甘い熱だけ残して<後>

※F6カラ松×一松


おれがカラ松を連れてやってきたのは路地裏だった。

「……ここ、は」
「おれの行きつけ。覚えてるでしょ?」

掴んでいた腕を離して振り返ると、カラ松は静かに頷いた。おれが奥に歩いていくと、ドラム缶の裏から小さな声がする。そっと覗き込むと、常連の茶トラだった。数日来れていなかったが、ここはおれの他にも餌をやっている人がいるらしく毛艶はよかった。しゃがみこんだおれの膝に頭を擦り寄せてくるので、撫でてほしいのだろう。頭をそっと撫でてやっていると、気がつくと背後に来ていたカラ松が上から覗き込んでいる。

「かわいいでしょ」
「……あぁ」
「触ってみる?……あ、でも野良猫だからあんまり綺麗じゃないけど」

猫カフェにいるような血統書付きの猫とは違う。餌をもらって少しばかり毛艶が良くても、ごみや埃で手触りがいいとは言い難い。言うべきじゃなかったかと後悔していると、カラ松はおれの隣に腰を下ろした。こっちに視線を合わせ、撫でていいか?と目で訊いてくる。幸い、今撫でている茶トラは人懐っこい性格だ。いきなり引っ掻いたり噛みついたりはしないはずだと言うと、カラ松は真剣な表情で頷いた。

「えっと、最初は手の匂いを嗅がせてあげて。いきなり触っちゃダメだよ。びっくりするから」
「あぁ。……こうか?」
「うん、それで大丈夫。……あ、大丈夫そうだね。それからゆっくり頭の上に手を……そう、ゆっくり撫でてあげて」

カラ松の手の匂いをしばらく嗅いだ茶トラは、安心したように頭を少し下げた。その小さな頭をカラ松が撫でると、次第に目を細めていく。撫で方がぎこちないせいか、喉を鳴らすほどではなかったが気を許しているのだと分かる。よかったねと囁くと、カラ松は嬉しそうに猫を見つめて頷いた。きっとこんな経験は今までにしたことは無いのだろう。確かにカラ松にはもっと綺麗で華やかな世界が似合うけれど、こうして寄り添ってくれるのが嬉しくてたまらない。

「……そろそろ行こうか。今度はちゃんとにぼし持ってくるね」

おれの言葉になーお、と元気よく返事した茶トラはドラム缶に飛び乗り、塀を伝って奥へと消えていった。それを見送って立ち上がると、すっかり手だらけになった手を見下ろす。流石にこのままじゃ不衛生だろうと思い、おれはしゃがみ込んだままのカラ松を振り返った。

「ねぇ、近くの公園で手を洗っ……カラ松?」

カラ松はしゃがみこんだまま猫が消えていった塀の向こうを見つめていた。ぼーっとしているのかと思って顔の前で手を振ると、その手を掴まれて思わず声が出る。

「な、なに。どうしたの?」
「……さっき、"今度"って言ったよな」
「え?」

聞き返すとぎゅっと手を握られる。確かにさっき、茶トラに「今度はちゃんとにぼし持ってくるね」と言った。それがどうかしたのだろうか。もう一度声をかけようとすると、カラ松がおれの手を握ったまま立ち上がった。途端に身長差ができて、おれがカラ松を見上げる形になる。

「……その、"今度"ってオレも一緒だよな」

ぽつりと零された言葉にえ、と目を瞠る。見上げた先のカラ松は少し照れているのか、おれの頭上辺りに目を逸らしている。おれが黙ったままでいると焦れたのか、不機嫌そうな声で返事を催促された。それがあまりにも可愛らしくて、おれは笑いを堪えられなくなってしまう。なんで笑うんだと不服そうな顔がまた可愛いのだ。ずるい。

「っふふ……うん、そうだね。今度もまた、一緒に来ようね」
「っ、あ、あぁ……」

掴まれた手を握り直しておれが言うと、カラ松は言葉を詰まらせながらこくりと頷いた。これがあの肉食系肉なのかと疑いたくなるが、これが自分にだけ見せる顔なのだとしたら少しだけ優越感を抱いてしまう。おれは握った手を引いて歩き出すと、近くの広場に行こうよと微笑んだのだった。


×


流石に変装もしていないカラ松と手を繋いで歩くのは無理だったので、路地裏を出る直前に手を離した。恥ずかしいから、と一言伝えればカラ松も分かってくれたのか黙って頷いた。広場はすぐ近くにあって、おれたちは外水道で手を洗った。石鹸がないから気休め程度だが、少なくとも手に猫の毛が纏わりついたままではない。おれが手を洗ってからハンカチがないことに気付くと、横から水色のハンカチを差し出される。

「ほら。使っていいぞ」
「あ……ありがと」

すっと差し出すだけでも絵になっているので、やっぱりイケメンは違うんだなぁとぼんやり思う。ハンカチを返してカラ松が洗い終わるのを待っていると、噴水の向こうにアイスクリームの屋台を見つけた。休日の午前中ということもあり、親子連れやカップルが数組並んでいた。

「一松、なに見てるんだ?」
「え?あぁ、あそこ。アイスの屋台みたい」
「屋台……?」

おれが指差した屋台をカラ松もじっと見つめるが、どうにもピンと来ていないようだった。念のために屋台って知ってる?と訊けば、お祭りや文化祭で見たと返ってきた。返事のニュアンスだと、実際に買ったことはないらしかった。屋台を見つめる表情に好奇心が見え隠れしていて、おれは財布をそっと確認した。あの屋台は学生の頃に買ったきりだが、値段はそれほど高くなかったはずだ。

