はじける微熱

※高校時代捏造


「好きだ」

ぽつり、カラ松の口から零れたその言葉におれの頭は一瞬で酔いを忘れてしまった。


×


その日、おれたちは兄弟揃って居酒屋に行っていた。ニートなおれ達はとりとめもない話をして、酒に弱い奴から順番に潰れていく。最初にチョロ松がぐでぐでに潰れてしまい、ご執心中のアイドルの名前を壁に向かって繰り返し始めた。呆れた様子のおそ松兄さんはしかし介抱することなく、可哀想に隣席になってしまったトド松が水を飲ませてやっていた。途中で半分寝はじめたチョロ松にアイドルだと勘違いされて抱き着かれ、思いっきりぶん殴っていたが。次に潰れたのはおれで、トド松に勧められた甘いカクテルが原因だった。なにやらオシャレな横文字の名前のそれはすっきりとした甘さで飲みやすく、おれはナッツをつまみにそれをぐびぐび飲んでしまったらしい。妙に酔いが回るのが早いなと思ったのは覚えているし、いつも以上に饒舌になって隣に座る兄弟にしなだれかかっていたような記憶もうっすらある。

「ん……?」

気付けばおれは、少し肌寒い夜道を温かい背中におぶられて歩いていた。おれを背負っている彼はおれを起こさないように、もしくは胃を刺激しないようにゆっくりと歩いていた。そのテンポは心地よく、感じ慣れたものだ。おれはぼんやりした頭のままぎゅっと抱きつく。彼の肩はぴくりと動きはしたが、止まることなく歩みは進む。それに対して妨害してやりたい気持ちが生まれたおれは、残念に思いながらも周囲を見渡した。今日は珍しく少し遠い居酒屋まで来たため、家まではまだまだ距離がある場所だった。少し先には今にも消えそうな街灯に照らされた公園が見える。

「一松、起きてるな?」

揺れるつむじに悪戯をしようとした瞬間、笑みを含んだ声に咎められた。チッばれたかと思いながらも返事をしないでいると、今度は軽く身体を揺らされた。吐いたらどうする。

「起きてないですー」
「寝てたら返事できないだろ」
「……これ、寝言だから」
「そうなのか?寝言にしてはずいぶん流暢だなぁ」

カラ松はくっくっと喉を鳴らして笑い、先ほど身体を揺らしたせいで少しずれたおれの身体を背負い直す。おれが起きていることが分かったのだから降ろしてしまえばいいのに。おれの身体は軽くないだろうし、律儀に背負ったままなのが本当にカラ松らしいとぼんやり思う。おれはその優しさに甘え、まだ酔いで火照った頭のまま体重を預けた。夏が終わり、ようやく秋めいてきた今夜は涼しい。だけどカラ松に触れている腹や腕は熱を持ったように熱くて、おれはバレないようにそっと息を吐いた。平静を装ってはいるが、カラ松に介抱される時は酔っていても胸が高鳴ってしまう。その理由は実に単純で、おれがカラ松にずっと懸想しているからだ。


×


初めにそれを自覚したのがいつだったのか、もうはっきりと覚えていない。ただ中学に入った頃にはもう自然と目はカラ松を追いかけていたし、3人いる兄の中でもカラ松に甘えることが多かった。反抗期を迎える前のおれはそれはもう穏やかだったので、学校帰りにはカラ松と一緒に空き地や路地裏に猫を見に行っていた。その頃はカラ松も今のように演技がかった物言いをすることはなかったが、今と比べると少しやんちゃだった。当時のカラ松はおそ松とよくつるんでいて、2人で一緒に悪戯をすることが多かった。しかしやんちゃな性格の裏では弟に対して優しく、十四松やトド松の世話をよく焼いていた。おれが猫の話や最近読んだ本の話をする時も、ただ穏やかに聴いていてくれた。何かを尋ねればすぐに教えてくれるカラ松は、そんな時には決まって顔をくしゃくしゃにして笑う。おれはその表情が好きで好きでたまらなかった。

それから数年後、高校に入ってからカラ松は演劇部に入った。その少し前、普段は本など読まないカラ松がおれの読んでいたシェイクスピアを読んでいたのを覚えている。おれは特に声をかけなかったが、きっとあれがきっかけだったのだろう。演劇部に入ってから、カラ松の性格は変わった。当然ながら入部してすぐは裏方だったし、役があっても村人などのモブばかりだった。それなのに、カラ松は何故か主役のセリフを全て暗記していた。最初こそその記憶力をみんなで褒めたが、次第に兄弟たちはカラ松を相手にするのをやめた。普段の生活の中でも芝居がかった物言いを始め、女子生徒をキザったらしく口説こうとしたからだ。おれはというと、カラ松の変化をすぐに受け入れられずにただ困惑していた。

当時のおれは読書研究会とは名ばかりの、ただ図書室で本を読むだけのクラブに所属していた。そこからは演劇部の部室がよく見え、時折カーテンの隙間からカラ松の姿を覗いては想いを募らせていた。読書研究会は幽霊部員も多いクラブで非常にゆるく、いつ来ようがいつ帰ろうが各々の自由だった。なのでおれは決まって演劇部の練習が終わる少し前に靴箱へと降り、偶然を装ってカラ松と帰宅した。放課後に会話する時は少し疲れてるせいか、カラ松の演技がかった口調は少し和らいだ。その時ばかりは昔の兄と話せるようで少し嬉しかったのを覚えている。

