花咲く貴方へ口づけを<後>

※花屋カラ松×漫画家一松


パンポンパンピロン、パンポンパンピロン。軽快な電子音が鳴り響き、おれはテーブルの上に放置していたスマホを手に取った。仕事部屋に篭もりきっていたいたせいでここ3日ほど手にしていなかった気がする。通話ボタンを押して耳にスマホを押し当てた瞬間、慌てふためいた担当編集の声が飛び込んでくる。

「一松先生!……あっ、やっと出た!原稿どうなってます!?」
「あー…トッティ?」
「そうですよ!今日だけで何回電話かけたと思ってんですか」
「ごめんごめん、全然気付かなかった。原稿なら、さっき仕上がったけど」
「え?」

ぼりぼりと首の辺りを指で掻きながらおれが答えると、電話越しのトド松は呆気に取られた声を上げた。きっと大きな瞳をさらに大きく見開いて、固まっているのだろう。おれは手持ち無沙汰に左手で床に散らばっていた新人賞のチラシを拾い上げる。半年以上前に渡されたそのチラシは、授賞式の日を数週間後に控えている。数か月前に審査員として参加したおれは、数作品の批評とコメントもしていた。意識をチラシから電話に戻し、おれは緩慢に口を開いた。

「だから、仕上がってるって」
「ほ、本当ですか?」
「なんで嘘吐く必要あんの?トド松、今から取りに来るんだよな。じゃあついでにコンビニでドクペ買ってきてくんない?」
「それはいいですけど……えっ、今日まだ締め切り2日前ですよ…?」
「なに?仕上がってない方がよかった?」

あまりにも何度も聞き返されるので苛立ち、おれは唇を歪めながら皮肉を舌に乗せて吐き出す。するとトド松は自らの失言にようやく気付いたのか、焦った様子で否定の言葉を紡ぐ。正直そこまで怒っていないが、反応が面白いのでからかいたくなる。

「そっ、そんなわけないじゃないですか!えーと先生、今から行くんで起きててくださいね!」
「はいはい」

慌ただしく電話を切ったトド松に苦笑しながら、おれは通話を終了したスマホのホーム画面を指でタップする。3日前から何回もトド松や編集部から着信が入っていた。まったく気が付かなかったとはいえ、これでは編集部に行くたびに白い目で見られるのも当たり前だ。これから来るであろう担当編集に説教されるのもこれで何度目になるか分からない。改善しなくちゃいけないと思いながら、左手に持っていたチラシに視線を移す。このチラシを受け取った頃は、まだ彼と知り合う前だったはずだ。

「……カラ松……」

切ない感情が胸に去来し、ぎゅっと締め付けられる。別れを決めた時から寂しがらないと決めていたはずなのに、忙しく詰め込んだ仕事が落ち着くたびにふと我に返ってしまう。おれはチラシとスマホをテーブルの上に置き、大きく息を吐き出す。トド松が来れば説教こそされるかもしれないが、気は紛れるだろう。あいつの好きな紅茶でも淹れてやるか。そう思いながら立ち上がり、キッチンへと向かう。脳裏を何度もよぎる、眩しすぎる彼の笑顔を振り払うようにしながら。


×


「……本当に仕上がってる……」
「だから言ったじゃん」

貰い物のダージリンの紅茶を啜りながらトド松は原稿を片手に感嘆していた。おれは呆れながら返事をし、残りの原稿をトド松の方へ押しやる。

「先生、ここ2ヶ月ぐらいちゃんと締め切り守るようになりましたよね。何かありました?」
「……別に」
「絶対嘘!なんかあったでしょ!?」
「何もないってば」
「だって、長期連載が終わったばかりなのに読み切りまた描きたいって言うし、しかも増刊号でページ増やしてもいいとか……今までなら付録とか全サにも乗り気じゃなかったのに、新規カットたくさん描いてくれるし……」
「なに?嫌だった?じゃあ仕事減らしてもらってもいいよ。他に有能で締め切り順守する作家さんはいるだろうし」
「だーっ!そうは言ってないじゃないですか!……まぁ締め切りは守ってくれる方がいいですけど」

疑り深いトド松をからかったところでおれは自分の分のダージリンを啜る。芳醇な香りが鼻孔を擽り、深い紅茶の味が口腔内を満たしていく。少しだけ入れた砂糖のお陰で僅かな苦みが緩和され、優しい風味になっていた。原稿の疲れが癒されていくのを感じながら僅かに目を伏せる。トド松が手にした原稿の中では引っ込み思案なヒロインが殻を打ち破り、大好きな先輩へ告白していた。きらきらと眩しい青春の1ページは、つくづく自分が描いたものとは思えないほどに色鮮やかに輝いている。

「編集部としても担当としても、有り難いですよ。もちろん」
「じゃあいいじゃん」
「……でも先生、前に比べて全然外出もしなくなったし」
「そう?コンビニとかスーパーとか行くよ」
「それは生活圏内で最低限の買い出しでしょ?その……そうじゃなくて、」

言いにくそうにトド松は口籠る。おれが視線を上げると、紅茶のカップをテーブルに置いたトド松が真っ直ぐにおれを見つめていた。黒目がちな瞳にじっと見つめられ僅かに居心地が悪い。妙に勘が良いトド松はおれの中に起きている変化を感じ取っているようだった。

「心配なんですよ。大丈夫ですか?先生」

真剣な声色でそう問われ、知らず知らずの内におれは唾を飲み込んでいた。ごくりという嚥下音が静かな部屋に響き、トド松は瞳を眇めた。見透かすような視線の強さに、ともすれば負けそうになる。おれが何のこと?と首を傾げると、トド松は大きな溜息を吐いた。

「とぼけないでください。何かあって、それを忘れるために仕事詰め込んでますよね。前にも同じようなことあったの、ボク覚えてるんですよ」
「そうだっけ?よく覚えてんねぇ。おれなんか今の今まで忘れてたよ」
「嘘ばっかり…。絶対覚えてるくせに」

