スローペースに愛を紡ぐ



鼻孔を擽るのは甘い卵とバターの香り。そしてちょっぴり酸味のあるトマトソースの香りだ。成人男性の一人暮らしにしては手狭で少し年季の入ったアパートの一室に正臣はいた。少し軋むソファーに背中を凭れさせ、思わず頬がにやけるのを抑えられない。幼馴染の帝人に見られれば気持ち悪いと一蹴されてしまう表情をしている自覚はあった。

「紀田ぁ、もうすぐ出来るからもうちょい大人しく待ってろよー」
「あ、はーいっ」

キッチンから投げかけられた声に振り返りながら返事をし、正臣は慌てて表情を繕う。キッチンからでは表情まで見えることはないだろうが、彼に見られたら恥ずかしいという思いがあったのだ。

「てか静雄さん、俺は普段から大人しいっすよ?」
「どの口が言うんだよ、それ」
「そんなの、このチャーミングなく・ち・び・るに決まってるじゃないっすか」
「チャーミングなぁ…」
「あっ静雄さん今、鼻で笑ったでしょ!?」
「笑ってない笑ってない」
「絶対に嘘だ……」

正臣が拗ねたふりを決め込むと、静雄はフライパンを揺らしながら吹き出した。正臣が上体を捻ってソファーの背に乗り出すと、静雄は意地の悪い笑みを浮かべている。

「笑ってるじゃないっすか!」
「お前が騒がしいからだ」

ふてくされてソファーの背に肘をついて正臣は頬に手を当てる。そのままじっと静雄を眺めていると、彼は手際よくフライパンを動かしていた。チキンライスやトマトソースは既に出来上がっているようで、今は上に乗せるオムレツを作っているらしい。手元までは見えないが、菜箸で卵をかき混ぜながら焼いているのだろう。

「静雄さん、料理上手いっすよね」
「そうか?ま、アルバイトは色々とやってたからな」
「へー、そうなんすね」
「まぁ、ほとんどは一日で首になったもんだが…。ファミレスの厨房は割と続いたんだよ。ホールだと客と揉めちまうことがあったんだが、厨房だと一人で黙々とやれたからな」

少し懐かしそうに目を細めて静雄は呟く。珍しい表情に正臣は目を丸くするが、少し考えながら小首を傾げる。

「……でも静雄さん、ホール出てくれって言われることあったんじゃないっすか?」
「そうなんだよな。俺は厨房がいいっつーのにホールに出ろって言われちまって……結局そこでトラブル起こしてクビんなったよ。…ん?なんでホールに出ろって言われたって分かるんだ?」
「だって静雄さん顔いいじゃないっすか」

正臣が言うと静雄は首を捻る。どうもピンと来ていないらしいが、人気俳優の弟を持つだけあって静雄も整った容姿をしている。池袋の人間からは畏怖の対象として見られるのが常で自覚は薄いのだろう。しかし暴れることなく大人しい静雄は金髪であることを除けば、穏やかな好青年にしか見えない。

「んなことねーと思うけど…」
「いやいや、謙遜しないでくださいよ!間違いなく顔いいっすから!」
「……そうか?」

オムレツをチキンライスの上に乗せながら、なおも静雄は納得が行っていない様子だった。正臣はソファーから降りてスリッパを履くと、キッチンへ向かう。正臣のスリッパは静雄が買ってくれた三毛猫柄のスリッパだ。静雄のサビ猫柄のスリッパと柄違いでお揃いらしく、正臣も密かに気に入っている。

「できました?俺、テーブルに持っていきますよ」
「おう。じゃあ盆に乗せるから頼むな」

静雄から手渡されたプラスチックのトレイにオムライスの大皿を2つ乗せ、硬く絞ったおしぼりも乗せる。静雄がグラスに麦茶を注いでくれたが、トレイには乗りそうにない。

「麦茶は俺が持っていく」
「あ、そっすか?ありがとうございます」

正臣がトレイを持って運ぶと、静雄は右手で麦茶の入ったグラスを2個持ち、左手にはスープカップを2個重ねて持つ。器用に運ぶと、戸棚から取り出したカップスープのアソートボックスを正臣に渡す。

