お望みのまま

※来神時代 ※静雄誕


凍えるような冷たい風が吹きつける。臨也は寒さにぶるりと身体を震わせ、真白い吐息を吐き出した。鼻先がつんと冷たく、何重にも巻いたマフラーに顔を埋めるように俯く。そんな臨也をよそに周囲を駆け回っているのは双子の妹たちだ。きゃっきゃと元気よく走り回れば、まだ新しい地面の雪に無数の小さな足跡が生まれていく。

「九瑠璃、舞流。お願いだからじっとしてろ」

玄関の扉を施錠し終わり、振り返った臨也は低めた声で威圧するように呟く。しかし九瑠璃と舞流は反省する様子など微塵もなく、臨也の腕に掴まって同時に首を傾げた。

「なんでー?せっかく雪が降ったのにイザ兄はテンション低すぎ!」
「俺はもう雪で喜ぶような歳じゃないんだよ」
「まだ高校生じゃん!」
「雪……降…………嬉……(雪が降ったら嬉しい……)」
「イザ兄、高校生にしてもう感性枯れてるの?」
「兄に向かって酷いことを言うんじゃないよ」

臨也は深い溜め息を吐き出し、なおも駆け回ろうとする九瑠璃と舞流の手を掴んだ。嫌がって手袋をつけなかった子どもたちの手はミトン越しでもひんやりと冷たく感じられる。思わず冷たさに顔を顰めると、舞流は呆れたように肩を竦めた。

「イザ兄ほんと寒いの嫌いだよねー」
「嫌いじゃない。苦手なだけだ」
「同(どっちも一緒)」
「そんなに細っこいからじゃないの?体脂肪率が低いと風邪ひきやすいって保健の先生が言ってたよ」
「……俺はこの体型がいいからキープしてるんだ」
「でもイザ兄、先月も風邪ひいたじゃん。少しは筋肉つけたら?静雄さんみたいに」

舞流の悪気ない一言に臨也の形の良い眉がぴくりと震える。瞬間的に苦々しく歪んだ表情を見上げ、九瑠璃は兄の機嫌が急速に下降していくのを感じ取った。臨也は舞流を咎めようと小さく口を開く。しかし、それよりも能天気な男子学生の声が背後から飛んでくる方が早かった。

「臨也、おはようー!」
「……新羅」

臨也は苦い表情のままで友人を振り返り、九瑠璃と舞流の手をぱっと離す。手に持っていた自宅の鍵を九瑠璃のランドセルへ取り付けるなり、踵を返した。じゃあなと愛想のない声を残し、臨也はすたすたと歩き出す。

「あっ、ちょっとイザ兄!今日は学校まで一緒って言ったのにー!」
「お前たちだけでも行けるだろ」
「約束したじゃんっ!」
「忘れた」
「ひっどー……」

臨也は九瑠璃と舞流の方を振り返ることなく、友人の腕を掴んで去っていく。黒縁眼鏡の奥で目を丸くした新羅と九瑠璃の視線がばちりと合う。新羅は不思議そうに首を傾げ、何かを臨也に尋ねていた。九瑠璃はそんな兄と兄の友人を見つめながら、喚きながら纏わりついてくる妹の顔を押し退ける。

「クル姉ー!傷心の私を慰め……むぎゅ」
「黙(だまって)」

臨也は話しかけてくる新羅をあしらいながら歩を速めた。あからさまに不機嫌そうな表情を浮かべながらも、その頬は僅かに赤らんでいる。それが寒さに起因するものではないと九瑠璃は敏感に感じ取っていた。

「兄……悩……(兄さん、何か悩んでるのかも)」
「え!?そうなの!?」

舞流は九瑠璃に押し退けられてもめげずに抱きつきながら素っ頓狂な声を上げる。九瑠璃は静かに頷き、舞流の手をぎゅっと握った。顔のよく似たは双子は顔を寄せ合い、声を潜めて話し合う。通行人が怪訝そうな顔で視線を投げかけてきてもお構いなしだ。

「全然気付かなかったよ、クル姉!でもなんで分かったのー?」
「静……話……顔……(静雄さんの話をした時の表情)」
「え?静雄さんの話するとイザ兄が嫌がるのはいつものことじゃん」
「常……異……(いつもとは違ったの……)」
「―――どういうこと?」

首を傾げた舞流に九瑠璃は含みのある笑みを浮かべた。妹の耳に口を寄せ、耳打ちをする。目を煌めかせて顔を上げた舞流は興奮を隠しきれない様子だ。

「そうだったの!?うっそ、全然知らなかったー!ねぇクル姉、イザ兄が今日帰ってきたらアドバイスしてあげようよ!」
「肯(うん)」
「あー楽しみだなー!イザ兄も一人で悩まないで私たちに言ってくれればいいのにねっ!」

テンションの上がった舞流はその場でくるくると回りはじめる。九瑠璃はそんな妹の手を引っ張って歩きながら、遠ざかっていく兄の背中をちらりと振り返った。


×


「っくしゅ!」
「おや、また風邪かい臨也。君は本当に寒さに弱いね」
「……うるさい。ちょっと寒いだけで、別に風邪じゃない」
「悪名高い君のことだから、誰かに噂をされてるのかもね。それにしても妹さんたちは良かったの?僕、声かけない方がよかったかな」

新羅は肩越しに双子を振り返り、遠慮がちに尋ねる。臨也は振り返ることもなく目を眇めて軽く鼻を鳴らした。

「いや、逆だよ。雪でテンションが高くて面倒だったから助かった」
「でも雪が積もれば小学生はそりゃ喜ぶよね」
「犬でもあんなに喜ばないんじゃないか」
「臨也は犬嫌いだから知らないだろ。……ま、高校生にもなると雪が積もったから授業が中断なんてことにはならないからね」

地面に積もった雪ををスニーカーで蹴り上げ、新羅は苦笑した。臨也へ視線を戻すと、眉間には深い皺が刻まれている。どうやら、双子のことを抜きにして今日は随分と機嫌が悪いらしい。新羅は不思議そうに首を傾げて臨也の肩を軽く叩く。

「……何かあった?」
「は?」
「いや、ちょっとピリピリしてるからさ。君」
「……別に……」

臨也は新羅を軽く一瞥しただけで再び俯いてしまった。どうにも話してくれそうにない気配を感じ取り、新羅は軽く溜息を吐く。薄灰色の曇り空を見上げると、空からは再び雪が降りはじめていた。臨也は寒そうに肩を竦め、猫のように背中を丸める。学校までの冷たい道を歩む間、ついぞ臨也が口を開くことはなかった。


×


「寒い」

暖房の効いた教室内で机に伏せながら臨也は呟く。不満そうな呟きを聞き取ったオールバックの男子生徒は、呆れたように笑みを浮かべた。

「お前、今日そればっかりだな」
「だって寒いんだもん。ドタチンは寒くないわけ?」
「オレはカイロ持ってるからな」
「年寄り臭……」
「そんな風に言うならもうカイロ貸さないぞ」

