くちづけで奪う純情 <前>

※来神時代



最初はちょっとした好奇心だった。

岸谷新羅のように歪んだ愛を抱いているわけでもない。平和島静雄のように人ならざぬ怪力を持っているわけでもない。獅子崎一のように常に一枚上手を行く存在でもない。ただ、普通の人間。それなのに―――門田京平というごく普通の人間は、ある意味とても異質だった。同じクラスになったのがきっかけだったとはいえ、門田以外の男子生徒は積極的に臨也と関わろうとはしなかった。成績は常に上位をキープしていたし、人当たりの良さには自信があった。しかし、臨也が静雄と喧嘩をしたり女子生徒に人気があることを知れば自然と男子生徒たちは距離を取っていく。避けられたり疎まれたりすることは極めて少なかったが、新羅と交流があることも距離を取られる原因の一つだった。中学時代から変人として有名だった新羅の友人だと知れば誰しも一歩引いた。臨也としてはそれさえも面白くおかしく人間観察をしていたが―――門田はそんな臨也に怖気づくことなく近付いてきた。門田は何かの見返りを求めることもなく、臨也に多少なりとも面食らった。新羅は友人ではあるが、『普通の友人』というポジションからは大きく逸脱していた。門田京平は、臨也にとって初めての『普通の友人』になったからだ。臨也と静雄の喧嘩を呆れながらに傍観し、臨也が怪我をすれば心配してみたり、臨也が誰かを騙せば窘めてきたり。臨也は最初こそ戸惑っていたが、次第に門田からもたらされる優しさに慣れていった。


×


「放っておいてくれればいいのに」

しかしそれを重荷に感じた臨也は、一度だけそんなことを言ったことがある。静雄との諍いが続いていたことで半ば自暴自棄になっていたのかもしれない。差し伸ばされた手を払い退けられた門田は大きく目を見開いた。黙ったまま視線を落とした臨也に何かを言い淀み、やがて門田は苦笑を漏らした。

「放っておけたらどんなにいいだろうな」

苦み走った笑みともに告げられた門田の言葉には、今までに聞いたことのない響きが含まれていた。顔を上げた臨也の肩に門田の骨ばった指先が触れる。濃茶の虹彩が僅かに揺れ、そっと伏せられた。それを目にした瞬間、臨也の中で何かがゆっくりと崩れ落ちていく。しかし臨也はそんなことに気付かないまま、導かれるように門田の手を掴んだ。驚いている門田の顔を覗き上げ、臨也は口角を吊り上げる。唇を薄く開けば、考えるよりも先に言葉が零れ落ちていった。

「俺のこと、好きなんだ?」

意地の悪い言葉だと自分でも思った。微笑みを貼り付けた臨也に対し、門田は硬直していた。更に顔を寄せると、動揺を隠せないまま門田は一歩後退る。

「……どうして」
「どうして?実に分かりやすいよ、君はね」

言葉を失った門田の頬に手を這わせる。臨也が細い指先で皮膚を撫でると、門田の肩は大きく跳ねた。臨也は微笑みを深くして耳朶に唇を寄せる。

「ねぇドタチン、俺たち付き合おうか」

つめたい毒を孕んだ甘言が門田の鼓膜を揺さぶる。紅玉の瞳が獲物を射抜くように細められた―――それは『普通の友人』という関係性が崩壊する合図だった。


×


放課後の図書室が好きだった。部活動に所属している生徒が多いため、必然的に放課後に図書室に立ち寄る生徒は多くない。図書委員会に所属している門田は、部活動が休みの日には必ず図書室に訪れて貸出や返却の業務を行っていた。利用生徒が少ないため、カウンターに座っていてもやること自体は少ない。司書教諭は資料の購入や廃棄などの管理業務、事務室での雑務のために席を外すことも多い。そういった際に留守を任されることも多く、暇な時は自分の好きな本を読んで静かに過ごしている。図書室は誰にも邪魔されない、自分だけの聖域だと思っていた。そう、つい先刻までは―――。

