花咲く貴方へ口づけを<前>

※花屋カラ松×漫画家一松


少女漫画のような恋に憧れていた。
甘酸っぱくて瑞々しい、サイダーみたいな爽やかな恋。胸が高鳴って顔が熱くなって、触れられた指先が、頬が、燃えるように熱くなる。見上げた先の相手は甘く微笑んで、次第にその顔が近付き―――やわらかな感触に触れたと思うとキスをされている。離さないとばかりに身体はぎゅっと抱き締められ、苦しいと言っても離してもらえない。耳を押しあてた先から聞こえてくる鼓動の音。どくどくと響くその音さえも愛しく思えて目を閉じる―――そして、

「一松先生!!」
「んがっ」

ぱしん、と頭頂部に衝撃を感じたと思えば痛みがじんわりと広がっていく。重だるい身体を起こして視線を上げた先には、仁王立ちする担当編集がいた。普段はあんなに人畜無害そうな顔をしているのに今は般若と見紛いそうな形相だ。最近はインスタ映えに凝ってるらしいが、女の子も裸足で逃げ出すだろうとぼんやり思う。

「トッティ、すげー顔してんね」
「ハァ!?誰のせいだと思ってんの!?」

もう一発、今度は手加減無しでバコッと側頭部を殴られて思わず叫んだ。

「いってえ!!」
「修羅場でやばそうだと思って折角差し入れ持ってきたのに、なに居眠りしてんの!?締め切りまであと5時間でしょ!?だからアシスタント増やそうかって言いましたよね!?」
「あー……」
「あーじゃないよまったく。ちょっと原稿見せてください!」
「はーい。……ねぇ、差し入れなに?」
「今それ聞く状況ですか!?」
「あっ、おにぎり?おれツナがいいなぁ。あと明太子」

ガサゴソと勝手にコンビニの袋を漁りはじめたおれに溜息を吐いているようだが聞こえないふりをした。袋から出したお目当てのおにぎり2個をキープの意味で机に移動させておく。担当はどうせ何か食べてきているだろう。

「げっ!トーンまだ貼れてないじゃん!」
「あれ、貼ってなかったっけ?」
「貼ってないです!ちゃんと確認してって何度も言って……あーもー!仕方ないなぁ…」

アシスタントは夕方過ぎに帰してしまったので早朝に近いこの時刻、仕事場にはおれしかいない。そして残り5時間では終わりそうにない原稿。ちらりと担当を見上げてみる。

「トド松、手伝ってくれんの?」
「……あんたの原稿が上がらないとボクが困るんです」
「わー超助かるわーありがとートッティ大好きー」
「感謝の気持ちが1ミリも感じられない棒読みをありがとうございます」

正面に座ったトド松が眉間に深く皺を刻んでいたので、指先でそれをぐいぐいと押してやったらトドメとばかりに3発目が飛んできた。この担当編集、本当に作家へ対して容赦がない。


×


泥のような眠りに落ちていたおれが目覚めたのは、15時を回った頃だった。あの後トド松に説教を食らいながら、なんとか原稿を仕上げたのだ。帰りがけに新人賞の選考会がどうだとか受賞式の出席がどうだとか言っていたような気がするが、どうにも曖昧で覚えていない。ぼんやりとした頭をどうにかしようとベッドから降りた瞬間、床に散らばっていたチラシを踏んでずっこけてしまった。幸いなことに、床には柔らかいカーペットを敷いていたのでダメージは軽減されたが、当然痛いものは痛い。

「ってー……なんだこのチラシ……」

トド松が持ってきた書類の中にあっただろうか?指で摘みあげて内容を読んでみると、新人賞という大きな文字が真っ先に目に入る。トド松が言っていたのはこれのことだろう。"新人賞"随分と懐かしい響きだ。おれがデビューしたのは5年前、この新人賞で大賞を獲得したのがきっかけだった。当時営業だったトド松は新人で、学生のおれがびくびくしているのにもお構いなしでどんどん踏み込んできた。それが嫌で逃げ出したくなることも多かったけれど、トド松はそんなおれに根気よく向き合ってくれ、なんとかデビューに漕ぎつけることができたのだった。女子受けばかり気にする、すかした奴で気に食わないとばかり思っていたあの頃が懐かしい。あいつは思ったより面倒見がよくて、熱いものを胸に秘めているのだ。

「……今度、ケーキでも奢ってやるか」

ぼりぼりと頭を掻きながら、おれはそう呟いた。


×


「いらっしゃいませ」

ドアを押し開くとチリンチリンとベルが鳴る。徒歩10分の距離にある行きつけのカフェは、こじんまりとした個人営業の店だ。40代のマスターは幼い頃から知っている人で、ここでプロットやネーム作業などをしていることもあって、おれが漫画家ということを知っている。流石に少女漫画を描いているとは打ち明けていないが、そういうことを気にしない人なので知られてもいいかという気持ちもある。いつも静かで丁寧で、プロフェッショナルを絵に描いたような人。おれの憧れる人の一人だった。

「ご注文は?」
「ブレンドコーヒーで。……あとたまごサンドも」

いつもならコーヒーしか頼まないので珍しそうな表情をされた。苦笑して徹夜だったことを告げると、マスターは気遣うように眉を少し下げた。若いからって無理をしちゃダメだよ、と諭されてすこし反省する。睡眠不足が一番身体によくないとは重々承知しているのに、繰り返してはマスターに心配をかけてしまっている。

「……そうですね。すみません」
「一松くんが頑張ってるのは知ってるから」
「ありがとうございます」
「じゃあちょっと待っててね。すぐに出来るよ」

マスターがキッチンの奥へと去り、おれはトートバッグを開いてプロット用のノートを取り出す。ペンを片手に構想を練りながらふと窓の外に視線を移すと、向かいにある花屋の前に青いエプロンをつけた青年が立っていた。先週までずっとシャッターが下りていた気がする。そう思って目を凝らしてみると店の自動扉にある貼り紙に、でかでかとリニューアルオープンの文字があって納得した。確かに少し前までは看板の文字も錆びていて全体的に乱雑な雰囲気だったが、改装ですっきりと綺麗になったようだ。再び青年に視線を戻すと、チラシと一緒に何かを配っているようだった。小さい袋に入ったそれが何かは分からないが、記念に配っているのだろう。そんなことをぼんやりと考えているとマスターがコーヒーとたまごサンドを持って現れた。おれが花屋を見ていたことに気付いたのか、そういえばと切り出す。

