ていねいに嘘を連ねる

※来神時代


「お前も懲りないな」

門田の言葉に顔を上げた臨也はにこりと微笑んで首を傾げた。何のことか分からないと言いたげだが、その実きちんと理解しているからタチが悪い。門田が溜息を吐いて席につくと、臨也は自らが座っている椅子をゆらゆら揺らしながら話しかけてきた。転けるぞと注意しても臨也は聞く耳を持たない。

「俺は遊んでるだけだよ。あわよくば死んでくれないかなって思ってるけど……この2年間であいつの頑丈さは十分理解したしね。あの化け物が俺に振り回されて怒り狂っているのを見るだけで愉快だ」
「……お前なぁ」
「ドタチンだって俺たちのこと止めないじゃん」
「それは止めに入ったらこっちが無事じゃ済まないからだ。…あとドタチンって呼ぶな」
「えぇー?可愛いと思うよ、ドタチンってあだ名」

臨也はそう笑うと、椅子を揺らすのをやめてじっと窓の外を眺めた。視線の先を追ってみれば、鮮やかな金髪の長身の男子生徒が新羅と一緒に校門から入ってきたところだった。もうすぐチャイムが鳴るというのに、寝坊でもしたのだろうか。静雄の髪はあらゆる方向に跳ねている。新羅は静雄に後れを取りながら走っており、息も絶え絶えだ。門田がふと臨也に視線を戻すと、静雄を睨みつけてじっと黙り込んでいる。眇められた瞳には昏い色が浮かんでいて、声をかけるのを憚られた。

「……愉快だけど、やっぱり死んでほしいかな」

呟かれた言葉の物騒さに肝が冷えたが、臨也は普段と寸分違わぬ微笑を湛えている。門田が口を開きかけた瞬間、スピーカーからチャイムの音が響き渡る。と同時に担任教師が教室に入ってきた。臨也はすっと立ち上がり、門田を一瞥もせずに自分の席へ戻っていく。門田はクラス委員の号令を意識の遠い場所で聞きながら、二人は間に合わなかったのだろうとぼんやり思った。


×


猫のように気まぐれな性格。風のように過ぎ去ってしまう性質。興味を抱いたものに対する執着は果てしなく、一方で興味を失えば途端に執着を放棄する。緋色の虹彩は誰をも惹きつけて離さない。形の良い薄い唇から紡がれる声は澄み渡った青空のようで、しかしその言葉は毒のように甘く容赦を知らない。一歩深く踏み込んでしまえば、いとも簡単に底なし沼に引き込む―――大仰かもしれないが、折原臨也という同級生はそんな男だ。

「新羅は本当に面白い奴さ」

昼食の弁当を突きながら臨也はそう言う。普段は面倒だからと学食やコンビニで済ますことが多いが、稀に自分の弁当も作ってくることがあった。両親が不在がちでまだ小学生の妹たちの世話をしているという臨也は、卒なく家事や料理もこなすらしい。弁当の中身も綺麗に焼かれた卵焼きや彩りのバランスが良いポテトサラダ、ミニハンバーグなど男子高校生が作ったとは思えないほどだ。そんな弁当を咀嚼しながら、臨也は唇をゆがめて微笑む。奇妙なほどのアンバランスさに門田は眩暈を覚えた。

「……中学の頃からああなのか、岸谷は」
「そうだよ。なんなら、初対面の時からおかしかった」
「お前が言うぐらいなんだからそうだろうな」
「それ、どういう意味?」

門田の言葉に眉根を寄せるが、すぐに臨也はまぁいいやと視線を落とした。綺麗な箸遣いで卵焼きを切り、持ち上げて口に運ぶ。口元を少しも汚すことなく咀嚼し、嚥下する。こうして眺めていると少しも歪んだところのない品行方正な生徒にしか見えない。

「なぁに?ドタチン。俺の顔に何かついてる?」

門田の視線に気が付いた臨也がちらりと視線を投げる。緋色の虹彩に射抜かれ、門田は一瞬だけ言葉に詰まった。それを逃すことなく臨也は僅かに笑みを浮かべる。

「……いや、なんでもない」
「そう?」

ついと視線を戻して臨也は再び弁当を食べはじめる。弧を描いた瞳に、面白がられているというよりは試されている―――門田は直感的にそう思った。こうして昼食を共にできる友人であっても、臨也にとっては愛すべき人間の一人でしかない。臨也が掲げる大きすぎる人間愛の前に於いては、"特別"など存在し得ないのだ。最初から理解していたことのはずなのに、門田の頭の中は冷えていく。咀嚼していた総菜パンの味も、次第に分からなくなっていった。