「臨也ァアアアア!!」

中庭から聴こえてきた怒声に読書をしていた門田は顔を上げた。続けて金属がぶつかるけたたましい音が響き渡る。読みかけの文庫本に栞を挟み、門田はカウンターから立ち上がった。下校時刻まで30分ほどになり、図書室には門田以外の生徒の姿はない。静かな図書室の中を歩いて窓際に向かい、鍵を開けて窓を開け放つ。真下にある中庭を覗き込むと、金属製の手押し車が妙な形にひしゃげて転がっていた。綺麗な芝生は所々が抉れており、美しい景観はすっかり損なわれてしまっている。その中庭の端を一人の少年が駆け抜けた。艶やかな漆黒の髪を持つ痩身の男子生徒は背後を振り返り、自らを追ってくる相手に向かってウインクを飛ばす。

「シズちゃん、遅いよー!君はもっと身軽になるべきだね」
「うるっせぇええ!お前がノミみてぇにちょこまか動き回りすぎなんだよッ!!」

臨也を追いかけていた男子生徒―――静雄は金髪を振り乱して叫ぶ。距離が離れているせいでよく見えないが、静雄は無数の青筋を浮き上がらせていることだろう。臨也は軽々と花壇を乗り越えて去っていく。静雄もまた、ハードル競技に使うポールを手に持ったまま臨也を追いかけて消えていった。荒された中庭を眺めながら門田は静かに窓を閉める。鍵を掛けていると、不意に図書室の扉が開く音がした。こんな時間に利用者の来訪かと門田は視線を入口へと移す。そこには、胸に書類を抱えた司書教諭が立っていた。教諭が困ったように眉根を寄せているのを目にして、門田は首を傾げながら歩み寄る。

「先生、どうかしましたか」
「門田くんごめんなさいね、今から職員会議なの。私すっかり忘れてて。戸締り、お願いできるかしら?」
「こんな時間に会議ですか?」
「最近、他校生徒との揉め事が多いでしょう?その件で緊急会議だそうよ」
「……それは……そうですか。戸締りは俺がしておきます。鍵は職員室に戻せばいいんですよね」
「えぇ。ありがとう、よろしく頼むわね」

ぱたぱたと職員用のスリッパを鳴らしながら女性教諭は階段を下りていく。その背中を見送って門田は静かに扉を閉めた。他校との揉め事に関しては門田も無関係ではない。静雄ほど派手に立ち回ってはいないが、喧嘩を売ってきた他校の生徒ならば何人も殴り飛ばしていた。多くは静雄の噂を聞き付け、好奇心で乗り込んでくる馬鹿ばかりだった。その噂を流布しているのが誰かなのかは想像に難くない。溜息を吐いた瞬間、門田は扉の向こう側に誰かの気配を感じた。ばっと顔を上げると、扉の硝子の向こうには今しがた脳裏に浮かんだ顔がある。臨也はにっこりと微笑みながらコツコツと爪先で硝子を突く。

「……お前、なんで……」
「ドタチン、ここ開けてよ。シズちゃんに追われてるんだ」

一瞬、このまま鍵を掛けてやろうかと思ったが門田の手は自然にドアノブを掴んでいた。ゆっくりと押し開くと、臨也は猫のように音もなく身体を滑り込ませる。

「助かった。あいつ本当にしつこくてさぁ」
「どうせ嫌がらせでもしたんだろ」

ぱたぱたと砂埃を払いながら愚痴を零していた臨也は、門田の指摘に唇を尖らせた。心外だと言いたげに赤い舌を出す。

「酷いなぁ。俺はただ新羅と話してただけだよ。そこに割り込んできたのはシズちゃんの方」
「……岸谷も人気者で苦労するな」
「あいつの友達なんて俺とシズちゃんしかいないからね」
「それをお前が言うのか?」

臨也の鼻先が黒く汚れていることに気が付き、門田はポケットからハンカチを取り出す。臨也の肩を掴んで優しく肌を拭ってやると、汚れはすぐに落ちた。

「なんか汚れてたぞ」
「んー、なんだろ?土かなぁ」
「お前、あんまり汚れてるなら入ってくるなよ」
「そんなに汚れてないけど……。分かったよ、上は脱ぐから」

門田の胡乱げな視線を受けて臨也は肩を竦める。上衣を脱いで丸めると、小脇に抱いて門田の背を押した。門田はカウンターに入って椅子に座る。臨也は行儀悪くカウンターに腰掛け、上衣を端に置いた。それから読みかけの文庫本の表紙を細い指先でなぞる。