「一松くんはお花って買うかい?」
「いえ……買わないです」
「そうかい」
「有名な作家だと受賞式とか―――パーティとかもあるみたいで、必要になるみたいですけど。題材によっては漫画の資料になるかもしれないですね」
「資料か。なるほどねぇ……」
「どうしたんですか?」
「いやいや、実は甥っ子があそこでバイトしていてね」

あそこ、とまっすぐで示した先にいたのは先ほどの青年だ。彼が?と尋ねるとマスターは微笑みながら頷いた。遠くて顔はよく見えないが、マスターに似ているのだろうか。

「知り合いの店なんだが、最近雇ってもらえることになったんだ。一昨日リニューアルオープンしたんだが、去年できたショッピングモールの中に花屋があるだろう?どうやらあそこに客が流れているみたいで」
「ああ、なるほど」
「甥っ子は真面目でね、どうしたらお客が増えるかずっと考えてるみたいなんだ」
「それでさっきの質問ですか。……まぁ、普通の人は花を買う機会は多くないですよね」
「僕みたいに年を取ると、献花で買う機会は増えるけどね」

わっはっはと快活に笑うもんだから、不謹慎ながら苦笑してしまった。確かに花を買う機会なんて、男のおれにとっては極めて少ない。母の日や式典、それこそ献花ぐらいしか思い当たらない。目線の先にいる青年は通りすがる人に根気よく配布を続けていたが、なんとなく同情してしまった。おれも真面目すぎると言われる性格だから、彼と同じ状況だったらすごく悩むだろうと思ったのだ。

「ま、何か機会があればよろしく頼むよ。店も綺麗になったみたいだし、よかったら帰りにでも寄ってあげてくれると嬉しいな。一松くんと同い年ぐらいだと思うんだ」
「……へぇ、そうなんですね」

相槌を打ちながら、温かいコーヒーを静かに啜る。程よい苦みと豊かな香りに鼻孔が刺激された。


×


「ど、どうも……」

帰り道とは逆方向なのに結局帰りに花屋に寄ってしまったおれは、オレンジの陽が射し込む店内に踏み入れて呼びかけていた。いくら客足が遠のいているとはいえ、夕方であれば客の一人も居そうなのに誰も来る気配がない。本当に繁盛していないんだな、とマスターの話を思い出す。歩みを進めていくと、店の真ん中にはカーネーションが多く置いてあった。今の季節は4月で、そういえば来月は母の日だ。店員の手書きであろう、やたら角ばった文字と上手とは言い難いイラスト(母親の顔を模しているのだろう)に少し笑みが零れた。件のマスターの甥が描いたのだろうか。インクで少し凹凸したポップを指でなぞっていると、店の奥から声が聞こえた。

「お客さんですか?」
「あっ、はい!ぁ、いえ……」

お客さんかと聞かれれば花を買うつもりで来たわけでもないのだと思い直して、ひどく曖昧な返事になってしまった。おおい茂る花で見えない相手がこちらに歩いてきて、ひょっこりと顔を出す。おれより少し背が高い、あの青年だった。真っ黒な髪に凛々しい眉、黒曜石のような瞳がじっとおれを見つめていた。

「いらっしゃいませ!」

にっこりと微笑んだその表情の人懐っこさに、まるで大型犬みたいだとぼんやり思う。しかし何も買わないのも申し訳ないと思い悩んでいると、おれのベレー帽を見て彼は声を上げた。おれは思わずびくりと肩を揺らす。

「な、なんっ……なに……?」
「あ、すみません突然。……あの、一松さんですか?」
「え?どうしておれの名前、」

おれが瞠目していると彼はすこし目を伏せてすみません、と苦笑する。

「伯父から話を聞いていたんです、オレと同い年くらいの常連の子がいるって。赤いベレー帽を被った可愛い子だって聞いてたから、てっきりガールなのかと思っていたけど……驚いた、男性だったんですね」
「は―――」

あまりにも突っ込みどころが多すぎて言葉を失った。マスター、おれの話してたのかよ!おれのこと可愛い子ってなんだよ!?しかも女だと思ってた!?ガールって言い回しなんだよ!?一松って名前で女に思えるか!?

「どう考えても女の名前じゃないだろ……」
「確かに、そうですよね。オレも今気付きました」

照れたように笑いながら彼はこちらに手を伸ばす。握手を求められているのだと気付き、慌てて手を伸ばすとぎゅっと握り返される。思ったよりも強い力で、掌から伝わってくる温度は高い。心臓が変な風にどきどきと鳴っていた。

「勘違いとはいえ、申し訳ないです。初対面で失礼しました」
「……いや、大丈夫。気にしてないし」
「よかった。あぁ、今日は何かお探しですか?―――母の日かな」

おれがカーネーションの前に立っていたからだろう。彼は赤を一輪手に取ると、おれの方へ差し出した。おずおずと受け取ると、彼はにこりと笑った。

「帽子もですが、赤がとても似合いますね。キュートですよ」
「きゅ……きゅーとって、」

今まで言われたこともないことを臆面もなく口にするものだから、おれは真っ赤になって閉口するほか無かった。キュート!?きゅーとってなんだ!?男に向かって言う言葉か!?黙り込んで俯いたおれに、彼は小さな声ですみません、と呟いた。

「またオレ失礼なこと言っちゃいましたよね。伯父にもよく言われるんです、お前は思ったままを口に出しすぎだって」

苦笑している気配を感じて顔を上げると、彼はおれが持っているカーネーションの花びらを指先で撫でた。

「言い方が悪かったですね、魅力的だなって思ったんです。とてもお似合いで」
「お、おれ、花が似合うとか……そんなこと全然ない、し」
「そんなことないですよ。あぁ、このカーネーションお包みします。少し待っててください」
「えっ……でも、おれ買うつもりなくて、」