視線を逸らそうとしたおれの手をトド松の細い指が掴む。再び強い視線に晒されると、もう駄目だった。降参だとばかりに両手を挙げ、おれは両肩を落として苦笑する。

「……トッティはさ、本当お節介だよね」
「嫌ですか?」
「……ううん」

嫌じゃないよ。そう呟いておれはトド松の手を握り返した。促されるままにおれはぽつぽつと話しはじめる。前に言っていた好きな人に告白されたこと。おれがそれを断ったこと。原稿が忙しくなったことを理由に喫茶店にも花屋にも行かなくなったこと。LINEも催促されていたが既読もつけないまま数ヶ月が経過していること。トド松は静かに相槌だけを打ちながらその話のどれもを聞いてくれた。途中でおれが言葉に詰まったり黙り込むたびに、ゆっくりでいいよと目を細める。その優しさが渇いていた心に痛いほど滲みて、涙が溢れるのを抑えきれなくなってしまう。ぽろぽろと涙を零すおれにハンカチを差し出し、話を聞き終えたトド松は軽く息を吐き出した。涙を拭くおれを苦笑しながら見つめ、そっかと小さく呟く。

「ご、ごめん、おれ……」
「別にいいですよ。涙、我慢する方がしんどいでしょ?」
「…………うん」
「でも、そっかぁ……そんなことになってたんだ」

複雑そうな表情に眉根を寄せていたトド松は、握っていたおれの手を離して天井を仰ぐ。それからついとおれに視線を戻した。

「一松先生は……カラ松くんに夢を諦めてほしくないんだ」
「あいつが、吹っ切れてるならいいんだ。でも、あいつは多分―――いや、絶対に諦められてないんだ。未練を残してる、そういう目をしてた…から」
「一松先生の観察眼はずば抜けてますもんね。……先生がそう言うなら、きっとそうなんでしょう」
「トド松は……どう思う?」
「ボクは……うーん、そうだなぁ……」

おれの問いに軽く首を傾げ、トド松は顎に手を添える。しばらく考えあぐねていたが、不意に曖昧な笑みを浮かべた。言っていいのか少し迷っている様子で、ゆっくりと唇を開く。

「先生の選択は間違ってないとは思います。カラ松くんが夢に未練があるなら、その背中を押すのは少しでも早い方がいいでしょうし。……でも、」
「……なに?いいよ、遠慮しないで言って」
「―――少し性急だったんじゃないかな、ってちょっと思いました」

言いにくそうに告げられた言葉は予期していたものではなく、おれは軽く目を瞬かせる。トド松は逡巡しながらも、おれを傷つけない言葉を選びながら話しはじめた。

「その……選択は間違ってなかったと、思います。ただ、それまで続いていた交流を全て断ち切って、遮断する必要はあったのかなって」
「そ、れは……」
「心が揺らぐからそうしたんですよね。それは分かります。でも、その……カラ松くんの気持ちが置き去りなままなんじゃないですか?」
「―――え…?」
「先生、彼の告白に返事は?」
「え、あ……うん。応えられない、ごめんって言ったけど」
「でも先生、その後に気持ちが嬉しいって言ったんですよね。……カラ松くん、混乱したんじゃないですか?交流を断ち切るぐらいなら、変に期待を持たせるべきじゃなかったと思うんです。もしくは、先生も同じ気持ちだってことを伝えて……夢を叶えた後に再会をしようって約束をするか。中途半端な別れ方をしたんじゃないかなって」

後頭部をガツンと殴られたような気分だった。思い返せばあの日、しばらく泣いていたカラ松を宥めた後、気まずさから会話をしないまま別れてしまった。おれが先に降車した電車の中で、一人残されたカラ松の寂しそうな瞳がフラッシュバックする。あの時、もう少しでも優しい言葉をかけてあげるべきだったんじゃないのか。カラ松があのままずっとおれに想いを寄せてくれるとは限らない。おれがやったことに腹を立てているかもしれないし、もしかしたら既に好きな人が出来て気持ちが離れているかもしれない。急に血の気が引いていき、おれは自分がカラ松にしたことの残酷さを初めて認識した。おれが俯いたまま黙り込んだのを見かねて、トド松は俺の肩にそっと触れる。促されるままに顔を上げると、ひどい顔をしていると指摘されて引き攣った笑みしか浮かべられなかった。

「トド松……お、おれ……」
「そんなに思い詰めないで。彼、そんな簡単に心変わりするような子ですか?」

諭すように尋ねられ、おれは我に返る。自分の不条理さを棚に上げて、勝手にカラ松を疑っていた。脳裏に浮かぶのは屈託なく微笑みかけてくれる、彼の優しい笑顔ばかりだ。きっとあいつは、そう簡単に気持ちが変わるような奴じゃない。誰よりもそう理解していたはずなのに。彼を裏切るような真似をした己を恥じ、おれはゆっくりと首を左右に振る。

「……すごく、真摯で一途な奴、だよ」
「じゃあ大丈夫。一松先生も、彼の夢を後押ししたいんでしょ?今は彼を信じて、無理のない範囲で仕事しましょう。ね?」

あとハンカチ、ちゃんと洗って返してくださいね。トド松はそう笑いながらおれの頬を引っ張る。その明るい態度に、随分と救われたような気がした。


×


「え!?おれも参加すんの!?」
「先月の打ち合わせの時に言ったじゃないですか。出席してもらうかもしれないですって」
「で、でもおれ嫌だって言っ…」
「編集長直々の依頼ですよ?一松先生、ここで断るのは良くないと思いますけど」
「うっ……で、でも」
「それに長々と歓談あるわけじゃないですし、ボクも当日は一緒ですよ。ちゃんとフォローしますから」
「……分かったよ……」
「じゃあOKって返事しておきますね。次の休み、先生のスーツ選びに行きましょう」

ツー、ツー。元気よく切られたスマホの画面を見つめ、おれは重い溜息を吐き出す。乱暴にスマホをポケットに突っ込んだおれを見つめて、目の前に座る男は首を傾げる。ズゴゴゴと下品な音を立てながらストローで炭酸飲料を啜り、へらりと笑みを浮かべた。