「あれ、ドタチンしか居ないの?」
「最後の一人は10分ぐらい前に帰ったからな。先生も会議があるんだと」
「戸締まり任されたんだ。信頼されてるね」

その言葉に含みを感じて門田は眉根を寄せる。臨也の手から文庫本を取り上げて鞄に仕舞うと、カウンターに肘をついた。

「……図書室で何かあれば俺のせいになるんだぞ」
「大丈夫だって。シズちゃんにこの棟に入るのは見られてないから」
「本当か?」
「俺だってここで暴れるつもりはないよ。それに、あいつが来てもドタチンが匿ってくれればいいんだし」

臨也がにこりと微笑んだ瞬間―――階下から大きな足音が響いてきた。乱暴な足音は止まることなく真っ直ぐに上を目指している。門田は咄嗟に臨也の肩を掴んでカウンターの下に押し込めた。返却されたばかりの本が並ぶ棚から数冊の本を手に取り、カウンターの上に積み上げる。門田が息を吐く暇もなく扉がガチャリと開かれ、視線の先で鮮やかな金髪が揺れた。

「……門田、ここに臨也の野郎が来てねぇか?」

鳶色の瞳を鋭く眇めながら、静雄はカウンターの方へ歩み寄ってきた。門田は視線を下に落としたいのを堪えて首を横に振る。

「いや、来てないな」
「クッソ……ここでもねぇか……」
「また揉めたのか?臨也の方から吹っ掛けたんだろう」

同情するように呟くと、少しは溜飲が下がったのか静雄は黙って頷いた。静雄は握り締めていた拳をゆっくりと解き、カウンターに手をついて積み上げられた本を覗き込む。静雄の身長が高いこともあり、カウンター下に隠れている臨也が見えてしまわないかハラハラする。門田はごくりと唾を飲み込み、種類別に本を並べはじめた。作業の邪魔になると思ったのか、静雄は反射的に身を引く。

「あぁ……悪い。仕事中だったんだな」
「いや、平気だ」
「すげぇ量の本だな。これ全部、今日返却されたのか?」

静雄は目を丸くして本を眺める。門田としては内心早く出ていってほしかったが、急かして訝しまれたり機嫌を損ねては洒落にならない。意識して柔和な笑顔を浮かべて、門田は静雄に応える。

「あぁ。先生が会議に行ってしまって仕事が溜まっててな」
「そうなのか。邪魔しちまって悪かった」
「俺も力になれなくてすまない」

門田が謝ると、静雄は僅かに表情を緩めた。微かに笑顔を浮かべるとやはり少し弟に似ている。いつもそうやって笑っていれば女子生徒たちから避けられることもないだろう。しかし、それを阻んでいるのは静雄自身の性格だけではない。門田がぼんやり思案していると、スラックスを何かが引っ張る感触があった。下を見てしまいそうになるのを堪え、門田は視線を静雄へ向ける。

「臨也は……あいつのことだ、先に帰ってるかもしれない。お前も帰ったらどうだ?」
「そうだな。門田は帰らないのか?」
「俺はまだ仕事があるからな。終わったら帰るさ。もうすぐ下校時刻だしな」

時計を指し示して言うと、静雄は頷いて片手を振った。門田が手を振り返せば静雄はすたすたと歩いていく。静雄が何事もなく出て行ったことに胸を撫で下ろし、門田は深く息を吐き出す。扉が閉まった直後、臨也がカウンター下からひょこりと顔を覗かせた。