おれの手からカーネーションを受け取った彼は振り返っていいんです、と笑った。

「お客さん、全然来ないでしょう?来てくれただけでも嬉しいんです。それに、」

そこで言葉を切った彼は広げた包装紙であっという間に花を包んでしまう。一瞬で出来上がったことに驚いていると、そんなおれの表情が可笑しかったのだろう、くすりと笑みを零す。

「……伯父から話を聞いて、会ってみたかったんです」

おれの手に包み終わったカーネーションを渡しながら、彼は先ほどと同じ人懐っこそうな表情で微笑んだ。花びらがほどけるような、柔和な表情に目を奪われる。一松さん、と低い声に囁かれてどきりと心臓が跳ねた。

「よかったら、また来てくださいね。オレ、カラ松って言います」


×


あの日から彼の笑顔が忘れられなくて、喫茶店に行った帰りには必ず花屋に寄るようになってしまった。おれが行く夕方頃には店主のおじさんは配達に出かけているらしく、店にはカラ松しかいない。お客もほとんど訪れないため、おれとカラ松は店の奥にある椅子に座って話すのが常になっていた。最初の頃は買いもしないのに迷惑じゃないかと考えていたが、カラ松はおれが来る度に見えない尻尾をぶんぶん振っているのが見える気がするほど嬉しそうな顔をするので、もう完全に絆されてしまっている。

「へぇ、ずっと配ってたの花の種だったんだ」
「あぁ、なるべく育てやすい花で何種類か配ってみたんです」
「お客さん、少しは増えた?」
「うーん……ちょっとだけ。近所のマダムはよく来てくれますよ」

カラ松は苦笑してそう言う。そういえばこの前、喫茶店から見た時に化粧の濃いおばさんに腕を組まれていたのを思い出した。あれは迫られていたんだろうな、と思い出し笑いをする。

「い、一松さん?突然どうしたんですか」
「っふふ、いや……なんでもっ、んふふ……」
「なんか……笑い方気持ち悪いぞ」
「気持ち悪いってあんまりだろ!?」
「えっ、オレまた言い方悪かったですか!?ご、ごめんなさい……えーっと、不気味?」
「いやどっちにしろ酷いでしょ」
「えぇ……難しいな……」

前よりも少しだけ砕けた口調になったせいか、カラ松は気障ったらしい言い回しよりも年相応の話し方になった気がする。年相応、と言ってもおれの方がカラ松よりも2歳上だったのだが。

「でもお前頑張ってるんだし、もっと客増えればいいのにな」
「ありがとう、一松さん。……本当に、そうですね」
「店長は何か言ってるの?」
「いえ、店長はもう後継ぎを探さないらしくて」
「―――……え、店長の代で終わりなの?」

リニューアルしたばかりなのに、と目を瞠るとカラ松は苦笑した。本当は息子さんに継ぐ予定だったのだが、リニューアルの施工が始まった後に仲違いをしてしまったそうだ。そこにたまたま紹介されてカラ松がやって来たが、店を継がせるわけにはいかないと言われたそうだ。

「この時代、どうしても大きな店に吸収されてしまうのが現実だ。息子はともかく、オレにはそんな大変な思いをしてほしくないって……夢を追いかけてほしいって言われてしまって、」
「夢?」

おれが訊き返すと、カラ松は椅子から立ち上がってカウンターに置いてあった缶コーヒーをおれに渡した。コーヒー好きは伯父さん譲りなのだろう。彼は拘った銘柄しか飲まないのだと最近知った。ありがとうと呟いて口をつけると、マスターの淹れたコーヒーとは異なる苦みが口いっぱいに広がった。

「―――夢があったんです、オレ」

過去形だった。おれに背を向けているカラ松の表情が分からず、おれは返答に窮した。訊いていいのだろうか、と逡巡しているとカラ松がぱっとこちらを振り返る。その表情は予想と違って、随分と晴れやかだった。

「でも、もう諦めたことなんだ!だからこの店を継ぎたいんですよ。フラワーたちはみな美しい!ナンバーワンじゃないオンリーワンの輝き!贈る人も贈られる人も幸せになる、ハピネスな気持ちになれるでしょう?」
「……幸せとハピネスって被ってない?頭痛が痛いみたいになってるよ」

おれが指摘するとカラ松は大仰に驚いてオーマイゴッド!と叫んだ。それを見て、おれは思わず笑った。


×


「ふーん、それでミネット先生は足繁く花屋へ通ってるわけ。そのカラ松くん目当てに」
「ちがっ……別に目当てとか、そういうのじゃないって!」
「へぇ?」

器用に右眉だけを持ち上げ、従兄はにやけ顔を隠しもしない。流石に苛立って手に持っていた本を乱暴に積み上げると、ちょっとやめてよおーと情けない声を上げていた。

「それ俺が持ってきたやつでしょ?資料用に欲しいって言ったのお前じゃんか」
「―――おそ松兄さんが変なこと言うからでしょ」
「変なことぉ?いいんだよ一松、別に隠さなくってもさぁー」
「………………」
「あっちょっと待って!無言で破こうとしないで!」

開いていたページを摘んで力を込めようとして全力で止められ、思わず舌打ちする。ガラわりぃなぁと呟いているのが聞こえたが無視して本を閉じた。

「ごめんって。でも喜ばしいことじゃん、友だちなんでしょ?」
「……向こうはそう思ってるかわかんないけど」
「相変わらず自虐的だなぁ。だって週に2回?3回?ぐらい会ってるわけでしょ?その度に楽しくお喋りしてるなら友だちだって」
「―――ほんとに、そう思う?」
「思う思う!ていうか俺はマジで脈あるんじゃないかって思うけど」

仕上がった原稿をまとめていた手が止まる。え、とおそ松を振り返るとにんまりと笑みを浮かべている。

「からかってるとかじゃなくてさぁ。たまに渡してくる花の花言葉、ぜーんぶ愛に纏わるものばっかりじゃん。……話聞いてるだけでも分かるよ。なんでそんなことするのか、って意味」