そしておれの反抗期は忘れもしない、高2の文化祭の日から始まった。

その文化祭では部活ごとに展示や出し物をすることになっていた。読書研究会は実習棟の3階という明らかに人の来ない教室を割り当てられ、読書感想文を展示していた。といってもおれは兄弟に読まれることを危惧して誰にも言っていなかった。何か出し物あるんでしょ?と訊かれても知らないと答えていれば、兄弟はすぐに興味を失ってくれたので有り難かった。その時おれが読んでいたのは恋愛小説で、好きな人に想いを告げられないヒロインの心情がクリーンヒットした。壁に貼り出されるわけでもないので素直に感想文を書き、おれは当日その教室に行くことなくカラ松の出る演劇を観るために体育館へ向かった。

演劇部の演目はロミオとジュリエットで、主役は3年生の先輩だった。カラ松はその記憶力を評価されていたが、文化祭での主役は3年生になるという慣習のため抜擢されることはなかったらしい。オーディションの日、選ばれなかったカラ松は先輩たちの演技を称えながらも少し悔しそうな瞳をしていた。残念だったねとおれが言った時には、もう笑顔を浮かべて誤魔化してはいたけれど。おれは座席の確保のために早めに行ったものの、体育館は既に生徒でいっぱいだった。劇が始まり、中盤辺りで一人の青年が姿を現した。カラ松だった。ただの村人のはずだが、所作が滑らかで自然と視線を奪われる。セリフはありきたりなものばかりなのに、よく声が通るのでとても聞き取りやすかった。カラ松は緊張など微塵も感じさせない明朗な口調で演技を続け、自分の役割を全うして姿を消した。去り際には笑顔を忘れることなく。劇は30分きっかりで終わり、次のバンド演奏のため10分ほど時間が空いた。おれは体育館の裏手に回り、カラ松が出てきたところで声をかけた。

「カラ松」
「え?……あぁ、一松か!おれの演技、見てくれたか?どうだった?」

カラ松はおれの姿を見て一瞬驚いたようだったが、すぐに笑いながら駆け寄ってきた。片付けを終えて疲れているだろうに、そんなことはまったく感じさせない。おれがよかったよと素直に言えば、カラ松は嬉しそうに破顔する。花の咲くような笑顔に、おれも自然と頬が緩む。

「疲れてるでしょ?なんか飲み物買ってあげるよ」
「え、いいのか」
「うん」
「じゃあ折角だし、甘えるとするか」

出店が出ている中庭に移動すると、たこ焼きや焼きそばのソースの香りが胃を刺激してくる。演劇部の上演時間がちょうど12時からだったため、まだ昼食にありつけていないおれたちは揃って腹の音を鳴らす。顔を見合せて苦笑し、メシにするかとカラ松が言った。

「あ、でも一松。次バンド演奏だけど観なくていいのか」
「え?あー……うん、別にいいよ」
「そうか。―――もしかして一松、演劇観るためだけに来てくれた?」

おれの曖昧な返事にニヤリと笑ったカラ松は、少し昔の面影を感じさせた。図星を突かれたおれは咄嗟に誤魔化すこともできず、言葉に詰まってしまう。買ったばかりのサイダーが冷たくて、手の感覚が少しおかしくなっている。

「ッ、べ、別にそういう……わけじゃ」

俯いたおれをカラ松がどんな顔で見ていたのかは分からなかった。だけど急に髪をぐしゃりと撫でられ、焼きそば買ってくるから待っていてくれと言い残して去ってしまった。残されたおれは呆然としたまま、込み上げてきた恥ずかしさにその場にしゃがみ込むほかなかった。

「お待たせ」
「……ん、ありがと」

持ち直したおれは近くのベンチに座って待っていた。戻ってきたカラ松から焼きそばのパックを受け取って、焼きそば代の300円と一緒にサイダー缶も渡す。ありがとなと微笑んだ表情に、先ほどの問いを思い出してぱっと視線を逸らしてしまう。だがカラ松は気にした様子もなく焼きそばの輪ゴムを外してパックを開けると、ソースの匂いを嗅いで割り箸をパキリと割った。

「この焼きそば、けっこう本格的みたいだぞ。具も大きくて食べ応えがありそうだ」
「そうだね」

カラ松に促され、おれも同じようにパックを開ける。割り箸を割ると斜めになってしまい、それを見て少し情けない気持ちになる。いただきます!と両手を合わせて食べ始めるカラ松に倣い、おれも手を合わせていただきますと呟く。カラ松の言った通り、焼きそばは祭りで食べるものより数倍美味かった。肉は残念ながら少なめだったが、キャベツやニンジン、玉ねぎは大きめにカットされているのにしっかり炒められている。しんなりした野菜は甘味が出ているようで、腹が減っていたおれたちはあっという間にぺろりと平らげてしまった。

「すごく美味かったな!」
「うん。あ、これ家庭部のやつみたいだよ。割り箸の袋に書いてある」
「あ、本当だ。全然気付かなかった」

食べ終わり、サイダーのプルタブを捻る。プシュッという軽快な音とともに甘い香りが漂い、おれはソースの塩辛さで渇いた喉を満たしたくてすぐに口をつけた。開けたての強い炭酸が喉を刺激し、口の中が清涼な甘さで満たされる。一気に飲むのは難しく、2回ほど喉を鳴らしておれは口を離した。ふと気付けばカラ松がこちらを凝視していて、おれは反射的に固まってしまう。おれの視線に気付いて我に返ったのか、カラ松は慌てて視線を逸らして自分のサイダーを一気に呷る。カラ松は噎せそうになるのを堪えながら飲み干すと、おれと自分のパックと割り箸を一緒に脇にあるゴミ箱に捨て、サイダーを片手に立ち上がった。