これ見よがしに門田がポケットから取り出したカイロを見て、臨也は唇を尖らせる。このまま拗ねられてしまっても困る。門田が冷たい手にカイロを落としてやると、臨也は柔らかくなったカイロをぎゅっと握り締めた。この様子では休み時間が終わるまで離してくれそうにない。門田は苦笑しながら頬杖をつく。

「貼るカイロとか使ってみろよ。だいぶマシになるぞ」
「でも動き回ると熱くなるじゃん」
「……そりゃ、貼ったまま運動するもんじゃねぇからな」
「毎日シズちゃんに追い回される俺には不向きだね」
「喧嘩しないって選択肢は無いのかよ」

門田は肩を竦めて呟く。不意に臨也の赤い瞳が門田から横に逸れた。窓の外へ移動した視線の先には、見慣れた金髪の同級生が歩いている。移動教室なのか、胸には教科書やノート類を抱えていた。臨也は持っていたカイロを門田に返すと、無言で自分の席へと戻る。門田が声を掛ける間も無かったが、その表情は普段とは異なっていた。いつもなら静雄が視界に入るだけで顔を顰めるのに、今日の臨也はどこか心ここに在らずといった様子だ。門田が静雄へ視線を戻すと、通りかかったらしい新羅が何事かを話しかけていた。静雄は新羅の言葉に怪訝そうに首を傾げ、新羅が去った後も納得いかなさそうな表情を浮かべている。―――どうも二人とも様子がおかしい。雪でも降るのかと思いかけて、今日は既に雪が降っていることに思い至る。せめて面倒事は起こさないでくれと祈りながら、門田は手にしたカイロを強く握り締めた。


×


その日の授業が終わり、委員会があるという門田と別れた臨也は一人で帰路についていた。朝から降り続けていた雪は止んでいたが、気温は相変わらず低いままで寒さが堪える。一日中寒がっていた臨也を見かねた門田がくれたカイロをポケット内で揉み、マフラーを鼻の上まで引き上げる。隣を小走りで通り過ぎていった数名の男子生徒たちは近場のゲームセンターに向かうらしかった。ぎゃあぎゃあと騒ぐ様子は少しも寒さを感じさせない。自分が喧嘩をする時のことを棚に上げ、なんであんなに元気なんだろうと臨也はぼんやり考える。重い溜息を吐き出すと、マフラーの内側に暖かい熱が生まれた。ここ一週間ほど、頭の中に渦巻く悩みのせいで落ち着かない日々が続いている。遠くに見えてきた自宅をぼんやりと見つめながら雪を踏み締めていると、臨也の背後から二人分の足音が近づいてきた。臨也は眉根を寄せて振り返り、飛んできた拳をひらりと避ける。

「舞流」
「わーっ、と!ちょっとイザ兄、避けちゃダメじゃん!危ないなぁ」
「……お前なぁ……」
「可愛い妹が怪我しないように大人しく殴られてあげる優しさはないの?」
「それを優しさと呼ぶなら俺は優しくなくていい」

あからさまに不貞腐れた舞流を軽く一瞥し、臨也は再び歩き出す。しかし、そんな臨也の腕に九瑠璃の細い腕が絡められた。兄に嫉妬した舞流は悲鳴を上げ、臨也は困ったように肩を竦める。

「兄(にいさん)」
「九瑠璃までなんだ?兄ちゃんは疲れてんだよ」
「何……在……?(何かあったの…?)」

九瑠璃の無垢な瞳が臨也の顔をじっと見上げる。臨也は僅かに虚を突かれて黙り込んだが、すぐに薄っぺらい笑みを貼りつけて微笑んだ。

「何もないよ」
「…………」
「なんだよ九瑠璃、俺を心配してくれるなんて随分と殊勝だな」
「ちょっとイザ兄!クル姉は本当に心配してるんだよ?何か悩んでるんじゃないかって」
「悩み?そんなものないって……」
「静(静雄さん)」

へらりと笑って追及を躱そうとした臨也は、九瑠璃の言葉にぴたりと動きを止めた。九瑠璃は控えめながらも強い視線を兄に向けている。臨也は思わず黙り込んでしまい、その隙に舞流が兄の腕を掴んだ。両側から腕をホールドされた臨也はがっくりと肩を落とす。

「兄(兄さん)」
「イザ兄!嘘吐いても無駄だからねっ!」
「まったく……お前らなぁ……」
「ほらほら、早く帰って話聞かせてったらー」

強引な舞流にぐいぐいと腕を引っ張られながら、臨也はゆっくりと歩き出す。通りすがりのご近所さんから向けられる微笑ましそうな視線が疎ましい。しかし、両側からもたらされるれる体温だけはどうにも拒むことができなかった。


×


「……だから、どんな嫌がらせをしようかって悩んでるんだよ。分かったか?」

双子に強請られるままに臨也が話したのは明日が静雄の誕生日ということだった。実に愉しげな笑みを浮かべた兄に、九瑠璃と舞流は顔を見合わせて同時に首を傾げる。

「イザ兄……」
「兄……(兄さん……)」
「なんだよ。せっかく話したってのに不服そうだな」

双子から胡乱げな視線を向けられ、臨也は心外だと言いたげに肩を竦めた。表情には薄い笑みを浮かべたままで、どうにも妹たちを馬鹿にしている節がある。舞流は頬を膨らませて身を乗り出し、臨也の肩を掴んでぐらぐらと揺さぶった。

「嘘吐いても無駄だって言ったじゃん!」
「嘘じゃない」
「悩んでるのは嫌がらせじゃなくてプレゼントでしょ!?」
「はぁ?」
「知(知ってるんだから)」
「なんで俺があいつにプレゼントなんかやらなきゃいけないんだよ。馬鹿を言うな」

臨也は舞流の手を払い除けるが、今度は九瑠璃に手を掴まれてしまう。げんなりした様子の兄をじっと見上げ、九瑠璃はこてんと首を傾げた。

「静……付……?(静雄さんと付き合ってるんでしょ?)」

桜色の唇から飛び出した言葉に臨也はたっぷり3秒は硬直し、舞流は大きな悲鳴を上げた。臨也は慌てて舞流の頭を小突いて黙らせる。しかし、どうにも動揺を隠せないようで掴まれたままの手には僅かに汗が滲んでいた。

「―――どうしてそう思うんだ?」
「見……判……(見てれば分かる……)」
「…………」
「うっそぉ!?クル姉、それほんと!?マジマジの大マジン!?」
「本当なわけがあるか!嘘に決まってるだろ!」
「私はクル姉に訊いてるんですーっ」

臨也はぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる舞流を部屋の端に押しやり、声を潜めて九瑠璃を手招きした。軽く嘆息すると、臨也は大人しく近寄ってきた妹の耳に顔を寄せる。

「なんで分かったんだよ」
「本……勘……(本当は勘)」
「勘で言うな。舞流が大騒ぎしただろ」
「否……事……?(でも事実でしょ?)」
「それは、そうだけど……」

顔を上げた九瑠璃は、兄の耳朶が真っ赤に染まっていることに気が付いて瞠目した。そうしている内に舞流が二人の間に割り込んできて、秘密の会話はすぐに終了することになる。割り込んできた舞流の勢いで半ば押し倒された体勢のまま、臨也は本日何度目になるか分からない溜息を吐き出した。

