廊下に響き、イッチーはびくりと肩を震わせた。慌てて周囲を見渡すが、誰の姿も見つけられない。恐怖に足が止まってしまい、動けないでいると不意に壁にあった蝋燭が全て消えた。悲鳴を上げてしゃがんだ弾みで十字架を落としてしまうが、イッチーには拾う余裕などとても無い。蝋燭が消えたせいか、温度が一気に下がる感覚に包まれてイッチーはカラマトゥに出会った時のことを思い出した。眠りの縁から呼び起こされる瞬間、手足からスゥッと温度が抜け落ちて氷の海に落とされそうな感覚に陥ったのだ。思えばあの時、自分は殺されそうになっていたのかもしれない。

「殺してくれれば、よかったのに…」

誰にも聴こえないほどの掠れ声で呟く。自分の命を奪ってくれるなら、悪魔でも何でもよかったのだ。不毛すぎる想いに終止符を打ってくれるなら、誰でも―――

「殺さないよ!」

大きな声に返事をされて、イッチーはしゃがみこんだ体勢のまま硬直する。先ほど聴いたものと同じ、場違いなほど明るい声だった。今度は確かに誰かの気配を感じる。取り落したままだったロザリオを震える指で拾い上げ、掌に食い込むほど握り締めながらゆっくりと顔を上げた。すると目の前には、カラマトゥやトドマトゥと似た顔をした―――少しだけ雰囲気の異なる男が同じように座り込んでいた。ひゅうっと息を呑み、イッチーが後ずさると男はぐいっと顔を寄せてきた。若干焦点が合っていない瞳が怖くて、心臓が痛くなるほど鼓動が速まっていく。

「だ、だれ」
「おれ?ジュウシマトゥ!」
「じゅ……?」
「ジュウシマトゥ!!」
「ジュウシマ、トゥ…は、ここに住んでるの……?」
「そうだよ!6人兄弟で住んでるよ!」

元気よく答えたジュウシマトゥに若干怯えながらも、イッチーはようやく納得して胸を撫で下ろした。どうやらトドマトゥと同じようにカラマトゥの兄弟らしい。ぐねぐねと変なポーズを取りながら顔を覗き込んでくるので好きにさせておくと、しばらくしてジュウシマトゥは納得したように大きく頷いた。

「うん!ちゃんとロザリオ持ってるし大丈夫だね!でも匂いがすっごいから、契約しないと危ないよー?」
「ロザリオ……あぁ、これ?カラに持たされたんだけど」
「それそれー!すごいねイッチー、人間ってほんとに素手で持てるんだね!」
「そうだね、全然平気だよ。……あれ?どうしておれの名前知ってるの?」
「あー……」
「え?ちょっと遠く見ないで、なんか怖い。ていうか、匂いとか契約って何?」

先ほどトドマトゥも契約をしないと匂いがすごいと言っていた。そういえば、イチマトゥと言い争っていた切っ掛けもイチマトゥの匂いに言及したからだったような気がする。うーんと首を捻っていると、冷たい指先にぎゅっと手を握られて驚いた。顔を上げると、ジュウシマトゥがにこにこ微笑んでいる。

「説明はあとでー!このままだと大広間に着かないけど大丈夫?」
「え、あっ…大丈夫じゃない!……あれ?大広間に向かってるって、おれ言ったっけ?」
「あー……」
「ま、また遠くを見るのやめてよ。怖いってば」

立ち上がるとジュウシマトゥはこっちだよーと目の前の道に手を翳す。すると一瞬景色がぐにゃりと歪み、遠くに今まで見えなかった豪奢な扉が見えるようになった。目をぱちくり瞬いていると、ぐいっと手を引かれてつんのめりそうになる。

「これで行けるようになったよー!」
「え、ねぇジュウシマトゥ、今なにしたの?」
「迷宮魔法を解いただけだよ!」
「迷宮魔法…?」

疑問を多く残したままだったが元気よく歩き出したジュウシマトゥに連れられ、イッチーは歩くしかなかった。


×


大広間に到着すると、カラマトゥとトドマトゥは既に到着していた。イッチーが高い天井に取り付けられた高そうなシャンデリアを見上げて口を開けていると、呆れたようにカラマトゥが頭を叩いてきた。