×


ひらりと身軽に飛び上がった臨也が数秒前まで経っていた場所にけたたましい音を立ててライン引きが落下する。中の石灰がアスファルトにぶち撒けられ、周囲には真っ白な煙が舞い上がった。制服が汚れてしまうのも厭わずに、その石灰を踏みしめて金髪の男子生徒は駆け出す。臨也は黒い短ランを汚したくないらしく、グラウンドを風上の方へ逃げていく。体育倉庫を回り込んで中庭に入ると、素早く茂みの中に身を隠した。中庭で部活動や読書に勤しんでいた生徒は、制服を真っ白に染めた静雄の登場にざわめきながら逃げていく。げほげほと咳き込みながら目を皿のようにして臨也を探すが、結局見つけきれない。綺麗に手入れされた中庭で暴れることは憚られたのか、やがて静雄は踵を返す。その瞬間だった。静雄のすぐ近くの茂みから軽やかな声が響く。

「逃げるのかい?」

世間話をするように軽いトーンで告げられた言葉に、静雄はゆっくりと振り返った。茂みから姿を現した臨也は漆黒の髪をさらりと掻き上げ、右手に持ったナイフを所在なさげに揺らしている。太陽の光を受けて煌めく刃の不穏さだけが長閑な中庭の雰囲気にそぐわない。静雄の鳶色の瞳がぎらりと輝き、歯軋りをする嫌な音が鳴り響く。臨也はそれでも余裕のある姿勢を崩すことなく笑い、ナイフを戯れに何度も投げては危なげなく受け止める。

「そうだよね、こんなに綺麗な中庭を汚しちゃ迷惑がかかっちゃうよね」
「……臨也……」
「でもさぁシズちゃん、そんな配慮をするのは人間だけだよ?」
「あ?」
「君がそんな配慮をするなんて無駄だよ。だってシズちゃんは人間じゃなくて…理性のない化け物なんだからさ」

臨也が吐き棄てた言葉は冷え切っていた。鋭利なナイフを突きつけられた瞬間、静雄はこめかみに幾筋も血管を浮かび上がらせて地面を蹴る。衝撃で美しい芝生が抉れ、下の土が露わになった。臨也は宙返りをして静雄の拳を避けると、ベンチや噴水を軽々と踏み台にして颯爽と走り出す。余裕のある走りは実に軽やかで一見すればスキップにも見えるだろう。怒声を上げながら走る静雄の勢いは凄まじいが、一直線に走ってばかりの静雄を弄ぶように臨也は旧校舎の螺旋階段を駆け上がり、隣の棟へ窓から滑り込んだ。たまたま中にいた文化部の女子生徒が悲鳴を上げそうになるが、臨也は悪戯っぽく微笑んでそれを阻止すると手を振って去って行く。その直後、外から金属の軋む嫌な音と複数人の悲鳴が上がった。女子生徒が恐る恐る窓から下を見下ろすと、静雄が螺旋階段を外そうとしてテニス部の男子生徒たちと顧問教師に止められている。遠ざかっていく臨也の背中を眺めながら、女子生徒はその場にへたり込んだ。


×


あと30分で完全下校時刻になろうという頃に門田と新羅を呼び止めたのは臨也だった。どこかで引っ掛けたらしい腕の傷から赤い血をぽたぽたと滴らせながら、夕陽を背に受けてやぁと笑う。その場違いなほど明るい笑顔に門田は硬直し、新羅は額を抑えて俯いた。臨也を探しきれなかった静雄が早々に諦めて帰宅したことを先ほどすれ違った門田が知ってたので、新羅は臨也を空き教室に引っ張り込んだ。周囲の教室や廊下に人がいないことを確認すると、新羅は鞄から救急キットを取り出す。

「あのさぁ臨也、程々にした方がいいと思うよ?」
「なんで?この程度、ただの掠り傷じゃないか」
「擦過傷だからって毎日毎日治療しなきゃいけない僕の身にもなってよ」
「毎日毎日保健室に行くわけにいかないだろ?」
「……そうじゃなくて、」