「やっと出て行った?」
「……臨也……」
「本当にしつこくて嫌になっちゃうよ」

首を左右に振ると臨也の髪がぱさぱさと門田の膝あたりに触れる。くすぐったい感触に顔を顰め、門田は手を伸ばして臨也の肩を掴んだ。

「いい加減に出てこい」
「はいはい」

するりと抜け出した臨也は大きく伸びをし、カウンターに腰掛けようとする。しかし門田にパシリと手を叩かれて唇を尖らせた。

「なに」
「そこは座る場所じゃないぞ。向こうに椅子があるから取ってこい」

門田はカウンターの向こう側に並ぶ椅子を指差したが、臨也はそれを軽く無視して門田の膝の上にすとんと座った。ニコニコと微笑みながら門田の頬をそっと撫でる。

「椅子持ってくるのは面倒だし、俺はここでいいよ」
「お前、さっきの話聞いてたか?」
「え?」
「先生がいないから仕事が……、っ」

門田の言葉が遮られたのは臨也が急に身を乗り出したからだ。膝に乗られた状態でぎゅうっと強く抱き付かれ、思わず硬直する。鼻先に柔らかい黒髪が触れ、ふわりと甘い香りが門田の鼻孔を擽る。それがシャンプーなのか整髪料なのか香水なのか―――そんなことを考える余裕はとても無かった。少し身体を離した臨也は下から門田の顔を覗き込んで口づける。少し湿った感触を感じたと思えば、真っ赤な舌先が試すように門田の唇を舐め上げていた。

「ドタチン」

興奮しているのか、臨也の声は微かに上擦って掠れていた。ルビーに似た虹彩が門田をじっと見上げる。甘えるよう臨也の目が眇められた瞬間、門田の理性がどろりと溶けていく。骨ばった指で臨也の顎を掬い上げ、顔を覗き込んで唇を奪う。柔らかな唇を食むように何度か触れ、熱い舌先を捻じ込んだ。誘うように口腔内で蠢く舌を絡め取り、強く吸い付く。臨也の手が縋るように門田の上衣を掴んだ。臨也の身体が傾きそうになり、門田は細い腰を引き寄せる。それに伴うように口づけも深くなり、臨也は息苦しさで小さく呻いた。呼吸が出来るように門田が唇を離すと、臨也は呼吸を整えて手を伸ばしてくる。冷たい指が首の後ろに触れるのを感じながら、門田は臨也にもう一度口づけた。酩酊が深くなるほどに酸欠で頭がくらくらと揺れ、まるで酒に酔っているような錯覚に陥っていく。呼吸のために僅かに離れた唇同士が触れようとした瞬間―――濃密で甘美な接触は唐突に終わりを迎えた。

キーンコーンカーンコーン……。

頭上にあるスピーカーから下校時刻を知らせるチャイムの音が大きく鳴り響く。びくりと肩を跳ねさせた門田に対し、臨也は顔を上げて静かに首を傾げる。

「あれ、もうそんな時間?」

臨也は至極つまらなさそうに呟くと、門田の顔を覗き込んで微笑んだ。まだ熱い頬を撫でられて門田は軽く仰け反る。僅かに残る興奮を誤魔化すように臨也を膝から降ろすと、不満げな声が上がった。

「えー、もう終わり?」
「……下校時刻を過ぎたら怒られる」
「ドタチンってほんと生真面目だよねぇ」
「臨也、お前も本片付けるの手伝え。鍵も返却しなきゃいけないんだからな」
「なんで俺まで……はいはい、分かったよ」

門田にギロリと睨まれて臨也は肩を竦める。カウンターの上にあった数冊の本を抱えると、表紙とタイトルを確認して本棚へ戻していく。図書委員である門田に尋ねることもなく片付けられるのは、臨也自身も読書が好んでいるからだろう。静雄に追われていない暇な時間はもっぱら図書室に居るのが常だった。思えば、親交が深まったきっかけの一つが図書室での会話だったかもしれない。胸に抱えた本を本棚に戻しながら、門田は臨也と知り合ったばかりの頃を思い返す。最初に話したきっかけや内容は忘れてしまったが―――クラスの中でも端麗な容姿で臨也は目立っており、そんな臨也を図書室で見かけた門田の方から話しかけたはずだ。短い会話を何度か交わし、臨也は門田を見上げて美しい笑みを浮かべた。それから、薄紅色の唇が「君、面白いね」と動く。それを妙に感慨深く門田は覚えていた。言葉の中に含まれた僅かに見下すような響きが引っ掛かったのかもしれないが。

「ドタチン、終わったよ」

軽く肩を叩かれて振り返ると、臨也が門田を見上げながら不思議そうに首を傾げていた。門田は適当な返事をしながら最後の一冊を本棚に戻す。図書室を出て施錠していると、臨也は小脇に抱えていた上衣を広げて羽織った。所々に土埃が付着していて、臨也はそれを指で軽く払う。