「っ、……なぁ一松、これから予定あるか?」
「いや?別にないけど」
「それなら一緒に校内展示を回らないか」
「えっ」

突然の提案は願ってもいないことだった。動揺しつつも頷くと、カラ松はおれの手をぎゅっと掴んで立ち上がらせる。突然のことにおれの体温は一気に上がっていく。そんなおれを知る由もなく、カラ松は尻ポケットから折り畳んだパンフレットを取り出した。黙ったまま校内マップを確認していたカラ松の視線が、ある教室で止まった。ここ、と言われて覗き込むとそこには『読書研究会展示』の文字。おれの身体はぴしりと固まった。

「オレも一松の展示見てみたいなぁ。何もないって言ってたけど、ちゃんとあるじゃないか」
「な、無いよ…?」
「え?だってマップに書いてあるぞ?ほら、説明も書いてあるし」
「……え、選ばれた人のしか展示されてないから、お、おれのはないってこと…」
「あれ、そうなのか?読研の友人が展示は全員あると言っていたが」
「………………」

カラ松の冷静な指摘におれは一気に血の気が引く思いだった。たとえ兄弟にバレたとしても、距離のある実習棟の3階まで行く奴はいないだろうと高を括っていた。だがカラ松は自分の演劇をおれが観たから、自分もおれの展示を見たいということなのだろう。しかもまったく疲れていない今の様子なら多少の距離も気にしなさそうだった。黙り込んだおれを気にかけることなく、カラ松はおれの手を掴んだまま歩き出す。手を振り払うことも忘れてどうにか止めようと言い訳を考えるが、結局何も考えつかないまま実習棟の前に到着してしまう。

「一松?どうした、体調でも悪いのか?」

俯いて飲み終わったサイダー缶をゴミ箱に捨てていると、カラ松に顔を覗き込まれた。心配そうな表情に、おれは軽く唇を噛む。感想文を見られたくないから嫌だと、冗談めかして言えばいいのだ。きっとカラ松は嫌がるおれに無理強いすることはない。だけどおれはカラ松の舞台を観たのだから、感想文を見られても文句は言えないだろうと思う部分もあった。

「……ううん、なんでもないよ。行こ」

顔を上げたおれがそう笑うと、カラ松はまだ気遣わしげな表情のままだったが頷いて歩き出した。そのままでは階段を上がりにくいからか、手は離してくれたので少しだけ気持ちは落ち着く。リノリウムの床を歩くたび、上靴のゴムと擦れてキュッキュッと音が鳴った。上の階に近付くにつれ、緊張していた気持ちは逆に和らいでいた。もう見られてもいいかと逆に自暴自棄になっていたのだ。感想文の内容はあくまで小説の内容にしか言及していない。何も実の兄に恋をしているのでヒロインに共感しましたなどと書いているわけではないのだから。

「あれ、全然人がいないな」
「……ま、そうだろうね。バンド観に行ってる人が多いだろうし、昼時だから」

1階や2階には書道部や華道部の展示を観に来たらしい生徒が何人かいたが、3階に着くと人の気配がまったくしない。念のため途中の教室も覗いてみるが、誰も来そうにない英会話同好会の展示がほったらかしにされていて人の姿はない。やがて一番奥の教室に着き、おれ達は開け放されたままの扉から中に入る。黒板に大きな方眼紙で展示の内容が簡素に書かれているのみで、あとは壁際に並べられた机にホチキスで留められた作文用紙と本が一緒に並べてあるだけだ。

「期待するほどじゃないでしょ?文化部の展示なんてこんなもんだよ。演劇部がちゃんとしてるだけで」
「そうか?オレも本を読むようになったからな、読むのは楽しみにしてたんだ」
「え、いや、ほんと期待しないでほしいんだけど……」
「一松のは―――あぁ、これか?」

カラ松は周囲を見渡すと、目敏くおれの作文用紙を見つけてしまう。節くれだった指先が用紙を持ち上げるのを見て、おれはそっと目を逸らした。開き直ってはみたものの、目の前で読まれるのはかなり心臓に悪い。その内容に彼に対する恋心が含まれていることが、バレることはないと分かっていても。近くにあった椅子を引き寄せ、完全に読む体勢になろうとしているカラ松を横目に、おれも近くにあった適当な用紙を手に取る。3年生の先輩の感想文だったが、タイトルからして宗教系の本だと察してげんなりする。気付けばカラ松は既に読み始めていて、仕方なくおれも近くの椅子に座って先輩の感想文を読み出す。内容が全然頭に入ってこなくて目が滑る中、遠くからギターの音が聴こえてきた。体育館でのバンド演奏が始まったのだと気付き、読みかけの用紙を机に戻して立ち上がる。体育館側の窓を開ければ、涼しい秋風とともに軽快なJ-POPが流れ込んできた。よくCMで起用されているロックバンドの曲で、確か少し前にクラスでも流行っていた。流行に頓着しないおれでさえよく聴いた曲で、ちゃんとCDを借りて聴くことはなくとも好きな曲ではあった。ボーカルは女子生徒らしく、凛とした声が途切れ途切れに聴こえてくる。そういえば中学からやっているバンドらしいと小耳に挟んだような気もした。

