くちづけで奪う純情 <後>

※来神時代


放課後になると、臨也は席を立って真っ直ぐに門田の席へやって来た。ニコニコと笑みを浮かべながら門田の腕を強引に引いて歩き出す。女子生徒の羨む視線が刺さって痛かったが、門田は溜息を吐いて臨也に話しかけた。

「最近は図書室に来なかったのに、どうしたんだ?」
「別に?シズちゃんに追いかけられることが多くて来れなかっただけだよ」
「……読みたい本の傾向とかあるのか」
「特にないかな。ドタチンが読んで面白かったもの教えてよ」
「俺の好みじゃお前には合わない気がするが」
「そう?でも、この前の本は面白かったよ」

ぱっと振り返った臨也は邪気のない笑みを浮かべているように見えた。図書室へ向かう階段を上りながら、門田はさりげなく視線を逸らす。階段を上り切ると、まだ放課してから早い時間だからか、扉の前にある掲示板の横に数名の生徒がたむろしていた。先導して歩いていた臨也が扉を開けると、図書室の中には10名近くの生徒がいるようだ。盛況なことに安堵し、門田はさっさと適当な本を見繕ってしまおうと本棚へ向かう。臨也はしばらく門田のことを眺めていたが、司書教諭がカウンターにいることに気付くと話しかけに行った。カウンターに肘をつき、身を乗り出している様子にあの日の出来事がフラッシュバックしそうになる。門田は慌てて視線を本棚に戻すと、記憶を頼りに自分が面白いと思った本を数冊手に取っていく。数分間吟味し、その中から一冊の本を残して本棚に戻す。人間心理学に基づいたSF小説だが、臨也の好みに合う自信はない。しかし面白かったものを教えてと言われた以上は仕方がないだろう。本を片手にカウンターに入り、門田は教諭へ声を掛ける。

「先生、代わりますよ。俺が今日の当番なんで」
「あら門田くん、ありがとう。その本は……前に借りてなかった?」
「あぁ……これはこいつに。おすすめ教えろって言われたんで」
「ちょっとドタチン、俺は教えろなんて乱暴な言い方してないよ」
「相変わらず二人とも仲良しなのね。……それじゃあ私は奥で仕事をしてくるわ」

"仲良し"という言葉に言い返したい気持ちをぐっと堪え、門田は静かに首肯する。門田がカウンターの椅子に腰かけて貸出処理をしようとした時、教諭に話しかけたのは臨也だった。

「先生、俺も何か手伝いましょうか?」
「あら……折原くん、いいの?」
「えぇ。せっかく来たのに本借りて帰るだけじゃ味気ないですから」
「じゃあ返却本の整理をお願いしてもいいかしら。そうしてもらえると、門田くんも下校時刻ですぐに帰れるから」
「分かりました。ドタチン、手伝うね」

にっこり微笑んだ臨也が何を考えているのかは分からない。しかし、本を借りてすぐに帰るつもりがないという点に嫌な予感を感じた。ここで帰れと言えば教諭の心証に影響があるだろうと思い、門田は結局何も言い返せずに頷く。臨也は溜まっていた返却本を胸に抱えて歩き出した。すれ違う女子生徒が頬を赤らめていても気にする様子はない。門田はカードに日付を記入しながら横目で臨也の様子を伺う。迷いのない手つきで本を本棚に直し、男子生徒から本の場所を尋ねられれば淀みない口調で返答をした。そのうち数人の女子生徒にも話しかけられていたが、にこやかに応えて本を取りにまた戻ってくる。貸出処理を終えた門田が顔を上げると、視線が合って臨也は微笑む。