「あーあ、汚れてる」
「喧嘩なんかするからだろ」
「ドタチンだって喧嘩するじゃん」
「俺は必要最低限な範囲でしかやってないぞ」
「それなら俺も同じだよ。正当防衛しかしてないもん」

お前の場合は必要以上に相手を煽ってるし過剰防衛だろ。もんって何だ、もんって。そう言いたいのを門田は必死に堪えた。鍵を手に持って階段を降り始めると、臨也もそれに続く。鞄から取り出したマフラーを首に巻きながら、臨也は柔和な笑みを浮かべて門田を見つめる。

「ねぇドタチン、一緒に帰ろうよ」
「家の方向違うだろうが」
「途中まで一緒なんだからいいでしょ」
「……また家まで送れとか言うんじゃないだろうな……」
「言わないって。今日はシズちゃん居ないし」

いいでしょ?そう問いかけながら臨也は門田の腕に腕を絡ませる。甘えるように赤い瞳が門田を見上げた。階段の窓から差し込む夕日を浴びて、臨也の瞳がいっそう深い赤に染まっている。触れ合った場所からじわりと広がっていく臨也の体温を拒むこともできず、門田は溜息を吐きながら首肯した。臨也は嬉しそうに微笑むと、門田の腕に頭を擦りつける。小さな頭をそっと押し返しながら、門田は手中の鍵を意味もなく弄んだ。


×


「あいつに構うのはやめとけ」

低く抑えた声で忠告され、振り返った門田は瞠目した。視線の先に立っていたのは金髪の男子生徒で、眉間に深く皺を刻んでいた。少しよれた制服の上衣を乾いた秋風にはためかせ、門田に向ける視線を強める。門田は軽く嘆息すると、困ったように眉根を寄せた。

「急にどうしたんだ、静雄」
「急じゃねぇ。あのクソ野郎に関わるとろくなことが無いぞ」
「……そうだな。それは否定しない」

苦笑を漏らしながら肯定すると、静雄の体温が僅かに上がった気がした。まだ顔に青筋が浮き上がっていないことを確認すると、門田はざらついた壁に背中を押しつけて凭れ掛かる。

「分かってんなら構うのを止めろよ」

苛立ちを堪えられない様子で静雄は呟いた。鳶色の瞳の中には明確な怒りが浮かんでいて、思わずぞくりと背筋が震える。門田はそっと息を吐き出しながらおとがいを上げ、できるだけ静かに言葉を紡ぐ。

「そうだな。でも、俺は肩入れしてるわけじゃないぞ?」
「………………」
「あいつは確かに面倒だし捻くれているが、俺は悪い奴だとは言い切れないんだよ」

門田の言葉を聞いた静雄は舌打ちを零す。拳を強く握り締めたが、自分の感情をなんとか抑え込んだようだった。大きな溜息を吐き出すと、踵を返して去っていく。屋上の扉が強い力で僅かに軋んだ状態で閉じられる。鬼神の怒りを避けることになんとか成功し、門田は安堵の息を吐き出した。コンクリートの地面に転がり、眩しい日差しを遮ろうと手を翳す。門田の頭上に、青空を想起させる爽やかな声が降ってきたのはその時だった。

「やぁドタチン。奇遇だね」
「……臨也」
「たまたま昼寝をしてたらシズちゃんが来るから驚いたよ」
「お前、ずっと隠れてたんだろ」
「やだなぁ、隠れてなんかないよ。たまたま死角にいただけで」

人好きのする柔和な笑顔は、臨也の性格を知らない者であれば男女を問わず魅了してしまうだろう。艶やかな黒髪に紅玉のような赤い瞳、整った鼻梁と白く透き通った肌―――どれを取っても眉目秀麗という言葉が相応しい。柔らかな笑顔を浮かべたまま、臨也は寝転がったままの門田を上から覗き込む。

「それにしても、ドタチンが俺のことを褒めてくれるなんて嬉しいなぁ」
「褒めたつもりはなかったが」
「そう?それでも俺は嬉しかったよ」

ようやく身を起こした門田は、頭を掻きながら臨也に視線を移す。ニコニコと笑ってはいるが、どうにも言葉と表情が噛み合っているように思えなかった。そのどちらもが薄っぺらく、ひどく嘘臭く感じられるのだ。