「カラ松、食べてみたいの?」
「……あぁ」

もっと強情な答えが返ってくるかと思ったが、思いのほか素直な返事だった。カラ松を連れて行くと目立ちそうだったので、先に屋台を覗いてきてフレーバーを伝える。ベンチに座ったカラ松はしばらく悩んでいたが、3種のベリーとカフェモカがいいと言ったのでその2種でダブルにした。コーンとカップで迷ったが、落としたらまずいのでカップにした。アイスを渡すとクールに礼を言われたが、瞳は子供のようにきらきらしている。先に食べていいよと苦笑すると、迷わずプラスプーンで掬って食べ出した。

「どう?高級アイスじゃないけど」
「いや、美味い。確かに、オレが普段食べているようなものとは少し違うけどな」
「ならよかった。おれも食べよ」
「一松は何にしたんだ?」

おれが選んだのは巨峰とバニラだった。なんとなく紫のものを選んでしまうのは染みついた習慣だろうか。カラ松はおれのカップを覗き込んでいたが、ふいに食べたいと零した。え?と戸惑って聞き返すと、今度はしっかり目を見て繰り返す。

「それ、食いたい」
「え…?あ、えっと、巨峰とバニラどっち?」
「どっちもだ」

さっきは美味しいと言っていたが、味がお気に召さなかったのだろうか。6人兄弟の中にいるせいで分けることに抵抗なのないおれは、カラ松に自分のカップを差し出した。いいよと言ってやるが、カラ松は表情を硬くしたまま手をつける気配がない。

「そうじゃない」
「え、なに、食べたいんじゃないの…?」
「食べたいけど、一松が食わせてくれないと嫌だ」
「―――……はぁっ!?」

思わぬ発言に反射的に叫んでしまい、周囲の視線を集めておれは声を顰めた。なに言ってるの!?と詰め寄るが、カラ松は涼しい顔でさっき言った通りだと返してくる。

「おれにあ、あ、あーんしろって!?ハードル高すぎだろ!絶対無理!」
「どうしてだ?簡単なことだろ」
「簡単じゃない!そんなことスマートにできる人間じゃないから!」

ほぼ半泣きで言い返すと、カラ松は自分のカップに目を落とし―――不意に自分のアイスを掬って差し出してきた。濃いピンク色なのでベリー味だろう。甘い香りがふわりと漂ってくる。

「な……なに、して……」
「ほら、簡単だろ。オレもやるから一松もくれよ」

どうやら本気で意味を分かっていないらしいが、カラ松の目は真剣そのものだ。その威圧感と有無を言わさぬ視線に、おれは力なく肩を落とす。ゆっくりと口を開けると、カラ松の差し出したスプーンが口腔に入り込んできた。アイスの冷たさが移った冷たいスプーンが舌先に触れる。おれが軽く口を窄めると、冷たいアイスが舌先に落とされた。程よい酸味で口の中がきゅっとなり、フルーティーな香りが鼻に抜けていく。カラ松はスプーンを抜き取ると、じっとおれの表情を眺めていた。アイスは甘酸っぱくて美味しいのに、初めての行為と逸らされない視線に心臓が痛いほど高鳴って仕方ない。

「どうだ?」
「……っお、おいしい、けど……」

それどころじゃないと口の中でもごもご零すが、カラ松には聴こえなかったようだった。おれが咀嚼し終えたのを確認すると、カラ松はかぱりと口を開けた。顎でおれのカップを示す強引な態度に脱力してしまう。周囲を見渡すが、こちらを見ている人はいなさそうだ。おれは震える手で巨峰とバニラを一緒に掬うと、カラ松に向かって差し出した。カラ松がばくりと食いつき、その勢いに指まで食われそうでびくりと肩が震える。スプーンをゆっくり抜き取ると、ちらりと見えた真っ赤な舌とスプーンの間を銀の糸が伝った。その光景がなんだかひどく扇情的に映り、鼓動が更に速まった気がした。カラ松は目を伏せてアイスを味わっていたが、スプーンを持ったまま硬直しているおれに気付くと唇の端を吊り上げた。

「美味かったぜ」

ほら簡単だろ?と言いたげに瞳を細めるカラ松に、顔がどんどん熱くなっていく。小馬鹿にされたようで悔しくなり、溶けかけているアイスを食べてしまおうとして―――自分のスプーンはカラ松が口をつけたものなのだと気がついた。慌ててカラ松を見るが、カラ松は何食わぬ顔で先ほどおれが口をつけたスプーンでアイスを食べ始めていた。はくはくと口を動かすおれを一瞥し、カラ松は早く食わないと溶けるぞ?と言ってのける。まったく気にする気配のないカラ松にいよいよ身体の力が抜けきったおれは、全部食べていいよとカップを差し出したのだった。


×


結局カラ松がアイスを全て平らげ、おれはその背中をぐいぐいと押して公園を後にした。街中を歩いているとやはりカラ松は目立つようで、周囲の女性は色めき立った。おれは居心地が悪くて仕方なかったが、逃げるわけにも行かずひたすら俯いて歩いていく。すると人混みを抜けた場所で、カラ松の手がおれの手に触れた。おれが驚いて顔を上げると、軽く手首を引かれて少し外れた道に連れていかれた。