「痛っ!」
「ぼーっとするな。あまり呆けた顔を晒すんじゃない」
「な、なんだよそれっ……大体、さっきの廊下絶対におかしかったよ!ジュウシマトゥが魔法を解いてくれなかったら一生辿り着かなかったかもしれな」
「……短時間で、随分ジュウシマトゥと仲良くなったものだな」
「はぁ!?助けてもらっただけじゃん!なにその言い方」

別れた時と違いすぎる対応にカチンと来てイッチーは言い返すが、カラマトゥは無表情を崩さなかった。どうやらこの上なく機嫌が悪いことだけは分かったが、助けてくれたジュウシマトゥに対しても失礼だろうと憤慨する。カラマトゥから背を向けて離れると、ジュウシマトゥが嬉しそうに寄ってきて思わず表情が緩んだ。人間と話すことが少ないらしく、色々と尋ねられたが悪い気はしなかった。奥のソファーに座ってワインらしき液体を傾けているトドマトゥが、面白くなさそうにこちらを睨んでいるのが気にはなったが。しばらくすると扉を押し開け、細身の男が入ってきた。知的そうだが気怠げな表情の彼は、ちらりとイッチーを一瞥しただけで興味の欠片もなさそうだ。

「ジュウシマトゥ、確か6人兄弟なんだよね」
「うん!あとはねー、オソマトゥ兄さんが来てないかな!」
「その人は何番目なの?」
「長男だよー!カラマトゥ兄さんが2番目で、チョロマトゥ兄さんが3番目、イチマトゥ兄さんが4番目で、おれが5番目!それで最後がトッティ!」
「トッティ?」
「トドマトゥのことだよー!」

トドマトゥが胡乱げにこちらを見遣るので、一瞬イッチーの表情が引き攣る。どうやらあの末っ子はイッチーに兄を取られたと思っているらしい。そんなことないのになぁと思いながらイッチーが周囲を見渡すと、全員が円卓の席に座り始めていた。指差しながら教えてもらった5人の名前を反芻しながら、ジュウシマトゥに促されるまま席に腰かける。右の席は空いていて、左の席に座っていたのはトドマトゥだった。気まずいなぁと思っていると、何もなかった円卓に真っ白なテーブルクロスが敷かれ、等間隔に蝋燭が現れる。思わず隣のトドマトゥにこれも魔法?と尋ねると、当たり前でしょと一蹴されてしまった。これだから人間は…と言いたげな反応に笑うしかない。地味に傷つくのでなるべく話しかけないようにしようと考えていると、向かいに座っていたカラマトゥと視線が合う。ずっとこちらを見ていたのか、その口元がにやついているのが気に障って思いきり顔を背ける。

「いやぁーお待たせ!ちょっと町の女の子とデートしてたら遅くなっちった」

快活な声が大広間に響いて全員が振り返る。気配すら感じさせずに扉の前に現れたその男は、イッチーを見つけた途端にっこりと微笑んだ。明るいはずなのにどこか威圧感のある雰囲気に、イッチーはごくりと唾を飲み込む。

「遅いよ!時間厳守ってあれだけ言っただろ!」
「えぇー?チョロちゃんは相変わらず姑みたいに小煩いねぇ」

チョロマトゥが怒りも顕わに詰め寄るが、当人は意に介した様子もない。男は靴音を高く響かせながらまっすぐ歩み寄ると、自分の席の椅子を引きながら身を乗り出してイッチーの顔を凝視する。

「へぇ、キミがカラマトゥの嫁候補?」
「よっ…!め!?」
「名前はイッチーだっけ?」
「う、うん…」
「男?にしては随分と可愛い顔してるねぇ。俺でもイケちゃいそう」

軽薄に笑った男がついと指を伸ばしてイッチーの顎に手をかけようとした瞬間、ガシャンと何かが割れる音が聴こえてその場が静まりかえる。音がした先―――オソマトゥの背後の壁を見ると、ガラスの花瓶が粉々に砕け散っていた。中に入っていた薔薇も無惨に萎れている。

「オソマトゥ。そいつに触れるな」

大広間に響き渡る、激情を押し殺した低い声にイッチーはぎこちなく振り返る。正面に座るカラ松がこちらを睨み据えたまま、全身に禍々しい魔力を纏っていた。射殺すような視線はオソマトゥに向けられ、少しでも動けば何をするか分からないほど空気が張り詰めている。引き攣ったイッチーの喉が奇妙に鳴る音すら、大きく響いたように感じられた。