「どしたの?いちまっちゃん」
「……おそ松兄さん」
「電話の相手はトッティ?仕事でなんかあった?」
「俺が前に批評とかコメントした新人賞の授賞式に、出てほしいって編集長が言ってるらしくて」
「へー、編集長直々に?すごいじゃん」
「おれ、今までパーティとか全部断ってたのに……うぅ、なんでこんな……」

頭を抱えたおれを呆れたように見つめながら、おそ松は炭酸の入ったグラスを揺らす。ドリンクバーまで行くのが面倒だと言いたげな表情でグラスを置き、メニュー表を再び広げる。さっきデザートを食べたばかりなのにまだ何か注文するつもりか。小食なおれが信じられない気持ちでメニュー表を凝視していると、おそ松は不意に噴き出した。

「なに」
「いや、お前すっげー顔してるからさぁ。ウケるわ」
「はぁ??」
「ま、いーんじゃない?たまには社交場にも出た方がいいよ、一松は」
「……嫌だよ、絶対に向いてない」
「なんで決めつけんの?編集長直々に呼ばれるなんてチャンス、逃したら看板作家への道は遠退くだけじゃない?」

おそ松は容赦のない言葉を笑顔で投げかけてくる。図星でおれが言い返せずにいると、おそ松は通りかかったウエイトレスを呼び止める。おそ松はミニパフェを注文し、去り際にウエイトレスのスカートをガン見していたのでおれは頭を引っぱたく。しかし、おそ松は1ミリも悪びれていない様子でへらへらと笑う。

「いい機会だよ。家に篭もってるよりも、たまには外の空気を吸わなきゃ。社会勉強の一環だと思え」
「……でも……」
「仕事頑張るって決めたんだろ?カラ松が頑張ってるんだからおれも、って」

おそ松の口から紡がれた名前におれはぴたりと動きを止める。手持ち無沙汰に捲っていたメニュー表を閉じ、飲みかけの珈琲に視線を落とした。真っ黒な液体に映り込む自分は、ひどく浮かない顔をしている。

「そんな顔ばっかしてんなよ。運も幸福も逃げてくぞ」

おそ松はウエイトレスからミニパフェを受け取り、大きく口を上げてフルーツを口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼を繰り返し、おれの顔を覗き込む。

「んで、授賞式はいつなの?」
「……ちょうど2週間後」
「ふーん。まぁスーツとかはトッティに任せるとして……俺が社交テクニックを叩き込んでやろうか」
「え?」
「俺は書店員だぞ。接客のプロだぜ?」

ニヤリと不敵な笑みを浮かべたおそ松をこれほど頼もしく思ったことが今までにあっただろうか。いや、ない。おれは思わずテーブルに身を乗り出し、おそ松の手をがしりと掴んだ。近くを通りがかったウエイターが不審そうに見てくるが、今だけはそれも気にならなかった。

「ほ、ほんと?本当にレクチャーしてくれるの、おそ松兄さん」
「かわいい従弟のためだからな」

嬉しさのあまり消え入りそうな声でありがとうと囁くと、おそ松はおれの手を強く握り返す。視線を上げると、先ほどとは異なる種類の笑みを浮かべている。不敵さよりも意地の悪さが際立つ表情を目にして、おれは反射的に身を引いた。

「なぁ、いちまっちゃん」
「な……なに…?」

嫌な予感がする。こんな顔をする時のおそ松はろくなことを考えていない。おそ松の悪巧みに巻き込まれたことは数え切れず、その度に手酷い目に遭った記憶がおれの頭に蘇ってきた。掴まれた手を振りほどくが、おそ松がおれの両肩をがしりと掴む方が早かった。

「飲みに行こう」
「はぁ!?」
「いやー最近全然飲みに行けてなくてさぁ。今日休みだし今から行こうぜ!」
「まだ16時半だけど!?」
「だからなんだよ?行くなら早い方がいいだろー?」
「い、嫌……っ、おい、手!手ぇ離せよ!」
「ほーら行くぞー」
「もう酔ってんじゃねぇのお前!!」

細い身体のどこにそんな力があったのかというほど強い力でおれを引き摺り、おそ松は会計を済ませてファミレスを出た。会計をしてくれたのは有難いが、居酒屋ではおれが支払わされるのが目に見えている。なんとか逃げ出そうとしてもがっちりと手首を掴まれていて、到底逃げ出せそうになかった。おれは重い溜息を吐きながら、夕陽が傾きかけている寒空を見上げる。酒が入ればおそ松はレクチャーのことなど綺麗さっぱり忘れるだろう―――絶対に当たってしまう予想を虚しくも脳裏に描きながら。


×


「だからぁ、いちまっちゃんは受け身すぎんだよぉ」
「はぁ…」
「いっつもさ、自分から行かないじゃん?だからさー、自分から……ヒック」
「おそ松兄さん、飲みすぎだよ」
「あー?んなことねぇって……一松ぅ、そこの皿取ってぇ」

案の定、べろべろに酔っ払ったおそ松を解放しながら一松は重い溜息を吐いた。一人ではどうしようもなくトド松に助けを頼んだが、まだ編集部にいるらしくあと30分はかかると言われてしまった。心配して水を持ってきてくれた女性店員に礼を言うが、申し訳なさと気恥ずかしさから合わせられない。それを目敏く指摘してきたおそ松にお前のせいだろという怒りが込み上げてくる。理性を総動員して必死に耐えるが、そろそろ限界だ。握った拳を振り上げた瞬間、店の引き戸がガラガラと開いて数人の男性客がやって来た。反射的に手を下ろし、おれは再び溜息を吐く。がくりと項垂れていると、おそ松の手が軟体動物のようにぐにゃりと伸びてきた。

「うおっ!?」
「いちまっちゃーん、まーたそんな顔してるぅ」
「うっせ……誰のせいだと思ってんだよ!」
「んー、誰の…?いちまっちゃんのせいじゃなぁい?そんな陰気な顔してんのがダメなんだよぉ」
「……殴っていい?」
「んはは、暴力はんたぁーい」