「か、カラ松っ、どこ行くの」

気付けば周囲に人は少なくなり、遠くに湖が見える大きな公園に入っていた。芝生の感触が柔らかく、太陽の日射しが暖かい。何度かカラ松に呼びかけるが、返事が返ってこなくて少し落ち込む。と、急に立ち止まったカラ松の背中にぶつかってしまった。

「み゛ゃっ」
「はは、なんだその声。ぼーっとしてんなよ」

赤くなっているだろう鼻を抑えていると、振り返ったカラ松が快活に笑う。恨めしく見上げていると、しゃがみ込んだカラ松が頬を軽く引っ張った。痛いと憤慨すると、今度はふにふにと突かれる。

「ひゃに、もう、やめてよっ」
「お前がかわいいから悪い」
「はぁっ!?な、なに言って……馬鹿じゃないの…っ」
「なぁ、ちょっとは元気出たか?」

カラ松の言葉におれは目を瞬いた。え?と聞き返すと、芝生に腰を下ろしたカラ松は苦笑する。カラ松の手がおれの頬をそっと撫で、元気なかっただろと零した。珍しく申し訳なさそうに眉根を下げた表情が珍しい。おれを気遣ってくれたのだと気付き、きゅうっと胸が締め付けられた。

「……うん、ありがと」
「少し休憩しようぜ。ほら、ここなら人もいないだろ?」

カラ松が手を差し出してきて、おれは少し迷ったがその手を取った。カラ松の隣に座り込むと、ぐいっと腰を引き寄せられておれはバランスを崩す。近すぎる距離にどぎまぎするが、確かに遠くの方にしか人はいない。おれは深く深呼吸して体勢を整えると、カラ松の肩に軽く凭れかかった。満足そうに笑ったカラ松がぎゅっと手を握ってくる。

「疲れたか?」
「……うん。誰かさんが、あーんしろとか言ってくるからね」
「なんだよ、ああいうのはカップルが普通にやることなんじゃないのか?」
「カップ…!いや、うん……まぁ、間違ってはないけど……」
「一松は、そういうことするのそんなに嫌か?」

カラ松の顔は真剣そのもので、しかし彼の年齢を考えればしてみたいことなのかもしれないと思い直した。おれはゆるく首を横に振ると、そんなことないよと苦笑した。

「でもあんなの初めてだし、慣れないよ」
「初めて?本当か?一松は他の奴としたことないのか…?」
「えっ、逆にありそうに見えるの?一回だって無いよ」

ていうか誰かと付き合うのすら初めてだし、と自嘲気味に零すとカラ松はぴしりと動きを止めた。途端にカラ松の顔に赤みが差していき、大きな手の平が口元を覆った。おれが首を傾げると、カラ松は顔を逸らしてしまう。

「な、なに…?どうしたの、カラ松」

馬鹿にされているのかと思ったが、耳まで真っ赤なあたり違うらしい。何か変なことを言っただろうかと戸惑っていると、大きく息を吐いたカラ松が振り返った。もう一度名前を呼ぶと、いきなりぎゅっと抱き締められた。

「わ、わわっ、なに!?急にどうしたの!?」
「……あー……一松、お前本当に……」
「な、なに」
「嬉しいんだよ。分からねえ?」

低い声が耳元で囁き、おれは動きを止める。今まで年齢イコール彼女いない歴で童貞なのはコンプレックスでしかなかったのに、カラ松はそれを喜んでくれている。考えもしなかったことに、おれもじわりと顔が熱くなっていった。ふと、遠くからカップルがこちらに歩いてくることに気付いて、おれはカラ松の胸をそっと押した。

「ちょ、ちょっとカラ松。人がこっちに……」
「気にするな」
「む、無理だよ気にする!ちょっと離れ」

そこまで言ったところで視界が真っ黒になっておれは思わず叫んだ。カラ松がおれの被っていたキャスケットのつばを強引に目元まで下げたらしかった。これで見えないだろ?と言われ、カラ松の手がおれの後頭部に回った。確かに髪も見えなくなればぱっと見ただけじゃ性別は誤魔化せるかもしれないが、そう分かっていても羞恥心が邪魔をした。もごもごと暴れてはみるが、力の差は歴然で結局抑え込まれてしまう。カップルの足音が近付き、やがて遠ざかるまでおれたちは抱き締めあったままだった。

「……ばか」

力が緩んだところで顔を上げると、カラ松はおれの憤慨などお構いなしでポケットからスマホを取り出した。何をするのかと画面を覗き込むと、電話アプリを起動してどこかにかけはじめた。誰にかけているのかと思いきや、口調からするにいつもの運転手さんらしい。10分後に来るようにと伝え、電話を切ったカラ松はおれの頭をポンと撫でる。

「もうすぐ迎えが来るから移動するぞ」
「え?どこに?」
「どこって、オレん家に決まってんだろ」
「えっ……も、もう行くの…………?」
「なんだよ、都合でも悪いのか?」
「こ、っ……」
「こ?」
「心の準備が…………」