じっと見つめてくる視線の強さに、おれは咄嗟に目を逸らした。花屋へ行っても何も買わないのに気が引けて、行く度に小さめの花束や窓際に飾れるような小さなサボテンを買うようにしていた。だが、おれが何か買う度にカラ松は一輪の花を渡してくるのだ。それは薔薇であったり、チューリップであったり、マーガレットであったり……。花言葉の存在は知っていたが、カラ松と出会って花の知識を増やしていたおれは自然と気付いてしまったのだ。そして相変わらずカラ松は、おれが花屋を訪れる度にこれ以上ないというほど嬉しそうな顔をする。

「でも、そんな意味じゃないよ。きっと」
「お客増やすために手伝った時なんか、すっげー喜んでくれたんでしょ?」
「それは……まぁ、人手が足りなかったし」

カラ松自身の努力の甲斐もあり、お客は順調に増えている。あの頑固な店長さんもこんなに変わるとは思っていなかったのだろう、カラ松のことを手離しで褒めちぎっていた。それに、おれも何か手伝おうかと言い出した時の彼の反応が忘れられない。いいのか!?と両手をしっかり握り締められたおれは動揺して、なんでもするよ!と叫んでしまった。結局、原稿を抱えている時にポスターのデザインをすることになってしまい、睡眠不足で花屋を訪れた時は無理しないでくれと怒られてしまった。その時も、おれは心配されたことが嬉しくて舞い上がってしまったのだけれど。

「彼女もいなくて、なんで作らないのか訊いたら今はお前が一番だって言われたって大喜びしてたの先週じゃん」
「そ、それは冗談で…!じ、冗談でも嬉しかったけど」

彼女いないの?と訊いてしまったのはうっかりだった。こんなに真面目で努力家なのにモテないわけないなぁと思っていたら、うっかり口に出してしまっていたのだ。おれの言葉を聞いたカラ松は一瞬ぽかんとしていたが、すぐにいつもの調子で流暢に喋り出した。曰く、「罪な男―――ギルトガイな俺は数多のフラワーを虜にしてしまうが、今はただ囚われるよりも真実のラブを追い求めていたいのさ!」と。回りくどいと一蹴すると今はこの仕事が楽しいんだ、と笑っていた。それからおれの顔をじっと見つめ、それに今はハニーの虜だしな!とも。真っ赤になったおれがカラ松の頭をひっぱたいたのは言うまでもない。でも、めちゃくちゃ嬉しかった。たとえ冗談でも嬉しかったのは認める。思わず原稿を握る手に力が入って、紙に皺が寄ってしまうところだった。

「ほらほらぁー、嬉しかったんじゃん」
「でも!若い女性客が来たら誰彼構わず口説いてるし!」
「口説くつってもあれでしょ?なんか痛い感じで」
「うん、まぁ……そうなんだけど」

彼女を作るつもりはないらしいが、若い女性客にはキザったらしく対応しては苦笑されている。最初こそ引かれていたようだったが、お客さんも慣れてきたのか最近は軽くあしらわれることが多いようで落ち込んでいるのが面白い。幸い、彼の口説きを真に受けるような人がいないのはおれにとって好都合だったけれど。そして若い女性よりもマダムにモテがちなのがカラ松らしかった。随分前にカラ松に絡んでいた濃化粧のマダムは、今も来店する度にべたべたくっついている。

「ま、一松から告白とかはハードル高いかもしんないけどさ。でも、ほんとに卑屈になる必要ないと思うよ?友だちなのはもう間違いないし。それに、冗談でも男相手にハニーだ虜だって言うのは好意が一定以上あるってことだよ」

おそ松は珍しく含みのない笑顔でそう言い、おれの頭をぽんぽんと撫でる。おれは黙ったまま頷いて、それから小さな声でありがとうと呟いた。そんなおれを見ながら、おそ松は鼻の下を擦りながら笑っていた。


×


「一松さん、最近忙しそうですね」
「うん、ちょっとね……あと1週間もすれば一旦落ち着くんだけど」

雨の日、いつものように喫茶店帰りに花屋へ寄った時のことだった。もうすぐ5月で連休前、おれは追い込みのように原稿に追われていた。そんな中でもカラ松に会える時間が取れるだけで心が落ち着いた。トド松もこんな時だと神経をピリピリさせていて、どうしても喧嘩になりがちなのだが今回はそうなることもなさそうだ。最近なんかいいことあった?と訊かれてしまい、気まずく言い逃れたことはあったけれど。

「あの、もしよかったらなんですけど」
「ん?」
「落ち着いてからでいいので、一緒に出かけませんか」

カウンターに置いている缶コーヒーを飲もうとして持ち上げかけた手が止まった。ザーッという雨の音に、いつの間にか雨足が強くなっていたんだと気がつく。ゆっくりと隣に座るカラ松を見ると、黒曜石のような瞳がこちらを見つめていた。ひどく真剣な面差しに、ごくりと喉を鳴らしてしまった。

「出かける、って……えっと」

上擦ってしまった声が恥ずかしくて、すこし目を伏せる。どこに、と呟くとカラ松の左手がゆっくりと伸びてくるのが見えて、それからおれの右手に重なった。彼の皮膚から伝わってくる体温が、火傷しそうに熱い。

「その、デートしたいなって思ったんだけど……ダメですか?」
「だっ―――、ダメじゃ、ない!」

デートという単語に固まりかけたが、普段は凛々しい眉を下げて首を傾げられたらもう無理だった。反射的に大声を上げてしまってから恥ずかしくなるが、間髪入れずにカラ松がぎゅっと手を握ってくるものだからそんな暇もなかった。そういえば最初に会った時も、この捨て犬のような表情に射抜かれてしまったんじゃなかったっけ。

「ほんとか!?やったー!嬉しいぜ、一松さん!」
「えっ、あ、うん……」

ちらりと見上げてみると彼がニコニコ笑っているのが分かって、おれは軽く息を吐いた。デートって言い回しが大仰なだけで、多分普通に遊びに行こうという誘いなんだろう。その割には一世一代の大勝負みたいな顔をするものだから、やけに緊張してしまった。