「分かったよ、言えばいいんだろ」
「イザ兄、本当に静雄さんと付き合ってるの!?あんなに仲悪いのに!?」
「……自然とそういう流れになっただけだ」
「ほ、本当なんだ…………」

臨也は心底嫌そうに視線を逸らしながら答える。舞流は呆然と呟き、九瑠璃は顎に細い指を押し当てて首を傾げた。

「兄……告……?(兄さんから告白したの……?)」
「してない。し、別にされたわけでもない」
「えっ!?逆に告白なしでどうやってそういう流れになったのか不思議なんだけど!」
「確(確かに)」
「それは別にどうだっていいだろ!お前らが知りたいのは俺が悩んでる理由じゃなかったのか?」
「あっ」
「……肯(……そうだった)」

しぶしぶ話していた臨也は双子の話が逸れていることに気付いて怒鳴った。頬はすっかり赤く染まっていて説得力に欠けている。しかし、これ以上兄を揶揄すればどんな報復をされるか分かったものではない。九瑠璃と舞流は不本意そうに座り直すと、並んで臨也をじっと見上げた。

「それで、イザ兄の悩んでる本当の理由はなんなの?」
「……さっき言っただろ」
「やっぱりプレゼントなんだっ!」
「プレゼントじゃなくて嫌がらせだって言っただろ。……あぁ、もういいよ」

もはや否定をすることも面倒になったのか、臨也は艶やかな髪を乱雑に掻き乱して項垂れる。舞流はそんな兄の苦悩などお構いなしで小さな脳味噌をフル回転させる。眼鏡をきらりと光らせ、大きく身を乗り出した。

「うーん、でもプレゼントかぁ!やっぱりアレじゃない?ベタだけどプレゼントはわ・た・し」
「却下。俺がそんな気持ち悪いするわけないだろ」
「えー?私はクル姉にされたらすっごく嬉しいのにー!」
「否(そんなことしない)」
「うーん、じゃあ……あっ、クル姉!あれはどうかな?」
「何……?(なに?)」
「お願いチケット!私たちもよくイザ兄にあげてたでしょ?」

名案だとばかりに目をキラキラと輝かせる舞流。臨也と九瑠璃は呆気に取られて数拍間黙り込んだ。先に口を開いたのは臨也の方で、怪訝そうな声がリビングに響き渡る。九瑠璃も臨也に続いて首を捻った。

「願……券……?(お願いチケット……?)」
「お願いチケットって……あれだろ?お前たちが幼稚園の時に俺にくれた、なんでも言うことを聞くっていう券」
「そう!それだよイザ兄!」
「あんな子供じみたもんをプレゼントに出来るかよ」
「あ、今プレゼントって言った!」
「うるさい。揚げ足を取るな」
「てゆーか、全然子供じみてなんかないよっ!イザ兄のことだから静雄さんに素直になれなくて喧嘩とかしちゃってるんじゃないの?」
「……してない」

露骨に目を逸らして黙り込んだ臨也を見て、舞流は意地の悪い笑みを浮かべる。顔を引き攣らせて距離を取ろうとした臨也の腕にしがみつくと、嫌がる兄を無視して顔を寄せた。

「素直にならなきゃダメだよっ!静雄さんも気が長くないんだから、その内愛想つかされちゃうよ!」
「別に俺は愛想つかされても構わない」
「またそういうこと言う!本当は寂しいんでしょ?」
「寂しくなんかない。勝手なことを言うな」

舞流を跳ね退けるように刺々しい口調になった臨也を見かねたのか、九瑠璃は妹の腕を引き剥がす。僅かに逡巡しつつも、九瑠璃は臨也をゆっくりと見上げた。

「兄(兄さん)」
「なんだよ」
「願……券……贈……?(お願いチケットあげないの……?)」

問い詰めるような舞流とは打って変わり、静かな声で九瑠璃に尋ねられて臨也は言葉に詰まる。やがて、いつもと変わらない酷薄な笑みを浮かべて妹たちを見下ろした。形の良い唇がゆるやかな弧を描いて吊り上がる。

「やらないよ。俺はそんなことはしない」

九瑠璃と舞流が口を開く前に臨也は立ち上がり、リビングから出ていってしまう。階段を上っていく足音は双子から遠ざかり、やがて扉が閉まり鍵のかかる音を最後に家の中は静寂に満たされた。二人残された双子は顔を見合わせて黙り込む。静雄の誕生日まであと一日―――問題解決には至らないまま、その日は夜を迎えた。


×


翌朝、臨也の機嫌は地を這うように低かった。朝食を食べる間も必要以上の会話はなく、流石の双子も気まずそうに視線を逸らす。臨也が学生服に着替えている間に双子は家を出ていき、1階に下りた臨也は安堵の息を吐く。家を出て施錠していると、背中をポンと叩かれて臨也は振り返った。

「臨也」
「……ドタチン。おはよう」
「どうした?目の下、クマが出来てるぞ」
「あぁ……ちょっとね」
「徹夜でもしたのか?宿題……はそんなに出てなかったはずだが」
「いや、そういうのじゃないよ」

ふいと視線を逸らし、臨也は門田の問いを躱す。門田は不思議そうに首を傾げたが、それ以上を追及してこようとはしなかった。雪の積もった地面を踏み締め、学校までの道を歩く。臨也の頭の中では昨夜双子から受けた追及が反芻されており、同時に静雄への贈り物を用意できなかったことへの後悔が渦巻いていた。臨也が自然と表情を歪ませていると、門田が心配そうに顔を覗き込んでくる。

「臨也、平気か?寝不足で体調が悪いんじゃないのか」

臨也は僅かに苦笑し、そんなことはないと否定する。しかしその笑みもどこかぎこちなく、門田は眉間に深く皺を寄せる。そこに後ろから声を掛けてきたのは新羅だった。

「門田くん、臨也、おはよう」

臨也に問いを重ねようとした門田は口を噤み、片手を上げて新羅に挨拶を返す。臨也も視線だけを新羅に向け、ぶっきらぼうに挨拶を返した。しかしその一瞬だけでも違和感に気付いたのか、新羅は臨也の腕を掴んで振り向かせる。首を捻りながら臨也の顔を覗き込み、黒縁眼鏡越しに目を丸く見開いた。

「あれ、臨也。今朝は顔色が悪いね。クマもあるし、寝不足かい?」
「……別に」
「その話をさっきしてたんだ。体調悪いんじゃないかって」

門田の言葉を聞くなり、顎に添えていた手を臨也の額に押し当てる新羅。嫌がる臨也を無視してそのまま動きを止めると、困ったように眉根を下げる。

「臨也、朝食は?」
「食べたよ。まぁ、いつもの半分ぐらいだけど」
「食欲不振かい?……うん、熱はないね。風邪ではないけど、顔色が悪いし貧血かも」
「大袈裟だな。熱がないんだから何ともないよ」