おれの言葉にカラ松は意味が分からないと言いたげに首を傾げる。だってF6全員が揃ってたとしたらと考えるだけでスコティッシュなおれの心臓はぶっ壊れそうなのに、とんでもない豪邸で庭がドーム何個分とかあって高級車があってヘリも常駐……なんて、考えただけで眩暈がしそうだ。なんで軽率に行くなんて言ってしまったのか。そうしておれがぐるぐるしている間に10分は経過してしまい、もう見慣れた高級車が公園の入り口に停車した。無理矢理手を引っ張っていくカラ松に抵抗はしたが、結局は後部座席に押し込められて車は無情にも動き出す。

「一松様、こんにちは。カラ松様とご一緒だったのですね」
「ど、どうも……」

にこやかに運転手さんから挨拶され、おれは引き攣った笑顔でそれだけ返した。隣に座るカラ松は腕組みをしたまま前を見つめている。

「お屋敷までは15分程度ですよ」
「そうなんですね……」

思ったよりも早い到着に、その時間で心の準備などできるはずがないと頭を抱える。運転手さんは百面相をするおれの心中を察したのか、大丈夫ですよと苦笑した。優しそうな瞳がバックミラー越しにおれを見る。

「そんなに緊張なさらなくても…。マナーや作法があるわけではありませんし、一松様はお客人です。他のご兄弟も細かいことを気になさる方はいらっしゃいませんよ」
「で、でも」
「気にすんなって言ってんだろ。大丈夫だから変な心配するな」

それまで黙りっきりだったカラ松が口を開いた。彼の物言いはひどく粗暴だけど、言葉の中には優しさがある。おれはそれをよく知っていた。力強く言い切ったカラ松に、おれは言葉を呑みこんで頷く。カラ松はそれに満足したように微笑み、おれの頭をまた軽く撫でた。


×


気にするなと言われたものの、実際に到着すればその豪奢な建物に言葉を失った。眼前に聳え立つ邸宅は大きく、上品な色合いだがデザインがお洒落で日本にいることを忘れそうだ。庭の広さは恐るべきで、正門から入って邸宅まで数キロは走ったと思う。邸宅前には噴水があり、奥には温室や薔薇園もあるのだと説明された。他にも何か聞いた気がするが情報量が多すぎたので正直覚えていない。呆然と突っ立ったままのおれを引き摺るようにカラ松は屋敷へ足を踏み入れる。重厚なドアがドアマンによって開かれると、ずらりと待ち構えたメイドさんや執事さんが一斉に出迎える。一糸乱れぬおかえりなさいませコールとお辞儀におれは喉奥が引き攣った。入口を抜け、長すぎて先の見えない廊下に入ると人の姿は消えて少し安心する。それでも借りてきた猫状態でカラ松の後ろにくっついていると、流れるように腰に手を回されて飛び上がった。おれがギャッと悲鳴を上げると、カラ松は眉を顰める。

「オレに抱き寄せられてそんな声を出すのはお前しかいないぞ」

色気もクソもなくて悪かったな!と叫びたいのをぐっと我慢していると、近くの部屋の扉が開いて誰かが出てきた。驚いて反射的にカラ松のシャツをぎゅっと掴むと、カラ松はフンと鼻を鳴らした。むかつく。

「おやカラ松、お客様かい?」
「あぁ。……おい一松、顔を出せ」

柔らかい声色には聞き覚えがある。カラ松に促されて顔を覗かせると、にこりと微笑む赤髪の美少年がそこにはいた。ちょっと離れた距離にいるのにミントの香りが漂ってきそうな風貌に、爽やかジャスティスの名は伊達じゃないと実感する。

「おや、随分と可愛らしい仔猫ちゃんだ」
「ま、まままま、松野一松です……」
「あぁ、あの6つ子の一松か。久しぶりだね。元気かい?」

おれのことを思い出したらしいおそ松が歩み寄ってきて、おれは思わず後ずさる。それを見て苦笑したおそ松は、少しかがんでおれを見詰めた。

「怖がらせてしまったかな?残念だけど僕は今から撮影でね。また今度、話せたら嬉しいよ」

おそ松の優しい言葉に申し訳なくなって頷くと、彼はにこりと微笑んだ。それからカラ松にの眉間を何故かぐりぐりと触って去っていった。眉間の皺がすごいよ?という去り際の言葉が気になって見上げると、カラ松はいかにも不機嫌そうな顔をしている。ヒエッと声を出すと、カラ松は慌てて咳払いした。おれに見られているとは気付かなかったらしい。

「な、なに怒ってるの…?」

おずおずと尋ねるが、カラ松は怒ってないの一点張りで歩き始める。こんな場所で置いていかれては困ると慌てて歩き出すと、今度は廊下の向こうから誰かがこちらへ歩いてくる。すらりとした長身に緑髪の知的そうな切れ長の瞳―――チョロ松だ。

「おや、カラ松。帰っていたのですね」
「あぁ。さっきな」
「そうですか。……おや、そちらの方は?」

カラ松に促され、おれは一歩踏み出してチョロ松に頭を下げた。チョロ松は顎の下に手を当て、おれの顔を凝視してくる。居心地が悪くてどぎまぎしていると、チョロ松はポンと手を叩いた。

「あぁ、6つ子の一松ですね。私としたことが失礼しました。それにしても、カラ松が連れてくるとは……いつの間に仲良くなられたのですか?」
「え、えーと、偶然会って……それから……」
「なるほど。……おやカラ松、どうしたのです?唇を尖らせて」