引き剥がしても絡み付いてくる腕を必死に振り払い、おれはおそ松から距離を取る。ポケットのスマホが震え、トド松からのLINEにあと10分で到着するという旨が記載されていて少しだけ安堵する。おそらくタクシーを使って来てくれているのだろう。タクシー代はおれが出してやらなきゃなとぼんやり考えていると、いつの間にか背後に回っていたおそ松が腰に抱き着いてきた。

「っ、やめろ!離れろってば」
「そんなこと言わないでよぉ、俺といちまちゅの仲でしょーお?」
「ただの従兄弟だろうが!」
「つれないこと言わないでさぁー」
「ちょっ……、うわあ!」

加減を知らない酔っ払いはおれの腰にしがみついたまま押し倒してきた。座敷に押し倒され、店の奥から店員さんが飛び出してくる。大丈夫ですかと声を掛けられ、おれは引き攣った笑みを零す。情けなさで視線を畳に落としていたおれは、店員の後ろから一人の男性客が近寄ってきていることに気が付かなかった。おそ松が店員さんに引き起こされている間におれも身体を起こし、ずれてしまった座布団を元の位置に直す。最後の一枚を直そうとした時、おれより先に誰かの手がその座布団を掴んだ。あかぎれが痛々しい、節くれだった大きな手だった。導かれるように視線を上げたおれは、そこに立っていた彼の顔を見て呼吸を忘れてしまう。凛々しい眉毛に煌めく強い光を宿した瞳。心配そうにおれを見下ろして、カラ松は曖昧な笑みを浮かべた。

「一松さん」
「―――…う、そ……カラ松…?」

本物?本当にカラ松?なんで?どうしてここに?ぐるぐると疑問が頭を渦巻いていると、背後からあーっという声が上がっておれはびくりと肩を揺らした。店員に促されて水を飲んでいたおそ松が身を乗り出し、カラ松を指差していた。

「カラ松くん!?君がぁ!?」
「っこ、こら、おそ松兄さん指差すなってば!声でかいし、うるさいよっ…!」

慌てて指を掴んで下ろさせるが、目を瞬かせるカラ松を見つめるおそ松は愉しげに唇を歪めた。ぞっとするほどの嫌な予感に襲われた瞬間、聞き慣れた声が店の入り口から響いた。

「一松先生?」
「と……トド松!」

会社帰りでいかにも疲れた様子のトド松が今のおれには救世主に見えた。大丈夫ですかと歩み寄ってきたトド松の手を掴み、おそ松の手を無理矢理握らせる。カラ松を見てにやついていたおそ松はトド松に視線を移した瞬間、嬉しそうに破顔した。悲鳴を上げるトド松を座敷に引っ張り上げると、何度も頬ずりを繰り返す。

「ぎゃああああああ」
「とどまちゅー!めっちゃ久しぶりじゃん!元気してたぁ?相変わらず可愛いねぇ」
「せ、セクハラ!セクハラですよ!ちょっとおそ松さん、ボクは貴方を家に帰すためだけに来―――どこ触ってんだァ!」
「むぎゃ」

トド松のアッパーが綺麗に決まり、おそ松は奇声とともに気絶した。どういうわけかトド松をいたく気に入っているおそ松は、毎回のようにちょっかいを出してはこうして撃退されている。おそ松に触られた腰を撫でながらトド松はじろりとおれを睨む。しかし隣に立つカラ松に気が付くと、おれの様子を見て何かを察したらしい。表情を一変させ、おれとカラ松を交互に見てきた。

「えっと、大丈夫ですか?一松先生」
「あ、あぁ。おれは大丈夫。ごめんねトド松、また呼んじゃって。あの、タクシー代は後日ちゃんと出すから…」
「はい。……その、こっちはカラ松さんですか?」

トド松はおれに尋ねたが、当のおれは言葉に詰まって上手く返事が出来ない。カラ松は少し困惑していた様子だったが、トド松に軽く頭を下げて人好きのする柔和な笑みを浮かべてみせた。

「トド松さん?初めまして、カラ松です」
「あ、ご丁寧にどうも…。えと、一松先生から話を聞いてて」
「一松さんから?」

カラ松は大きく目を見開き、何度かぱちぱちと瞬きを繰り返す。おれに視線を戻すと、複雑そうな表情のまま笑った。どこか寂しさの滲む表情を目にして、おれの胸はつきりと痛む。

「……そうなんですね。あの、タクシーまで運ぶなら手伝いましょうか」
「え?あぁ大丈夫だよ。ボク、見かけによらず結構力はあるから。お気遣いありがとう」

心配そうなカラ松に手を振ると、トド松は気絶したおそ松の腕を掴んで肩に担ぐ。軽々と担いで店から出て、待たせていたタクシーの後部座席におそ松を押し込んだ。カラ松は呆然とそれを見ていたが、タクシーが去ると手にしていた座布団を座敷に並べ直す。おれが伝票を掴んで立ち上がると、カラ松は手をそっと掴んできた。ゆっくりと顔を上げると、優しい笑顔に迎えられておれは言葉に詰まってしまう。

「あの、家まで送らせてください」
「で……でも、おれ」
「心配なんです。……ダメですか?」

懇願するような響きを伴った囁きが耳朶に吹き込まれ、おれは断ることなど出来なかった。おれが必死に首を横に振ると、カラ松は安堵したように微笑む。おれが会計を済ましている間に同伴していた友人らしき男たちに何かを説明し、カラ松は店の外に出たおれに向かって走り寄ってくる。

「すみません、お待たせして」
「いや、全然いいんだけど……いいの?飲みに来たんじゃ…」
「いいんです。特に大事な飲み会ってわけでもないので。―――それに、今は一松さんと話をしたくって」

優しく微笑まれてどきりと胸が大きく高鳴る。子犬のように人懐っこい笑みを向けられてたまらない気持ちになった。おれが黙り込んでいるのをどう思ったのか、カラ松は困ったように笑いながら手を差し出してくる。