堂々巡りな会話に溜息を吐き、新羅はガーゼを切る手を止める。医療用手袋と消毒液のボトルを門田に渡し、新羅は廊下に落ちている血痕をティッシュで拭うように頼んだ。治療の手伝いは出来ないがそれぐらいは、と門田は黙って廊下に出る。そろそろ見回りの教師がやって来る時間だろう。見つかって不審に思われれば連帯責任で叱られかねない。門田は透明な手袋を嵌め、教室にあったティッシュに消毒液を吹き付けて拭いていく。その間、教室からは新羅と臨也の会話が漏れ聞こえてくる。

「今はこの程度で済んでるからいいよ?でも、もし君が重傷を負ったら…僕にはどうしようもない」
「なんだい?もしかして心配してる?」
「茶化さないでよ。僕が……ってこと、知ってるくせに」
「あぁ、そうだった。新羅、君は……のヒーローだったね」
「臨也」
「怒るなよ、新羅」

途切れ途切れの会話には一部聞き取れない部分があったが、新羅が怒っている様子なのが門田には珍しかった。消毒を終えて門田が教室に戻った頃には、二人はすっかり黙り込んでいた。新羅は少々荒い手つきで消毒をしていたが、臨也も慣れているのか痛がる素振りは一切見せない。門田は重く張り詰めた空気に溜息を吐き、手袋とティッシュをゴミ箱に捨てて新羅に消毒液を返した。

「ありがとう、門田くん」
「いや……お前たちはなんだ、喧嘩か?」
「別に」

塗り薬を塗られながら、臨也はついと視線を逸らした。新羅は黙ったまま塗り薬の上からガーゼを押し当ててテープで固定すると、薬品をキットの中に片付けはじめる。臨也はしばらく不服そうにガーゼを眺めていたが、やがて小さな声でありがとうと呟いた。新羅は軽く目を瞠り、それから呆れたように苦笑を浮かべてみせる。

「普段からそれぐらい素直なら可愛いのにね」
「うるさい」
「ねー、門田くん」
「は…?」

揶揄するように言われ、臨也は不愉快そうに眉を顰める。新羅は鞄を手に持ち、肩を竦めながら門田を見上げた。エセ外国人のように大仰な仕草に門田が首を捻ると、新羅はそのまま教室の出口に向かって歩き出す。

「先生に見つかると面倒だから、僕は失礼するよ」
「ちょっと待て、岸谷」
「君たちも早く帰った方がいいと思うよ。じゃあ、また明日ね」
「お、おう。……本当に帰っちまった」

調子外れな鼻歌を歌いながら消えていった背中を門田は呆然と見送る。臨也は捲っていたインナーを元に戻し、短ランを羽織って座っていた椅子を元に戻した。それから立ち尽くしたままの門田の肩に触れ、こてんと首を傾げてみせる。

「ほらドタチン、俺たちもさっさと帰ろ」
「あ、あぁ……」
「さっきは俺の血拭いておいてくれたんでしょ?ありがとね」

新羅にはあれだけ嫌そうに言っていた礼を自分には随分とあっさりと言うものだ。門田が瞠目していると、不審そうに見上げられて慌てて首を振る。素直なら可愛い、と新羅が言っていた揶揄に同意したくなった―――など知られたくはなかった。

「というか、傷は大丈夫なのか?あんなに血が…」
「んー?見た目ほど大したことないよ。別にシズちゃんの拳食らったわけじゃないし、逃げる途中でちょっと着地ミスってコンクリートで擦っちゃっただけ」
「着地ミスって……足は大丈夫なのか」
「うん。着地は出来たんだけどバランス崩しただけだよ。大丈夫」
「……そう、か…」

門田がほっと息を吐くと、臨也が肩を掴む強さが増した。ふと門田が視線を下ろすと、夕陽の差し込む教室で真っ赤に染まった顔で臨也がこちらをじっと見上げていた。色のない表情の中で、緋色の瞳だけが爛々と輝いている。

「心配してくれてるんだ?」

ゆるりと弧を描いた唇から紡がれた言葉は愉悦を孕んでいる。甘さを含ませた声が毒のように門田の鼓膜を揺らした。呑み込まれてしまいそうな雰囲気に襲われるが、門田はゆっくりと首を振ってそれを振り払う。

「当たり前だろ。友達なんだから」

その言葉に臨也は笑みを次第に消していく。門田の腕を強引に掴んで、臨也は歩き出す。話しかけることもできない門田には、華奢な背中がどんな感情を抱いているのか知る由もなかった。