「どうしたの?」
「……いや……」

門田が歯切れ悪く答えると臨也は笑みを深くした。本を胸に抱えたままで少し屈み、顔を寄せてくる。反射的に身を引くが、それよりも臨也が囁きを落とす方が早かった。

「なに考えてるの?」

背筋が甘く震える。眇められた赤い瞳が言外に含みを持たせて門田を見つめていた。門田は手にしていたペンを強く握り直すと、臨也の肩をぐいと押し退ける。

「……別に、何も」

門田が本を差し出すと、臨也は興味深そうにタイトルを眺めて受け取る。ありがとうと微笑んで鞄に本を仕舞うと、ぱっと振り返って遠ざかっていった。門田は大きく肩を落として溜息を吐き出し、カウンターにやってきた生徒から本を受け取る。無心で何人かの貸出処理を行っていると、臨也は返却本の片づけを終えたらしかった。奥の部屋を覗き込んで教諭に声を掛ける。

「先生、終わりました」
「あら、ありがとう折原くん。貰い物の紅茶があるけど飲む?」
「いいんですか?」
「えぇ、こちらにいらっしゃいな」

教諭に手招きをされ、臨也は嬉しそうに部屋に入っていった。こっちは仕事をしているのに呑気なもんだ。そう思いながら門田は少し生徒が減った図書室の中を眺める。手持ち無沙汰にカウンター上に置かれていた図書便りに目を通していると、不意に鼻孔を甘い香りが擽った。視線を上げると、深紅色の液体が注がれた陶器のティーカップが差し出されている。更に上へ視線をずらせば、臨也が穏やかな笑みを浮かべていた。

「ドタチンにもって、先生が」
「……ありがとう」

門田は差し出されたカップを受け取って礼を口にする。視線が自然と逸れてしまい、臨也はそれに対して何か言いたげに眉を顰めた。しかし教諭から呼ばれたことですぐに部屋へ戻ってしまう。門田は黙ったままカップに口をつけ、紅茶を啜った。芳醇な香りが鼻から抜けていき、淀んでいた気持ちが少し晴れていく気がした。漏れ聞こえてくるのはなんてことのない世間話だ。教諭は仕事がてら話に付き合ってくれる臨也の存在が有り難いのだろう。門田は楽しげな笑い声を耳にしながら図書便りを読み進め、生徒が来れば貸出業務を行った。そうしている内にあっという間に30分が経過した。既に図書室内に生徒の姿は無く、門田は立ち上がって数冊の返却本を手に取った。今の内に溜まった分も片付けてしまおう。そう思っていると、奥の部屋から教諭が顔を覗かせた。

「門田くん、ちょっといいかしら」
「はい、どうしました?」
「コピー機の調子がおかしいの。折原くんも分からないらしくて」

手招きをされて部屋に入ると、教諭と臨也がコピー機の前に立っていた。教諭は手に書類を持っており、困った様子で眉根を寄せる。

「紙詰まりかと思ったけどそうじゃないみたいだし、クリーニングもしたんだけどね」
「印刷はできるんだけど……ほら、すごく汚いのよ」

門田は二人の言葉を聞きながらコピー機の上部蓋を開け、中を覗き込んだ。紙が引っ掛かっている様子もなければ、インクが減っている様子もない。差し出されたコピー用紙は文字が乱れ、掠れていてとても読めるような状態ではなかった。門田はひとしきり中を確認して、肩を竦めて教諭を振り返った。

「俺も分からないですね。事務室でコピーしてきた方がいいかもしれないです」
「あら……そうなの。明日、修理を呼んだ方がいいかしらね」

顎に手を添えて教諭は溜息を吐く。その後ろでコピー機を覗いている臨也を横目に、門田は口を開いた。

「あの、代わりに俺が行きましょうか」
「……いえ、門田くんは当番でしょ?それに、この書類はちょっと生徒には見せられないのよ。あ、今ちょっと見せちゃったけれど…」
「いえ、さっきは文字読めなかったですよ。安心してください」
「そう?じゃあごめん、ちょっと事務室にへ行ってくるわ。門田くん、留守番を頼むわね。折原くんも話に付き合ってくれてありがとう」