「迷惑じゃなければ」

おれの視線を受けても穏やかに微笑んだままのカラ松。おれは震える手を伸ばし、カラ松の手をそっと握り返した。かさついた、少し荒れている皮膚の感触。久しぶりに触れるはずなのに、じわりと流れ込んでくる体温がひどく懐かしかった。

「一松さんの手、冷たいですね」

カラ松はそう言いながらおれの手を引き、ゆっくりと歩き出す。道を時折おれに確かめながら、ぽつりぽつりと話しはじめる。花屋の店長さんに悩んでいることを見抜かれ、役者を諦めきれていないことをおれと同じように指摘されたこと。自分の気持ちを自覚することが出来て、花屋のバイトを一旦止めて役者の勉強をするためにスクールへ通い始めたこと。その中で小さな劇団に所属して仲間内で演劇をやっていること。今日は仲間内で飲みに来ていたこと。

「正直、あの日はめちゃくちゃ落ち込みました。……もっとも振られたショックの方が大きすぎて、一松さんに指摘されたことが事実だって気付いたのは店長に同じことを言われてからなんですけどね。それまでは一松さんに会えないことがただつらくて、LINEも返事が来ないのにずっと待ってたり……すごく女々しかったんですよ。あの時の俺」

つらい記憶のはずなのに、カラ松はこともなげに笑ってみせる。演劇の勉強をするようになって演技が上手くなったのか、そう思いかけたが話しているカラ松の瞳が楽しげなことに気付いておれは考えを改めた。カラ松はつらさを乗り越えたんだ。今が楽しいから、つらかったことを話しながらも笑っていられる。きっと、今が充実している証拠なのだ。それに比べて、おれはどうだ。逃げるように仕事を詰め込んでみたものの、新人賞の授賞式に出るのが嫌だと駄々を捏ねていた。カラ松は眩しいほどにこの短期間で成長しているのに。隣に立つことも急に烏滸がましく感じられて、おれは歩みを止めてしまう。

「一松さん?……どうしました?もしかして、気持ち悪いとか」
「違う、そうじゃない…。ごめん、ごめんね……カラ松……」
「……なんで、一松さんが謝るんですか」
「だって、おれ」
「あぁ…一松さん、道の真ん中で立ち止まっちゃ危ないですよ」

チリンチリンとベルを鳴らして隣をすり抜けていった自転車を横目に、カラ松はおれの手を引き寄せた。肩が軽くぶつかり、思わず視線を上げるとにっこりと微笑まれる。歩けますか?と尋ねられて頷き返すと、カラ松は歩くペースを落としながらもおれの手を引いて歩みを進める。おれが鼻を啜っていても言及することはなく、沈黙がただ心地よかった。しばらく歩くと小さな公園に到着し、入口にある自販機の前でカラ松は立ち止まる。

「一松さんはコーヒーでしたよね」

半ば独り言のようにそう呟き、カラ松はおれの好きな銘柄のボタンを押した。ガコンという音とともに落ちてきたコーヒー缶をおれの胸に押し付け、カラ松は柔和な笑みを浮かべる。

「え……い、いいよ、おれ金出すから」
「気にしないでください。俺が勝手に買っただけなんで」
「でも」
「ほら、あっちのベンチに座りましょう」

カラ松は食い下がろうとするおれを言い含め、自分の分のほうじ茶を持っておれの手を引いた。丸太のベンチに落ちていた落ち葉を手で軽く払うと、おれに座るよう促す。断るのもおかしい気がして大人しく座ると、カラ松は横に座ってほうじ茶のキャップを捻った。香ばしい香りが漂ってきて、おれも缶コーヒーのプルタブを捻る。コーヒー特有の深い香りが鼻孔を擽り、自然とそれを吸い込んで溜息が零れた。そういえばあれから喫茶店にも行っていない。マスターは元気だろうか。そう考えながらコーヒーを一口飲むと、カラ松も同じことを考えていたらしい。

「マスターは元気にしてますよ。一松さんが来なくて寂しいって言ってました」
「……そう、なんだ」
「寂しいのは俺も一緒だって言ってやりたかったけど」

悪戯っぽく付け足された言葉になんと返すべきなのか困ってしまう。おれが目を伏せると、カラ松も苦笑する。カラ松はほうじ茶のキャップを閉め、再びコーヒーに口をつけたおれの顔を覗き込んだ。おれはじわじわと頬が熱くなっていく感覚を覚え、心臓が高鳴るのを必死に抑えながら視線を上げる。真っ直ぐに見つめてくる瞳と視線が絡み合い、逸らせなくなってしまう。

「会いたかった。ずっと……会いたかったです」
「カラ松」
「……きっと、ケジメなんだろうって分かってました。でも、どうしようもなく会いたくて、それはこの数ヶ月ずっと変わらなかった」

真摯に告げられる言葉の一つ一つが違うことなくおれに向けられている。それを自覚して、どうしようもなく嬉しかった。おれの瞳が揺れていることに気付いたのだろう、カラ松は手を伸ばしかけて―――その手を引っ込めた。

「一松さんは……この数ヶ月、どうでしたか?」

僅かな迷いを瞳に浮かべたまま、カラ松は首を傾げてみせる。おれはコーヒーで両手を温めたまま黙り込んでいたが、ゆっくりと唇を開いた。目を合わせれば離せなくなってしまう気がして、視線は遠くにある遊具へ向ける。暗闇でゆらゆらと揺れるブランコは、まるで今のおれの気持ちを暗示しているようだ。

「おれ、は……ずっと、仕事が忙しくて、あんまり外に出てなかった」
「そうですか」
「有り難いことに仕事は貰えてたから、普段やらないこととかもやってみて……結果どうだったかはまだ分かってないんだけど、でも挑戦できたことは楽しかったっていうか。仕事以外はあんまり……トド松が…担当編集なんだけど、あいつがたまに買い物に連れ出してくれたり、ロケハンに付き合ってくれたりぐらいで」
「あの、おそ松って人は一松さんのご友人ですか?」
「え?……あぁ、あいつは従兄で……たまにああして飲みに付き合わされたりするんだよね。迷惑な人だけど、話を聞いてくれたり助かってる…かな」
「へぇ」
「―――カラ松?」

