きっと、こんな生活が堕落してるって言うんだ

※大学時代


きっと、こんな生活が堕落してるって言うんだ。無造作に投げ出された生白い脚をちらりと一瞥し、目を伏せる。俺は視線をパソコンの画面に戻し、止まっていた手を動かしはじめた。キーボードの横にある書類に書かれた指示に従ってただ入力を行うだけ。パソコンを覚えたての中学生がやるようなタイピングゲームを思い出す退屈さに欠伸が出そうだった。カタカタ、カタカタ、という俺の発する入力音だけが静寂の中に響く。眠気覚ましに淹れたコーヒーはすっかり冷めてしまっていて、もう口をつける気にはなれない。この作業が終わったらレンジで温め直そう。俺はそう思いながら無意識に溜息を吐いた時だった。

「奈倉くん」

唐突に耳元で囁かれた低い声に肩が跳ねる。ギギギ、と音がしそうなほどぎこちなく振り返れば、薄闇の中で深紅の瞳が俺を見つめていた。虹彩の奥には、ともすれば吸い込まれてしまいそうな色香が滲んでいる。

「い、ざやさん」

俺が渇いた喉から声を絞り出すと、臨也は小首を傾げて薄く微笑んでみせた。細い指先に頬を撫でられ、思わず身を引く。デスクチェアが軋んでギシリと嫌な音を立てる。

「そんなに驚かないでいいでしょ」
「お……起きて、たんすね」
「今さっきね」

臨也はそう呟きながら小さな欠伸を一つ漏らした。整った美しさはそれによって損なわれることなく、むしろ美貌の中から愛らしさを覗かせる。瞳のふちに涙を浮かべ、臨也は身を乗り出して画面を覗き込んだ。寝起きの瞳に画面から漏れる光が眩しいらしく、ぱちぱちと何度を瞬きを繰り返す。その度に長い睫毛が揺れ、白い肌に影を落とした。

「進んでる?……うん、あとちょっとだね」
「あの、臨也さん。これって何の名簿なんですか」
「君がそれを知る必要はないよ。あぁ、誤字には気をつけてね。出来上がったら教えて。印刷前にチェックするから」
「……はい」

有無を言わせぬ言葉に抗うような勇気はなく、俺は大人しく頷いてタイピングを再開する。真横から注がれる視線に居心地の悪さを感じながらも、俺は必死に集中力を絞り出した。数十分で作業を終え、最終確認をしてからファイルを保存する。

「臨也さん、終わりました」

俺が立ち上がると、臨也は椅子に座ってマウスに手を伸ばす。いつの間にか掛けていた眼鏡のレンズ越しに赤い瞳が眇められる。それから数分でチェックを終え、臨也の手がベッドに座っていた俺を手招く。首を回しながら画面を覗き込むと、いくつかのセルが赤く塗り潰されていた。

「ここ、間違ってる。修正して」
「あ、はい」
「再確認はしないから、ちゃんと修正後に自分で確認してね。終わったら二部ずつ印刷して」

臨也はそうとだけ告げて立ち上がり、俺のマグカップを掴む。それ冷めてますよと言いかけたが、臨也は口をつけることなくキッチンへ消えていった。俺は細い背中をぼんやりと見送り、はっと視線を画面に戻した。数分でファイルの修正を終わらせ、印刷へと移る。コピー機がカタカタと音を立てながら印刷した紙を吐き出しているのを眺めていると、臨也がキッチンから戻ってきた。その手には行きと同じように俺のマグカップを持っている。しかし中に入っているコーヒーの量は増えていて、どうやら自分で新しく淹れ直したらしい。

「お疲れさま」

そう微笑みながらも、臨也はマグカップを俺に渡す素振りがない。じっと眺めていると臨也は立ったままマグカップに口をつけ、コーヒーを啜った。俺の分はないんですか。そう言いたいのをぐっと堪えていると、臨也は俺を見下ろして噴き出した。

