※F6トド松×F6カラ松
「……なんだ、これ」
唸るような低い声で漏らされた言葉に、ボクは顔を上げた。広い部屋の中で向かい側に位置するソファーに腰掛け、雑誌のページを捲っていた次兄の手がぴたりと止まっている。その雑誌の表紙に視線を移したボクは、見覚えのある写真にあっと声を上げた。紅茶のおかわりを注いでいた手を止め、兄さんの座るソファーの肘掛け部分に手をついた。
「どうしたの?カラ松兄さんがその雑誌を読むなんて」
身を乗り出して雑誌を覗き込むと、開かれたページの中ではベッドの上で薄手のシャツを脱いだボクがにっこり微笑みかけていた。ふと兄さんの顔の横顔に視線を移すと、その表情は不自然に引き攣っている。そして震える右手でゆっくりと雑誌の中のボクを指し示した。
「これ、なんだよ」
「先月ホテルで撮影したグラビアだよ。それがどうかした?」
「……お前、今までこんなグラビアなんてしたことなかっただろ」
「こんな?」
ボクがこてりと首を傾げると、兄さんはぐっと言葉に詰まる。どうしたのかと続く言葉を待っていると、兄さんはしばらく言い淀んでから薄い唇を開いた。気のせいだろうか、その頬は仄かに赤らんでいるようだった。
「……肌を露出させる格好、というか」
「そう?最近よくお仕事の依頼があるんだよね。えっと、この前のファーストライブが終わってからかな?それよりも、兄さんがボクの載ってる雑誌を見るなんて珍しいね。何か気になるものでもあったの?」
雑誌の表紙はボクたちと同年代の女性モデルだ。冬の特集号ということで着物をアレンジした斬新で鮮やかな衣装を身に纏っている。表紙のバックカラーは派手なピンクで、普段女性誌など見もしない兄さんが手に持っているだけでひどくアンバランスに映った。
「っ、別に……そんなんじゃねえよ」
「そう?」
「他に読む雑誌がなかったから、その、暇潰しだ」
兄さんにしては覇気のない返答だったけれど、これ以上尋ねると怒られそうだったのでボクはふうんとだけ答えて口を噤んだ。暇潰しだと言い切った割にはボクの写ったページを開いたまま、ぼんやりと眺めている。その視線が写真の中のボクの胸元に注がれているのを見て、好奇心がむくりと顔を覗かせた。
「ねえ、兄さん」
あ?と振り向こうとした兄さんの首筋に指を這わせると、面白いほど肩が大きく跳ねた。不意を突かれたタイミングを見計らって雑誌を指先で押すと、あっけなく床にばさりと落ちた。それを見て兄さんは大きく目を見開く。
「なんだよ、トド松!」
兄さんが動揺している隙にボクは手首を掴む。兄さんの手が咄嗟に落ちた雑誌の方へ伸びたのを阻止するためだった。行儀悪くソファーの肘掛け部分に乗り上げ、そのまま重力に任せて身体を前に倒す。兄さんの身体は、柔らかすぎるソファーに呆気なく背中から倒れ込んだ。兄さんはその撃を耐えるように強く目を瞑っていたが、真上からじっと見つめているボクに気付いて目を開けた。アイスブルーの虹彩は、ゆらゆらと揺らぐ。目に見えて戸惑っているようだった。
「お、い、トド松」
「暇潰しだなんて嘘でしょう?」
ゆるく開かれた兄さんの手の平にゆるりと指を這わす。さっき雑誌を拾おうとして開かれたままになっていた、兄さんの手。野外での仕事が多いせいか、兄さんの肌は日に焼けている。ボクの真っ白な指先がそこに絡まるのは、なんだか目に悪い光景に見えた。ボクの指の感触に、押し倒されて仰け反った兄さんの喉仏がゆっくりと上下する。
「なに……トド松、どうしたんだ」