「どこに行くの?」
「連休に入ってしまっても大丈夫ですか?一松さん、人混み苦手ですよね」
「うーん……でもおれ、連休中しか予定空いてなさそうなんだよね。多少なら大丈夫だよ」
「よかった!それなら水族館にしませんか?」
「水族館……」

なんとも魅力的な響きだった。猫が大好きなおれだが、ペンギンやイルカも可愛くて大好きだ。思えば水族館や動物園なんて中学以来行ってないんじゃないだろうか。俄然楽しみになってきて食いつく。

「イルカショーすごい見たい。あとクラゲとかグソクムシとかも……ペンギンとかラッコにエサやりできたらいいなぁ」
「できますよ、きっと」

おれがまだ見ぬ海獣たちに想いを馳せながら呟くと、カラ松が手を握り直して笑った。柔和な笑顔に鼓動がどきどきと高鳴っていく。楽しみだなぁと囁いた彼に、おれは黙って頷くことしかできなかった。触れ合った指先が、ひどく熱い。


×


「デート!?一松先生がデート!?は!?なに!?あの絵に描いたようなコミュ障引きこもり漫画家が!?デート!?ていうか恋人いたんですか!?訊いてないんだけど!?」

電話口でひとしきり叫んだ後、……嘘じゃないですよね?と小さく訊かれて笑った。

「嘘じゃないよ」
「マジで……えー、相手は誰なんですか?」
「それは秘密。言ったら絶対にトッティうるさいもん」

トド松に恋をしているなんて知られたら漫画のネタにしろと迫ってくるだろうと思っていたが、帰ってすぐに打ち合わせの電話で話してしまっていた。相当おれも浮かれている。自覚はあった。

「ていうか付き合ってないんだよね」
「え!?友達以上恋人未満ってやつですか!?」
「そ。甘酸っぱいでしょ。少女漫画みたいで」
「それ、自分で言います?」

何も単純に惚気たいから打ち明けたわけでなく、締め切りの融通を利いてもらうためともう一つ。

「ボクに服を選んでほしい?」
「うん。おれ、ちゃんとした外行きの服?ってそもそも持ってない……」
「おそ松さんは?従兄なんですよね?」
「連休中は忙しいから無理ーって。服の趣味も多分違うし」

うーん、とトド松は悩んでいたが、おれ達が行く水族館限定のストラップをお土産に買ってくることを条件に引き受けてくれた。これで当日までの不安は解消された。一安心だ。

「アシスタントのスケジュールはこっちで調整するから、とにかく余裕を持って入稿してくださいよ」
「はーい」
「あと服の趣味って点ではボクも一致しないだろうですけど、なるべく似合うようにコーディネートするから文句は言わないでください。いいですか?」
「うん、大丈夫。よろしく」

文句を言って見放されてしまったら最悪、部屋着のパーカーで行くしかなくなってしまうのだ。そんな恐ろしいことになって幻滅されたらもう死ぬしかない。素直に返事をすると、それにしてもとトド松が呟いた。

「ここ最近、なにかあったのかなぁとは思ってたけど……まさか恋してるだなんて」
「トッティは今彼女いないんだっけ?」
「そうですよ!先月振られたばっか!やっぱりトッティは恋人より友達って感じなんだよね〜、って!」
「あー……そのパターン多いよね、トド松は」
「一松先生も、結構友達から恋人にクラスアップするのは難しいって思ってた方がいいですよ。これだけはホント、脅しとかじゃなくて」
「……やっぱり違うのかな。友達と恋人って、」
「ぜんっぜん違います!」

力説するトド松の声をぼんやりと聞きながら、そんなに難しくてリスクを伴うならこのままでもいいのかもしれないと思った。いつか聞いたカラ松の夢が何なのかは分からないけど、もし想いが通じ合ってもその夢の妨げになってしまうかもしれない。それにおれは漫画家で不規則な仕事で、恋人になっても十分に会えるとは思えなかった。好きな時に会えて好きな時に話せる、そんな恋人には到底なれないのだ。

「ちょっと、先生聞いてます!?」
「うん、聞いてる……。じゃあまた明日ね」

まだ何か言っていたような気がするが、無理やり電話を終わらせた。こっちから掛けておいて酷かったかな、とも思ったが思考がぼーっとしていて集中できなかった。ずっと浮かれてしまっていたけど、学生同士の恋じゃないのだ。大人同士の恋はうまくいくものじゃない、と昔見たドラマのセリフが脳裏を掠めて消えた。


×


「お、お待たせ……ごめん、待たせた?」

自分で言ってからデートの待ち合わせテンプレのような台詞だと恥ずかしくなる。カラ松はそんなおれに構わず、にっこりと微笑んで今来たところです!と、同じくテンプレのような台詞を返してきた。これがデートなんだ、という気恥ずかしさでいっぱいになって目を伏せてしまう。と、カラ松がこちらに手を伸ばしてきたので目を見開いた。

「な、なに?」
「え?デートだから手を繋ごうかと、」
「は!?いや、デートって冗談でしょ!?お、おれ達男同士だし……ていうか目立ちたくない。無理」

目立ちたくないのは建前で、実際は恥ずかしさで爆発しそうだからだ。おれが断固として拒否をするとカラ松はまた子犬のような目をしたが、流石にここで絆されるのはまずい。

「そうか……」
「ふ、普通に考えて無理だから」
「うん、そうだよな。ごめんなさい、オレ……」
「そ、そんなに落ち込むなって……。その、デートっぽい感じは……おれも、頑張ってやらないことは、ない、し」
「ほんとか!?」
「き……期待はしないでよ」
「するに決まってる!……ねぇ一松さん、その服似合ってますね」

ふいに服のことに言及されてどきりとした。今日の服はトド松に選んでもらって買ったものだが、薄紫のタートルニットは自分が気に入って買ったものだった。カラ松はそのニットを指差して褒めてくれた。

