インターミッション・サマー

※我ナポの夏(Bye-Bye Summer Days)のネタバレを含みます。


空疎な瞳の中には光が宿っておらず、ただ虚空を見つめていた。真白い部屋の中で静かに椅子に腰かけている少年は口を閉ざし続けている。そんな少年の手をそっと握り締め、猫乃仁也は優しく微笑んだ。

「やっちん」

弾けるような明るい声が室内に響き渡るが、語りかけられた少年―――四谷八彦が応えることはない。それどころか、声を聞いても視線一つ動かなかった。

「先輩たちは部室に行ったんやで」

仁也はそう呟くと、黙ったままの八彦の顔を覗き込んだ。重たい前髪の下から覗く、草色の瞳は最低限の瞬きを繰り返すだけだ。仁也は笑みを絶やすことなく八彦に話しかける。

「先輩たちにとって、やっぱりあの場所は特別なんやね」

仁也が見つめても八彦と視線が交わることはない。淀んだ虹彩は水面のように揺れるだけで、まるで仁也からの視線を感じ取ることも出来ないようだった。

「もちろん、俺たちにとってもやけど。……なぁやっちん、覚えとる?」

視線が合わないことなど気にも留めない様子で仁也は話しはじめる。過ぎ去った日々を懐かしむように、空色の瞳をゆっくり細めた。

「今日みたいに暑い日で、俺たちこっそり学校抜け出してコンビニ行ったやんか。風紀委員に見つからんようみんなでコソコソしながら……きっと端から見たら、仁也たち泥棒みたいやったやろなぁ。あんなん不審者やで、不審者!」

肩を細かく震わせて笑い、仁也は口角を引き上げた。八彦の顔を覗き込んで、淀みなく話し続ける。

「なんとかコンビニ着いてみんなでアイス選んだの、覚えてるやろ?いろんな種類のアイスがショーケースにいっぱい並んでて……」

まるで在りし日の風景が目の前に浮かんでいるように、仁也は嬉しそうな笑みを浮かべる。疑問を投げかけられても、八彦は身動ぎ一つすることはない。

「仁也はいつものやつ選んだんや!やっちんも覚えとる?ガリガリ君やで!夏と言ったらあれ以外考えられへんもん。やっちんは……あずきバー選んだよな。抹茶アイスとどっちにするか、最後まで悩んどったなぁ」

次第に仁也の声のトーンが下がっていく。仁也は八彦の顔を見つめていた視線を落とし、握っている手をじっと見つめる。日に焼けていない皮膚の感触を確かめるように、少しだけ指先を動かした。握っているというのに八彦の手はどこか冷たいままで、いつまで経っても仁也の体温と交わらない。

「なぁ……やっちん」

それまで気丈だった仁也の声が僅かに震える。八彦の名を呼びながらも、仁也は顔を上げることが出来なくなった。

「あの日―――やっちんが迷いながらあずきバー選んで笑ってたことも、やっちんがレジで小銭ぶちまけて慌ててたことも、やっちんが校内に戻った時に風紀委員に見つかりかけたことも……仁也は全部覚えてる」

次第に空色の虹彩がじわりと滲んでいく。込み上げてくる感情の波に呑まれてしまわぬよう、仁也は必死に唾を嚥下した。喉が引き攣るような奇妙な感覚を堪えながら、必死に声を引き絞る。

「でも、やっちんは……覚えてんのかなぁ?」

ぽたりと一滴の液体が八彦の手の甲に落ちる。透明な水滴は重力に従い、滑らかな皮膚を伝ってリノリウムの床に落ちる。仁也の指先に力が籠り、掴まれている八彦の手が僅かに赤みを帯びた。言葉に詰まりそうになりながら、仁也は懸命に語りかける。ぎゅっと握り締めた手の平から伝わってくるのは、ただひんやりとした皮膚の感触だけだ。

「あの日のことも、あの日を境に起きた事件のことも……やっちん自身に何が起きたのかも……」

伽藍洞になってしまった八彦は、今や物事を認識することができない。生きるために最低限の行動が辛うじて出来るだけで、自分の意志を持たないのだ。言葉を発すことも、何かに反応することも出来ない。精神科医の見立てでは、精神的ショックが大きかっただけに記憶は断片的になっている、もしくは大きく抜け落ちている可能性があるという。療養を重ねていけば回復している可能性があるとは言われたものの、元の状態にまで復活したという症例は極僅かだ。仁也は零れ落ちる涙を指で拭い、八彦の淀んだ瞳を見上げた。