掠れた声がボクの名前を呼ぶ。視線を上に動かすと、困惑しきった兄さんがボクをじっと見つめていた。怒鳴ることもなく、ボクを押し返したりしようとする気配はない。甘やかされている、という事実が胸の中でじんわりと広がってなんとも言い難い気持ちになった。
「……雑誌のボクを見る兄さん、怖いカオしてたよ。気付いてないの?」
ボクの言葉に虚を突かれたらしく、兄さんは大きく目を見開いた。揺れる瞳が愛しくて、ボクは兄さんの手に指をぎゅっと絡めた。ボクの顔を凝視したまま、兄さんはひどく狼狽しているようだった。
「そんなこと、ねえよ」
「嘘だよ。だってほら、この写真……」
床に落ちたままの雑誌を拾い上げると、先ほど兄さんが開いていたページを開く。写真のボクはシャツを大きくはだけさせて微笑んでいた。真っ白なベッドには真紅の薔薇の花弁が散らばっている。その胸元には、朱い痕がうっすらと浮き上がっていた。
「兄さん、これをずっと見てたよね」
「違う!……見てない」
「ねえ兄さん。ボクの胸にあるこの痕、なんだと思う?」
兄さんの頬に指を這わしながら、ボクは上体をゆっくりと倒す。ぐっと縮まった距離に、兄さんがごくりと唾を嚥下する音がやけに大きく響いた。
「知らねえよ」
「兄さん、ほんとうは分かってるんでしょ?」
「だから、知らねえって」
「……どうしてそんな嘘をつくの?カラ松兄さん、ひどいよ」
頑なに否定する兄さんに大きく息を吐き、ボクは倒していた上体を起こした。傷付いたとばかりに目元を拭う仕草をしてみれば、慌てた様子で兄さんは起き上がる。大きな手に肩を強く引き寄せられ、ボクは硬い胸板に顔を埋めることになった。
「あーもう!なんで泣くんだお前!」
「だって、兄さんが……」
「だってじゃねえ。わざとやってるだろ、トド松」
兄さんの言葉に呆れが含まれていることに気付き、ボクはそっと顔を上げてみる。涙など一滴も浮かんでいないボクの瞳を見て、兄さんは途端に苦虫を噛み潰したような顔になる。ボクがにっこりと微笑んでみせると、兄さんはぱっと手を離してソファーから立ち上がった。背を向けられていて表情は伺えないが、怒っているような雰囲気ではなかった。
「カラ松兄さん」
声をかけても振り向いてくれそうにない。ボクは乱れた着衣を整えると、立ち上がって兄さんの肘の辺りを軽く引っ張ってみる。ぐいぐいと強く引いてみても反応はなくて、俯きがちの首筋にかかった紺色の髪がさらりと揺れるのみだった。
「兄さん、しつこくしてごめんなさい。…怒ってる?」
振り払われてしまわぬよう、ゆっくりと肘から腕へ触れて兄さんを背中から抱き締める。頭ひとつぶん小さい身体がぴくりと動いたのを感じた。兄さんの右肩に顎を乗せてそっと擦り寄り、もう一度ごめんなさいと反芻する。
「……怒るわけねえだろ。お前の悪戯にはもう慣れてる」
低い声で紡がれた言葉に顔を上げると、兄さんがぎこちなく振り返った。至近距離で絡み合った視線の先で、兄さんは諦めたように笑みを浮かべている。ボクが抱き締める力を緩めると、兄さんはこちらに向き直して溜息を吐いた。
「あのな、撮影だって分かっててもビビるんだよ!」
「そうかな?男性アイドルのグラビアなんて今どき珍しくないよ?」
「今までと方向性が違いすぎるだろ!おそ松やチョロ松だってこんなの見たら心配するぞ…」
「そう?おそ松兄さんの方が際どいショット多い気がするけどなぁ」