「やーだなぁ、そんなに怒んなくてもいいじゃん。ちょっと味見するぐらい良くない?」
「良いわけないだろう」
「相変わらず堅苦しい奴だなー。イッチーもさ、無理に連れて来られたんでしょ?」
「え、あ、いや……」
「嫌なら嫌って言わないと。こんなヴァンパイアの巣に連れてこられて、無事でいられるとでも思ったの?襲われるに決まってるじゃん」

オソマトゥの言葉にイッチーは黙り込むしかなかった。カラマトゥは大人しくしていれば何もしないと言ったが、実際こんなヴァンパイアの住処に連れて行くとは教えなかった。屋敷の中が魔法で迷路になっていたのも、この中の誰かが仕組んだ罠なのだろう。トドマトゥは最初から対抗心を剥き出しだったし、チョロマトゥに関しては未だ会話すらしていない。急激に不安と恐怖に襲われて、イッチーは全身の震えを抑えられなくなった。

「オソマトゥ!いい加減にしろ!!なに勝手なことを吹き込んで」
「勝手なこと?お前が散々この子を振り回したのが最大の原因じゃないの?」

今までの快活な雰囲気を一変させ、オソマトゥは冷たく言い放つ。その言葉が的を得ていて反論の余地を失い、カラマトゥは閉口するほかなかった。長兄同士の諍いに他兄弟は口を挟めず、ジュウシマトゥは心配そうにイッチーを見つめる。トドマトゥも流石に気の毒に思ったのか、隣から声を掛けたが当のイッチーには聞こえてすらいないようだった。カラマトゥは苛立ちも顕わに円卓を回り込んで歩み寄ると、力なく項垂れたイッチーをなるべく優しく抱き上げる。脱力した身体は重く、薄く見開かれたままの瞳は虚ろだった。

「……晩餐会は中止だ。離れには誰も近付くな」

全員の顔を見回してそう告げると、最後にオソマトゥを見止めたカラマトゥは苦々しく表情を歪めた。対する長男は余裕を崩すことなく、口元を吊り上げるのみだった。

「どうぞごゆっくり」


×


細い身体であっても意識を手離していれば多少なりとも重い。イッチーを抱いて自室へと続く廊下を歩きながら、カラマトゥは何度目になるか分からない溜息を吐き出した。覗き込んだイッチーの表情は疲弊していて、目尻にはうっすら涙が浮かんでいる。ヴァンパイア相手に物怖じしない上、自殺願望すら仄めかす肝っ玉の強さにばかり目を奪われていたが、所詮は人間だ。洗礼として兄弟が仕掛けた罠も、随分と刺激が強すぎたらしい。追い打ちになったのはオソマトゥの容赦ない言葉と―――カラマトゥの軽率な行動だったが。

「オレも、どうかしてるな……」

イチマトゥが人間であるカーラと契約をしたことに激昂し、ほぼ八つ当たりのようにイッチーを攫ってきた。イチマトゥを強引に召喚したイッチーにも確かに非があるが、冷静になってみると通常人間にできるような召喚ではないのだ。カラマトゥと出会った時には膨大な魔力だけを身に宿していたが、それ以前に何者からか魔力を与えられた可能性もある。イッチーを抱いたまま目の前に手を翳すと、数メートル先にあった自室の扉が音もなく開いた。そのまま部屋に入ると、天蓋付きの大きなベッドへイッチーの身体を横たえる。

「っ、……ん……」

少し身じろぎはしたが、起きる気配はない。カラマトゥはベッドの端に腰かけると、乱れていた髪を撫でつけてやった。起きている時は警戒心の強い猫のようだが、寝顔はか弱いただの人間の子供だ。説明を省いて連れてきたのは自分だったが、あまりに考えなしだったと流石に少し悔やんだ。イッチーの胸の辺りまで毛布を引き上げてやると、部屋の照明をすべて落とす。床に座り込むとベッドに背中を預け、カラマトゥもまた眠りへ落ちていったのだった。