教諭は門田の申し出を丁重に断り、図書室を出て行った。部屋の中に二人だけで残され、門田は気まずさに歯噛みする。教諭の代わりにコピーに行ければこうはならなかったはずだ。せめてこの部屋から出た方がいいだろうと一歩踏み出すが、肩を掴まれて動きを止める。臨也が門田の肩を掴んだまま距離を詰めてきていた。下からじっと見上げられ、擦り寄るように腕を掴まれる。

「二人きりになっちゃったね」

臨也は茶目っ気たっぷりに笑ってみせるが、仄暗い部屋の中ではその笑みさえもがうすら寒く感じられる。門田は後退って距離を取ろうとするが、ぐっと腕を引き寄せられてそれは叶わなかった。ひんやりとした感触が頬に訪れたと思えば撫でられていて、薄紅色の唇がゆっくりと弧を描く。

「あは、ドタチン緊張してる?どうしたの?今日は様子がおかしいね」
「……臨也……」
「本、ありがとね。ゆっくり読ませてもらうよ」
「前に、貸した本……あれ、読んだことあったんじゃないのか」
「え?……うーん、そうだっけ?よく覚えてないけど、どうしてそう思ったの?」

臨也は突然の問いに僅かに虚を突かれた様子だったが、すぐにいつもと変わらぬ笑みを浮かべた。その答えが嘘かどうかの判断が出来ず、門田は黙り込むしかなかった。じわりと嫌な汗が額に滲んでいく。あれほどまでに深く触れ合っても、折原臨也という人間が少しも理解できなかった。甘えてきたと思っても、伸ばした手をすり抜けて行ってしまう。猫よりも気まぐれな性格に振り回されて、もう疲弊しきっていたのかもしれない。その証拠に、臨也が抱き着いてきても門田はすぐに反応することができなかった。

「ねぇドタチン、キスしよ」

臨也の瞳の中には燻ぶるような情欲が浮かんでいる。まるで血に飢えた肉食獣に捕食されるような錯覚に陥り―――気付けば門田は、臨也の身体を突き飛ばしていた。軽い身体は予想外の衝撃を受けて床に倒れ込み、臨也は呆然と門田を見上げた。大きく目を見開き、色を失った表情を浮かべる様子は初めて目にしたかもしれない。すぐさま我に返って手を伸ばしかけるが、門田はその手を強く握り込んだ。拳がギリッと嫌な音を立て、門田は視線を木の床に落とす。臨也の顔を見れば気持ちが揺らいでしまいそうで、それ以上視線を動かすことは叶わなかった。

「もう帰れよ。そういう気分じゃないんだ」
「……え?」
「それに、俺じゃなくてもいいだろう。お前は男女問わずモテるんだから」
「なに、言ってるの…?俺はドタチンだから―――」
「違うだろ。からかい甲斐のある相手なら誰でもいいんだ、お前は」
「ちが……」
「そんなにキスやセックスがしたいなら静雄に抱いてもらえばいい」
「―――、…ッ!!」

低い門田の呟きを耳にして、臨也は顔をカッと紅潮させた。深紅の瞳に怒りを浮かべて大きく手を振り上げる。鋭い動きで臨也の手が空を切るが―――それが振り下ろされることはなかった。宙でぴたりと止めた手を力なく下ろすと、臨也は肩を小刻みに震わせる。泣いているのかと門田は思わず息を呑むが、臨也は乾いた笑みを浮かべていた。引き攣った声を引き絞りながら笑い続け、やがて手の平で顔を覆う。

「……そう。君は……俺のこと、そう思ってたんだね」

臨也は消え入りそうな声で呟き、壁に背中を預けてその場に座り込む。子どものように膝を抱えて黙り込む姿は痛々しく、普段の門田であれば駆け寄っていただろう。しかし、冷静さを失っていた門田はそんな臨也を一瞥しただけで背を向けた。部屋を出てカウンターの椅子に座り、ちょうど入ってきたクラスメイトの女子生徒から本を受け取る。返却処理をしていると、後ろの部屋から足音が近付いてきた。門田は振り返らなかったが、女子生徒が訝しげに視線を上げたことで臨也が部屋を出てきたのだろうと判る。臨也は門田に声を掛けることもなく背後を通り過ぎると、静かに図書室から出て行った。女子生徒は臨也の背中を見送り、こてんと首を傾げる。