相槌を打つ声のトーンが暗くなったことに首を捻り、おれは視線を上げる。見上げた先のカラ松が複雑そうな表情を浮かべていて僅かに戸惑ってしまう。カラ松はおれの視線に気がついてすぐに取り繕うとしたが、貼り付けた笑みはぎこちない。

「あの、どうかした?何か言いたそうだけど」

おれが尋ねるとカラ松はゆるく首を振って誤魔化そうとした。しかしすぐにそれが難しいと思い直したのか、眉根にぐっと皺を寄せておれの手を掴んだ。熱い手の平にぎゅっと包み込まれ、おれは心臓の高鳴りを抑えきれない。じっと動かずにいると、カラ松は身を寄せて掴んだ手に額を寄せる。まるで懇願するようなポーズに戸惑っていると、カラ松は俯いたままくぐもった声をぽつりと零す。

「それ、だけなんだな」
「え?」
「一松とあの人はただの従兄弟なんだよな」
「う、うん、そうだよ。友人っていうのもちょっと違うけど、腐れ縁みたいな感じで…」
「……そうか」

おれの言葉に軽く息を吐き、カラ松は目だけでおれを見上げる。揺らぐ瞳を見て、おれはカラ松の不安の正体に行き当たる。思い違いだったら恥ずかしいが、確信に近い感情が胸の中に湧き上がる。震えそうになる唇を開き、おれはカラ松へ問う。

「嫉妬、してるの。カラ松」
「……そうだ。情けないか?こんな俺は」

いつの間にか敬語が抜け落ちた口調で笑うカラ松は自嘲気味に唇をゆがめた。おれが静かに首を横に振ると、曖昧な笑みとともに目を伏せる。握ったままの手を強く握り直し、カラ松はなおも言葉を紡ぐ。

「いいや、情けないよ。こうやって一松に固執して、ケジメもつけられずに燻ぶっている」
「そんなこと……」
「一松は優しいな。俺のことを傷つけないようにしてくれているんだろう」

どきりと心臓が大きく跳ねた。カラ松の指摘が図星だったからではない。トド松に言われた言葉を思い出したからだ。"交流を断ち切るぐらいなら、変に期待を持たせるべきじゃなかった" "中途半端な別れ方をしたんじゃないか"―――まさにその通りだ。おれが甘い気持ちで突き放したせいでカラ松は余計に苦しんでいる。カラ松につらい思いをさせるだけで、おれ自身は何も痛みを背負っていないじゃないか。申し訳なさが込み上げ、おれはぐっと顔を上げる。

「か、カラ松ッ…!」
「……一松?」
「カラ松は、悪くないよ。おれが……おれがあんな別れ方をしたから、おれは優しくなんかない」
「一松、そんなことは」
「おれも、断ち切るべきだったんだ……それなのに、おれも結局諦められないままで……」
「いち……一松、なぁこっちを見てくれ」

カラ松の両手がおれの手から離され、頬に添えられた。冷たい頬にカラ松の体温が移り、次第に暖かくなっていく。おれが涙の滲む目で見つめると、カラ松は逡巡しながらも薄い唇を開く。

「おれたち……随分と遠回りをしているらしい。なぁ、一松も聞かせてくれ。諦められないものって、なんだ?」
「から、……カラ松のこと、諦められな…っ……おれ、今もずっと、好きで…」
「……一松」

カラ松の骨ばった指先がおれの頬を何度も撫でる。目の淵から涙が溢れ、零れ落ちた瞬間に強く身体を引き寄せられた。飲み終わったコーヒー缶が地面に転がって乾いた音を立てる。逞しい腕がおれの腰に回り、これ以上ないというほど身体が密着した。苦しいほどの力が嬉しくて、おれは零れる嗚咽を堪えることもできない。

「やっと聞けた」
「ごめ……ごめんね、カラ松、おれ」
「いいんだ、大丈夫……一松の気持ちはちゃんと分かっていたよ」
「え…?」
「最初の頃はどうしてだって憤慨してたけど、スクールに通いはじめて気持ちが変わった。役者の勉強はすごく楽しくて、忘れていた気持ちを思い出せたんだ。……一松のお陰だよ。一松が背中を押してくれたから、気付くことができたんだ」

カラ松の腕から少しだけ力が抜けて、密着していた身体が離れていく。おれの目をじっと見つめたままカラ松は破顔する。やわらかく微笑んで、安心させるようにおれの目尻からそっと涙を拭う。

「だからそんなに自分を責めないでくれ。苦しかったのは事実だけど、それは一松もだろ?一松は、俺の方が苦しんだんだろうって思ってるのかもしれないけど……どっちがとか、そんなことじゃないさ。なぁ、そうだろ?一松」
「カラ松……うん、ありがとう」

宥めるように髪を梳かれ、おれはゆっくりと頷く。再び抱き寄せられて、カラ松の肩に顔を埋める。少しごわついたコートの生地に鼻が擦れて痛んでも、離れようという気持ちにはなれない。抱き締めてくる腕の強さを感じながら、おれはただカラ松に身を預ける。遠くの空に見える満月が美しい正円を描いていて、その光に照らし出されているのが少しだけ気恥ずかしかった。


×


「それで上手くいったんだ」
「う、うん」
「良かったですね先生。でもあの時のカラ松くん、妙に雰囲気があってちょっと怖かったんですけど……そういうことだったんですね」
「え?」
「おそ松さんが一松さんのこと押し倒してたじゃないですか。多分あれのせい」
「そ、そうなんだ…。おれ、全然気が付かなかった」
「えー?あんなのただのスキンシップじゃーん」
「おそ松さんは黙っててください。このセクハラ魔」
「し、辛辣……」

大仰に項垂れるおそ松を冷たく一瞥し、トド松はショートケーキにフォークを突き立てた。柔らかいスポンジを器用に切り、口に運んでゆっくりと咀嚼する。柔らかそうな頬に朱が差し、嬉しそうにとろける表情に思わずつられそうになった。おれは紅茶にレモンを絞り、まだ熱い液体を慎重に啜る。レモンの酸味と紅茶の豊潤な味が口腔内に広がる。落ち着いた店内の中で顔を突き合わせ、おれたち3人は近況報告に花を咲かせていた。