「なに笑ってるんすか」
「いや、君がすごい顔してるから面白くて」

臨也は笑いながらマグカップを差し出してきた。臨也が口をつけた部分を思わず凝視してしまい、俺はマグカップを回して口のついていない部分を手前に持ってくる。臨也の視線を感じつつコーヒーを嚥下すると、香ばしく芳醇な味が口腔内へと広がった。疲れていた頭がスッキリして軽く息を吐く。マグカップを卓上に置くと、臨也は俺が印刷した書類に目を通している最中だった。俺は画面の電源を落とし、臨也の横を通り過ぎてベッドに倒れ込む。サイドにある時計を横目で見ると、時刻は1時半を過ぎている。道理で効率も落ちるし疲れるはずだ。ベッドに沈む身体がずしりと重く感じられ、俺は寝返りを打って天井を見上げる。目を閉じていると、ばさりと書類を置く音が聞こえてベッドの足元が軋んだ。俺が薄く目を開けると、ベッドに乗り上げてきた臨也がじっと俺を覗き込んでいる。起き上がろうとした俺を手で制し、臨也はうっそりと微笑んだ。薄い硝子越しに見える瞳はどこか愉しげに見えた。蠱惑的な笑みを向けられて動けずにいると、細い指先が俺の手の甲に這わされる。

「疲れちゃった?」

そう囁きながら臨也の指が手の甲から腕、肩へと移動する。産毛を撫でるような柔らかい指遣いに肩が震え、思わず顔が引き攣った。臨也は俺が身じろいだことに目敏く気付き、俺の腹の上に乗り上げる。マウントを取られてしまえば逃げることは叶わず、俺は形の良い唇をいびつに歪める臨也を見上げることしかできなかった。

「いざや、さん」
「どうしたの?そんなに身構えないでよ」

臨也は揶揄するように微笑み、肩に触れていた指先に力を込める。俺が痛みに顔を顰めると、臨也は両肩を掴んで顔を寄せてきた。浮かべた笑みを崩さないまま、臨也の唇が俺の頬に触れる。戯れのような触れるだけのキスはすぐに終わり、俺と視線が合うと臨也は身体から力を抜いて倒れ込んできた。急に体重をかけられたことで俺は呻き声を上げる。

「ぅぐ…っ、い、臨也さん、苦し……」
「文句言うなんて生意気じゃない?奈倉くん」

至近距離で交わった視線の先で臨也はつまらなさそうに瞳を閉じる。精巧な人形のような美貌に目を奪われ、思わず俺は手を伸ばす。震える手で頬に触れても臨也は身動き一つしない。慎重な手つきで眼鏡を外し、手を伸ばしてベッドサイドのテーブルに置く。それから俺は陶磁のように滑らかな肌を撫で、指先で桜色の唇に触れた。柔らかなそこに口づけたい衝動が込み上げるが、胸に乗られたままの体勢ではどうしようもない。焦らされているような気持ちになって臨也を見つめていると、長い睫毛が微かに震え、紅玉に似た虹彩が覗く。

「なに見てるの」

こちらの気持ちを推し量るように静かに尋ね、臨也は俺を見つめた。倒錯的な色気を醸し出す危険色に脳内ではサイレンが鳴り響いている。だというのに、心とは裏腹に俺は欲望に忠実な言葉を舌に乗せて吐き出していた。

「キスしたい、んですけど」
「さっきしたじゃない」
「……そうじゃなくて……」
「さっきのキスじゃ満足できないんだ?」

からかいを含んだ言葉を投げかけられても構わなかった。俺が上体を起こすと、臨也の腕がすんなりと伸びて首に絡められる。鼻先が擦れるほどの距離で臨也は首を傾げ、俺の言葉を待った。煽られて頭が熱くなる感覚に襲われながら、おれは乾いた唇を舌でそっと湿らせる。震えそうになる喉を叱咤して唇を開いた。

「臨也さん、だめですか?」

懇願するような響きを孕ませた言葉はひどく頼りなく、急に自分が情けなくなる。臨也は困ったように眉根を寄せていたが、やがて微笑みを湛えて俺の頬に手を這わせた。冷たい指先の感触がやけに生々しく感じられ、火照った思考回路を現実に引き戻す。

「だめって言ったら諦めるの?」
「それは……多分、無理なんすけど」
「じゃあ訊く意味なくない?」
「……そうですね」

ピントが合わず、ぼやけた視界の中で臨也の唇が赦しの言葉を紡いだ。うつくしい笑みに誘われるように、俺は柔らかな唇に噛みつく。薄闇の向こう側ではパソコンの低い唸りだけが響いていた。


end.



title by サボタージュ




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