え?とカラ松を見上げるが、今度は顔を見られたくなかったのか思いきり逸らされてしまった。また怒っているのだろうか。

「なんでもねえよ」
「そうですか?あぁ、私はこれから書庫に行くのでした。それでは一松、ごゆっくり」
「あ……はい」

チョロ松が去っていくとなんとなく気まずい沈黙が残る。カラ松?と呼びかけると、無言でカラ松はしゃがみ込んだ。俯き加減で顔が見えない。周囲に誰もいないのを確認して眼前にきた頭を撫でると、逆に頭を押し付けられた。大型犬に懐かれているような感覚になり、調子に乗ってわしわし撫で回すと髪が絡まったらしく痛いと声が上がった。

「あっごめん。痛かった?」
「………………」

おれが尋ねても返事は返ってこない。怒ってるというよりは拗ねているらしく、それをかわいいと思ってしまうのだからおれも重症だ。そうしてしばらく撫でていると、カラ松はおれの手を掴んで止めさせた。嫌になったのかなと思っていると、カラ松はおれの手を掴んだまま立ち上がって歩き出した。屋敷には他の人もいるだろうに、手を繋いだ状態で見つかるのは非常に気まずい。だけど抵抗するとまたカラ松が拗ねてしまう気がして、おれは諦めに似た溜息を零すしかなかった。


×


長い廊下を歩き続け、やがて連れて来られた部屋は全体的に青を基調としていた。白い彫刻の調度品はいかにも高そうだが、清潔感や上品な雰囲気を感じる。おれの勝手なイメージだと金持ちは金細工の調度品や細かい刺繍の施された絨毯を持っているイメージで、なんとなく厭らしい印象ばかり持っていた。床は大理石で、どの面も一点の曇りすらなく綺麗に磨き上げられている。おれが呆然と部屋を見渡していると、ふいに肩に重みを感じた。カラ松の長い腕がおれの首元に回り、そのまま後ろから抱き締められる形になる。突然のことに心臓が大きく跳ねた。

「え……っちょ、カラ松?なに?どうしたの」

振り返ることができず、おれは回されたカラ松の手に自分の手を重ねた。少し引っ張ってみるが、がっちりホールドされていて離してくれそうにない。おそらくここはカラ松の部屋なのだろう。そして、そんな場所で彼に抱き締められている―――と思えば単純な童貞脳は大混乱だ。いきなり家に連れて来られただけでも焦っているのに、心の準備ができてない。ついでに言うなら心の準備もだ。我ながら好奇心旺盛すぎる性格のせいで男同士のアレコレに準備が必要なことはよく知っている。途端に脳内がピンク色の妄想で埋め尽くされそうになり、すんでのところで残っていた理性によっておれは大きく深呼吸をした。少しだけ脳が冴えて、落ち着いた声でカラ松の名を呼べた。

「……ね、どうしたの?なんかおれ変なことした?」

しばらくの沈黙ののち、カラ松が首を横に振る気配があった。少し安堵して、ならばさっきから何を拗ねているのだろうというところに疑問は移る。少しだけ緩められた腕から抜け出し、立ち尽しているカラ松の手を掴んだ。ようやく視線がかち合ったが、カラ松はふいっと目を逸らしてしまった。まるで怒られた子どもみたいな反応が珍しくて苦笑する。

「ねぇ、言わなきゃ分かんないよ」
「別に……何もねぇよ」
「何も無いわけないじゃん。おれでも分かるよ」

大きな手をぎゅっと握り、節くれだった指先に触れる。数拍の沈黙ののち、カラ松が静かに手を握り返してきた。もう一度名前を呼ぶと、自信が無さそうな瞳がおれを見下ろす。しばらく見つめ合っていると、カラ松は観念したように息を吐いた。

「……すまない。少し、妬いた」

いつも自信たっぷりの不遜な態度が嘘みたいだった。年相応の態度を見せたカラ松はやっぱり可愛らしくて、おれは思わずにやけそうな口元を押さえた。それを目敏く見つかってしまい、途端に厳しい声が飛んでくる。

「なに笑ってんだよ」
「ご、ごめ……なんか、可愛くて」
「はぁ!?」

聞き捨てならないとばかりに噛みついてくるが、それさえ可愛く見えてしまう。おれはごめんごめんと笑いながらカラ松の手をぐいっと引っ張った。身長差のせいで少し前屈みになったカラ松が上目遣いにおれを睨む。不服そうな表情と、羞恥で赤く染まった耳が素直じゃない。

「謝んなくていいよ。妬いてくれて、おれは嬉しい」
「は……」
「言ったでしょ?おれは誰かと付き合ったのなんてカラ松が初めてだよ。そりゃお前の兄弟はみんなかっこいいけど……別に顔がいいからすぐ惚れたりしない。だから、その……安心していいよ」

自分でも恥ずかしいことを言っている自覚はあった。実際にはカラ松の綺麗な顔だって惚れた一要因ではあるけれど、これじゃお前の性格を好きになったんだよと言ってるも同然だった。カラ松はおれの告白は予想外だったらしく、顔までじわじわと赤く染めていく。つられておれも恥ずかしくなってしまい、繋いでいた手を離す。すると逆にカラ松から手を捕まえられ、そのまま背後の壁に身体を押し付けられる。冷たい大理石の硬い感触を背中に感じ、カラ松はおれを囲うように壁に手をつく。ちょっと待て、これって俗に言う壁ドンなのでは。