×


イッチーが目を覚ますと、最初に飛び込んできたのは高すぎる天井だった。少し視線をずらせば立派なシャンデリアがあり、部屋に配置された家具はどれも高そうなものばかりだ。身体を起こすと、今まで寝ていたベッドのあまりの柔らかさにバランスを崩しかける。毛布も肌触りがよく、ずっと触っていたいほど気持ちいい。ぼーっとした意識のまま周囲を見渡し、それから少し下に視線を落として―――悲鳴を上げそうになった。ベッドの左側に誰かが座っていた。こちらに背中を向けているので起きているか定かではないが、おそらくカラマトゥだろう。どうしてここに、と今寝ている経緯を思い返してしまい今度は青くなりそうだった。晩餐会の途中でオソマトゥの言葉に意識が遠のき、カラマトゥに抱き留められたところまではしっかり覚えていた。どうにかしてこの状況から逃げ出そうと、ベッドの右側から床に足を下ろそうとした瞬間だった。

「おい」

唐突に右の手首を掴まれ、イッチーはベッドへ逆戻りする羽目になる。身体を支え切れずに背中から倒れ込む形になり、おそるおそる見上げた先にいたのはやはりカラマトゥだった。

「は…っ、はなして……」
「駄目だ。そもそも、お前どうやって逃げるつもりだ」
「べ、つに、そんなつもりじゃ」

この状況で言い逃れなどできるはずもなかった。イッチーが視線を逸らして黙り込むと、カラマトゥは呆れたように息を吐いた。掴まれていた手首を離されたかと思うと一言だけ来い、と言われる。え、と振り向くとカラマトゥは部屋の奥に行ってしまっており、イッチーは慌ててその背中を追う。ベッドから降りると、カラマトゥはリビングテーブルの傍に立っていて座るように促される。言われた通りに椅子を引いて腰掛けるとカラマトゥは一度奥の部屋に行き、戻ってきた時には盆を持っていた。そこからは湯気が立っていて、美味しそうな匂いも漂っている。自然と鼻をひくひく動かしてしまったイッチーは、それをカラマトゥに見咎められて視線を逸らす。と、同時に正直な腹がぐーっと鳴ってしまった。

「……昨日の晩餐会が中止になったから腹が減っているんだろう。気にしなくていい」

てっきり馬鹿にされると思っていたイッチーは、カラマトゥの言葉に顔を上げる。見上げたの表情は幾分か柔らかく、気のせいかもしれないが目元が下がっていて笑っているようだった。反論する気にもなれなくなってイッチーが頷くと、カラマトゥは食事を並べはじめる。量は少なめにされているようだが、サラダからベーコンエッグ、トーストにスープ、フルーツの盛り合わせまで、どれも豪勢すぎるほどだ。食べきれる自信がないと俯けば、残してもいいと頭上から声が降ってくる。

「いただき、ます」

小さく呟いてスープから手をつけると、今まで口にしたことないほどの美味しさで一気に食欲が湧いてくる。パンは柔らかくモチモチとしていて、焼き立てらしく外側はカリカリと香ばしい。ベーコンもとても分厚くジューシーで、目玉焼きは溶け出した黄身がとろりと濃厚だった。普段は少食なのが嘘のように、イッチーは食事をぺろりと完食する。向かいに座っていたカラマトゥをちらりとを見ると、興味深そうにこちらを見つめていた。それに気付いて急に落ち着かなくなり、フルーツに伸ばしかけたイッチーの手は止まってしまう。

「―――どうした?食べないのか」
「い、いや……そんな見られてると、食べにくい」

正直に告げると、カラマトゥはふむと考え込むような素振りを見せる。それから急に席を立ってイッチーの隣に回り込んでくると、フォークで桃を突き刺した。何をするのかと凝視していると、カラマトゥはそれをイッチーへ向かって差し出す。突然のことにイッチーが目を白黒させていると、冷たい果肉が唇にぷにっと押し当てられる。言外に食えと威圧されては断るすべもなく、おずおずと口を開ける。柔らかな果肉が咥内へ入り込み、ゆっくり咀嚼すると甘い蜜がじゅわりと溢れ出す。自然な甘さに頬が緩みそうになっていると、カラマトゥがそれを見てまた目尻を少し下げたように見えた。一瞬どきりと心臓が跳ねるが、そうこうしている間に今度はオレンジが差し出される。柑橘の爽やかな香りに鼻孔が刺激され、誘われるように口を開く。そうしてメロン、ストロベリー、キウイと順番に食べさせられ、デザートの皿が空になるとカラマトゥは満足したように口角を上げた。それを見て餌付けされたような感覚に陥り、イッチーは表情を歪めた。