「そのベレー帽も……いつものとちょっと違いますね。デニムもすごく似合ってる」
「あ、ありがとう」

褒められ慣れていないのでベレー帽を深くかぶってその視線から逃れようとすると、カラ松がすこし笑ったのが分かった。そう言うカラ松もいつものパーカーやプルオーバーにエプロンのようなラフな格好ではなく、ちょっとかっちりしたジャケットに品のいいインナーとネックレスをつけていて、細めのパンツを履きこなしていた。足元も革靴で気を抜いていなくて―――……一言で言い表すなら、かっこよかった。

「カラ松も、似合ってるよ」
「本当ですか?」
「うん、おれにはそういうの着こなせないからすごいなって」
「そんなことない、きっと似合うさ!……おっと、時間だ。そろそろ行きましょうか」

カラ松が腕時計を見ると、電車の時間まで10分ほどしかない。駅前広場での待ち合わせだったので十分間に合うが、おれはうんと頷いてカラ松について駅構内へと向かった。水族館前の切符を買って、10分ほどの距離を快速電車に乗る。車内は連休だけあって賑わっていて、おれたちはなんとか座れた席にくっついて座らざるをえなかった。近い距離に緊張して、カラ松が話しているのに適当な相槌しか打てない。そんなおれを察したのか、カラ松は大丈夫か?と尋ねてきた。

「だ、大丈夫」
「人が多いから少し酸素が薄いな。電車酔いとかしてないですか?」
「うん、それは平気……」
「―――もしかして、緊張してます?」

黒いまなこがじっとおれの顔を覗き込む。気持ちを見透かされているようで、でも不思議と嫌な気持ちはしなかった。少し迷ってから頷くと、カラ松が膝に置いていたおれの手に触れる。安心させるような触れ方で、心臓はうるさいのに気持ちはすっと落ち着いていくようだった。

「……ううん、もう大丈夫」
「よかった」
「あの、カラ松」
「はい?」
「敬語、やめていいよ。話しにくいでしょ?」
「えっ、でもオレの方が年下だし……」
「おれ気にしないし。……そっちのがおれもいい、から」

おれが呟くように言うと、カラ松ははにかむように微笑んだ。


×


「一松!」

電車を降りて水族館の入口に着くと、カラ松はおれの名前をことあるごとに呼んだ。あんまりしつこいので恥ずかしくてやめさせようかとも思ったが、あまりに嬉しそうに呼ぶので気も削がれてしまった。カラ松に呼ばれて促されるままチケットを購入し、ゲートを潜り抜ける。順路に従って歩いて行けば小さめの水槽が並んでいて、小さなエビやクラゲが揺蕩っている。不思議な色をした熱帯魚もたくさんいて、おれもカラ松も夢中になって水槽に貼り付き、子供さながらに騒いだ。順路を巡り、少し開けた場所に出るとそこは巨大な水槽でイルカが悠々と泳いでいた。思わず同時に声を上げてしまい、後ろにいた女性3人組に笑われてしまった。少々恥ずかしく思いながら水槽の目の前まで来てみると、遥か上にある水面までぐんぐん上っていくイルカがそのままジャンプしているのが見えた。

「あ、これもしかして上がイルカショーのプールになってるのかな」
「そうなのか!?」
「うん、多分。ほらこっち……見える?」

水槽にくっついて上の方を指差すが、角度が悪くてカラ松は見えないようだった。仕方なくカラ松の手を引いて、自分と同じ位置に引っ張ると指を差した。暫くしてもカラ松から反応が無いのを不思議に思って彼を見ると、おれが掴んだ手首を凝視していた。耳が真っ赤になっている。

「カラ松?」
「あっ―――ご、ごめん……」

動揺を隠しもせず、焦っている姿が新鮮に映った。おれは冷静を装っていたが、実際のところそんな表情を目の当たりにしては落ち着いていられなかった。見えないな、と誤魔化したカラ松が水槽から離れたのでおれも手を離す。名残惜しい気持ちがあったのは気のせいだと思い込んだ。なんとなく言葉も出ないまま歩いていると、中央のホールがフードコートになっていることに気付いた。カレーやオムライスの香りも漂ってきて、どうやらここはイルカを眺めながら食事ができるエリアらしい。

「お腹空いたね。ご飯にする?」
「そうだな。いい匂いがする……メニューも凝ってるな」

メニューボードを見てみるとイメージ写真が載っていて、カレーはご飯がイルカのシルエットで型抜きされていたり、ソーダフロートもイルカをイメージしてあるようで可愛らしい。デザートのパフェもフルーツやソースで飾られ、ペンギンやラッコのイラストが印刷された最中が載っていて女子受けしそうだ。お値段は少々高めだが仕方ない。お昼時ということもあって15分ほど並んだが、その間もイルカを眺めていれば飽きなかった。結局カラ松はカレーとソーダフロート、おれはトマトソースパスタとブルーベリーソーダにした。パフェも美味しそうで食べてみたいと葛藤したものの、気が引けてやめてしまった。イルカを眺めながら食べていれば空腹だったこともあり、すぐに平らげてしまった。食後は館内マップを広げ、次はどこへ行こうか、このショーが気になる、など話していれば不意にカラ松が席を立つ。すまない、と言いながら去って行ったので手洗いかとぼんやり考えながら待っていると、目の前にずいっとパフェが現れた。

「えっ、な……なに?」
「食べたかったんだろ。随分と悩んでたみたいだから」

オレも余裕あるから苦しかったら手伝うよ、と微笑まれてはもう誤魔化せなかった。さっきは必死に堪えたのに顔が熱くなっていく感覚を止められない。ありがと、と精一杯口にすればカラ松は嬉しそうにまた笑う。スプーンで掬ってひとすくい、食べてみれば甘ったるいバニラに酸味のあるベリーソースが口いっぱいに広がった。


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結局食べきれなかった溶けかけのパフェもカラ松は嫌な顔一つせずに綺麗に食べ、代金も払うと言ったのに昼食代も勝手に全額払ってしまった。どうしてと尋ねると、付き合ってもらったお礼だとさらりと言われてしまう。イルカショーに行った時も水しぶきがかかりそうなところで持っていたタオルで覆ってくれた。そのせいでカラ松はずぶ濡れになり、結局乾かすのにおれが髪を拭いたりすることにはなったのだが、その時のカラ松のしょげた顔が可愛らしかったので文句は言わなかった。