「……一松、」

不意に背後から囁くように名を呼ばれ、おれは思わず悲鳴を上げた。曲に意識を奪われてぼーっとしていたおれの頭からは、カラ松のことも感想文のことも完全に抜け落ちていた。慌てて振り返ると、やけに近い距離にカラ松が立っている。左手には用紙を持ったままで、頬が微かに赤い気がした。距離の近さにおれは一歩後ずさるが、背後は開け放った窓だ。腰を壁にぶつけて言葉に詰まってしまう。

「っな、なに」
「……これ、読んだよ」

手に持った用紙を揺らしてカラ松はそう呟く。声に抑揚がなくてやたら平坦なのに、おれを射抜く瞳がなんだか妙に熱っぽくて背筋がぞわっと震える。どこか様子のおかしいカラ松に、もしかしておれの気持ちがバレてしまったのかと身体が硬くなった。

「―――そ、それで?恋愛小説の感想文なんて、面白かった?」

震えそうになる声で精一杯おどけた風に言ってみせる。無理矢理笑みを貼りつけてみるが、カラ松は表情を変えないまま首を横に振る。

「違うよ。からかいたいんじゃない」
「じゃ……じゃあ何?あ、お前もこの小説読んでみたいってこと?」
「いや、」
「感想文の対象本は全部図書室にあるよ。今度おれが教えてや「ッ、そうじゃなくて!」

必死に話題を逸らそうとするおれの手をがしりと掴み、カラ松はぐいっと身を乗り出した。おれは後ろに下がることができず、ただでさえ近い距離が更に縮まる。カラ松の熱い息がかかり、ぶわっと体温が上昇するのを感じた。カラ松は余裕のない表情で、おれの心臓はさらに鼓動を速めていく。異常な状況に、もう身動きが取れなかった。

「一松、お前……好きな人がいるのか?」

手を握るカラ松の力が強くなる。骨が軋みそうなそれに表情を歪めてしまうが、カラ松はそれを気にかけてくれなかった。いつもの優しいカラ松なら、絶対におれが痛がることなんてしないのに。答えられずに黙りこんでいると、催促するようにもう一度名前を呼ばれる。焦れた様子の瞳に、おれは震える唇を小さく開く。

「いる、よ」
「―――あぁ、やっぱりそうなんだな」

おれの返事を聞き、カラ松はようやく手の力を緩めた。しばらく俯いていたカラ松に不安になり、思わず声をかけると我に返ったようだった。おれから距離を取りつつ、カラ松はごめんなと苦笑した。その笑顔の意味が分からず、おれはひどく困惑する。

「な……なに?急に、どうしたの」
「いや、その……感想文を読んでいてな、誰かに恋をしているんじゃないかと思っただけだ。ちょっと気になって」
「……そう」

おれの気持ちがバレたわけじゃないのかと軽く息を吐き、おれはずるずるとその場に座り込む。大丈夫かと問いかけてきたカラ松はいつも通りに見えて、少しだけ安心した。

「びっくりさせんなよ。急になんだって思ったじゃん」
「あぁ、すまない。その、なんだか嬉しくてなぁ」
「…は?嬉しい?なんで?」
「あー……いや、なんていうか」

カラ松の言う意味が分からずにおれは首を捻る。確かに恋バナなんてするタイプじゃないし、今まで好きな子ができた時もほとんど他人に打ち明けることなんてなかった。まさか、コミュ障の弟に好きな女子ができて安心したとか言い出すんじゃないだろうな。というか実際は女子じゃなく男のお前なんだよ、当然知らないだろうけど。

「……すまない。うまく、言えないな」

カラ松はおれの隣に腰を下ろして苦笑した。意味が分からずに返答しそびれていると、窓から流れてくる曲がロック調からバラード調に変わった。聴き覚えのある静かなイントロは、確か昨年ヒットした超感動大作恋愛映画の主題歌だ。それに気付いたおれは静かに目を閉じる。とりあえずカラ松に気付かれていないようでよかった。もしバレたらきっと拒絶されるに違いない。夢や妄想の中でのカラ松はおれを受け入れ、都合のいいほど甘やかして愛してくれたけど、そんな理想通りにいかないのは高校生のおれでも分かる。あぁ、でもさっきの近さは妄想に匹敵するぐらいだった。願わくばあのままオレも好きだ!なんて告白されて、抱き締められて、キスをされてみたかった。甘い妄想に頭が満たされ、隣にいるカラ松の存在も忘れてしまう。涼しい秋の風が髪を撫でていく感覚だけをうっすらと感じていた。

「―――……一松」

甘い声がおれの耳元で囁く。どこか熱を帯びた低い声は妄想の中でいつもおれを甘やかし、愛してくれた。柔らかなものを唇に感じ、熱い体温を分かち合うように何度も何度も触れ合う。そう、今、まさに触れているような―――

「っ、!?」

ばちりと目を見開き、自分が置かれている状況にようやく気がついた。もうそうでも夢でもない、現実のカラ松に口づけられていた。なんで、どうして!?理解ができずに暴れたいのに、おれの身体は想い人を突き飛ばすことはできなかった。おれが完全に硬直している間に、気付けばカラ松はおれの方へ身を乗り出していた。床に手をついて、カラ松はおれを壁に押し付けるようにキスを繰り返す。息継ぎの方法もろくに分からないおれはすぐに息が上がってしまうが、カラ松はその呼気さえ呑み込まんばかりに唇を寄せてくる。やがてようやく解放されるが、強い力で腰を引かれたと思えばぎゅっと抱き締められていた。あまりのことに混乱したおれは、腕をだらりと下ろしたまま呆然としてしまう。沈黙が教室を満たし、カラ松が何かを言おうと薄く唇を開いた瞬間だった。