面倒だと言いたげに新羅の手を振り解き、臨也は一人で歩き出す。門田は尚も心配そうに臨也の細い背中を見つめていたが、新羅はへらりと笑みを浮かべて肩を竦める。

「減らず口が叩ける内は平気さ。そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「……そうか」
「まぁ、あいつが無理しないか見ててくれると助かるかな」

新羅に背中を軽く叩かれ、門田は軽く息を吐き出す。困ったような笑みを浮かべつつも、遠ざかる臨也を見遣りながら首は自然と頷いていた。

「それぐらいは俺も手伝うさ」


×


その日は何事もないまま放課後を迎え、臨也の様子を見守っていた門田はほっと胸を撫で下ろす。昨日に引き続き委員会があると門田が告げると、臨也は大して興味なさげにそうなんだと頷いた。黙って鞄を持って立ち上がる、その横顔は妙に憂いを帯びている。今朝はどうにも苛立っている様子だったが、一日を終える頃にはその感情は大きく変化したようだった。教室を出ようとした臨也が僅かに逡巡しているように見えて門田は首を捻ったが、臨也の様子が確認できたのはそこまでだった。同じ委員会の女子生徒に声を掛けられ、門田は相槌のために視線を外す。そのたった数秒間で臨也の姿は教室から消えてしまっていた。この後に何も起こらないことを祈りながら、門田は女子生徒に促されて席を立つ。この後に何が起こっても俺は知らないぞ。―――心の中で新羅に対して小さく呟きながら。

「……はぁ」

臨也は重い溜息を零しながら下駄箱からシューズを取り出した。学校指定のスリッパを下駄箱に直し、コンクリートの地面に並べたシューズに足を通す。トントンと軽く地面を蹴ってシューズを履き、臨也はゆっくり顔を上げた。周囲には顔見知りのクラスメイトが多く、他クラスの生徒の姿はまだ少ない。どうやら臨也のクラスのホームルームが早く終わったらしかった。新羅や静雄の姿が見当たらないことに僅かな安堵を覚える。校門に向かって歩き出した臨也だったが、その視界に飛び込んできたのは見覚えのある二人の姿だった。

「―――ッ、あいつら…!」

校門の周囲には人だかりが出来ており、女子生徒たちの黄色い声が上がっている。男子生徒たちはそれを遠巻きに見ていたが、クラスメイトの一人が駆け寄ってきた臨也を見て合点が行ったように声を上げた。

「折原、お前の妹か?よく見りゃ似てるよな」
「……ちょっと退いて」

クラスメイトを適当にあしらい、臨也は人だかりの中に踏み込む。女子生徒たちは臨也の顔を見るなり歓声を上げるが、臨也の表情が真剣なことに気付いてすんなり道を開けた。その先にいた二人の女児は、見間違えようもなく九瑠璃と舞流だった。

「あ、イザ兄!」
「兄(兄さん)」

悪びれた様子もなく臨也を見上げた双子は、同時に兄の手を掴んで身を寄せた。それを見るなり、女生徒たちは再び黄色い歓声を上げる。

「わー、やっぱり折原くんの妹さんたち!?」
「ほっぺた柔らかそう!」
「折原くんとそっくりだね!」
「双子ちゃんなの?」
「二人ともかわいいーっ!」

キンキンと耳をつんざく声に双子は顔を顰めたが、臨也はにっこりと人のいい笑みを女生徒たちに向けた。さりげなく双子の肩に手を回して門の外へ歩くように促しながら微笑む。

「そう、俺の妹なんだ。ごめんね、勝手に来ちゃったみたいで」
「う、ううん!こんなにかわいい妹さんたちに会えて嬉しいよっ!」
「あたし達、遊んであげてもいいよー」

女子生徒たちは臨也と話せるのが嬉しくてたまらないという頬を染める。双子をちらちらと見ながらひとりの女子生徒が九瑠璃に手を伸ばそうとした。臨也はそれをやんわり牽制するように首を横に振る。

「いや、君たちに迷惑はかけられないよ」
「でも、何か用事があって来たんじゃない?」
「もしかして高校を見てみたいとか?私たちが案内してもいいよ」
「ありがとう。でも、あんまり騒ぐと先生たちが来ちゃうから」
「そ、そうだよね……」

臨也が眉根を下げて柔らかく語りかけると、女子生徒たちは渋々引き下がった。男子生徒たちも物珍しそうな顔をしつつ離れていく。臨也はなかなか歩こうとしない双子の手を引いて校門の横に連れていき、しゃがみ込んで二人の顔を覗き込んだ。周囲から見えないことを確認すると眉間に深く皺を刻み、低い声を吐き出す。

「どうしてお前たちがここにいる」

双子は虚を突かれたように顔を見合わせたが、やがて揃いのランドセルを揺らして臨也に笑顔を向ける。ぱあっと光り輝くような明るさはまるで太陽のようだ。

「イザ兄にお届け物!」
「持(持ってきた)」
「は?」

臨也が訝しんで首を傾げたその瞬間、その背後にぬっと大きな影が伸びる。瞬間的に気配を感じ取った臨也は双子の手を離して立ち上がり、素早く振り向いた。右手は胸元に隠したナイフをしっかりと握り込んでいる。視線を上にずらせば、少しくすんだ金髪の下から鳶色の瞳が臨也を見下ろしていた。何をしているんだと言いたげな瞳が臨也を見据え、薄い唇が僅かに開かれる。

「静雄さんっ!」
「静(静雄さん)」

しかし静雄が言葉を紡ぐよりも早く、九瑠璃と舞流がその腰に抱き着いていた。静雄は困惑して不明瞭な声を漏らし、双子の頭にそっと手を置く。

「あー……えっと、お前ら、なんでここにいるんだ…?」
「静雄さんもイザ兄と同じこと言うの?別に理由なんてなくてもいいじゃんっ!」
「あんまり騒いでるからすげー目立ってるぞ」
「……謝(……ごめんなさい)」
「い、いや……謝ることはねぇけどよ、あんまり騒ぐとまずいだろ」

しょんぼりした様子の九瑠璃の頭を優しく撫で、静雄の視線が僅かに持ち上がる。困ったような表情のまま臨也と視線が合ってしまい、静雄は気まずそうに視線を逸らす。臨也は僅かに眉を顰めると、乱暴に舞流のランドセルを掴んだ。

「ほら、お前らさっさと帰れって」
「ちょ、ちょっとイザ兄、待ってってば!」
「うるさい。これ以上悪目立ちするようならもう口利いてやらないぞ」
「そんなのひどっ…!」
「待(待って)」

舞流がじたばたと暴れていると、静雄に頭を撫でられていた九瑠璃が身を乗り出した。臨也はぴたりと動きを止め、舞流のランドセルを掴んでいた手を離す。勢い余って舞流は転びかけるが、なんとかバランスを取って体勢を整えた。

「なんだ?九瑠璃、お前まで言い訳か?」
「違……(そうじゃない……)」

臨也は冷めきった声で九瑠璃を一蹴した。氷のように冷たい視線に晒され、九瑠璃は一瞬押し黙る。桜色の唇を噛み締めて、少女は次の言葉を迷う。その様子を見かねて口を開いたのは静雄だった。