「なんだその顔は」
「……別に」

血を吸わないと言ってはいたが、このまま餌付けされ太らされたところで干乾びるまで血を吸われるのではないだろうか。思い至ってしまった予想に自分でぞっとしていると、汚れた口元をナプキンで綺麗に拭われた。されるがままのイッチーを見ながら、カラマトゥは心なしか愉快そうに目を細めている。それからカラマトゥは食器を片付けて戻ってくると、再びイッチーの向かい側へ腰かけた。

「腹は満たされたか」
「うん。……すごく美味しかった」
「それならいい。昨夜倒れてから顔色も悪かったからな」
「あ、あの……昨日は、ごめん。おれ、あんまり覚えてなくて」

意識が遠ざかったところまでは覚えているが、この部屋にはカラマトゥに運んでくれたのだろう。それにオソマトゥのあの言葉でショックを受けて倒れたなんて、自分から攫ってほしいと言っておきながらカラマトゥを疑ったも同然だ。気分を悪くしただろうと思い、イッチーはカラマトゥの顔を見れない。部屋が沈黙で満たされ、俯いているとカラマトゥの重い溜息が聴こえた。

「お前が謝ることじゃない」
「……え?」
「お前のせいじゃないと言っているんだ、イッチー」

初めて名を呼ばれたことに目を見開く。ゆっくり顔を上げると、カラマトゥが真っ直ぐにこちらを見つめていた。初めて会った時の冷たい瞳ではなく、射抜くような強い視線に心臓が鼓動を速めていく。

「……オソマトゥの言った通りだ。オレがお前を振り回した」
「そ、んなこと……おれが、あんたに攫ってほしいって、言ったんだし」
「それでも、何も言わずに事を進めて混乱させたのはオレの方だ」

すまなかった、と呟く姿が沈痛そうでイッチーは言葉を失った。謝られるどころか、怒られると思っていた。半ば呆然とするイッチーを見てどう思ったのか、カラマトゥは額を抑えて項垂れた。

「……お前を攫った時は、とても冷静じゃなかった」
「でも―――」
「お前に攫ってほしいと言われたとしても、本来受け入れるべきじゃなかった」

低く呟かれたカラマトゥの言葉には後悔が滲んでいる。重くのしかかる拒絶に、イッチーの瞳にはじわりと涙が溢れてしまった。返事をしないイッチーに視線を寄越したカラマトゥは、今にも泣きそうなその表情に狼狽した。がたりと席を立ち、胸ポケットから取り出したハンカチで零れそうな涙を拭ってやる。

「何故泣くんだ」
「だ、って、おれのせい……全部おれが悪くて、だから、」
「っ、そうじゃない。オレも会ってすぐの時は言いすぎた。今言いたいのは、この屋敷に連れてきたのはお前のためにも良くなかったということで……。あぁ、お願いだから泣かないでくれ」

次々に溢れ出す涙を止められず、嗚咽を漏らすイッチーの背中をカラマトゥがぎこちなく撫でる。低い声が宥めるように何度も名を呼んでくれた。冷たいはずの体温が温かく感じられて、次第にイッチーの涙は治まっていく。大丈夫か?と尋ねられ、気恥ずかしさから受け取ったハンカチで目より下を隠しながらイッチーは頷いた。

「……ごめん、なさい」
「お前を否定しているわけじゃない」
「……うん」
「ちゃんと話せていなかったが、普通の人間にはヴァンパイアの召喚など出来ることじゃない。……お前の魔力は増幅されているんだ、何者かによって」
「何者か、って…?」
「おそらくは悪魔の類だな」

悪魔と聞いて普段のイッチーであれば喜んでいたかもしれないが、意図せず高位召喚をしてトラブルにつながったのは良いことではない。しかも自覚のない内に勝手に魔力を増幅されたというのも、よくよく考えれば気味が悪いことだった。イッチーが表情を曇らせると、カラマトゥが不意に頭を撫でた。

「先程はお前を攫うべきじゃなかったとは言ったが……今のお前は契約もしていない状態だし、魔力が増幅していて他から狙われてもおかしくない。要するに危険なんだ」
「……おれ、今は大丈夫なの…?」
「今すぐに問題があるわけじゃない。ただ、制御は出来ないだろうから魔法を使うのは禁止だ」
「う、うん」
「それと、これは提案だが。もし、お前が家へ帰りたくないのであれば……」
「―――…"契約"?」
「……そうだ。血を対価に、オレと契約をすれば護ってやろう」