キーンコーンカーンコーン…

文化祭の日には切られるはずの昼休み終了のチャイムが黒板上のスピーカーから響き渡り、おれはその音でびくりと身体を跳ねさせた。その拍子に身体が動くようになり、おれは思い切って腕に力を込める。カラ松の胸をぐいっと押し返せば、音に気を取られていたらしいカラ松はバランスを崩して倒れる。

「ッ…!」

よろけそうになる膝を叱咤しておれは立ち上がると、足に力を込めて床を蹴った。

「一松!!待っ……」

背後からカラ松が叫ぶ声が聴こえてきたが、もう何を言っているのか頭に入ってこない。おれは階段を一気に駆け下り、実習棟を出てから後ろを振り返る。カラ松が追ってきていないのを確認すると、そのまま教室まで走って逃げた。全力疾走したせいで息は乱れ、混乱したままの頭では正常な思考は困難だった。

「はっ……は、…ッ」

階段を延々と昇り、自分の席に辿り着くと、机に手をついて前屈みになり荒い呼吸を繰り返す。しばらくそうしていれば息は落ち着き、それに伴い頭もすーっと冷えていった。汗の垂れる額に手を当て、おれは脱力する。キス。カラ松にキスをされた。

「なん、で…?」

どうして、何が理由で?カラ松は何を思っておれなんかにキスしたんだ?おれはカラ松に想いを寄せているが、おれはカラ松に好きだと言われたことなど今まで一度もなかった。兄弟想いの性格から気取った言い方をすることはあれど、間違いなく兄弟愛のそれだ。恋愛感情なわけがない。それにもし、万が一にでも、億が一にでもおれのことを好きだとすれば。さっきの問答の間に告白されていてもおかしくないのだ。それなのにカラ松はおれに告白することなくキスだけをした。

(どうして?)

「……単に、キスしてみたかっただけ、とか」

声に出してみればその予想は当たっている気がした。恋愛話をした後でムラムラきてしまったのだろう。兄弟で男のおれなら後腐れないと思ったのかもしれない。キスはしてみたいけど相手がいない、だから手近なおれを選んだ。そう思えば何もおかしいことはない。単純な好奇心を満たすための相手だったんだ。それでもいいじゃないか。大好きな兄にキスしてもらえた。夢が叶ったんだから喜べばいい。それなのに、

「う、……っ……」

ぽたりと零れ落ちた滴が机に落ちる。視界が滲み、鼻がじんと痛んだ。堪えきれなくなり、次から次へ涙が溢れてくる。キスされただけじゃ満足できなかった。心の伴わないキスがこんなにショックな自分に幻滅した。結局おれはカラ松を想うだけじゃ飽き足らず、愛されたいと思ってしまっているのだ。ただ穏やかに隣に居れればいいと思っていたのに、おれの中に巣食う恋心は月日を経て醜く増大してしまっていたのだ。

突きつけられた現実はあまりにも残酷で、おれはその時から心を閉ざすことになる。当然家に帰ればカラ松は何かを弁解しようとしたが、それを徹底的に無視した。そして、ことあるごとにおれは彼へ噛みつくようになった。最初の頃こそ両親と兄弟は何事かと心配していたが、遅れてきた反抗期だと解釈したようだった。カラ松はといえばずっと困惑しきりだったが、おれに嫌われていると理解したようだった。それからの数年間、おれはずっとカラ松への恋心を押し殺したまま生きてきた。ただしあの頃と違うのは、もうカラ松に愛されたいとは思わないようになったことだ。何度も本心から嫌いになろうと努力をしたが、結果的に恋心を殺すことはできなかった。だからせめて期待しないように―――言わばこれは、不器用なおれなりの戒めだった。


×


「―――…つ、一松?」

自分を呼ぶ声ではっと意識が覚醒した。少しの間ぼーっとしていたらしいおれを案じるように、カラ松は首だけでこちらを振り返っていた。なに、と返事をすればカラ松は起きてたんだなと苦笑した。

「返事がないから寝てしまったのかと思った」
「……起きてるよ。なに、重いから降りろって?」
「あ、いやそういうわけじゃないんだが。自販機があるから、ちょっと飲み物買ってもいいか?」

喉が渇いてしまってな、と言うカラ松は相変わらずおれを背負ったまま公園の入り口で立ち止まっていた。このままじゃ買えないから一旦降ろしていいか?ということなのだろう。いちいち伺いを立てなくてもいいのに、と思いながらいいよと呟く。カラ松はおれを背負ったまま奥まで歩くと、ベンチの前で腰を下ろした。かがんだカラ松の背中から降りると、ぐらりと身体が揺らいでしまう。カラ松は慌てておれの肩を掴むと、大丈夫か?と声をかけてきた。おれは反射的に振り払ってしまうが、カラ松は僅かに苦笑しただけだった。

「まだ酔いが抜けてないみたいだな。座っていてくれ」
「……うん」

バツが悪くなり、おれは俯いたままなんとか小さく返事をする。カラ松は気にした様子もなく、尻ポケットから財布を取り出して少し先にある自販機へ向かって行った。ベンチに座って遠ざかるその背中を眺め、おれは大きく息を吐き出した。期待しないように心がけているとはいえ、不意打ちのように近寄られたり触れられることには慣れることができない。さっきだっておれを気遣ってくれたのだから、まずはお礼を言うべきだったのだ。反抗期だからと拒絶する行動を増やした学生時とはもう違うのに、おれは普通にカラ松に接することができないまま今に至る。大人げないと自己嫌悪に陥るのはもう毎日のことだった。