「オイ、臨也。ちゃんと九瑠璃の話を聞いてやれよ」

九瑠璃はぱっと顔を上げて驚きに目を見開き、臨也は胡乱げに視線を持ち上げた。眇められた赤い瞳が刺すように鋭く静雄を睨み上げ、緊張感で空気がビリッと震える。

「なんで君が口を挟んでくるのかな?俺たち兄妹の問題に介入しないでよ」
「九瑠璃が可哀想だろ」
「可哀想?高校には絶対来るなって約束を破ったのはこいつらだ」
「そうかもしれないが……舞流はともかく、九瑠璃まで用事もなく来たりしねぇだろ」

臨也はなおも反論しようとしたが、不意にシャツの裾を引っ張る感覚に視線を落とす。赤いシャツを小さな指先で掴み、九瑠璃は今にも泣き出しそうに眉根を下げていた。その表情を見て臨也は思わず口を閉ざして屈み込む。九瑠璃に視線を合わせ、揺らぐ瞳をじっと覗き込んだ。

「……なんだよ。言ってみろ」
「謝…………兄……渡……(ごめんなさい……兄さんに渡したかったの)」

九瑠璃はコートのポケットをまさぐると、一枚の封筒を取り出した。小学生女児が好きそうなファンシーな動物が描かれたその封筒は、九瑠璃が母に買ってもらっていたものだ。お気に入りのデザインで、数セットしかないからと大事に使っていたはずだ。九瑠璃はその内の1セットを臨也に向かっておずおずと差し出す。中には紙が何枚か入っているらしく、中央付近が僅かに膨らんでいた。封筒は可愛らしいシールで封をされ、宛名には舞流の角ばった文字で「いざにいへ」、差出人には九瑠璃の丸っこい文字で「くるりとまいるより」と書かれている。

「これは?」
「中……否……(中身は言えないの)」
「……これを渡すために来たのか?」
「肯(そう)」

臨也は受け取った封筒をじっくりと眺め、九瑠璃に視線を戻す。緊張しているのか、寒さのせいなのか―――細い肩が微かに震えていた。それを目にしてしまっては、もう叱る気にもなれない。臨也は九瑠璃の小さな身体を抱き寄せ、そっと背中を撫でてやった。

「分かったよ、ありがとう。……叱って悪かったな」

九瑠璃は臨也の言葉に小さく頷き返す。臨也の腕の中から離れると、心配そうな顔をしていた舞流の手を掴んで歩き出した。九瑠璃は一度だけ振り向き、静雄に向かってぺこりと頭を下げる。静雄は頭上に疑問符を浮かべながらも手を振り返し、遠ざかっていく双子の背中を見送った。


×


「まったく、あいつらには呆れるよ」

呆れを含んだ声に静雄が振り返ると、臨也がスラックスの膝についた砂を払いながら立ち上がっていた。周囲に他の生徒の姿は少なく、多くの生徒は帰宅したか委員会や部活に向かっているようだ。自分から声を掛けたとはいえ、臨也と二人きりという状況が妙に気まずくて静雄は視線を逸らす。臨也もしばらく黙り込んでいたが、やがて九瑠璃に渡された封筒を手中でひらひらと弄びはじめる。

「ねぇシズちゃん、これなんだと思う?」
「……妹たちからお前への手紙とかじゃねぇのか」
「手紙、ねぇ。あいつらが感動の手紙とかそんな殊勝なものを俺に渡すとは思えないけど」
「いいから開けてみろよ」

静雄に促され、臨也はしぶしぶ封をしていたシールを捲った。光沢のあるラメシールはぺろりと綺麗に剥がれる。臨也が封筒に指を差し込んで中身を引き抜くと、それは薄いクリップで止められた数枚の紙きれだった。色とりどりのサインペンで色が塗られたり文字が書かれている。クーポン券のようなそれをよく見ようと目を細め―――ひときわ大きく書かれた文字を読んだ瞬間、臨也はぴたりと動きを止めた。

「しずおさんがイザ兄に好きなことをできるチケット……?」

頭上から降ってきた低い声がその文字列を読み上げた。固まっていた臨也はぎこちなく顔を上げて静雄を見上げる。静雄は不思議そうに目を丸くしていたが、臨也の視線に気が付くと音がしそうなほど真っ赤に顔を赤くした。大仰な動きで数歩後退ると、静雄は長い腕を顔の前で交差させて声を上擦らせる。

「なっ…何も……俺は、何も見てねぇぞ!!」

そう主張するが、臨也の耳は静雄がしっかりとチケットに書かれた文字を読み上げるのを聞いている。そして、今の反応からするにその意味を理解しているのは想像に難くない。臨也は頬が熱くなる感覚を必死に堪え、喉の渇きを誤魔化すように唾を嚥下する。チケットを握り締めた臨也の手は、羞恥心とやり場のない怒りで細かく震えていた。今すぐにでも逃げ出してしまいたい。思わず踵が浮きそうになった臨也の脳裏に舞流の言葉が過ぎる。

『素直にならなきゃダメだよっ!静雄さんも気が長くないんだから、その内愛想つかされちゃうよ!』

昨夜は売り言葉に買い言葉で愛想をつかされても構わないと言ってのけた。しかし、それが本心ではないことを臨也自身も自覚している。浮きかけた踵をコンクリートの地面に押し付け、チケットに皺が出来るのも構わずに拳を握り込む。腕を下ろした静雄がちらりと臨也に視線を投げた。ばちりと視線が交差し、あまりの気まずさに開きかけた口を閉じかける。しかし意を決して歩き出すと、臨也はしわくちゃになったチケットの束を静雄の胸に押し付けた。どんっと半ば乱暴に殴られても、静雄の身体は微動だにしない。

「お、おい、臨也」

臨也はチケットを押し付けたまま、静雄の胸から手を離さない。受け取らない限りずっとこのままの体勢でいられても困る。静雄はやむなく手を伸ばしてチケットを受け取った。臨也は弾かれたように距離を取って俯くが、その耳朶は真っ赤に染まっている。それを目にした静雄は反射的に言葉に詰まった。受け取った皺だらけのチケットを手にし、迷いつつも手を伸ばして臨也の肩に触れる。

「……ここじゃ目立つだろ。その、移動しようぜ」

臨也は押し黙っていたが、数秒するとゆっくり頷く。校門を出て歩き出したのは臨也の自宅の方角だったが、おそらくどこへ向かうか考えていないのだろう。臨也は相変わらず俯いたままで、首に巻いたマフラーの端を指先で弄んでいる。視線が合わないことに静雄は僅かに苛立ったが、先ほどまでの様子を見ていては怒鳴ることもできない。しかし、会話をしなければ臨也を家に送り届けて終わってしまうだろう。静雄は逡巡した後、クリップで止められていたチケットの1枚を引き抜いて臨也の眼前に差し出した。チケットの枚数は全てで5枚―――残りは4枚だ。