「仁也なぁ、分からんくなってん。辛い記憶やったら忘れてた方がええんかなぁ。だって、誰だってそうやろ?しんどい思いはしたない。それに、やっちんは今までも不運体質で辛いことたくさんあったはずや。……やっちんは前向きやから、どんな怪我しても平気だよって笑っとったけど……」

仁也は力なく微笑み、再び視線を握った手に落とす。八彦の笑顔を思い出したのか無理にまた笑おうとして、失敗した。涙が幾筋も仁也の頬を流れ落ちていく。

「もう、分からへんよ……仁也はやっちんの笑顔はっきり思い出せるのに、やっちんは何も覚えてへんやったら……」

首を何度も横に振り、そこで言葉を切った。涙を無理に拭って、深い溜め息を吐き出す。握っていた手からそっと力を抜き、名残惜しげに引いた。仁也は曖昧な表情で立ち上がり、窓辺へ歩み寄っていく。窓の外では抜けるような青空に真っ白な入道雲が浮かんでいる。蝉の忙しない鳴き声と、グラウンドから聞こえる部活の声がその景色を彩っている。目が眩むほど眩しい景色に、仁也は記憶の中の思い出を重ね合わせる。思い出はあんなにも鮮やかな色を湛えていたというのに、まるでこの部屋は色を失っている。鍵を外して窓を開け放つ。生温い夏風が滑り込み、真白いカーテンがぶわりと大きく靡く。濡れていた頬が乾いていくのを感じた。仁也が振り返ると、八彦は変わらず前を見つめたまま椅子に腰かけている。艶のない黒髪が熱気を帯びた風に揺れても、八彦はそれを疎ましがることもない。

「やっちん」

仁也は手を伸ばして八彦の手首を掴む。今にも折れてしまいそうで頼りない。反応のない八彦の瞳には、ただ室内の風景が映り込んでいるだけだ。仁也はそのまま八彦の身体を抱き締めた。生温い空気に晒されてもなお、八彦の身体はどこかひやりと冷たい。仁也を抱き締め返すこともなく、拒絶することもなく、八彦はただ猫背のままで座っているだけだった。それから、どれほどの時間が経過しただろうか。仁也はゆっくりと身体を離して八彦の顔を覗き込んだ。ゆらゆらと揺れる瞳はどこか遠い場所を見つめている。体温も視線も交わらない。こうして抱きしめても、きっと仁也の気持ちは八彦に届くことはない。

「……でも、やっちんはここに居てくれてるんやね」

仁也は噛み締めるように小さく呟き、口角を持ち上げた。今度は失敗しない。花が綻ぶような笑みを浮かべ、仁也は静かに瞳を閉じた。

「やっちんは、ここに居てくれてる。仁也を……仁也たちを置いていかんでくれた。ごめんなぁ、弱気になっちゃってた。やっちんやったら、こんな時に落ち込んだりせぇへんのにな」

その時、廊下の方からパタパタという足音が聞こえてきた。規則正しい風紀委員の足音とも、ローランの毅然とした足音とも、平見のゆっくりとした足音とも違う。騒がしい佐能の足音に少し似ているが、それにしては軽いように思えた。仁也の脳裏には、ある女生徒の顔が思い浮かぶ。美しい黒髪がトレードマークの彼女が、息せき切って走っている様子―――想像できることを不思議だと思いかけたが、それはお淑やかなイメージしか抱かれないであろう彼女のことを深く知っているからだとすぐに合点が行った。一瞬のきらめきにも似た短い夏の時間を、共有したかけがえのない仲間だから。

「ほーらお客さんやで。やっちんが居てくれたから、あの子もここに来れたんや」

パタパタ、パタパタ。だんだんと近付いてくる足音に仁也は笑みを深くした。悪戯っぽく指先で八彦の額を突く。

「なぁやっちん。仁也が次に泣くのは、やっちんが良くなった時やで。それまでは泣かんって、今決めた。……やからな、やっちん……また仁也たちとお喋りしてや?」

ガラリと勢いよく保健室の扉が開け放たれる。紺色のスカートがはためき、揺れる。不安そうな女生徒と視線を合わせ、仁也は静かに微笑んだ。


continue...




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