「ほんと、おれって馬鹿……」
「一松?」

いつの間に戻ってきたのか、カラ松の声が頭上から降ってきておれは飛び上がって驚いた。大げさすぎるおれの反応に目を丸くしたカラ松は、引き攣ったおれの顔を見ると口元を抑えながらくっくっと笑った。

「すまん、そんなに驚くとは思わなくて……」
「っべ、別に、驚いてないし」
「いや、思いっきり身体が跳ねてたぞ?」

う、と言葉に詰まるおれにカラ松はまた抑えきれない笑みを零す。おれの隣に腰かけると、カラ松が手に2本の缶を持っているのが見えた。そんなに喉が渇いていたのかとぼんやり眺めていると、その1本が眼前にずいっと差し出される。え、と言いながら反射的に受け取ってしまうとカラ松はにこりと微笑む。

「喉渇いてないか?これぐらいなら飲めるかと思ってな」

手元の缶を見下ろせば、見覚えのある水色のパッケージに大きなサイダーの印字。頼んでないのにと呟けば、カラ松はオレの奢りだからと笑った。カラ松はプシュリとプルタブを捻ると、ごくごくとサイダーを飲み始める。おれはどうするか逡巡したが、特に吐き気もないしどちらかといえば喉は渇いている。カラ松につられるように開けたサイダーに口をつければ、少し懐かしい味がした。最近飲むものといえば緑茶かドクぺで、サイダーを飲んだのはもう何年前だろう。そうぼんやりと想いを馳せれば、最後の記憶は高校だったと思い出す。

「……どうした?」

不意に手を止めて動かなくなったおれを不審に思ったカラ松が覗き込んでくる。その距離の近さに、蘇る記憶は忘れもしない高2の文化祭の日。昼過ぎの教室、2人きりの空間でおれたちは―――

「ッ、なんでもない、から…!」
「でも一松、顔が真っ赤だ。やっぱりまだ酔いが抜けてな「平気だっつってんだろ!!」

生々しいほどのフラッシュバックで体温が一気に上がる。気遣わしげな表情を浮かべるカラ松の瞳はいつもと同じはずなのに、おれの目にはあの時と同じに映ってしまう。手を掴もうとするカラ松を振り払って立ち上がると、足元がぐらついた。力を込めて立とうとするが、一瞬の眩暈でそれは叶わなくなる。倒れる!と瞬時に目をきつく瞑るが、予想していた衝撃も痛みも訪れない。代わりに腕や腰のあたりに巻きつく体温を感じ、おれはゆっくりと目を見開く。

「……危ないだろ。無茶しないでくれよ」

低く囁く声は真面目な色を湛えていた。この腕から逃げなくてはと思うのに、顔を上げればカラ松のまっすぐな瞳に捕まってしまう。先ほどとは明らかに違う、その瞳には滲むような熱が浮かんでいた。腰を抱き寄せられ、近かった距離が更に近付いていく。

「……一松、」

低く甘い声で名を囁かれてしまっては、もう限界だった。カラ松が言おうとしている言葉の、その先を聞いてはいけないと脳内で警鐘が鳴り響いているのに。おれはそれを無理矢理遮ることもできない。薄い唇が開かれ、頭のどこかで予想できていた言葉を紡いだ。

「好きだ」

その言葉に、おれの頭は一瞬でクリアになる。急に音が鮮明に聴こえてくるような感覚に陥り、秋虫のリンリンと鳴く声がやけに大きく響いた。カラ松はおれを見つめたまま苦笑すると、ごめんなと呟いた。それから、おれの手をそっと握り締める。おれはカラ松が紡いだ言葉の意味を理解できないまま、呆然と立ち尽くしていた。

「……本当は、ずっと隠しておくつもりだったんだ」

でも、無理だった。カラ松はそう苦笑しておれの指をそっと撫でた。おれはカラ松から視線を逸らすこともできず、中途半端に開いた唇からなんで、と零れるのを抑えられなかった。まだ頭の中は混乱を極めている。その言葉を呟くので精いっぱいだった。

「なんで、か…。あの時―――高校の時に、お前から拒絶されて、避けられるようになってからもう口にしないと決めていたんだ。お前はオレを嫌って行動するようになったし、お前のオレを見る目は……いつでも辛そうだった。だからオレは、」
「……違う」
「え?」
「ちがう、って言ってんの。ばか」
「……違うっていうのは、どういう」

おれが低く呟いた言葉に、カラ松は大きく目を見開いた。おれの手をぎゅっと握り締め、身を乗り出す。おれはごくりと唾を飲み込んで、掠れそうになる声を絞り出す。

「全部……。おれが、お前を拒絶したっていうのも、嫌いになった、っていうのも」
「でも実際に、お前はおれのことを避けるようになっただろ…?」
「そ、れは」

おれが臆病だったから、怖くなって逃げ出しただけだ。

「―――……」

言葉を紡げなくなったおれをじっと見つめていたカラ松は、宥めるようにおれの手の甲を撫でた。優しく腕を引かれ、ベンチに座るように促される。身体に力が入らないままのおれは、引かれるのに抵抗することもできずにすとんと腰を落とした。大丈夫か?と尋ねられ、そっと頭を撫でられればささくれていた心は自然と凪いでいく。長い沈黙の後でおれがようやく頷くと、カラ松は吐息だけで笑みを零した。