「これ、使うぜ」

臨也はチケットを目にして歩みを止め、ようやく顔を上げた。紅玉のような瞳が見開かれて静雄を見上げる。僅かに動揺を滲ませた表情に、静雄は自分の口角が不自然に吊り上がってしまうのを感じた。口元を抑えて必死に誤魔化すと、立ち止まっている臨也の手を強引に掴む。細い指先がびくりと震えるが、静雄はそれに気付かないふりをして手を引く。幸いなことに周囲に人の姿は少なく、手を繋いでいても目立つことはない。

「……どこに行くの」

静雄に手を引かれながら、臨也が迷いながらも口を開く。静雄は視線だけで振り返り、困惑した様子の臨也に苦笑を浮かべる。

「最近ここらに出来た喫茶店、行ったことあるか?門田の親父の知り合いの店らしい」
「ない、けど……。俺、聞いたことないよ」
「あぁ、門田はお前に教えると店破壊されるからって言ってたぜ」
「はぁ?意味分かんない。破壊するのはシズちゃんでしょ」

臨也は憤慨するように眉を吊り上げた。不機嫌さを隠しもしないその態度に、静雄は呆れながら笑う。

「俺はお前が居なきゃ暴れたりしねぇよ」
「なにそれ……ドタチンも意地が悪い」
「お前にゃ言われたくないだろうよ」

頬を膨らませ、唇を尖らせる拗ね方は舞流にそっくりだ。堪えきれずに静雄が噴き出すと、臨也は握られたままの手を強く握り返して歩を速める。静雄の顔を見上げて、ぎゃあぎゃあと反論してきた。しかし、普段なら気に障る暴言も今日ばかりは不思議と心地いい。静雄は笑みを崩さぬまま軽く身を屈め、低く声を潜めた。

「やっと普段の調子が出てきたか?」

臨也はキッと静雄を睨みつけ、ふんと顔を逸らす。もういいでしょと手は振り払われてしまったが、その足は大人しく静雄の後をついてきている。しばらく歩き続けると、角を曲がった先に小綺麗な喫茶店が現れた。通学路から少し外れた場所にあるため知らなかったのか、臨也は意外そうな顔で看板を見上げる。店からはジャズミュージックが微かに漏れ聴こえており、入口の扉越しに数人の客が見えた。

「へぇ」
「いい雰囲気だろ。門田に連れてきてもらって、俺は何回か来てるんだ」
「……まぁ、悪くはないね」

少しは素直に褒められないのか。静雄の心は僅かにささくれ立ったが、ここでキレて店を破壊しては門田に顔向けできない。溜息を吐き出すことでなんとか怒りを抑え込むと、臨也を先導するように扉を押し開いた。


×


チリンと扉に取り付けられたベルが鳴り、カウンター内に立っていた初老の男性が細い目をさらに細めて微笑む。店内は落ち着いた雰囲気のアンティークで統一されている。

「いらっしゃい、静雄くん」
「うす」
「また来てくれたんだね、嬉しいな」

マスターは微笑んだまま視線を横にずらした。静雄と臨也の顔を見比べ、にっこりと柔和な笑みを浮かべる。

「おや…?隣の子は初めて見る顔だね。静雄くんのお友達かい?」

悪気のないマスターの一言に静雄と臨也は同時に動きを止める。不自然な沈黙が訪れ、マスターは首を傾げた。臨也は人好きのする笑顔をマスターへ向け、顔の前で手を振る。

「あの僕、門田くんと静雄くんの友人の折原臨也です。すみません、静雄くんとは最近仲良くなったばかりで……」
「あぁ、なんだ。そうだったんだね」

マスターは納得したように頷くが、静雄は呆れたようにじっとり目を細める。よくもまぁ流暢に嘘が吐けるものだ。この場は臨也のお陰で助かったから何も言えないが、こういう時の態度は本当に鼻持ちならない。臨也はなおも微笑んだままでマスターに話しかける。

「一緒に帰るのも今日が初めてで……静雄くんがこの店を教えてくれたんです」
「おや、そうだったのかい。急に友達かなんて言われちゃ戸惑っちゃうよねぇ。あぁ臨也くん、好きな席に座っていいよ」

すっかり気を良くしたマスターはニコニコと臨也に微笑みかけ、臨也もまた優等生のような笑顔を返す。その場に立ち尽くしていた静雄の腕を掴み、臨也は奥にあるボックス席に向かう。臨也は学生鞄を置いて席に座ると、静雄へ座るよう促した。

「いつまで突っ立ってんの」
「お、おう」

言われるがままに腰掛けると、ボックス席は他の席からほとんど見えない位置にあることに静雄は気が付いた。臨也らしいセレクトだと思わず苦い笑みを浮かべる。そこにマスターが銀色のトレンチに水とおしぼりをもって現れた。

「ゆっくりしていってね。……そうだ、臨也くんは珈琲飲めるかい?」
「えぇ。好きですよ」
「おぉ、そうかい。うちのおすすめはオリジナルブレンドなんだ」
「じゃあ、そのブレンドコーヒーをお願いします」

マスターは嬉しげに微笑んで胸ポケットのボールペンで注文票に記載すると、静雄を見て首を傾げる。臨也にメニュー表を渡され、静雄は慌てて目を通す。

「俺は……えっと、いつものカフェオレで……」
「はい。静雄くんは甘い方が好きだったね。シロップも持ってくるよ」
「あ、ありがとうございます」

注文を取り終わったマスターが立ち去り、静雄は安堵の息を吐く。渇いた喉を潤そうと水を飲んでいると、向かいに座った臨也は行儀悪く頬杖をついていた。居心地の悪さに静雄は身動ぎ、なんだよと眉を顰めた。店内では場違いなほど心地よいジャズミュージックが鳴り響いている。

「本当に甘いもの好きだよね」
「あ?なんだよ今更。……男が甘いもの好きじゃ悪いか」
「別に悪いとは言ってないけど」

臨也はそこで言葉を切ると、僅かに言い淀む。静雄から受け取ったメニュー表を元の場所に戻すと、テーブルの上で指先をもぞつかせた。臨也は再び口を開く気配がなく、そうしている内にマスターが珈琲とカフェオレを持って戻ってきた。臨也の前にブレンドコーヒー、静雄の前にカフェオレとシロップを置くと、常連客に呼ばれてホールへ消えていく。夕方から夜に近付くにつれ、店内は俄かに騒がしくなりつつあった。

「……何を言いかけたんだよ」

カフェオレにシロップを注ぎながら静雄は尋ねる。しかし、臨也は答えることなく静かにブレンドコーヒーを嚥下していた。香ばしい薫香を楽しみながら柔和な笑みを浮かべている臨也は、とても悪巧みとは無縁に見える。眉目秀麗という表現が相応しく整った容姿のせいか、コーヒーを飲んでいるだけで様になっていた。追及することも忘れて静雄が見蕩れていると、カップをソーサーに戻した臨也が口の端を吊り上げる。

「秘密」
「は?」
「別にどうでもいいでしょ。それよりシズちゃん、俺をここに連れてきた理由は何?まさか喉が渇いていたから……とか言わないよね」
「んなわけねぇだろ」