思い浮かべたのはつい先月、全身ずぶ濡れのグラビアショットを披露していた長男の姿。過激な煽り文を入れられ、それを見たチョロ松兄さんは卒倒しそうになり、カラ松兄さんも頭を抱えていた気がする。
「いや、そうじゃなくてだな……お前がやることに問題があるんだよ」
「うーん…?コンプライアンス的なこと?」
「違……いや、チョロ松ならそう言うだろうが」
みんな心配症だね、と呟くと兄さんはなんとも言えない表情を浮かべた。雑誌を手に取ると、皺だらけになってしまったグラビアページを一瞥してぱたりと閉じた。何かを言おうとしたのか唇が僅かに動いたが、兄さんはそれ以上話そうとしないで雑誌を本棚へと戻した。雑誌の背をぐっと押しこむ指先は逡巡しているようだった。
「…………」
「兄さん?何か言いたいことあるの?」
「いや、別に」
「隠したりしないで…言ってよ」
振り返らない背中にそっと触れて囁けば、数拍の後に兄さんはがしがしと頭を掻いた。目だけでこちらを振り返ると、その視線をボクの胸元へと落とした。グラビア撮影時には大きくはだけていたが、今はきちんと一番上までボタンを留めてベストを着ている。気になる?とボクが尋ねると、兄さんは不本意そうな表情を浮かべつつも小さく頷いた。ボクはその様子に思わず零れる笑みを堪えきれないまま、兄さんの手を掴んで胸元へ誘導する。兄さんの丸い爪先が半透明のカフスボタンにかちりと触れた。
「じゃあほら、兄さんの手で確認して」
「……お前なぁ」
「だって、気になるんでしょう?」
ボクの言葉に兄さんは視線を上げた。僅かに動いた指先が、カフスボタンを外そうと動き――――ぴたりと止まった。
「おい、トド松」
「なあに?」
「……撮影は先月だったんだろ?」
「うん、そうだねぇ」
「実際に痕があったとしても残ってるわけがねえ」
眉を顰めた兄さんに、ボクは曖昧な笑みを返した。兄さんの言う通り、今となっては痕の有無など確認のしようがない。写真で痕があったであろう箇所をシャツ越しに睨め付けながら、兄さんはボクの胸を押し返す。今日はお前にからかわれてばかりだな、と零す声は疲弊を色濃く浮かべていた。
「兄さん、ボクからかってるわけじゃ……」
「遊んでるって言った方がいいか?」
どさりとソファーに腰を下ろし、兄さんは背凭れに大きく倒れ込む。こめかみの辺りを揉み込みながら静かに目を閉じていた。ボクが隣に座ると、うっすらと瞳が開かれる。兄さんは横目だけでボクを見ながら、溜息を吐いた。
「実際にお前の肌に痕がついていたとして、オレにはどうしようもないのにな」
「兄さんはどうにかしたかったの?」
「当たり前だろ。そんな奴がいるなら、ただじゃおかねえ」
「カラ松兄さん……」
至極当然だと言いたげな表情でそう言い放たれて、ボクは胸の内が満たされていくのを感じた。同時に、兄さんに対して申し訳ない気持ちも湧き上がってきたのだけれど。だってこの充足感を感じるためだけに、兄さんを試したようなものだ。緩んでしまう表情を誤魔化しきれずに、ボクは兄さんの右腕に抱き着いた。急になんだよ、と困惑しつつも受け入れてくれる甘さにどうにかなってしまいそうだった。
「あのね……アレはメイクの一環でしてもらっただけだよ」
「メイク、なのか…!?」
「そう。可愛いだけじゃない色気も欲しいわね〜って、メイクさんがつけてくれたんだ」
「……そう、か」
安心した?と訊けばぶっきらぼうな返事が返ってくる。上目遣いでその表情を窺えば、満更でもなさそうで。どんな気持ちで雑誌のページを捲っていたのだろうと考えるだけでどきどきが止まらない。心配して、嫉妬して、あまつさえ怒りに似た感情までボクに向けてくれるなんて思いもしなかった。