「今のって折原くん?彼、図書委員だったっけ」
「いや……ちょっと手伝いに来てただけだ」
「そうなの?なんか元気なさそうだったけど……」
「体調が悪いって言ってたから、それかもな」
「そうなんだ。インフルエンザも流行ってるし、ただの風邪ならいいね」

門田は心配そうに微笑んだ女子生徒に相槌を打つが、自分が上手く笑えている自信はなかった。


×


爽やかな笑顔で優しく微笑む臨也。それに応えるのは取り巻きの女子生徒たちだった。黄色い声を上げながら臨也の腕に腕を絡め、女子生徒たちは砂糖菓子のようにうっとりと甘い視線を向ける。新羅と屋上に上がった門田は、それを目にするなり眉を顰めて踵を返した。

「……岸谷、やっぱり教室に戻ろう」
「え?別にいいけど……あれ、臨也かい?君たち、最近一緒にいないね」

新羅は不思議そうに首を傾げる。ここ一週間ほど、決まって昼休みになると門田が呼びに来るのを疑問に思っていたのだろう。静雄はといえば今日はたまたま教室に残っているが、連れてこなくて本当によかったと思う。門田は僅かに言い淀みながら首肯し、息を吐き出す。

「まぁ……ちょっと色々あってな」
「珍しいね、喧嘩なんて。まぁどうせ原因は臨也の方にあるんだろうけど。因果応報、自業自得さ」

中学からの付き合いだというのに新羅はあっけらかんと言ってのける。その屈託のない口調に少し胸がすく思いになり、門田は曖昧に微笑んだ。

「しかし臨也も大人げないね。わざとあんな風に女子を侍らせるなんて。君に対する当てつけだよ、きっと」
「当てつけって……そんな大袈裟な」
「大袈裟なもんか。あいつは実に子どもっぽい奴だからね。さしずめ外巧内嫉ってところか」
「外巧内嫉…?」
「そう。涼しい顔をして君を羨んでいるんだ。きっと、意図して門田くんの視界に入ろうとしているよ」

少しも興味が無さそうな口調で滔々と新羅は語った。黙ったままの門田の顔を覗き込み、硝子の奥の瞳を眇める。

「君に妬いてほしいのさ」


×


12月も中旬を迎え、ちらちらと雪が降る日だった。あと数日で年内の登校は終わりを迎える。クリスマスが近いこともあり、クラス全体がどこか浮き足立った雰囲気に包まれていた。今日の日直は臨也だが、隣の席の女子生徒は風邪で休んでいる。4限目が終わり、日本史の教諭は教卓に広げていた資料を積み上げていく。今日の授業は資料が多く、片付けるのに時間がかかりそうだった。日直である臨也がすっと立ち上がって資料を受け取るが、二人でも持ちきれそうにない。その様子をぼんやり眺めていると、不意に教諭の声が門田へ飛んできた。

「おい門田、手伝ってくれないか」
「え……?」
「折原だけじゃ無理そうだ。ここの資料を運んでくれ」

断ることもできずに門田が立ち上がると、教諭の胸ポケットで携帯が震えた。軽く手を上げてこちらに断って話しはじめるが、教諭は長くなりそうだと判断したらしい。先に行ってくれとジェスチャーで言われ、門田は途方に暮れた。臨也は門田と一瞬視線が合うなり顔を逸らし、早足で歩き出す。門田は逡巡したが、残っていた資料を教卓から持ち上げて臨也に続いた。臨也を追って階段を下り、廊下を歩いて校舎の隅にある社会科資料室に足を踏み入れる。埃臭くて湿っぽい独特の空気を感じながら抱えていた資料を机に置く。臨也は迷うことなく資料を棚に戻していたが、門田は資料を戻すべき場所が分からない。せめて確認しようと棚を覗き込んでいると、振り返った臨也とばちりと視線が合ってしまった。