イッチーを覗き込むカラマトゥの瞳は極めて紳士的だったが、奥では飢えた炎がぎらついているようでごくりと唾を飲み込む。その様子を見て、カラマトゥはフッと笑みを零した。顔が強張るイッチーの髪をぐしゃりと掻き乱す。

「急がなくていい。決まったら教えてくれ」
「えっ」
「オレも血に飢えているわけじゃないからな」
「そう、なんだ。……ねぇ、おれが戻りたくない理由、訊かないの」
「お前が言いたくなったら言えばいい」

困惑するイッチーを横目に、カラマトゥはそう言って快活に笑った。そしてテーブルを離れるとクローゼットから服を取り出し、積み重ねたそれをイッチーに押し付けた。着替えろ、とだけ告げてカラマトゥは足早に部屋を去り、イッチーは急に一人取り残される。疑問符を頭に浮かべたまま服を広げると、見ただけで高級だと分かるシャツ、ベスト、ズボンだった。他にもガーターベルトやソックス、リボンタイがあり、どこかへ連れ出されるのだと分かって少し気が滅入った。最初から身につけていた、着慣れたパジャマを脱いでシャツ、ズボン、ベストと順番に着ていく。ソックスを穿いてガーターベルトの装着に苦戦したが、最難関は首元のリボンタイだった。どう頑張ってもリボンタイが綺麗にならない。悪戦苦闘していると、その手を後ろから不意に掴まれた。

「下手くそだな」
「っ、と、突然背後から来ないでよ…!」
「?お前が気付かなかっただけだろう。ほら、こっちを向け」
「いい!自分でやる」
「全然できてないだろ」

突っぱねようとするが肩を掴んで回転させられ、屈んだカラマトゥの顔が正面に来る。息がかかりそうな距離に硬直しているとリボンタイを掴んでいた手をどかされ、節くれだった指先が絡まっていたリボンを丁寧に解いて結んでいく。あれだけ何度トライしても綺麗に結べなかったリボンタイが数秒で綺麗に整い、イッチーは悔しくて俯いてしまう。そんなイッチーの心情を察したのか、カラマトゥは小さな頭をぽんと叩いてから腕を引いた。促されるままついていくと、姿見の前に立たされる。左右で揃っていなかったソックスの長さを直され、ガーターベルトを締め直された。それから新品らしい革靴を履かせると、満足そうに微笑んだ。カラマトゥのつけている香水だろうか、薔薇のような甘い香りがイッチーの鼻孔を擽る。

「馬子にも衣装だな。似合ってるじゃないか」
「な、なんでこんな服……おれ、着たこともないし」

着慣れない服に戸惑ったイッチーがそう呟くと、カラマトゥは可笑しそうに口角を歪めた。堪えきれなかった笑い声がだんだん大きくなっていく。

「今のは馬鹿にされて怒るところだろう?……本当に卑屈だな、お前は」

またしても大きな手にぐしゃりと髪を撫でまわされ、イッチーは少し緊張が和らいでいくのを感じた。昨夜はカラマトゥを怒らせてしまったとばかり思っていたが、今日はまるで別人のように優しい。それどころかよく笑っているようにも思える。イッチーがじっと見上げているのに気がつくと、カラマトゥは手を離して部屋の扉を開けた。

「ついてこい」

歩き出したカラマトゥに従って廊下を歩いていく。他に人の気配はなく、静かな廊下には2人の足音だけが響いていた。やがて角を曲がると、大きな窓の向こうに中庭が広がっていた。手入れも欠かされていないのだろう、様々な種類の薔薇が咲き乱れている。思わず立ち止まって見惚れていると、気付いたカラマトゥが戻ってきて笑う。その瞳は愛しげに薔薇を見渡していた。

「綺麗だろう。オレも気に入っているんだ」
「……これも魔法で手入れしてるの?」
「いや、花や生き物の世話は魔法だけじゃ上手くできないんだ。オレが世話をしている」

カラマトゥの言葉にイッチーが目を丸くすると、意外か?と苦笑した。この男が庭師のようなことをしているのは想像し難かったが、薔薇を見つめる瞳の優しさに納得できた気がする。イッチーは首を横に振ったが、気を遣わなくてもいいと一蹴されてしまう。そのままカラマトゥはまた歩き始め、やがて大きな扉の部屋の前に到着した。カラマトゥが鍵を開けて扉を押し開けると、中は書庫になっているようだった。壁一面をびっしりと本が埋め尽くし、中央にはティーテーブルと柔らかそうなソファーがある。一番奥はガラス張りになっていて、先ほどの中庭へも出られるようだった。

