冷たい床



拍子抜けするほどあっさりと訪れたそれが世間一般的に言う幸福というものなのだろう、ということはよく理解していた。だからこそ、自分のような人間が簡単に手に入れられてしまったことを受け止めきれずにいる。静寂に満たされた広い部屋の中で、臨也はつめたい床に座り込んだ。肌が冷えていくのも構わずにぺたりと手を添えて、その感触をただ感じ取る。無機質なフローリングはそこに存在するだけで何も齎してはくれない。

「折原」

耳触りのよい低い声が落とされたと思えば、そっと手首を掴まれていた。冷え切っていた皮膚を指先に撫でられ、臨也はゆっくりと視線を上げる。形容し難い色の虹彩がこちらを見下ろし、困ったようにその眉根を寄せる。臨也が立ち上がろうとしないことを察したのか、九十九屋は臨也の横に屈み込む。

「どうした、床と一体化でもするつもりか?」

揶揄しながらも表情は柔らかい。顔を覗き込まれ、臨也はふいと視線を逸らした。磨き上げられたフローリングに自分と九十九屋の姿が映っているのを目にし、厭そうに瞳を閉じた。九十九屋は呆れたように喉を震わせて笑い、臨也の頬に指を這わせる。陶磁のように滑らかな肌をそっと撫でながら薄い唇を開く。

「何を考えているのか知らないが、そう無視されると流石に寂しいよ」
「……勝手に寂しがってろ」

臨也がにべもなく吐き棄てると、九十九屋は少し長い髪を掻き上げて顔を寄せた。端正な顔をじっと覗き込み、細い顎に指を掛ける。距離を詰めても臨也が逃げる気配はない。どこか諦念の滲んだ赤い瞳に見上げられ、九十九屋は瞳を閉じて口づけた。柔らかな唇の感触を味わうように何度か触れ、手を腰に回して引き寄せる。細すぎる身体のラインを確かめるように触れても臨也は無反応だった。唇をこじ開けて舌先を侵入させると、臨也の肩がぴくりと跳ねる。薄く目蓋を持ち上げると、臨也の瞳が僅かに潤んでいる。溶けかけの飴玉に似た甘やかさを目にして九十九屋は口角を持ち上げた。舌先が触れ合うだけでぞくりと身体が震えてしまう。逃げようとする臨也の舌を絡め取り、吸い上げるとあえやかな声が上がる。

「折原、逃げるなよ」
「逃げてなんか……いない」

九十九屋が吐息混じりに囁くと、臨也は気まずそうに視線を床に落とす。九十九屋は臨也の腕を引くと、ソファーに座るように促した。革張りのソファーは二人分の体重を受けて沈み込み、ぎしりと軋んで音を立てる。それに構うことなく、ソファーに倒れ込んだ九十九屋は臨也を見上げて笑みを浮かべる。

「ほら、これで寒くない」
「別に寒かったわけじゃない」
「そう言うなよ。ほら、もっと身体を寄せて」

腕を引かれるがままに臨也は九十九屋の上に倒れ込んだ。笑っているのか、振動で身体が揺れて眉を顰める。触れ合った腕や腹からじわりと体温が伝わってきて思わず閉口する。先ほどまで触れていたつめたいフローリングとは異なる、あたたかい体温。視線を上げて九十九屋をじっと見つめる。光の加減で様々な色に見える、不思議な色の瞳は静かにこちらを見つめ返していた。戯れのように腕を伸ばせば、恭しい動作で手を取られて手の甲に唇を寄せられる。

「気障ったらしいことをするな」
「おや、お気に召さないか。残念だな」

不機嫌な臨也の指摘にも九十九屋は気分を害した様子はない。臨也の手を掴んだまま、赤い舌先を覗かせた。ぬるりと爪先に触れた感触に思わず腕を引くと、九十九屋は双眸に愉悦を滲ませる。

「何をしてる」

臨也が引き攣った声で問い返すが、九十九屋は少しも悪びれない。とぼけたように目を丸く見開いて微笑む。

「特に意味はないさ。……でも、お前のそんな顔が見れるならもっとしてみたいと思えてくるな」
「悪趣味なやつ」
「なんとでも言えばいい。時間はこれからたっぷりあるんだ。もっと様々な表情を見せておくれよ」

低い囁きが耳朶を擽った。すっきりとしない蟠りは胸の中で澱んでいる。溜息をひとつ零し、臨也はその身を九十九屋に預けた。あたたかい胸の上で瞳を閉じれば、つめたい床の感触は次第に意識の奥底へと遠ざかっていく気がした。


end.




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