「にしても、シズちゃんったら本当にしつこいなぁ。最近やけにドタチンにも突っかかるよね」

臨也の言葉は軽かったが、表情は苦々しく歪んでいた。美しい顔を惜しげもなく歪める様を目にして門田の心に靄が立ち込める。人間をこよなく愛してやまない臨也は、人ならざる怪力を持つ静雄を忌み嫌っている。静雄と臨也が互いに向ける感情は嫌悪という域を超えているように思えた。臨也の根底には静雄に対する歪んだ愛憎がある―――門田はそう考えていた。門田が複雑な気持ちを持て余していると、臨也は虹彩に愉悦を滲ませる。屈み込んでぐいと距離を埋め、門田の首にすんなりと手を伸ばす。拒む隙も与えられなかった門田は容易に捕らえられてしまった。

「いざ……」
「ドタチンは俺のお気に入りなんだからさ」

言葉だけを聞けばとんでもない殺し文句だろう。しかし臨也が舌に乗せて吐き出した言葉には多分に含意がある。その証拠に、臨也は形の良い唇を吊り上げて怖気がするほど美しい笑みを浮かべた。動けないままでいる門田の頬を細い指先で撫でる。

「本当に腹が立つよ」

声には冷たい怒りが孕んでいた。門田は臨也の表情を窺おうとしたが、それよりも早く臨也の手に肩を強く引き寄せられてしまう。臨也は膝立ちになった状態で門田の唇を奪った。驚きに目を見開いた門田はくぐもった声を上げるが、臨也はそれを無視して指先を肩に食い込ませる。思いのほか強い力に抵抗する気も無くなり、門田は静かに目を伏せた。もっとと強請るように体重を預けてくる臨也の腰を掴み、ゆっくり引き寄せる。柔らかく薄い唇を味わうように何度も触れるだけの口づけを繰り返す。

「っ、ふ……ぅ……」

口づけの合間に零れる甘い声に理性がぐらつくのを感じた。門田は引き寄せた臨也の腰を強く掴み、口づけを更に深める。僅かに開いた唇の間から舌先を忍び込ませた。舌先がざらりと触れ合うと、臨也の肩がぴくりと跳ねる。薄く開いた瞳でそれを目にした門田の頬は自然と緩んでしまう。臨也の舌を器用に絡め取り、甘く吸いついて歯を立てる。じゅわりと溢れてきた唾液を飲み込み切れず、臨也の口の端からは銀の糸が伝っていった。やがて互いの息が荒くなってきたことを感じて門田は顔を離す。臨也は白い頬を紅潮させたまま口元を拭い、妖艶な笑みを浮かべた。

「積極的だね、ドタチン」
「……お前が煽るからだろ」
「おや、責任転嫁かい?煽ったつもりはないんだけどなぁ」

くすくすと笑いながら臨也は指先で門田の喉仏に触れる。つっと撫でられるだけで劣情を煽られそうになり、門田は細い手首を掴んだ。

「やめろ」
「アハハ、冗談だって。そんな顔しないでよ」

険しい顔をした門田を軽くあしらいながら臨也は立ち上がった。汚れてしまったスラックスの膝を払い、ひらひらと手を振って踵を返す。風に吹かれて短ランの短い裾がはためいた。

「もう5限目始まっちゃうよ。俺は先に戻るから」

臨也の言葉に門田はポケットから携帯を取り出す。昼休み終了5分前であることを確認している間に臨也の姿は屋上から消えていた。門田は深い溜め息を吐き、真っ青な秋空を見上げる。