「まだ濡れてる?なるべく拭いたつもりだけど」
「いや、大丈夫だ。……すまない、恰好がつかなくて」
「ふふ、お前がかっこよかったことなんてないよ」
「そんな……あんまりだぜ一松……」

大袈裟に肩を落とすカラ松が可笑しい。カラ松がかっこよかったことがないなんて嘘だ。今日のおれはずっと朝から心をき乱されてばかりなのだから。足元の砂を蹴り上げると、裸足に触れるのが気持ちいい。おれ達は水族館を出た後に隣接している海の浜辺を歩いていた。夕方なこともあって人もまばらで、奥の方まで来れば波の音だけが聴こえてきて落ち着く。

「一松。今日、楽しかったか?」

潮風に煽られながら振り返ると、カラ松は夕日を浴びながらおれをまっすぐ見ていた。うん、と素直に頷けば嬉しそうに破顔する。その表情にぎゅうっと胸が締め付けられて、鼓動が速くなる。

「……よかった。オレも楽しかったよ。一松と来れて、本当によかった」

カラ松はそう言いながら歩み寄り、おれの手を取って歩きはじめた。反射的に緊張で身体が強張るが、見上げた横顔が穏やかで、彼の瞳に映った夕日が綺麗で呆けてしまう。カラ松はしばらく歩いたあと、手に持っていたタオルが汚れるのも構わずに砂浜に敷いて座るように促した。座って靴を置くと、タオルの面積が狭いので座ってきたカラ松は密着する形になる。狭くてごめんな、と笑いながらもカラ松は繋いでいた手を離そうとしない。否応がなく心臓が高鳴り、おれは軽くうつむいた。頬がじわりと熱を孕んでいく。

「海がこんなに綺麗ならピクニックシートでも持ってくればよかったな」
「……そうだね」
「今の時期じゃ海には入れないし、夏にまた来たいな。あ、でも夏はシーズンだし人が多いか。やっぱり一松は苦手か?」
「ん…。でも今日も人多かったし、割と平気かも」
「そうか!なぁ、夏にまた来ようぜ。今度は水族館じゃなくて海に!」
「おれ、泳げないよ?」
「そうなのか……だがノープロブレムだ!オレがコーチするぜ」

人で溢れ返るビーチなんて陽キャ共の巣窟だろう。想像しただけで死にそうなのに、不思議とカラ松が一緒だと思えば不思議と平気に思えた。すっかりおれに泳ぎを教授する気満々のカラ松に笑みが零れる。

「やる気満々なところ悪いけど、おれ行くなんて一言も言ってないよ」
「えっ……い、行くだろ?」
「どうしようかなぁ」
「……一松」

おれが笑っていると、カラ松が握っていた手に込める力を強める。名前を呼ばれて顔を上げると、距離の近さにどぎまぎとして視線を逸らしてしまった。

「こっち、見てくれ一松」
「き、急になに…」
「急にじゃない。なぁ、こっち見ろよ」
「む、無理。近すぎるし、それに、き……緊張して……」

カラ松の表情を確認することもできないまま、おれはどんどん俯いてしまう。頭上から小さな溜息が聞こえ、呆れられたかもしれないと不安に陥る。それでも近すぎる距離や真剣な声色に晒されるのはもっと恥ずかしくて、顔を上げられない。ぐるぐると考えていれば不意に手を離され、それを疑問に思う間もなくおれは身体を引き寄せられていた。カラ松のたくましい腕が肩に、背中に回ってくる。密着した胸が温かくなっていき、次第にカラ松の速い鼓動が伝わってきた。それから抱き締められている、と認識するのに数秒かかった。肩口に当たる熱い吐息はカラ松のものだ。ぎゅっと力を込められれば、相手の額が肩に押し付けられる感覚がある。一松、と囁く声がダイレクトに鼓膜から脳へ響いてきておれは混乱した。

「は……離してっ…!」
「離さない。離さないよ、一松」

腕を伸ばして胸を押し返し、抵抗しようとしてもびくともしない。加えて離さないと断言した声が真剣な響きを纏っていて、本当に解放する気がないのだと分かった。諦めたおれが身体の力を抜けば、カラ松も腕の力をすこし緩めたようだった。

「一松」
「…………なに?」

カラ松が見下ろしてくるのを感じ、おれも恥ずかしいのを必死に堪えて顔を上げる。真摯な表情のカラ松はおれの頬を指先でそっと撫でた。優しいその動きに少しだけ気持ちが落ち着く。僅かな沈黙を波の音とカラ松の心音が心地よく満たしていた。カラ松の喉仏がごくりと上下し、薄い唇がゆっくりと開かれる。零れ落ちた言葉はまっすぐで熱くて、心のどこかでおれがずっと期待していたものだった。

「好きだ」

おれがその言葉に感じたのは嬉しさよりも眩しさだった。言い切った後にすこしだけ頬を染めて、緊張した面持ちだけれどその奥には揺らがない自信が見える。おれが受け入れると信じているのだ、と嬉しく思うよりも眩しさを痛いほどに感じる。

「―――……ありがと」

目頭が熱くなって、誤魔化すように笑った。うまく笑えたか分からなかったけれど、カラ松が安堵したように目元を緩めたのを見て安心する。離れていた身体をまた抱き寄せられ、おれはカラ松の胸に頭を押し付ける。伝わってくる鼓動は先ほどよりも明らかに速い。カラ松が耳元でおれの名を呼ぶ。噛み締めるような響きの声に、うんと返事するのが精一杯だった。カラ松の気持ちも言葉も、嬉しくてたまらない。それなのに、素直に受け止めきれない蟠りがおれの中にはあった。

「なぁ……一松、返事を聞かせてくれないか」

期待を孕んだ声色に胸がつきりと痛む。隠している気持ちが伝わってしまわないように、おれはゆっくりと深呼吸を繰り返す。なんとか呼吸を整え、おれはカラ松の胸にそっと両手を添えた。そのまま、カラ松の胸をぐっと押し返す。カラ松は不思議そうに瞬きを繰り返し、おれを見下ろしてくる。眩しいほどにきらきらと輝く瞳を、裏切るのがただただ苦しかった。