「う、生まれて初めてされた…。ていうか一生されることないと思ってたのに」
「なにぶつぶつ言ってんだ」

呻くように独りごちるおれを不審に思ったのか、カラ松の指がおれの顎に触れる。そのままくいっと持ち上げられ―――あぁ、これ顎クイだ。今度はしっかりと視線が絡み合い、カラ松の瞳に自信の色が戻っていることに気付かされる。あぁ、やっぱりその方がお前らしいね。その強い視線に捉えられ、一秒たりとも視線が離せない。カラ松の顔が近付いて熱い息がかかるほどの距離になる。キスされるんだと当たり前のように思い、おれは静かに目を閉じた。緊張はしているはずなのに、不思議なことに抵抗するような気持ちにはならなかった。

「一松、好きだ」

そう囁かれたと思えば唇に柔らかい感触が触れる。一瞬だけ触れたそれはすぐに戻ってきて、何度もついばむように口づけられた。薄く目を開けてみれば、カラ松の眇められた瞳がおれを射抜くように見つめている。色気のある視線に思わず身じろぐと、カラ松はおれの視線に気付いたらしい。カラ松がぐいって体重を寄せてきて、掴んでいたおれの手首を壁に押し付けた。縫い付けられたように動けなくなり、おれの気がそちらに逸れている間に唇を割って熱い舌が侵入してくる。突然のことに驚いて目を見開くが、抵抗などできないに等しい。肉厚な舌が上顎と歯列をなぞっていく。おれの縮こまった舌を誘い出すようにカラ松の舌が絡んできた。ざらりと舌同士が擦れ合う、独特の感触に背筋が震える。

「、っは……」

ようやく解放され、無意識のうちに潤んでいた瞳のままカラ松を見上げる、カラ松は熱い息を吐きながら、肉食獣のような表情でおれを見つめた。ぎらぎらとした瞳には隠しもしない性欲が垣間見え、おれも劣情を煽られてしまう。カラ松の熱い手の平がおれの胸を這い、パーカーをたくし上げる。おれの肌に直接カラ松が触れようとした瞬間―――ドアをノックする音が響き、おれは飛び上がるほど驚いた。カラ松はあまり動じた様子はなく、舌打ちだけをするとそのままおれの肌に触れようとする。その間もノックの音は響き、おれは思い切ってカラ松の身体を押し退けた。

「っだ、ダメ!誰かノックしてるじゃん!」
「知るか。ここはオレの部屋だ」
「そっ……そうかもしれないけど!急用とかだったらどうすんの!?」
「…………」
「に、睨んでもだめ!」

じとりと見つめてくる視線から逃れ、おれはドアまで歩いていく。はい、と返事をしてドアを開くとふわりと甘い香りが漂ってきた。目の前にいる誰かの顔を確かめようと顔を上げ、そこにあった恐ろしいまでの可愛らしい顔に言葉を失った。

「あれ?キミ……一松くん?」

桜色の艶々とした唇からそう零し、その美少年―――トド松はこてんと頭を傾げた。白魚のような細い指先を唇に添える仕草もあざとくてたまらないのに、彼がすると何の違和感もなく美しい。固まったままのおれににっこり微笑むと、トド松は突然おれを抱き締めた。甘い香りが全身を満たし、その胸やけしそうな甘ったるさに頭がくらくらした。紛れもない男のはずなのに、なぜか柔らかく感じる身体に心臓が変な風にどきどきとしてしまう。ぼーっとしていると、後ろから飛んできたカラ松の怒声で我に返った。

「トド松ッ!!」
「あっ、兄さん。ちゃんといるなら返事してよねー」
「何の用だよ」
「もう、兄さんったら乱暴なんだから。この前貸した国語辞書返してほしくて来たの」
「んだよ、そんなことか」

カラ松はがしがしと頭を掻くと、部屋の奥に行ってしまった。トド松は身体を離してくれたが、おれの手をなぜか握ったままだ。にこにこと微笑まれ、おれは引き攣った笑いを返すことしかできない。

「遊びに来てたんだね。"トド松くん"は元気?」
「あ……うん。いつも通り、かな」
「そっかぁ!今度はみんなで遊びに来てほしいなぁ」
「つ、伝えておきます」
「なんで敬語なの?ま、いっか。ねぇ、カラ松兄さんに乱暴なことされそうになったらすぐに言ってね?」
「え?」

とびきりの笑顔で言われて一瞬反応が遅れた。その時、カラ松が戻ってきてトド松はぱっと手を離した。兄さんおそーいなんて唇を尖らせながら駆け寄る姿は、キューティーフェアリーというよりもちょっと小悪魔っぽい。カラ松から辞書を受け取ったトド松は、おれにひらひらと手を振りながら出て行った。まだ甘い匂いに包まれているような気がしてぼーっとしていると、近付いてきたカラ松が面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「甘い匂いさせてんじゃねーよ。勝手に抱き着かせて」
「お、おれのせいじゃないでしょ!?あの子が勝手に……」
「お前の自覚が足りねーんだよ」

は!?と反論しようとした瞬間、廊下から大きな物音が聞こえてきた。カラ松が制止するのも構わず飛び出すと、つんのめったところを誰かに抱き止められた。反射的にぎゅっと瞑った目を開けると、今度は視界いっぱいに黄色が広がっていた。