静雄はがしがしと頭を掻いて溜息を吐く。臨也はすっかりいつもの調子で強気な笑みを浮かべているが、元はといえば妹たちに困っていた窮地を静雄が救ったようなものだ。だがそれを指摘すれば臨也がたちまち不機嫌になるのは目に見えている。どうしようかと迷った挙句、静雄は尻ポケットからチケットの束を取り出した。

「これ」

チケットを目にして臨也の表情が一瞬だけ引き攣る。しかし、次の瞬間には笑顔を貼り付けて静雄を見つめ返した。

「これが何?」
「……九瑠璃と舞流は、多分俺に渡したかったんだよな」
「そうかもね」
「今日が何の日か、お前知ってるんじゃないのか」
「うん」

臨也はニコニコと薄っぺらい笑みを浮かべたままだ。しかし瞳の奥は笑っておらず、余裕は無いように感じられる。静雄はカフェオレを一気に飲み干すと、周囲に客やマスターが居ないことを確認して席を立った。有無を言わさずに隣に腰を下ろすと、流石の臨也も焦ったらしい。横に置いていた学生鞄を両手で掴み、静雄を追い出そうとぐいぐい押し付けてくる。

「ちょっと、シズちゃん…!何のつもりっ?」
「痛いだろ。押し付けてくんな」
「君が急に近寄ってくるからだろ……!」
「うるせぇな。さっさとその鞄をどけろ。破られてぇのか?」
「……脅迫かよ……」

臨也は僅かに口調を乱れさせたまま舌打ちをし、物憂そうに学生鞄を奥に仕舞った。隣に座った静雄とは頑なに視線を合わせようとしない。それに焦れた静雄は、臨也の細い手首をぐっと掴む。突然のことに臨也が小さく声を上げると、静雄は軽く身を屈めて臨也の顔を覗き込んだ。

「臨也」
「何……てか、顔近いってば」
「俺の誕生日の話を九瑠璃と舞流にしたんじゃねぇのか」
「し、してな」
「嘘吐くな。話したから兄想いのあいつらがお願いチケットなんて可愛いもん用意してくれたんだろ」

鳶色の瞳が僅かに細められ、気持ちを全て見透かすように臨也を射抜く。肉食獣にも似た鋭いそれに晒されることに耐えきれなくなり、臨也は視線を泳がせながら小さく頷く。

「そう、だよ。……あいつらが兄想いかどうかは知らないけど」
「兄想いだろ。これ、裏面までしっかり見たか?」
「……裏面?」

静雄が指差したチケットの一枚を手に取り、臨也はそれを裏返す。裏面には舞流の角ばった文字で「イザ兄をよろしくね」と書かれていた。語尾にはご丁寧に可愛らしいハートマークまで添えられている。

「……っ、あいつら……」

臨也はこめかみを抑えて項垂れ、横目でちらりと静雄を見上げる。意地の悪い笑みを浮かべている静雄は、九瑠璃と舞流が自分たちの関係を知ったことを理解しているようだった。これ以上は誤魔化しきれないと判断し、臨也は肩の力を抜いてソファーに凭れ掛かる。疲労の滲む顔でチケットをテーブルの上に戻し、溜め息を零した。

「余計なお世話だ」
「そう言ってやるなよ。あいつらなりにお前のこと心配してんだろ」
「心配ねぇ……」
「何か言われたのか?お前ならあの時チケットを破り捨ててもおかしくなかったのに」
「……言いたくない」
「往生際が悪いな。素直になれよ」
「やだ」

駄々を捏ねるようにそう返し、臨也は残り少ない珈琲を口に含む。口腔内を満たす苦みで頭が少しすっきりしたのか、曇っていた表情は幾らか元に戻りつつある。ゆっくりと液体を飲み干すと臨也は静雄に視線を戻した。からかいを含んだ笑みで見つめられていることがどうにも気に食わず、静雄の余裕を崩してやろうと臨也は手を伸ばす。シャツの胸元を強く掴んでぐいと引っ張るが、静雄の身体は不意を突かれても微動だにしない。代わりに不思議そうな視線に見下ろされてしまった。

「何してんだ」
「……別に。ねぇ、シズちゃん残りのチケットどうするの?」
「あ?なんだよ、急に」
「別に急でもないでしょ。さっき1枚使っちゃったけど、あと4枚残ってるよ?あぁ、もしかして……年頃の高校生らしく、いかがわしいお願いをしようとか考えてるのかな?」

他の人間に見られないのをいいことに臨也は静雄の膝に乗り上げる。至近距離で顔を覗き込まれ、試すように蠱惑的な笑みを向けられた静雄はたちまち真っ赤に顔を染め上げた。

「ばッ…!し、しねぇよ!!」
「あんまり騒ぐとマスターが来ちゃうよ?こんなとこ見られたら困るのは君の方でしょ」
「、っ……」
「ていうか本当に青少年らしいお願いしようと思わないの?シズちゃん、それでも男子高校生?」
「…………しねぇ」

込み上げてくる色んな感情を必死に堪えながら静雄は抑えた声を絞り出す。ひょいと抱えられて膝から降ろされた臨也は不服そうにじっとりと目を細めたが、ようやく静雄を挑発するのを諦めたらしい。机に伏せて上目遣いで隣に座った静雄を見上げる。

「つまんないなぁ。あ、言っとくけど有効期限は今日だけだからね。こんなろくでもないもの、無期限にされちゃたまんないよ」
「後付けすんの有りかよ」
「俺の勝手でしょ。破り捨てなかっただけでも感謝するんだね」

そう呟き、臨也は退屈そうに指先でチケットを弄ぶ。静雄はテーブル上で動き回る紙片を眺めていたが、やがて小さく臨也の名を呼んだ。店内に流れていたジャズミュージックが終わりを迎え、束の間の静寂が訪れる。

「なぁに?お願い、やっと思いついた?」
「あぁ」

臨也は笑みを浮かべながら身を起こす。静雄はチケットを1枚手に取り、それを臨也の手に押し付ける。臨也の赤い瞳をじっと見つめ返し、ゆっくりと唇を開いた。

「……手、繋いでもいいか」

短い静寂が終わり、店内には低いボサノヴァミュージックが流れ始める。臨也は瞳を丸く見開いたまま、そのままたっぷり3秒間ぱちぱちと瞬きを繰り返した。呆然とした表情で静雄を見上げる。名状し難い沈黙に耐えられなくなったのは、発言者である静雄当人だった。

「なんとか、言えよ」

気まずい気持ちで頭を掻きながら静雄は呟く。臨也はぶはっと噴き出し、それから腹を抱えて笑いはじめた。声自体は然程大きくなかったが、喧しい臨也の笑い声に静雄の額にはうっすらと青筋が浮きはじめる。急かされて必死に悩んで"お願い"をしたのに、笑われるのなら言わなければよかった。怒りと後悔から臨也を怒鳴りつけようとした瞬間―――冷たい感触が静雄の手に訪れた。