「……すっかりあいつのペースだな」

低い呟きは誰にも聞かれることなく、乾いた風に浚われて溶け消えた。


×


演劇部に所属する友人に学園祭の手伝いをしてほしいと頼まれたのは10月初旬のことだった。演者は足りているが、稽古に集中しなければいけないため小道具や背景の制作が追い付いていないらしい。最初は断っていた門田だったが、直接面識のない演劇部の生徒にも頼まれるようになり次第に断れなくなってしまった。数日が経過した頃、しぶしぶ了解の返事をするとその日の放課後から来てほしいと言われた。図書委員の仕事をしばらく休ませてほしいと司書教諭に伝え、門田は一人で演劇部室がある文化棟へ向かう。教室のある棟からは距離があり、外に露出した渡り廊下を歩かなければならなかった。秋も深まってきて吹き付ける風は冷たい。肩を竦めながらコンクリートの地面を踏み締めていると、頭上から誰かの声が降ってくる。と同時に門田の数歩前にナイフが落下してきた。銀色の刃が日射しを受けてギラリと輝き、門田は反射的に後退る。見覚えのありすぎるデザインのナイフに顔を上げると、屋上から黒髪がちらりと覗いた。

「あっドタチン」
「臨也……お前、ナイフは投げるなって言っただろ」
「ごめんごめん、すっぽ抜けちゃってさ」

臨也は軽い調子で言いながら壁を伝って降りてきた。しなやかで無駄のない柔軟な動きは猫を思わせる。落ちていたナイフを拾い上げて仕舞うと、臨也は門田の腕をぐいと引っ張って微笑んだ。

「文化棟に用事なんて珍しいね。どこへ行くんだい?」
「ちょっと演劇部の手伝いにな」
「演劇部?ドタチン、学園祭の演劇に出るの?」
「出ねぇよ。俺は裏方の手伝いに……」

そこまで言って門田は口を閉ざした。不思議そうに目を丸くした臨也を見下ろし、俄かに表情を引き攣らせる。

「お前がいるってことは、静雄も…」
「臨也ァッ!!」

門田の言葉を遮り、低い怒声が周囲に響き渡る。硬直した門田が軋みそうな挙動で振り返ると、屋上には金髪の鬼神が仁王立ちしていた。逆光になっているせいで表情は窺えないが、その全身からは並々ならぬ怒りのオーラが漏れ出している。

「あーもう……ほんと面倒だなぁ」

臨也は舌打ちをしながら呟き、名残惜しげに門田の腕を離す。静雄が降りてくるよりも素早く門田から距離を取り、臨也は手すりを飛び越えて階下へ降りていった。ここ3階だぞと注意する暇もない。臨也はいつの間にか身につけた独自のパルクールを応用し、するすると壁を伝っていく。静雄は屋上から渡り廊下に降り立つと、鼻息も荒く手すりから身を乗り出した。階下を見下ろして大声で臨也の名を叫ぶ。しかし臨也は既に地面に降り立っており、手を振りながら意地の悪い笑みを浮かべる。

「シズちゃーん、俺もう帰るから追いかけてこないでね」
「勝手に帰んじゃねぇ!待ちやがれ!」
「えっ何?シズちゃんったらもしかして俺と一緒に帰りたいの?残念だけど、こっちから願い下げだよ。じゃあね」
「ッ、……!!」

あっさりと言い捨てて臨也は校門の方へ消えていく。小さな背中が見えなくなり、静雄の全身からぶわりと怒気が噴き上がるのが見えた気がした。門田は渇いた喉から必死に声を絞り出し、静雄に話しかける。

「し、静雄……また何かあったのか…?」

静雄が身体を揺らめかせながら振り返る。風に煽られて金髪が大きく揺れて、その瞳を覆い隠していた。門田は思わず後退り、ごくりと唾を嚥下する。何も言えずに黙り込んでいると、静雄は握り締めていた拳を更に強く握り込んだ。と思うと、大きく跳躍して渡り廊下の壁を鷲掴む。コンクリートが抉れていくのも構わず、静雄は外壁を掴みながら階下へ降りていく。静雄はもちろんパルクールを習ったことなど一度も無いはずだ。今の静雄を動かしている原動力は折原臨也に対する怒り―――ただ一つだろう。技術を持たない静雄は何度も滑りそうになりながら、必死に壁を掴んで降りていく。臨也は10秒も経たずに降りた距離を2分近く掛けながらようやく降り、静雄は校門の方へ駆け出していった。怒りを多分に孕んだ静雄のオーラに圧倒され、一人残された門田はその場に立ち尽くすことしかできない。静雄の怪力が変化を遂げていく恐ろしい瞬間に遭遇したという、その違えようもない事実だけが門田の胸に重く刻み込まれた。