「トド松はどうなの?漫画編集部に好きな子いるって言ってたよね」
「あ、あー…サチコちゃんね……」
「歯切れわりーじゃん。なに?トッティ振られたの?」
「ふ、振られてはないですよっ…!その、ただ……文藝部に彼氏がいるらしいって噂が…」
「え!?」
「もうボク、めちゃくちゃショックで……それで最近あんまり話せてないです」
「そ、そうなんだ」
「でも噂は噂だろ?直球で聞いてみたらいいんじゃね?」
「それで本当に彼氏いたら、ボク立ち直れなくなりますって……」

がっくりと肩を落としたトド松の背中をおれはそっと撫でる。おれよりもファッションや流行に精通しているだけに、好きな相手に合わせてリサーチをしっかりするほど真面目なのを知っている。それだけに空振りだった時のショックは大きいらしい。悪い奴でもないんだから報われてほしい。そう思いながら目を伏せると、不意に前に座っていたおそ松が不敵な笑みを浮かべる。

「おそ松兄さん、なに?」
「俺さぁ、実はカノジョ出来たんだよね」
「え……「嘘ッ!?」

おれよりも早く反応したのはトド松だった。ものすごい勢いで顔を上げると、テーブル越しにおそ松の腕をがしりと掴む。鬼気迫る表情におれが気圧されていると、おそ松はへらへらと笑いながら手にしていたスマホを振る。

「しかもー…実はこれからデートなんだよね」
「はぁ!?」
「え、え、ほんとに…?おそ松兄さん、それ本当なの?」

凄まじい形相のトド松と半信半疑のおれに元気よく頷き、おそ松は千円札をテーブルに置いて立ち上がる。珍しく羽振りがいいのは機嫌がいいからだろうか。

「大マジ。んじゃなお前ら。何かあったらまた連絡しろよー」

トド松の手を難なく引き剥がし、ひらひらと手を振って去って行くおそ松の背中には余裕が満ち溢れていた。そんな背中を恨めしげに睨みながらトド松は呪詛に似た言葉を低い声で紡ぎはじめる。

「嘘だ嘘だ嘘だあんなちゃらんぽらんな男に彼女が出来るなんて絶対嘘だじゃあなんでボクには彼女が出来ない?こんなの絶対おかしい…絶対…」
「と、トド松しっかりしろ!お前にもきっといい彼女が……トド松ーっ!!」

トド松は白目を剥いて頭をぐらぐら揺らしはじめた。おれは慌ててトド松の両肩を掴んで必死に呼びかけるが、トド松の意識は既に遠くへ離れてしまっている。真昼のファミレスにおれの悲痛な声だけが響き渡った。


×


12月に入り、寒さはすっかり身を凍てつかせるようになった。おれはコートのポケットに手を突っ込み、背中を丸めながら帰路を急ぐ。首に巻いたマフラーのお陰で寒さが和らいでいることだけが幸いだった。出掛けに持たせてくれたカラ松の笑顔を思い出し、気持ちが暖かくなった気がする。角を曲がり、おれはようやく見えてきたマンションを見上げた。自室の窓からは柔らかく光が漏れていて、彼がおれの帰りを待ってくれていることが分かる。嬉しくなって自然と早足になり、おれはロビーに駆け込むと押し慣れた室番号をインターホンに打ち込む。呼び出しボタンを押せば、優しい声が迎えてくれた。

「おかえり、一松」
「た、ただいま」
「晩ご飯、もう出来てるぞ」

こちらからカラ松の顔は見えないが、声からして笑顔を浮かべているのだろうと分かる。おれは頷き、開いた自動ドアからホールに入ってエレベーターのボタンを押す。他の住民が来ることもなく、一人でエレベーターに乗り込むと逸る気持ちでボタンを押す。ウィーンという僅かな機械音とともにエレベーターが上昇していく。数秒間のことなのに焦れったくなって、おれは所在なく手の中のスマホを揺らす。ドアが開いた瞬間に飛び出し、廊下を小走りで抜けて自室の前でぴたりと立ち止まる。ドアノブに手をかけて扉をゆっくりと引き開く。

「おかえり!」

待ち構えていたらしいカラ松がにっこりと微笑む。まさか玄関にいるとは思わなかった俺は虚を突かれたが、すぐにつられて笑みを浮かべる。

「ただいま。……さっきも言ったじゃん」
「あはは、確かにそうだな。でも、きちんと顔を見て言いたいだろ」

カラ松の手が伸びてきておれのマフラーを外していく。頬に触れてその冷たさに驚いたのか目を瞠り、おれの肩をそっと引き寄せた。

「こ、こら、くっつくなってば」
「だって一松、こんなに冷えて……寒かっただろ」

慈しむように指先が頬を撫でていくのがくすぐったい。温かさに絆されそうになるが、靴も履いたまま、コートも着たままでは落ち着けない。おれはカラ松の胸を押し返し、手で近付くなとサインを送る。少ししょんぼりしながら引き下がったカラ松を横目に、靴を脱いで揃えてコートを脱ぐ。コートをハンガーにかけ、マフラーも同じ場所に引っ掛けると、鞄を持ってリビングへ向かう。定位置に鞄を置いて手を洗い、ようやく落ち着いた。所在なく廊下に立っていたカラ松に近付くと、その肩を軽く叩いた。

「カラ松」
「……一松……」
「まだしょげてんの?ねぇ、ご飯作ってくれたんでしょ?」

じっと見上げ、半ば抱き着くようにカラ松の腕を引っ張る。せっかく作ってくれたんなら冷めちゃう前に食べたいよ。おれがそう言うとカラ松はたちまち表情を綻ばせる。こういうちょっと単純なところが可愛いんだよなぁと思いながら二人でリビングに向かい、おれはキッチンを覗き込んだ。少し甘い醤油とみりんの香りからするに、何かの煮物を作ってくれたらしい。