「……これ、どこに直すか分かるか?」

妙な緊張感の中で尋ねると、臨也は黙ったまま歩み寄ってきて門田が手にしている資料を奪い取った。乱暴な所作に苛つきそうになるが、ぐっと口を引き結ぶ。

「昭和の資料はこっち。明治は……こっち」

ほとんど呟くような声が聞こえてきて門田は顔を上げる。再び歩み寄ってきて資料を手にした臨也は色のない表情で門田を一瞥した。

「プリント類は先生の机の上に置いて。あとは俺がやるから、戻っていいよ」

静かな声は有無を言わせない。気圧されながら頷き、門田はプリント類を拾い上げて教諭の机の上に置いた。臨也は黙々と資料を棚に戻していたが、まだ時間がかかりそうだ。門田は手伝おうと手を伸ばしたが、棚を向いたままの臨也が鋭く言葉を発する。

「俺がやるからいいって言ったでしょ。昼休みなんだから戻りなよ」
「……二人でやった方が早いだろ」
「君は資料の場所分からないんだろ?教える手間が増えるだけだから手伝わなくていい」
「臨也」
「しつこいって…」
「昼飯、一緒に食わないか」

長い沈黙が訪れ、臨也の手から資料が抜け落ちそうになる。細い肩は僅かに震えていて、それが怒りと悲しみのどちらに起因するものかは分からない。臨也は資料を掴み直して棚に戻し、静かに唇を開いた。

「……遠慮しておくよ」

臨也の答えを聞いた門田は眉根を寄せたが、結局何も言い返すことはなく教室を立ち去った。一人残された臨也は軽く俯き、小さく鼻を啜る。自分の中に渦巻く感情を整理できないまま、臨也はただ機械的に資料を片付けていった。


×


終業式の日。一段と冷え込む空気に白い息を吐き出し、臨也は空を見上げた。今にも雪が降り出しそうな曇り空は憂鬱な気分を増幅させる気がする。今すぐにでも帰りたい気持ちをどうにか抑え込み、重い一歩を踏み出した。乾いたコンクリートを踏み締めていると、不意に友人の声が耳に届く。黒縁眼鏡の友人の顔を想起しながら振り返ると、その先には予想と異なる人物の姿。臨也は一瞬言葉を失い、その隣で長閑に微笑んでいる友人を睨めつけた。

「……新羅」
「おはよう、臨也。張眉怒目といった感じだね。どうしたんだい?」

分かっているくせに。そう言いたいのを堪えて臨也は前を向くが、肩に手を回されてしまう。払い退けたい気持ちで顔を背けるが、新羅は馴れ馴れしく身体を寄せてくる。

「寒がりな君のことだからそれで機嫌が悪いんだろ」
「違う。……なんだよ、朝から鬱陶しいな」

そう言いながらも視線が横に動いてしまうのを抑えられない。ニット帽を深く被った門田は、曇り空を見上げて静かに歩いていた。横目で門田の表情を窺っていると、不意に冷たい手が頬に触れて臨也は悲鳴を上げる。

「つめた……ッ!」
「あはは、いい反応するねぇ」
「新羅…………」
「そう怒らないでよ。今日で2学期も最後なんだからさ」

臨也は新羅を睨みながら溜息を吐く。これから2週間ほどこの鬱陶しい顔を見なくて済むと思えば気が楽になる気がしたが、それより現状が煩わしくて仕方がない。校門を抜けて歩いていると、靴箱に見覚えのある金髪を目にして立ち止まった。

「げ」
「え、なに?どうかした?」
「あそこ、シズちゃん」

臨也が舌を出しながら指を差すと、新羅は静雄の姿を確認して目を丸くした。それから納得したように頷くと、臨也に向かってにっこり微笑む。嫌な予感を覚えて手を伸ばすが、新羅はその手を避けて歩き出していた。