「臨也……お前、あいつをどうしたいんだ……?」


×


学園祭は無事に終わりを迎え、寒さが増した11月の中旬。どうにも覇気のないクラスの中で、門田は読書に勤しんでいた。貴重な昼休みの時間だが、この寒さの中では屋上に上がる気にはなれない。それに、屋上を壊す生徒がいることで先週から立ち入り禁止にされていた。破壊行為をする生徒は一人しかおらず、その通告が書かれた貼り紙を見た臨也は実に愉快そうな笑みを浮かべていたものだ。そんなことを思い返しながら、門田は静かに文章を読み進めた。ミステリー小説の中では犯人が追い詰められ、今から探偵によって種明かしがされようとしている。章が終わり、ページを捲った門田の手に誰かの指が触れた。

「なに読んでるの?」

顔を上げると、臨也がにこりと笑みを浮かべていた。門田は逡巡ののちに本に栞を挟んで閉じ、首を傾げる。

「ミステリー小説だ」
「へぇ。昨日は歴史物読んでなかった?ジャンルに頓着しないよね」
「まぁな」

臨也は門田の前の席―――席の主は他のクラスに行っているのか見当たらない―――に腰掛け、肘をついて顔を寄せてくる。手に持っていたミルクティーの紙パックを勝手に卓上に置いた。可愛らしい象のイラストが印象的だ。

「どうした?」
「いや、別に。暇だなーと思ってさ」

臨也は赤い瞳を眇めて視線を外に投げる。数人の男子生徒がバスケットゴールに向かってボールを投げているが、特段上手いわけでもないのかボールはバウンドして場外へ転がっていく。つまらなさそうに一瞥して、臨也は視線を門田へ戻した。確かに暇そうだとは思ったが、門田も何か面白い話を知っているわけでもない。

「……まぁ、確かにそうだな。本なら貸せるぞ」

読んでいた本の他にも図書室で借りている本がある。鞄から取り出して3冊重ねると、臨也はそれを手に取ってぱらぱらと捲ったりあらすじに目を通す。しかし退屈そうな表情は変化することなく、結局本を閉じて伏せてしまった。

「お前の好みじゃなかったか?」
「全部読んだことある」
「……そうか」

門田は読みかけの本を含めて鞄に戻し、伏せている臨也の髪にそっと指を差し込んだ。艶やかな黒髪は指通りがよく、感触もさらさらと心地よい。嫌がられないことを確認し、所在なく撫でていると、俄かに遠くの席から黄色い声が上がる。ふと視線を移せば、数人の女子生徒がうっとりした様子でこちらを熱く見つめていた。おそらく臨也に好意を寄せている女子生徒たちだろう。思わず動かしていた手を止めると門田が胡乱げな声が上がった。

「ちょっと、ドタチン」
「あ?」
「手、止めないでよ。俺ちょっと寝たいんだよね」
「……寝るまで撫でろってか」

呆れながらそう言うと、臨也は目だけで門田を見上げた。口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。確信犯だと気が付き、門田は眉を顰めた。

「ドタチンも暇なんでしょ?」
「お前のせいで読書を中断させられたんだよ。……俺は構わないが、女子が見てるぞ」
「あぁ……高島さんと光井さんとか、その辺かな?放っておいていいよ。それに、君なら彼女たちに嫉妬されることもないでしょ」

こともなげに言い捨て、臨也は顔を埋めて伏せてしまう。ここで中断して後からぐちぐち言われては堪らない。門田は溜息を吐いて再び手を動かし、臨也の髪を優しく梳いた。女子生徒たちの視線から逃れるように、意識して窓の外を眺める。何度も撫でていると、臨也はやがて小さな寝息を立てはじめる。本当に寝てしまったのかと顔を近づけると、再び女子生徒たちから歓声が上がった。門田はようやく手の動きを止め、静かに臨也を見下ろす。完全に伏せているため表情までは分からない。しかし今の臨也が警戒心もなく身を寄せていることだけは明らかだった。

「……何を考えてるんだ、お前は」

門田は複雑な表情を浮かべて呟く。それは誰に聞かれることもなく、教室の喧騒の中に零れ落ちていった。


continue...




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