「ごめんな、一松。急いで問い詰めることじゃなかった。……でも、お前がオレを嫌いじゃなかったっていうのが本当なら嬉しいよ」

そろりと次兄の表情を見上げれば、柔和な笑みに迎えられた。変わらないリズムでおれの頭を撫でながら、カラ松は穏やかな声色で話を続けていく。

「拒絶された、っていうのも一方的な言い方だよな。一松の意思も確かめず、衝動的にあんなことをしたのはオレだ。あの時嫌われてもおかしくなかったのに……一松は優しいな」
「そ、んな……」
「いいや。……一松は根が優しいから、オレはそんなところにつけ込んだのかもしれない」
「ッ、そんなこと、ない!」

突然大声を上げたおれに驚いたのか、カラ松の手の動きがぴたりと止まった。カラ松は逡巡した後におれの前にしゃがみ込み、視線を合わせてきた。真っすぐな瞳に射抜かれて、鼓動が少しずつ速まっていく。頭から頬に滑らされたカラ松の手の平は、随分と熱を帯びているように感じた。

「―――そういう風に言われると、期待してしまうぞ」
「き、期待って」
「嫌いじゃなかったって言われて、オレがつけ込んだわけでもなかったって言われたら……期待するだろう?同じ気持ちなんじゃないか、って」

目を細めて柔らかく微笑んでいるのに、その瞳の奥にぎらついた光が見えた気がしてごくりと唾を嚥下する。その音が深夜の公園に、やけに大きく響いたようで体温が上昇する。手の平にじっとりと汗が浮いてくる。それでも、今更ここで誤魔化すことが到底できないのは分かりきっていた。小さく息を吸い込み、おれはカラ松の喉の辺りをじっと見つめながら震える唇を開いた。

「おれは、ずっと前から……好きだったよ」
「―――それは、あの時よりも前からってことか?」
「たぶん、中学の頃から」
「……あぁ、そうかぁ」

おれの答えを聞いたカラ松は、噛み締めるようにそう呟いて微笑んだ。頬に触れていたカラ松の親指がおれの頬骨あたりをすりっと撫でる。慈しむような動きに誘われ、おれはゆっくりと顔を上げた。視線が絡み合い、でも今度はもう目を離せなかった。近づいてくるカラ松の顔に目を閉じると、熱い息を首筋に感じる。柔らかな感触が唇に触れ、それは幾度か繰り返された。触れ合った部分からじんわりと熱が伝わってくるようで、秋の肌寒さなどすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

「ごめんな、あんまり上手くないかもしれないけど」
「……なんか今日のお前、謝ってばっかだな」

ぽつりと零された言葉におれが吹き出すと、カラ松は安堵したように微笑んだ。

「そういう一松はようやく笑ったな」
「……仕方ないだろっ、緊張してたんだから」
「そうだな」

カラ松は名残惜しげにおれの頬をもう一撫ですると、おれの隣へと腰掛ける。少し炭酸の抜けているであろうサイダーを呷る。おれは冷たい缶を両手で包んだまま、そういえばと口を開いた。

「あの時、なんで急に……したの?」
「キスか?そうだなぁ、やっぱりあの感想文を読んで―――我慢できなくなったんだ」
「おれの、読書感想文…?」
「そうだ。好きな人に想いを告げられないヒロインの心情が沁みて、共感したと書いてあっただろう?一松本人を直接問い詰めても、恋をしているって認めるじゃないか。それまで恋に無縁だった一松が恋をしていると知って、嬉しかったんだ」

確かにあの時も嬉しいとカラ松は言っていた。なんでお前が喜ぶんだよと突っ込めば、カラ松は困ったように苦笑した。こんなこと言ったらお前は怒るかもしれないが、と前置きをして。

「多分、嬉しいと同時にお前のことが心配だった……んだと思う。おれに懐いてくれるのは嬉しかったけど、一松は優しい奴だからきっと縁があればすぐに彼女ができるだろうって思ってたからなぁ」
「……そんなこと、思ってたの」
「あぁ。お前のことを可愛い弟だと思ってはいたが、心配する気持ちの方が大きかったんだ」
「でも、おれ結局彼女なんてできなかったけど」
「だから、オレはちょっと後悔してたよ。高校時代お前といるのは楽しかったけど、ほとんどオレが傍にいたから……女子が一松に近寄れなかったのかもしれないって」
「……そんなことねーよ」

多分、そんなことは関係ない。演劇部に所属し、精力的に活動していたカラ松は学年中で知らない者はいなかった。だけど名ばかりの読書研究会に所属し、人前に出ることを嫌っていたおれのことなぞ、知らない人間の方が多かっただろう。6つ子で括られて呼ばれる時も、決まって「大人しい奴」か「暗い奴」だった。たまに闇とか猫も入っていた気はするが。

「おれなんて第二ボタン誰にも渡してねぇんだぞ。お前は後輩にあげてたろ」
「ははっ、懐かしいなぁ。あれは話のネタにしたかっただけだって本人が言ってたぞ」
「でも……」

照れ隠しかもしれないだろ、とは言えずにおれは黙り込む。そんなおれを見て気持ちを察したのか、カラ松は軽く息を吐いた。昔の話だよ、という声が優しくておれはゆっくりと頷いた。カラ松の節くれ立った指に髪を梳かれながら、おれはあれと首を傾げる。まだ聞けていない話があるはずだ。