「君も今日ぐらい喧嘩したくないよね」
「新羅、ちょっと待っ…」
「僕は先に行くことにするよ。じゃあ門田くん、臨也、またね」

新羅はそう言うと、タータンチェックのマフラーを風に揺らしながら去っていった。臨也は伸ばしかけていた手を下ろし、横目で門田を見上げる。教室が一緒なだけに、ここで分かれるのも不自然だ。ちらりと見下ろされて心臓が跳ねるのを無視し、ゆっくり歩き出す。結局そのまま会話もないまま靴箱に辿り着き、その頃には静雄と新羅は階段を上りはじめていた。朝からバッティングしなかったことに安堵の息を吐いていると、不意に臨也の頭上に影が落ちる。

「大丈夫か」

耳障りの良い低い声が鼓膜を擽る。それほど近い距離にいるわけでもないのに、反射的に背筋が震えた。顔を上げると、門田が少し眉根を寄せて臨也を見下ろしている。どこか心配するような眼差しにずきりと胸が痛み、引き攣りそうになりながら無理に笑みを形作った。

「―――何が?平気だよ」

まだ何か言いたそうな門田を無視し、臨也は上履きに足を通す。スニーカーを靴箱に戻すと、早くも遅くもない速度で歩き出した。すぐ後ろを門田がついてくる気配があって安心した半面、そんな気持ちを感じている自分が情けなかった。冷たく跳ね退けてしまえばいいのに、結局そうすることが出来ない。自分の甘さを自覚しているからこそ、胸が重く苦しい。


×


クラス委員の号令でホームルームが終わり、門田は席を立った。冬休みに入ることもあり、教室内の喧騒はいつにも増して大きい。クリスマス遊ぼうね。年賀状贈るからね。そんな楽しげな会話が飛び交う中、ふと視線を斜め前に移動させた。臨也は席に座ったままで動こうとしない。ぼーっとしているのか、はたまた何か考えているのか―――分からなかったが、席を離れた門田は自然とそちらを目指して歩き出していた。

「臨也」

呼びかけてみるが、臨也は俯いたままで微動だにしない。漆黒の髪の中に渦巻く旋毛を見下ろして、門田は少し躊躇いながら言葉を続ける。

「……少し話がしたいんだ。一緒に帰らないか」

臨也は相変わらず黙り込んでいたが、やがて焦れるほどゆっくりと顔を上げて門田を見上げた。赤く輝く瞳が蛍光灯の下でやけに鮮やかで、空気が震えるほどの緊張感を感じる。いいか?と尋ねるように首を傾げると臨也はふいと顔を背けた。掛けていた鞄を掴むと、すたすたと早足で歩き出す。門田は呆気に取られた後、慌てて教室を飛び出した。生徒でごった返す廊下を器用に通り抜ける臨也を追いかけ、階段に差し掛かる直前で追いついて腕を掴む。その瞬間、階下にいた静雄と視線が合ってしまった。隣にいた新羅もこちらを見上げ、目を丸くしている。臨也は門田の手を振り払おうとしたが、階下にいる静雄と新羅に気付くと決まりが悪そうに俯く。どうしたものかと動きを止めていると、声を発したのは静雄だった。

「臨也くんよぉ……門田に迷惑掛けてンじゃねーだろうなぁ…?」

地を這うように低い静雄の怒声はその場の空気を凍り付かせた。臨也は静雄を見下ろして冷たく瞳を眇める。何も言い返すことはなかったが、静雄の怒りが増大するにはそれだけで十分だった。静雄は新羅の制止を振り切って階段を上り、こちらに近付いてくる。このままでは静雄に追われて臨也も逃げ出し、曖昧になってだろう。門田は臨也の身体を引き寄せて自分の後ろに追いやると、大きく両手を真横に広げた。

「……門田?」
「すまない静雄、臨也を殴るのは後にしてくれないか」
「そいつと、揉めてんじゃねぇのか…?」
「今から話をするところだから、平気だ。心配してくれたんだろ?ありがとな」