「すごくいい匂い」
「鶏と大根の煮物だよ。ぶり大根ってあるだろ?あれの鶏版っていうか」
「へー」
「あとは味噌汁と漬物ぐらいだけど。今日はあんまり時間なくて」
「ううん、じゅうぶん豪華だって。ありがと」

カラ松もスクールや稽古で忙しいのに居候させてもらうからと料理を引き受けてくれている。おれの生活リズムがどうしても不規則なせいで、二人が同じリズムで生活するのは難しい。それでも夕食だけは必ず一緒にする、週に1日は一緒に出掛けると決めて同棲をスタートした。上手くいかないこともたまにあるけれど、それでも思っていたよりスムーズに進んでいる。カラ松が煮物を皿によそっている間、おれは急須で緑茶を淹れた。二人分の湯呑を並べ、それにゆっくりと緑茶を注いでいく。何気ないことなのにどうしようもなく幸せで、自然と頬が緩んでしまう。カラ松から煮物の器と取り皿を受け取り、ちょうど炊き上がった白米を椀によそう。綺麗に炊き上がった米粒は艶々と輝いていて、甘い香りが胃を刺激した。ぐうっと鳴った腹を抑えながら配膳し、おれは座布団の上に座る。キッチンから戻ってきたカラ松から味噌汁と漬物を受け取り、静かに両手を合わせた。

「「いただきます」」

カラ松と目を合わせて同時にそう口にし、思わず笑みが零れた。味噌汁の優しい味で口腔が満たされ、白米の甘さに癒され、煮物の食欲をそそる味付けに箸の進みが早くなる。食事中に黙ってしまう癖があるのはカラ松も同じで、結局今日もほとんど会話を交わすことなく完食してしまう。米粒を残すことなく拾い上げ、両手を合わせておれは苦笑する。

「話したいことあったのに、飯になると駄目だな。すごく美味かったよ、カラ松」
「俺もそうだよ、一松。お気に召したようで何よりだ。……それで、話したいことって?」

食器を片付け終わり、ソファーに腰掛けるとカラ松も同じように隣に座ってくる。おれが昼間のファミレスでの話をすると、カラ松は僅かに眉根を寄せている。不思議に思ってどうしたのかと尋ねると、カラ松はどうにもおそ松が気に食わないらしい。今日はトド松との打ち合わせだったが、たまたま本を返す予定があるからとおそ松兄さんにも来てもらっていた。不味かっただろうかと首を捻ると、カラ松はばつが悪そうにこめかみを押さえる。

「いや、一松が悪いわけじゃない」
「でも……カラ松はおそ松兄さんが嫌いなんでしょ?」
「嫌いってわけじゃ…直接ちゃんと話したこともないし、でも、やっぱりあんまりいい印象がない、っていうか」

そこまで言ってカラ松は口を紡ぐ。仮にもおれの身内相手に言いすぎたと思ったのだろう。おれは気まずそうなカラ松に苦笑し、俯きかけた彼の額を指先で軽く弾いた。

「痛っ」
「そんな顔すんなって。別に気分を害したりしないよ。あの人が適当なのは事実だし、よく知らないならそりゃいい気持ちにはならないっておれも分かってるからさ」
「一松……」
「でも、本当にお前が気にすることないよ?あの人は性的嗜好もノーマルだし、おれにとって兄みたいなもんだし」

だから大丈夫、そう言ってみせてもカラ松は腑に落ちない様子だ。おれはしばらく考え込んだ後、カラ松の頬をそっと挟み込んだ。至近距離でじっと見上げると、珍しくカラ松がたじろぐ。

「おれの言葉が信じられない?」
「そ……いうわけじゃ、ないです…けど…」

動揺のせいか敬語になったカラ松の瞳が揺らぐ。おれはぐっと顔を寄せ、薄く開いた唇に口づけた。大きく目を見開いているカラ松に構うことなく何度も触れると、カラ松の腕がおれの腰に回される。最初は控えめだった腕の力が次第に強くなり、気付いた頃にはすっかり主導権を奪われておれはソファーの背に押し付けられていた。息が上がったまま、ぼんやりと見上げた先のカラ松は頬を赤く染めていた。まるで獣のように目をぎらつかせている様子におれは笑いながら彼の首に手を回す。鼻が擦れ合うほどの距離で見上げ、軽く首を傾げてみせた。

「こんなにキスしてもだめ?」

カラ松の喉仏が分かりやすく上下し、ごくりと唾を嚥下する音が大きく聞こえた。やがて軽く目を伏せたカラ松は、観念したという風におれの肩に額を押し当てて抱き着いてくる。首筋にかかる息が熱くてくすぐったい。

「分かった。……一松を信じるから、もう勘弁してくれ」
「なにそれ」
「一松に煽られると俺も理性を保っていられる自信がない…」
「おれそんな色気ないけど」
「ある!」
「そ、そう…?」

煽るというよりもからかうつもりだったおれは首を捻るが、顔を上げたカラ松の瞳に浮かぶ熱に気がついて苦笑する。この熱を煽ってしまったのが本当におれなら、責任を取らなければいけないだろう。

「なぁカラ松、明日は学校休みだよな」
「あぁ、そうだけど…?」
「演劇の稽古は?」
「えっと、14時からだったはずだが……一松は仕事じゃなかったか?」
「んー…予定変更。明日は午前休にするよ」
「え?」
「明日はクリスマスだろ」
「……それ、って……」
「どういう意味か、おれに言わせるつもり?」

野暮な男は嫌われるよ。揶揄するように耳朶に囁きを落とすと、カラ松の肩がびくりと大きく跳ねた。おれは真っ赤になった彼の手を掴み、にこりと微笑む。

「あと、来週は新人賞の授賞式だからね。祝い花の注文にも行くから付き合って」
「あ、あぁ…!」

気もそぞろな返事に思わず笑みが零れる。完全にスイッチが入ってしまったカラ松に押し倒されながら熱い吐息を吐き出した。寒い冬の夜は、まだまだこれから長い。花咲くように微笑んだカラ松に口づけ、おれはゆっくりと目蓋を閉じた。


end.




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