「……ねぇ、キスした理由って『おれに好きな人がいて嬉しかったから』じゃないでしょ?」
「まだ話の途中だったな。すまん」
「その、さっき言ってた『我慢できなくなった』って……」
「あぁ。こんなにもいじらしく、一松に想われているのは誰なんだろうと―――有り体に言えば、嫉妬したんだ。お前に好きな人ができたことが確かに嬉しかったのに……同時に、一松の心を誰かが独占していると思うと我慢できなかった。きっとあの時、オレはようやく自覚したんだと思う」
「自覚って」
「お前のことを好きだってこと、だよ。それで抑えられなかった。……今になって思えば、直情的すぎるし全然クールじゃないな」
「嫉妬、したの。それでお前……キスなんか……」
「情けないだろ。―――幻滅したか?」

自嘲気味に笑うカラ松が寂しげで、おれは静かに首を横に振った。確かにあの時一方的なキスをされて、おれはそれにはカラ松の気持ちが伴っていないと思ったから傷ついた。だけどきっと、カラ松も後悔で深く傷ついたはずだ。

「してないよ。……おれたち、お互いに傷つけ合ってたんだから」
「―――そうだな、」

それでもさっきのキスは、あの頃と同じサイダーの味がした。あの時は苦い気持ちと相反した爽やかさと甘さで涙を流したけれど、今は違う。ゆるやかに微笑むカラ松の肩を掴んで、おれはぐいっと顔を寄せる。おれから行動するとは思っていなかったのだろう、カラ松は目を大きく見開いていた。だけどそこから先へ進むことはできなくて、おれは視線を下に落としてしまう。

「一松」

名を呼ばれて顔を上げると、安心させるように微笑むカラ松がいた。躊躇うおれの腰を抱き寄せ、胸が密着する。姿勢のいいカラ松を見上げる形になり、そのまま自然と唇同士が触れ合った。先ほどと同じように何度か柔らかく触れ合い、少し離れた後にカラ松の唇が薄く開かれた。閉ざされたおれの唇に触れてきた舌先に促され、おれも唇を開く。口腔内に侵入してきたカラ松の舌は熱く、溶かされてしまいそうだった。勝手が分からずに奥で縮こまってしまうおれの舌をあやすように触れたカラ松の舌が、ぬるりと絡んでくる。息が上がってしまいそうになるのを必死に抑えていると、カラ松は唇を離しておれの頬を撫でた。大丈夫か?と心配そうに尋ねられ、気恥ずかしさからその胸に顔を埋めた。

「ごめん、ちょっとがっつきすぎた」
「ちが……おれが上手く呼吸できなくて……」
「大丈夫さ。これから一緒に覚えていけばいいだろ?」
「―――お前、なんかキス上手くない…?」
「え、」

急にカラ松が動きを止めたので、おれはゆっくり顔を上げた。見上げた先のカラ松の顔は真っ赤に染まっている。

「そ、そ、そんなことないぞ!」
「……お前、もしかして今までに彼女とか……」
「誤解だ!今までもこれからもいない!オレには一松だけだ!」
「じ、じゃあなんでそんなに動揺してんの」

疑念が渦巻き、じっとりと見上げてやるとカラ松は項垂れておれの肩に額を押し当てた。猫が甘えるようにぐりぐりと擦り寄られて、思わず頬が緩みそうになる。なんだそれ、クソかわいい。

「その……高校の頃は深い方のやり方を知らなかったから、練習というか」
「練習…??どこの女とだよ…?」
「ちっ、違う!レディとじゃなくて!!」

がばっと顔を上げたカラ松は、額に頬を浮かべておれの顔を泣きそうな表情で見つめた。それがさながら捨てられた子犬みたいで、またしてもきゅんとしてしまいそうになる。必死に抑えながら、なんだよと促してやるとカラ松は恥ずかしそうに目を伏せた。

「イメトレ、とか……雑誌読んだり……AV見たりとか、だ」
「―――え?全部お前の想像?」
「そ、そうだ。だって恥ずかしいだろ?いざ本番で下手だったらって……」

また幻滅したか…?とばかりにおれを見るカラ松の頭にしょげた耳が見えたようで、おれは堪らない気持ちになる。思い切って腕を伸ばし、おれはぎゅっとカラ松を抱き締めた。動揺したカラ松の身体がピシッと硬直したのを感じて、知らず知らずのうちに笑みが零れた。

「それなら別にいいよ。……彼女でもいたのかと思っただろ」
「あ、呆れてないのか…?」
「んー…?別に。だっておれたち全員童貞じゃん。キスが下手でも、そんなの予想通りだよ」

だから別にかっこつけなくていいよ。自分でも思ったより柔らかい声が出た。だってお前がかっこいいことなんて、この10年以上の間で何度だって思い知らされている。かっこよくたってかっこわるたって、カラ松はカラ松。情けなくても変なところがあったって、全てが可愛く見えてしまうほどに―――

「……おれはとっくに重症だよ」
「え?」
「お前のせいで、おれは大病を患ってるって話」
「たいびょ……えっ!?一松、病気なのか!?」
「ばーか。物の喩えだよ」

頭の周りに疑問符を浮かべるカラ松の手を掴み、引っ張り立たせる。

「ほら。さっさと帰るぞ」
「え、もう帰るのか」

名残惜しそうに眉を寄せるカラ松に苦笑し、おれは残ったサイダーを一気に飲み干す。

「当たり前だろ。もうみんなとっくに帰ってんだから」

すっかり炭酸の抜けたサイダーは甘すぎて、まるで今のおれたちみたいだなとぼんやり思った。酔いの冷めた身体には冷たい夜風が寒いはずなのに、触れた指先から伝わる体温のせいで熱いと錯覚する。握った手を引いて、おれは静かに歩き出した。


end.




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