静雄は訝しげに門田を見上げていたが、落ち着いた口調に納得したらしくに頷いた。握り込んでいた拳を解いて階段を下り、門田に向かって軽く手を振る。

「そいつがごねるようなら連絡しろよ。俺がぶん殴ってやる」

そう言い捨てて静雄は去っていく。新羅は少し心配そうにこちらを見たが、臨也に向かって手を振って静雄の後に続いた。二人を見送って門田は後ろを振り返る。臨也はその場に留まっていたが、どうにも居心地が悪そうに俯いていた。門田はどうしたものかと頭を掻き、迷いながら臨也の腕をそっと掴む。振り払おうと思えば簡単に振り払えるほどの力だったが、臨也は視線を少し上げただけでもう逃げようとはしなかった。図書室に行くのは憚られ、臨也を連れたまま行く宛てもなく廊下を彷徨う。

「どこ行くつもり?」

ぽつり漏らされた言葉に振り返ると、臨也が門田の手をぐいと引っ張った。制止する間もなくそのまま手を引かれ、門田は臨也についていく形になる。靴箱へ向かう生徒たちの波を逆方向に歩き、階段を上って辿り着いたのは他学年の空き教室だった。少し離れた教室からは声が聞こえてきたが、誰かが入ってくるような様子はない。臨也は教室に入るなり窓のカーテンを全て引き、扉も閉めてしまう。電気が点いていない教室は薄暗く、門田はその場に立ち尽くしたまま臨也が戻ってくるのを待っていた。

「話ってなに」

適当に引っ張り出した椅子に腰掛け、臨也はそう切り出した。視線は門田に向けられることなく、床を見つめている。門田も向かい側の席にある椅子を引っ張り出して腰掛け、机に肘をつく。

「分かってるだろ。この前の……話の続きだ」
「俺を突き飛ばした時の話?」
「……あれは……悪かった。突き飛ばすつもりは無かったんだ」
「へぇ」

臨也は気のない返事をして薄い笑みを浮かべた。氷のように冷たい笑みを目にして、門田は思わず言葉に詰まりかける。

「……言い方も、悪かったとは思う。ただ、俺はお前の本心を思って言ったんだ」
「本心?ドタチンは俺の本心が分かるんだ?」
「分かる、と思っている」
「随分と自信ありげだね。じゃあ言ってみなよ」

臨也は脚を組んで、ようやく床から視線を上げた。顎を持ち上げて門田を見下すように睨めつける。赤い虹彩が燃えるように輝いていた。

「お前は……俺に付き合おうと言ってきたが、本当に好きな相手は俺じゃない。俺が薦めた本だって、前に面白くないと一蹴していたって知ってる。それなのに俺が薦めたら面白いと言ったり……俺をからかって反応を楽しんでいた。結局、お前は一般人の俺よりもずっと強くて興味深い静雄に惹かれてるんだ。あいつに執着してるからこそ、毎日のように喧嘩をする。静雄に対するような執着を俺に対して見せたことは無かった。それが証拠だ」

門田が淀みなく話し終えても、臨也は口を開かなかった。こちらを見つめたままで表情をぴくりとも変化させない。門田は迷いながらも視線を上げ、再び口を開く。この言葉を言えば、何かが壊れてしまう―――そんな自覚は往々にしてあった。

「お前は、静雄のことが好きなんだろう」

椅子を大きく鳴らして、臨也は弾かれたように立ち上がった。一気に門田まで歩を詰めると手を伸ばす。気付けば門田は胸倉を強く掴まれていて、首が締まる感覚に咳き込んだ。視線を持ち上げると、臨也の瞳は昏く淀んでいる。背筋をぞっと冷たいものが走り、息を呑むと首筋に鋭利な感触が訪れた。臨也は一瞬でナイフを取り出していたらしく、瞳を眇めて門田に顔を寄せた。

「……冗談でも許せないよ」
「冗談を、言ったつもりはないんだが……な」
「それなら尚更だ。―――本気で、そう思ってるんだ?君は」
「……図星だから、こんなことをしてるんじゃないのか」