「お前どれがいい?好きなの選んでいいぞ」
「あ、マジっすか?んー、じゃあコーンスープで」
「俺はポタージュにするか。紀田、そこにポットあるから」
「はーい」

正臣はスープの素をカップに開けると、静雄が指し示した先にあったポットで湯を注ぐ。静雄が渡してくれたスプーンで何度か掻き混ぜ、静雄のカップにも湯を注ぐ。薄黄色と乳白色の液体が渦を作り、混ざっていく様子に正臣は穏やかな気持ちになった。

「なんか、平和でいいっすよね」
「ん?」
「今日めっちゃ天気いいし、静雄さんは料理上手いし、なんかすげー平和だなって思って…」

ぽつりと呟いた正臣がどこか寂しげな笑みを浮かべているのを見て、静雄は思わず手を伸ばす。正臣の髪をそっと撫でながら、苦笑する。

「まぁ最近は色々とあったからな」
「……ですね」

静雄は正臣からスープカップを受け取り、トレイに乗った皿類をテーブルに並べる。手を合わせると正臣も倣って手を合わせる。それだけで頬が緩んでしまうのは不可抗力だろう。

「「いただきます」」

自然と声が重なり、顔を見合わせて二人は笑った。正臣はオムライスをスプーンで掬い、大きく口を開けてかぶりつく。途端に目を輝かせ、嬉しそうな笑顔を浮かべる。

「めっちゃ美味いっす!俺ほんと静雄さんのオムライス好きです……」

幸せそうにそう言われて悪い気はしない。好きだと言われたことで静雄は心臓が大きく跳ねるのを感じた。無邪気な正臣の笑顔を今こうやって独占しているのが自分なんだと思うと頬が自然と緩む。

「……そうか。まぁ、俺の得意料理だからな」
「あれ?静雄さん、顔赤くないです?」
「あ、赤くねえよ!気のせいだ」

正臣に指摘され、静雄は慌てて否定した。誤魔化すようにばくばくとオムライスに食らいつくが、正臣はどこかにやけた笑みを浮かべながら静雄をじっと見つめている。

「そっすか?まぁ安心してくださいよ。俺は静雄さんの作るオムライスも大好きっすけど、静雄さんのことはもっと大好きっすから!」

胸を張って正臣が言い、静雄はオムライスを喉に詰まらせた。何度も繰り返し咳き込み、静雄がようやく顔を上げると正臣はにっこりと笑みを浮かべている。

「お前、なぁ……」
「大丈夫っすか?ほら、ちゃんとお茶飲んでくださいよ」

差し出されたグラスを受け取り、静雄はしぶしぶ麦茶を飲む。冷たい液体が喉を潤していき、顔の熱が少し冷めていく気がした。行儀よくオムライスを咀嚼している正臣を見つめながら、静雄が年下の学生に翻弄されていることを自覚して多少情けない気分になった。女との接触をほぼせずに育ってきた静雄に対し、正臣は妙に女慣れしている。

「なんかお前、慣れてるよなぁ」
「え?何がっすか?」
「いや……なんか、そういうこと平気で言うのとか。俺よりずっと慣れてる」

口にしてからまるで他の女に嫉妬しているような気がして更に情けない気分になった。年上の男にこんなことを言われても正臣だって困るだろう。静雄が視線を向けると、正臣は意外なことに目を丸くして瞬かせていた。

「紀田?」
「え……あぁ、すんません。ちょっとびっくりして」
「こんなこと言われても困るよな。俺こそすまん」
「いや、そうじゃないんっす!あの、静雄さん勘違いしてません…?」

眉根を下げた静雄に対し、正臣はやけに慌てた様子で両手を振る。それから伺うように首を傾げてくる。今度は静雄が首を傾げる番だった。

「勘違い?」
「俺が……その、誰に対してもそう言ってるっていうか……」
「……違うのか?」

静雄に尋ねられ、正臣は瞬時に否定しようとして―――言い淀んだ。何度もあーとかうーとか唸りながら、最終的には頭を抱えて俯いてしまった。静雄はどうするべきか分からず、手を伸ばして正臣の肩を軽く叩く。