「ごめん」

おれが放った言葉で、すべてが一瞬で崩れていくような錯覚を覚えた。期待に満ちていたカラ松の表情が一瞬にして歪み、おれの腰を抱いていた力が緩んでいく。呆然と見開かれた瞳が動揺に揺れたままおれを見下ろしていて、胸がずきりと強く痛む。

「え……?」

薄く開いたカラ松の唇から渇いた声が零れる。喉が引き攣っているのか、声は不自然に引き攣っていた。堪えきれずにおれが視線を逸らし、カラ松の胸を押し返す腕の力を強める。震えそうになる喉を叱咤しながら、おれは同じ言葉を繰り返した。ともすれば揺らぎそうになる自分の気持ちを断ち切るためだったのかもしれない。

「―――ごめん、カラ松。お前の気持ちには応えられない」
「っ、そ、んな…!どうして……だって、一松も」

"オレと同じ気持ちだと思っていた"カラ松はそう続けたかったのだろう。理解できないといった表情で両手を伸ばす。がしりとおれの肩を掴んだ力は強く、指先が少し食い込んで痛んだ。思わずおれが顔を顰めると、カラ松は慌てて手を離した。その優しさにまた胸が痛む。こんなにも優しいカラ松の気持ちをおれは撥ね退けようとしている。

「い、痛かったか?すまなかった、つい……」
「ううん、大丈夫」
「……なぁ、どうしてなんだ一松……オレ、分からないよ」

カラ松は力なく呟き、そのまま項垂れてしまう。おれは彼の髪にそっと触れ、ゆっくりと梳いた。少し太めの艶やかな黒髪。整髪料の香りはいつもとは異なっていて、今日のために新調してくれたのかもしれない。罪悪感で胸が締め付けられ、おれは彼のことを抱き締めてしまいたい衝動に襲われた。しかしそれをぐっと抑え込みんでおれは唇を開き、掠れかけた声で彼の名を呼ぶ。伏せられたカラ松の瞳が焦れるほどゆっくりおれを見上げた。

「マスターに聞いたんだ」
「……伯父さんに…?何を……」
「お前が諦めた夢って、役者なんだろ」
「え、」

予想外の言葉だったのだろう。カラ松はがばっと身を起こすと、おれの顔を凝視した。

「勝手に聞いたりしてごめん。悪いとは思ったんだけど」
「い、いや。別に隠していたわけじゃないから、それは構わない……でも、それがどうして」
「花屋のバイト、最初は少しだけの予定だったんだろ?元々は役者を続けるための小銭稼ぎだったって」
「……あぁ」
「でもおれが来るようになってから、楽しいって話すようになったって聞いた。役者の仕事が上手く行かなくて、花屋の方が楽しくなって……それで、花屋の方に入れ込むようになったって、本当か?」
「―――それ、は……」

おれの言葉にカラ松は動揺しているようだった。きっとおれには伝えるつもりなんて無かったのだろう。申し訳ない気持ちが僅かに顔を覗かせるが、おれは拳を強く握り締めて言葉を続ける。

「それを聞いて、おれは嬉しかった」
「一松、」
「でもっ…!もし、もしお前が……おれに会うために花屋を続けてるなら、おれはお前の気持ちを受け入れられない」
「どうして…オレが、オレ自身が決めたことだ…!オレは……このまま花屋を続けて、一松と……」
「ッ、それは、お前の本心じゃないだろ!!」

ピシャリとおれが叩きつけるように叫ぶと、カラ松は言葉を詰まらせた。あぁ、やっぱり図星だったんだな。ショックを受けたように見開かれたカラ松の瞳が大きく揺れる。呆然と黙り込んでしまったカラ松をじっと見上げ、おれは言葉を続けた。

「それは、お前の本当の気持ちじゃないだろ」
「……いち、ま…」
「嬉しかった。嬉しかったんだよ、おれも。お前がそこまで……おれなんかに夢中になってくれてるって聞いて。でも、だからって……おれのために夢を諦めてほしくない。夢は、そう簡単に捨てていいもんじゃないよ」
「………………」

カラ松はおれの言葉に肩を落として俯いた。黒い髪がぱさりと音を立てるのを眺めながら、おれは重い溜息を吐く。やっぱりおれに説教めいたことなんて向いていない。おれだって漫画家という不安定な仕事を選んでいるのだから、他人のことを言える立場にはない。

「ごめん、その……叱りたいわけじゃなくて。カラ松が頑張ってる甲斐あって、花屋は持ち直してきてるって店長さんからも聞いた。バイトしたいって学生も何人かいるんだろ?この前も新人の子が入ってきて、お前が教えるの上手いから仕事もすぐ飲み込んでるって」
「……あぁ」
「伯父さんは、学生の頃からやってた演劇を諦められるはずがないって言ってたよ。お前が演劇してる時は、心底楽しそうだったって。伯父さん、文化祭とか観に来てくれてたんだよね。……なぁカラ松。本当は、諦められないんじゃないの?」

おれの言葉に、カラ松は悔しそうに歯噛みした。ぎゅっと握り締めたその拳が、力を込めすぎて真っ白になっていることに気付く。その手をそっと包んでやりたくなるが、おれは伸ばしかけた手をなんとか引っ込めた。

「お前に好いてもらえ、嬉しくないって言ったら嘘になる。でも、おれのために夢を諦めてほしくないんだよ。お前はおれよりも若いんだから、諦めるにはまだ早いはずだ。……こんなおれでも、夢だった漫画家になれたんだから」

諭すようにおれが言うとカラ松は小さく頷いた。ゆっくりと顔を上げたカラ松の目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。カラ松の身体がぐらりと揺らいで、おれの肩に額が押し当てられた。おれは上げた手をどうするべきかしばらく逡巡したが、結局その手をカラ松の背中に回した。両手をめいっぱい伸ばし、カラ松の背中を何度も何度も宥めるように撫でる。カラ松の背中は少し震えていて、泣いているのかもしれないと思った。


continue...




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