少しでも手を動かされれば皮膚が裂けてしまうと理解しているのに、頭はどこか冷静だった。門田が静かに言い返すと、臨也が数拍ののちにナイフを持った手を離した。俯いたままの表情は陰になっていて窺えない。手を伸ばすのも憚られて門田が口を閉ざしていると、掴まれたままの胸倉に軽く力が籠められるのを感じた。臨也の手は力が入りすぎて真っ白になっていて、ひどく痛々しい。臨也は不明瞭な言葉を何度も繰り返していて、門田は迷いながらも胸倉を掴んでいる手に触れた。門田はその手を握り込みながら言葉を紡ぐ。

「なぁ臨也……もう終わらせよう。こんな関係、続けるだけ不毛だろう」
「なんで、そんなこと……ッ!ドタチンは、俺のこと好きなんじゃないの…!?」
「好きだよ。だからこそ、もう終わらせるべきだって言ってるんだ」
「じゃあ、俺の気持ちは!?」

臨也はばっと顔を上げ、食らいつくように門田を睨みつける。瞳には涙が滲んで充血していて、激情に大きく揺らいでいた。門田にやんわりと制止されても構わず、胸倉を掴んだ手を激しく揺さぶる。

「俺の気持ちは、どうなるの!?このまま捨てるなんて、できない…っ」

動揺した門田が口を開くよりも早く、臨也は泣き濡れた声を絞り出す。今にも涙が零れ落ちそうな瞳が門田を真っ直ぐに射抜いた。

「俺が好きなのは、ドタチンだよ」

教室内に静寂が訪れ、やがて臨也がしゃくり上げる声だけが響いた。冷たい涙が門田の頬をぽつりと濡らす。門田は胸倉を掴まれたまま呆然と臨也を見上げ、震える唇をゆっくりと開いた。

「だって……お前、静雄のことを……」
「違う。シズちゃんのことは好きなんかじゃない、大嫌いだ。だから毎日のように殺し合う……それだけだ。本を薦めてほしかったのだって、ドタチンの好きなものを知りたかったから。君が薦めてくれただけで、つまらなかった本も面白く思えた。嘘なんかじゃ、ない……俺が好きなのは君だけだ」
「―――本当に、俺のことが好きなのか…?」
「これ以上、ドタチンに嫌われたくない。離れたくなんか、ない……」

それはあまりにもストレートな愛の言葉だった。言葉の語尾は震えて掠れきっている。ぐすぐすと鼻を啜る臨也は綺麗な顔をすっかり歪めており、痛ましいことこの上ない。門田は堪えきれずに手を伸ばし、臨也の身体を抱き寄せた。華奢な身体は容易に門田の腕の中に収まってしまう。強張っている肩の力が抜けるように背中をなるべく優しく撫で、臨也の額を自分の肩に押し付けさせる。じんわりと互いの体温が溶け合ってきた頃には臨也も少し落ち着いたようで、ゆっくりと顔を上げて門田を見上げた。門田は泣き濡れたままの臨也の頬に手を伸ばし、雫をそっと拭う。

「臨也、ごめんな。俺は勘違いをしていたらしい」
「……うん……」
「お前が静雄のことを好きなら、もう限界だと思ったんだ。でも、俺は……俺も、お前のことを諦められそうにはない」
「そんなの、俺だって同じだよ」

涙を拭った臨也は視線を逸らすことなく門田を見つめる。迷いのない眼差しを受けて、門田は柔和に微笑んだ。まだ冷たい頬を両手で挟み込んで顔を寄せる。少し乾いた唇に優しくキスをした。

「ほら、もっと……できなかった分の埋め合わせ、してよ。そしたら許してあげるから」

不遜な臨也の声はどこまでも甘ったるい。強請るように首に回された腕に誘われ、門田は再び臨也に口づけた。あの時のセックスよりもずっと深く混ざり合えている気がする。脳髄まで溶かされてしまいそうな錯覚に溺れながら―――門田は細い身体をより強く抱き寄せた。


end.




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