「大丈夫かい?プリンセス」

トド松とはまた違った甘い頬笑み。全てを溶かし尽くしそうなこの甘さはスイートプリンス、十四松だ。プリンセスと言ってからおれに気付いたのだろう、身体を離して十四松は首を傾げた。

「あれ?お姫様じゃない…?一松だね」
「十四松!今の音は何だ!?」
「あっカラ松兄さん。なんか一松兄さんが追われてるみたいなんだよねぇ」
「一松が…?まさか、"奴ら"か…?」
「そうみたい。ちょっと危ないかもしれないよ」
「そうか……」

無駄に緊迫した雰囲気と"奴ら"というワードでおれの頭はちんぷんかんぷんだ。一松というのはもう一人のおれ―――ミステリアスクールのことなのだろうが、誰かに追われているのか?そう考えを巡らせていると、廊下の先から爆発音が聞こえてきた。"奴ら"が誰かは知らないけど、屋敷に侵入されてるってかなりまずくないか?

「な、なななななに」
「チッ……まったくブスな展開だぜ!」
「いや、ブスな展開ってなに」
「カラ松兄さん!!」

おれの突っ込みを遮るように硝煙の中から誰かが姿を現した。やがて見えてくる紫の髪に神秘的で独特な雰囲気―――間違いない、おれ自身とは似ても似つかないもう一人のおれだ。彼は表情を動かさないままこちらに歩み寄り、おれの手を取ると静かな声で話し始めた。こんな状況下なのにちょっと冷静すぎやしないか。

「カラ松兄さん、十四松。……もう一人のおれも。ここは危険だ」
「"奴ら"に追われてるの?一松兄さん」
「あぁ。すまない、おれのせいだ」

くっ…!と右手を握り締めて悔しがる一松。この上なくシリアスな空気に包まれているが、ここは笑っていいのだろうか。カラ松は溜息を吐くと、一松の頭をそっと撫でた。珍しく柔和な表情で微笑むのを見て胸がなぜかざわつく。この胸の違和感はなんだろう、妙に気持ち悪い。

「一松、あまり気にするな。オレたちは中庭の方へ移動する」
「分かった。ここはおれがなんとかする」
「え、なんとかって……危ないんじゃないの?」
「大丈夫!ぼくも一緒だよ!」

少し心配になって尋ねると、十四松が自分の胸をどんっと叩いて胸を張った。確かにF6に超人的なイメージはあるけど、本当に大丈夫なのだろうか。カラ松を見上げると、力強く頷かれる。兄のカラ松が信じているのだから、きっと大丈夫なのだろう。おれは握られていた手を握り返して一松の静かな瞳を覗き込む。深海のように凪いだ瞳はおれをただ映していた。

「無理、しないでね」
「……あぁ。ありがとう、一松」
「さぁ行って!ぼくたちが食い止めているうちに!」

十四松の声に背中を押され、おれはカラ松に手を引かれて走り出す。廊下の角を曲がる瞬間に数人の足音が聞こえ、また破裂音が響き渡った。心配になって走る速度が落ちかけるが、カラ松がそれに気付いておれの手を強く握った。

「心配すんな、あの2人なら大丈夫だ!」

絶対的な信頼感を感じるその声色に、胸がすく思いになった。おれは頷き、走るスピードを上げる。そのまま数分走り続けるとやがて黒服の人達が廊下に立っているのが見え始めた。立ち止まってそのSP達に話を聞けば、既に警備が向かっているので問題ないとのことだった。一松と十四松ももう大丈夫なのか、と安堵するとカラ松がそっとおれの頬を撫でた。

「そんなに心配しなくても大丈夫だって言ったろ」
「だ、だって……やっぱり心配するよ」
「まぁ、そんな風に弟を心配してくれたのはオレも嬉しいさ。ありがとな」
「……うん」

その後しばらくSP達と話をしてから、カラ松はおれの手を引いて歩き出した。


×


連れて来られた場所は薔薇や色とりどりの花が咲き乱れる中庭だった。その景色はあまりにも美しく、おれは思わず言葉を失ってしまった。

「どうだ?綺麗だろ」
「うん……すっごい、ほんとに綺麗……」

ほうっと息を漏らして周囲を見渡していると、カラ松はおもむろに一輪の真っ赤な薔薇を手折ってしまう。あっと声を出す間もなく、カラ松はおれにその薔薇を差し出した。

「え、」
「お前にやる」

まるで絵本の中の王子様のような、その流れる所作に反論することすら忘れてしまった。棘が指に刺さらないよう気をつけながら受け取ると、薔薇の豊満な香りが鼻孔を擽った。深く香りを吸い込み、ゆっくりと目を閉じる。夢みたいな気分で、浮き足立ってしまうのを抑えられそうにない。そんなおれを見て笑ったカラ松は、おれを連れて庭の奥へ歩いていく。中央には白いアーチのようなものがあり、テーブルとベンチが置いてある。促されてそこに腰かけると、深く覆い茂る新緑で周囲が見えなくなっていることに気がついた。顔を上げると、カラ松は満足そうに唇を吊り上げた。