「お、おい、紀田?」
「否定は出来ないんっすよ。したいんっすけど!言ってるのは事実なんすけど、それはあくまで……その、冗談……ジョークっていうか、口から出まか…いや、なんつーか、その…」
「わ、分かった。言いたいことは分かったから。な?」
「女の子たちに向けて言うのと、静雄さんに向けて言うのは違うんっすよ。……すんません、俺、今初めて自分の不誠実さを自覚しました……」
「初めてなのかよ」

苦笑しながら正臣の額を突き、静雄は知らず知らずのうちに浮かんでいた笑みを深くする。正臣は本気で悩んでいるようだが、静雄としては自分が特別だとはっきり言われて嬉しくないはずがない。まだ自分の感情に少し戸惑いがあるようだが、それでも静雄にとっては十分満足できる言葉だった。唸っている正臣を促しつつ食事を食べ終わり、静雄はトレイに食器類を全て乗せてキッチンに運ぶ。シンクでとりあえず汚れだけを水で落とした食器類を並べ、再びリビングへ戻った。

「紀田」

ソファーに座り、床に座ったままの正臣の腕を掴む。軽く引っ張ると正臣は静雄の膝に乗り上げる形になる。二人分の体重を受けてソファーがぎしりと軋んだ。

「し、静雄さん、近いっすよ」
「別にいいだろ」

腰が引けている正臣の身体を引き寄せ、静雄は正臣の顔をじっと覗き込んだ。アーモンド形の瞳の中でブラウンの虹彩が動揺に揺らぐ。僅かに赤らんだ頬の色さえも愛しいと思った。

「んな風に悩む必要ねぇよ。俺はただ嬉しかったぜ」
「え…?」
「俺は……今までまともに誰かと付き合ったことなんかねぇんだ。多分、お前が初めてだ。だから、お前に特別だって言われりゃ嬉しい」

正臣の滑らかな頬を撫で、前髪を掻き上げて口づけをひとつ落とす。たちまちぼっと音がしそうなほど顔を赤くした正臣は、わなわなと肩を震わせながら静雄を見上げる。気のせいか、精一杯絞り出した声も掠れ気味だ。

「し、静雄さん、俺が初めてなんすか…?う、嘘でしょ?」
「嘘じゃねーよ。……口に出すのもむかつくが、ノミ蟲野郎は高校ん時からうぜーぐらいモテてたぜ。変な信者みたいなのをいっぱい囲ってたからなぁ。でも俺は喧嘩ばっかで、女子なんて近寄ってもこなかった。仕事始めてからもそれは変わらねぇ。取り立て先にいるのは変な美人局の女ばっかりだしな」

静雄は僅かに苛立ちを孕ませながら吐き棄てるが、正臣の視線を受けて僅かに表情を緩ませる。驚いた様子の正臣の髪を優しい手つきで撫でた。

「だから嘘じゃねぇよ」
「本当なんすね……」
「あんまり言いたくなかったんだよ。お前よりも8歳も上なのに、まともに恋愛経験が無いなんて情けねぇ話だろ」
「そ、そんなことないですよ!俺だって、経験って言えるほどちゃんと付き合った相手なんて、ほとんどいないんで…」

正臣は恥じながらそう吐露し、軽く俯いた。静雄はそんな正臣の腰を抱き寄せ、細い肩口に額を押し当てる。

「じゃあ、俺たち似たようなもんだ。気にする必要なんてねぇ」

宥めるように背中を何度か撫で、静雄は正臣の顔を覗き込む。焦れるほどゆっくりと顔を上げた正臣と視線が絡み合う。甘えるように伸び上がってきた正臣の頬に軽いキスを落とし、次は唇同士を触れ合わせる。何度も戯れのように口づけを交わし、呼吸の合間に目を合わせて笑い合う。鼻先を擦り合せると、正臣はくすぐったそうに身体を震わせた。

「俺たちは俺たちのペースでいいだろ?」

静雄がそう囁き尋ねると、正臣は静かに頷いた。静雄の首に手を伸ばし、そっと頭を擦り寄せる。素直に甘えてくる様がどうにも可愛くて、静雄は正臣に応えるべく再び顔を寄せた。再び触れ合うであろう唇もまた、きっと甘くてやわらかい。


end.




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