「魔術書の類も奥にたくさんある。文献などが主だから多少難しいかもしれないが」
「すごい……こんなにいっぱい……」

最近は魔術の研究ばかりしていたが、もともと引き籠ってばかりだったイッチーは本の虫だった。学校の図書室の本も市内にある図書館の本も読み尽くしている彼にとって、この書庫は宝の山だった。見上げれば階段で二階にも上がれるようで、更に別の部屋もあるようだ。

「イッチー、ちょっとこっちに来い」

書庫内をふらふらと歩き回るイッチーを見かねたのか、カラマトゥが腕を掴んでソファーに座らせた。柔らかすぎるソファーに腰が沈んでしまい、不満丸出しにじっとりと睨みつけるが、カラマトゥは同じように隣へ腰かけながら涼しい顔で無視する。

「基本的にオレは夕方まで不在にする。その間、この書庫か中庭にいろ」
「どこかに出かけるの?」
「まぁ、そんなところだ。中庭は外には直接繋がっていないが、魔法がかけてあるから部外者も入って来れない。人間の場合、多少は日光を浴びなければいけないだろう。適度に中庭に出るように」
「う、うん。……あの、あんたの兄弟たちは?」
「近付くなとは言い含めておくが、もし変なことでもされそうになったらロザリオを使え」

カラマトゥの言葉で存在を思い出し、胸元に手を当てると素肌に触れる冷たい感覚があった。カラマトゥの兄弟にも有効ということは、カラマトゥにも効くのだろうか。ふと思い至ったが、よくない考えだったと首を振る。だが彼にはお見通しだったようで、鼻で笑われてしまった。

「オレに対してだって使えるぞ。銀に触れればヴァンパイアはたちまち火傷する。ただ翳されただけでも動けなくなるだろうな」
「な、なんでそんなこと……自分の弱点、なんでしょ」
「―――契約はしていないが、オレはもうお前を護る気でいるってことだ」
「え?」

予想だにしない言葉に呆けていると額を指で弾かれ、イッチーがその痛みに呻いているとカラマトゥはソファーから立ち上がる。背を向けてカツカツと靴の音を響かせながら遠ざかる背中に、訊き返すことはできなかった。

「もう出かける。夕方には戻る予定だ」
「え、あ……いってらっしゃい」

なんと返せばいいのか迷った挙句、反射的に出た言葉にカラマトゥがぴたりと歩みを止める。言葉選びを間違った気がする、とイッチーが後悔していると微かにカラマトゥの笑う声が聞こえた。

「あぁ、行ってくる」

イッチーの聞き間違いでなければ、少し弾んだ声色だった。扉が閉まり、中庭から小鳥の囀りや木々の揺れる音だけが聴こえてくる。知らず知らずのうちに緊張していたらしく、身体から力を抜くとソファーに沈み込んだ。先程まであんなに本を早く読みたくて仕方がなかったのに、心を乱されて仕方がない。熱くなった頬を誤魔化すように両手を当て、イッチーは深い溜息を零した。


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広間へと行くとチョロマトゥが部屋の隅で椅子に座り、読書の最中だった。邪魔をすれば怒られるのは目に見えていたので、何も声をかけることなく通り過ぎようとした。すると本を閉じたチョロマトゥの方から話しかけてくる。

「あの子、大丈夫だったの?」
「……あぁ。少し話をして、今は落ち着いている」
「まぁ、お前の気持ちは多少分かるけどね。……イチマトゥ、人間と契約したんだって?」

昨夜トドマトゥにだけは経緯を話していたので、夜の間にでも聞いたのだろう。気遣わしげな視線を向けられ、カラマトゥは息が詰まりそうだった。

「……あぁ。完全に八つ当たりだよ、オレがあいつを攫ってきたのは」
「僕たちは介入しないけど……あの様子じゃ気をつけないと狙われるよ?」
「分かってるさ。きちんとオレが見るつもりだ」
「それならいいけど。……いってらっしゃい」

おざなりに手を振るチョロマトゥの言葉に、同じ見送りでもこうも違うのかと苦笑する。笑いながら去っていくカラマトゥを見送るチョロマトゥの顔は若干引き攣っていたが、この際気に留めないことにした。マントを翻し、カラマトゥは地下への階段をゆっくりと下っていった。


continue...




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