「いいよ」

ひんやりとした臨也の手が、静雄の大きな手を優しく握り締めた。白魚のような指の細さとなめらかな皮膚の感触を感じて、静雄は吐き出しかけた言葉を飲み込む。心臓が不自然なほどに大きく脈打ち、頭の中でもドクドクと鳴り響いていた。臨也は薄く笑みを浮かべて目を伏せている。陶磁のような肌に影を落とす長い睫毛を至近距離で目にし、形容し難い感情に襲われた。静雄は掠れた声で囁くように臨也の名を呼ぶ。導かれるように視線を上げ、臨也はうっそりと微笑んだ。普段の揶揄や挑発とは縁遠く、花が綻ぶようなその笑みに心臓を鷲掴みにされる錯覚に襲われる。静雄はゆっくりと手に力を込め、臨也の手を慎重に握り返した。

「シズちゃん、緊張してるの?」
「……少しな」
「もしかして家族以外と手を繋ぐの初めてだったりする?」
「あぁ」
「……そっかぁ」

臨也は面白がるでもからかうでもなく、納得したように頷き返す。繋いだままの親指で静雄の手の甲を撫で、上体を傾けた。静雄の肩に額を押し付けて、臨也は微かにくぐもった笑みを漏らす。

「シズちゃんの初めて、もらっちゃった」
「変な言い方すんな」
「いいじゃん別に、事実なんだし。……そうだ、すっかり言い忘れてた」

首を傾げた静雄に臨也はにっこりと微笑んだ。珍しく含みを感じさせない笑顔を前に、静雄は一瞬たじろぐ。しかし、次の瞬間に告げられたのは毒気のない祝福の言葉だった。

「お誕生日おめでとう、シズちゃん」
「……お、おう」
「おう、って。それだけ?」
「いや、その……嬉しいぜ。ありがと、な」

どぎまぎとしながら静雄が礼を言うと、臨也はくすぐったそうに笑った。静雄の視界の端で黒髪がふわふわと揺れる。静雄は空いていた方の手を伸ばし、臨也の髪をそっと撫でた。まるで人に寄り付かない野良猫が懐いてくれたような感慨が込み上げ、自然と頬が緩む。滑らかな指通りを楽しむように梳いていると、臨也がもぞりと小さな頭を動かした。臨也はテーブル上のチケットを1枚手に取り、静雄をじっと見上げる。残りのチケットは3枚だが、静雄はその用途をまだ考えていなかった。臨也は手にしたチケットを手の中で暫時弄ぶと、それを静雄の眼前に突き付ける。

「これ」
「え?……あぁ、残りはまだ何に使うか決めてな…」
「今、もう1枚使って」

何を言われたのか理解できず、静雄は瞬きを繰り返した。臨也は焦れたように顔を上げると、髪を撫でていた静雄の手を払い除ける。繋いだ手はそのままに、身を乗り出して空いていた手で静雄の肩を掴んだ。ピントが合わないほどの距離に近付いた臨也の顔に驚き、静雄は思わず後退りそうになる。しかしそれを許さなかったのは臨也だった。

「逃げないでよ」

低い囁きが耳元に落とされたかと思うと、臨也の顔がぐっと間近に迫る。反射的に静雄が目を瞑った瞬間、頬に柔らかな感触が訪れた。甘い香水の香りが静雄の鼻孔を擽る。ふわりと軽い動作で静雄から離れた臨也は、小首を傾げて微笑んだ。

「ほら、シズちゃんの口で言ってよ。……それとも、頬だけで満足なの?」

小悪魔の角が臨也の頭に見えた気がした。静雄は声にならない呻き声を漏らし、臨也からチケットを半ば奪うようにして受け取る。

「キスしたい」

青臭い欲望を隠すことも惜しまず、静雄は明け透けな言葉を投げ掛けた。臨也は満足そうに口角を上げ、頷いて静雄の首に手を伸ばす。細い腕を絡ませて顔を寄せ、臨也は静雄にゆっくりと口づけた。柔らかい感触が訪れたと思えば、少し湿ったそこから溶け合っていく体温はひどく熱い。何度も触れ合わせていくうちに、互いの自然と唇は開いていく。静雄が僅かに目蓋を持ち上げると、臨也の赤い瞳は飴玉のようにとろけていた。もう少しだけ、と静雄が臨也の腰を引き寄せようとした瞬間―――離れた席で何かがガシャンと倒れる音がした。それほど大きな音ではなかったが、しかし二人が動きを止めるには十分だった。臨也は気まずそうに静雄に絡ませていた腕を引く。濡れた唇を袖口で拭ったのを目にして、静雄はそれを勿体ないと思ってしまう。甘いキスの余韻なのか、思考までも溶かされてしまっているようだった。慌てて首を横に振り、熱くなった頬を誤魔化すように俯く。

「邪魔が入っちゃったね。ま、見られちゃうよりマシだったかな?……ちょっと残念かい?」
「馬鹿言え。他人に見られたい趣味なんかあるか」
「そっちじゃなくてさ。キス、もっとしたかったかなと思って」

悪戯っぽい微笑みを向けられて収まりかけていた熱が上がっていく気がした。静雄はぶっきらぼうにそんなわけがあるかと返すが、臨也は楽しそうに笑うばかりだ。

「照れなくてもいいのに。ま、いいや。そろそろ出ようか。あんまり長居してても悪いしね」
「……おう。でも、どっか行くのか?」
「んー、別にこれといった宛てはないけど。あ、そうだシズちゃん」
「?……なんだよ」

注文票を手に取って立ち上がった臨也が振り返る。座ったままで鞄の中から財布を取り出した静雄を見下ろし、にっこりと笑みを浮かべた。

「いかがわしい場所に行きたいのなら、残りのチケットを使ってもいいよ」

細い指で指し示された先は、テーブル上の2枚のチケット。静雄が言い返す前に臨也は身を翻し、ホールの方へと消えていった。


×


ステップを踏むように軽やかな後ろ姿を見送り、静雄はがっくりと肩を落とした。所在なさげに残されていたチケットを手に取り、鳶色の瞳を細める。頬には僅かながらも朱が差していた。

「馬鹿じゃねぇのか、あいつ」

恨みがましい呟きは臨也の耳には届かない。静雄はチケットを折り畳んでポケットに突っ込んだ。有効期限は今日限り。しかし残りのチケットを使うつもりは無い。望みを叶えるのは、チケットではなく自分自身だと理解していたからだ。

「……全部こいつに頼りたいわけじゃねぇんだ」

静雄が立ち上がると、カウンターでは臨也がマスターと楽しげに会話を交わしている。臨也は静雄の視線に気付き、振り返って手招きをした。静雄は呆れたように苦笑しながら歩き出す。もうチケットは使わない―――そう言ったら余裕綽々な臨也の表情はどう変化するだろう。窓の外では早くも沈みはじめた夕陽が空を赤く染め上げていた。あと2時間程度、限りある時間の中でどんなことが出来るだろうか。

「シズちゃん、早く行くよー!」
「おう」

自らを呼ぶ臨也の声に応え、静雄は自然と柔らかな笑みを零した。


end.




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