「ここなら周囲の目も気にならない。もう邪魔も入らないだろ」

反論の余地もない物言いに思わず苦笑する。カラ松の腕が伸びてきて、おれの座るベンチの背凭れを掴んだ。ぐっと縮まった距離に心臓が鼓動を速めていく。熱い唇が触れ、すぐに舌先がぬるりと侵入してきた。呼吸さえも奪い去るような深い口づけに息が苦しくなる。涙の滲んだ目を開いても、カラ松は気付いているのに一切構ってくれなかった。戸惑うおれの舌を引き摺り出そうとするように熱い舌が絡んでくる。ぬるりとした感触と、開いた唇から聴こえる濡れた音に煽られて体温が上がっていく。息苦しさから喘ぎ声が漏れてしまい、恥ずかしくてたまらなかった。ようやく解放された頃には息も絶え絶えで、カラ松のシャツの胸元を掴んでおれは項垂れた。荒い息を吐いていると、肩をぐいっと押されて身体をベンチに固定されてしまう。

「っちょ、待って、まだ息が」
「待てない」

慌てて制止しようとするも、カラ松はまた顔を近付けてくる。おれが精一杯じたばたと抵抗すると、流石に諦めたのか今度は肩や鎖骨にキスを落としてきた。そのキスが触れるだけだったので安堵して身体の力を抜くと、鎖骨の近くをぬるりと舌が滑った。

「ひ、っ」
「マジで色気のねえ声だな」
「っ、うるさい…!ね、ダメだって、やめ……」

やめろと声を上げてもカラ松は止める様子はなく、そればかりか軽く歯を立ててきた。柔らかい肌に鋭い犬歯が食い込み、ぴりっとした痛みを感じる。痛いと言えば慈しむようにぺろぺろと舐められるが、そうじゃない。次第に首筋に唇が触れ、襟足の短い髪を太い指がざりりと撫でる。不意に強く吸いつかれたと思えば、何度かそれを違う場所で繰り返される。初めてのことに戸惑っていると、びりっとした痛みで我に返った。これ、もしかしてキスマーク付けてるんじゃ…!

「カラ松、ちょっと何して……」
「あ?所有印に決まってんだろ。お前は自覚が甘いからな」

あぁ、やっぱり予想通りだった。自分じゃ見えないが、きっと4箇所ほど赤い欝血痕が浮かんでいるはずだ。おれが両手で首筋を覆って睨み上げると、カラ松は呆れたように溜息を吐いた。

「んだよ、満更でもなかったくせに」
「そ、っ……それはそれ!こんな痕、他の人に見られちゃうじゃん!」
「当たり前だろ。その為の所有印なんだから」
「だめなものはだめ!」

おれが威嚇すると、カラ松はようやく諦めたようで両手を上げた。悪かったよと呟き、向かいのベンチに腰を下ろした。少し落ち込んでいる様子だったので悪かったかなとも思うが、このキスマークを他人に見られるリスクには変えられない。所有印というのはやっぱりまだカラ松が妬いてくれている証拠なのだろうから、嬉しく思うのは事実だ。でもおれだってカラ松が一松に微笑んだ時には胸がざわついた。あの時は違和感程度にしか思わなかったけれど、今思えばあれは嫉妬だったのかもしれない。そっと様子を伺えば、カラ松は項垂れている。

「……ねぇ、カラ松」

立ち上がり、カラ松の座るベンチ前でしゃがみ込んだ。下からじっと見上げると、俯いた瞳と視線が合う。

「―――んだよ」
「別に、カラ松ばっかり……その、妬いてるわけじゃないよ。おれだって、ちゃんと、そういうこと思うから」
「…本当、か?」

驚いた様子のカラ松に、おれは恥ずかしいのを堪えて頷く。カラ松の兄弟に嫉妬したのは今日が初めてだけれど、カラ松は有名人なのだからおれの知らない顔がたくさんある。カラ松と会うようになってから、テレビで共演している女優や女子アナを見ると決まってもやもやしてしまった。そんな時は兄弟が一緒に見ていても、おれはテレビを見ることができなくなった。その時は理由も分からずにただ不快なだけだったが、あれもきっと嫉妬だったのだろう。

「不安なのとか、色々考えてるのは……カラ松だけじゃないから。おれも、同じ」
「……一松、」
「だから、大丈夫。安心していいよ」

カラ松は若いから行動に走りやすいのだろうけど、おれだってそういう欲がないわけじゃない。むしろ、おれだって童貞なのだからありすぎるぐらいだ。ただ元来の性格もあって慎重になってしまうのは仕方ないので、それだけは容赦してほしい。

「おれも、ちゃんとカラ松のこと好きだよ。妬いちゃうくらい」

少し潤んだように見えるカラ松の瞳が愛しくて、そっと立ち上がってカラ松の頬を包んだ。滑らかできれいな肌に澄んだ瞳。凛々しい眉毛も思ったより長い睫毛も、その美貌の奥にある粗暴で優しい性格も、すべてが恋しくてたまらない。吸い込まれるように顔を寄せ、初めておれからカラ松にキスをした。一瞬触れるだけのそれは、きっと稚拙だったに違いない。それでも顔を離せばカラ松は今にも泣きそうな顔で微笑んでくれて、恥ずかしさはそれだけで霧散してしまう。後頭部をぐっと引き寄せられ、今度はカラ松からキスされる。さっきと同じように触れるだけのそれに、おれたちは至近距離のまま笑みを零したのだった。


end.




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