「でも、今度からはこういう仕事はやめとくね。兄さんが……ううん、兄さん"たち"が心配しちゃいそうだから」
「……お前がどうしてもやりてえならオレたちも止めないぞ。そこまで止める権利があるわけでもない」
「うーん、でもボクはもっと可愛いお仕事の方が楽しいから」
「……そうか」
ボクの意見を尊重してくれる物言いは兄そのもので、自然と笑みが零れた。手癖のようにボクの髪を何度も繰り返し撫でた兄さんは、しばらくするとソファーから立ち上がった。本棚から取り出したのは半年前にボクが取材を受けた自然派カフェの雑誌だった。
「あ、懐かしいなぁ。その雑誌のオファーも最近また来てたんだよね」
「この仕事、受けた時すごく楽しかったって言ってたろ」
「うん。よく覚えてるね、兄さん」
「店の人に紅茶の淹れ方を教わったんだって、しばらく凝ってただろ。オレ達もかなり飲まされたからな。よく覚えてるさ」
「あはは、確かにそうだったかも」
兄さんはハーブティーが苦手で、ダージリンやアールグレイの飲み慣れた茶葉しか飲めなかった。一方のおそ松兄さんは癖の強いハーブ系も好きで、しつこく薦めては頑なに拒否されていたのを思い出す。
「―――紅茶は苦手な茶葉もあるが、珈琲ならオレはなんでも飲めるぞ」
ぼんやりと回顧していると、兄さんは不意に口を開いた。え?と振り返ると兄さんの頬は仄かに朱らんでいる。手持ち無沙汰に雑誌のページを何度も捲り、焦れるほどぎこちない動作でボクと視線を合わせた。僅かに泳ぐ視線すらも愛しくてたまらない。
「じゃあ、兄さんに美味しい珈琲をご馳走するためにまたお仕事を受けなきゃいけないね」
「……あぁ、楽しみにしてる」
遠回しすぎる催促でも、兄さんからのお願いだと思えば自然と頬が緩む。兄さんが閉じた雑誌の表紙を眺めていると、昨日聞いたばかりの仕事の話を思い出した。
「あっそうだ!今度、カフェ新作メニュー監修のお仕事があるんだ」
「へぇ、そうなのか」
「ね、カラ松兄さんも一緒にやってみない?」
「……いや、遠慮しとく。お前が監修ってことはフラペチーノとかラテとか、そういうのだろ?甘ったるいのはオレには似合わねえよ」
突然の提案に驚いたようだったが、にべもなく断られてボクは肩を落とした。甘いものも可愛いものも兄さんが一緒ならギャップがあって人気が出そうなものなのに、相変わらず苦手なようだった。ボクの落胆が伝わったのか、兄さんは逡巡したのちに口を開いた。
「そういう仕事なら、オレよりも十四松が適任なんじゃねぇの?」
「……そうだね!今回は十四松兄さんに頼んでみるよ」
「喜んで引き受けると思うぜ」
「うん。でも、珈琲の監修があったら一緒に受けてくれる…?」
「―――あぁ、いいぜ」
ダメ元でそっと尋ねてみると、兄さんは少し迷いながらも頷いた。やった!と思わず声を上げると、兄さんは苦笑しながらボクの頭をポンポンと撫でる。子ども扱いされているようだけれど、今はそれでもいいと思う。柔らかい微笑みを独り占めする心地よい充足感を感じながら、ボクは兄さんに抱き着いた。
「絶対だからね。約束だよ?」
甘やかす右手の感触を頭に感じながら、ボクはゆっくりと瞳を閉じた。独占するのもされるのも、嫉妬するのもされるのも、求めるのも求められるのも、きっと兄さんだけじゃなきゃ嫌なんだ。不確かな約束でも、たとえささやかな約束でも、ボクにとってそれは希望の光にさえ似ている。
end.