×


翌日も臨也は静雄と喧嘩をしていた。校内の器物破損で清掃を言いつけられていた静雄を臨也がからかったのが原因だ。静雄は手にしていた箒をへし折り、長い方を木刀のように振り回して臨也を追い詰める。リーチが長い武器に対しての回避能力が高い臨也は軽々と繰り出される攻撃を避け、運動部が活動するグラウンドを駆け回った。活動中の部活に静雄を突っ込ませ、いくつもの部活動を中断させて臨也は笑う。その内にサッカー部の顧問教師に静雄が捕まり、あっという間に臨也は姿を眩ませた。

「それで今日は早いとこ切り上げてきたって?そもそも喧嘩するのが僕には理解できないんだけどなぁ」

図書室に居たところを臨也に捕まった新羅は静かに厚い本を閉じた。古めかしいその本には、外国の神話に基づいた伝承が記されている。

「俺だって好きで喧嘩しているわけじゃないさ」
「そうかな?静雄を潰すためって言うけど、君も楽しんでるんじゃないの」

冗談交じりにそう言った新羅を臨也はぎろりと睨みつけた。その視線の鋭さに新羅は両手を上げ、臨也は不機嫌そうに捲っていた本を閉じる。乱暴に扱われた本を素早く回収して、新羅はそそくさと本棚に戻した。機嫌を損ねられて本をナイフで切り裂かれでもしたらたまったものではない。

「そんなわけないだろ。まぁいい運動にはなってるかもしれないけど」
「あはは、確かに君の運動能力はこの2年で飛躍的に伸びてるね。パルクールだっけ?あれとか体術とか……一体誰に教わってるんだい?」
「新羅には教えないよ」

本を片付ける新羅を眺め、頬杖をつきながら臨也は呟く。放課後の図書室には臨也と新羅の他に数人の生徒と司書しか残っていなかった。二人は入口から遠い隅の席に居るので、話を誰かに聞かれるような心配もない。

「それにしても君、本当に趣味が悪いね。最近ずっと門田くんにべったりじゃないか」

本を片付け終わった新羅は振り返って視線を臨也に向けた。頬杖をついたままの臨也は、軽く目を瞬かせてゆったりと笑みを深めていく。そんなことないけど?そう言いながらも笑顔は肯定を含んでいた。

「とぼけるのはやめなよ。今日も静雄が門田くんと話してる最中に奇襲しただろう?」
「おや、耳が早いね」
「ここから見えたんだよ」

窓を指し示した新羅に表情を変えることなく、臨也はただ瞳を眇めた。僅かに傾いてきた夕陽に照らされ、臨也の黒髪が艶やかに輝く。

「君は彼のことが好きなのかい?」
「俺がドタチンを?まさか」

核心を突くような一言にも臨也は顔色一つ変えずに答えてみせる。新羅はそんな臨也を推し量るように見つめていたが、やがて溜息を吐いて立ち上がった。夕陽が反射して眼鏡が光り、眩しげに目を細める。

「臨也、君は手を出していないって認識なのかもしれないけど…それは違うと思うよ」
「……何の話だい、新羅」
「たとえ直接手を出していなくても、君がしていることはそれと同じだってこと。君だって自覚してるだろ」

あくまで知らぬ存ぜぬを貫き通そうとする臨也にそう告げると、新羅は椅子を戻して立ち去った。一人残された臨也は、刻々と色濃くなっていく夕焼けを眺めながら口角を吊り上げる。いびつな笑みを浮かべたまま、臨也は瞳の奥に紅く燃えるような色を滾らせていた。


×


巨大なサッカーゴールがグラウンドを転がった。強固な真白いポールはあちこちが凹み、折れ曲がっていた。ネットもあちこちが破れて茶色に汚れ、見るも無惨な姿に成り果てている。グラウンドのあちこちには穴が穿たれていて、転がっていたサッカーボールは全て落ちてしまった。砂煙がもくもくと舞い上がり、視界は極めて悪い。そんな光景に場違いなほど間延びした声が響く。

「あーあ、サッカー部はもうすぐうちで他校との親善試合があるのに……こんなにグラウンドを荒らされちゃ中止かな。シズちゃん知ってるかい?サッカー部の顧問は新任の先生なんだよ。頑張って試合を取り付けてたみたいだけど、可哀想に。精神的に弱いタイプの先生みたいだし…もしかしたら辞めちゃうかもね」

憐憫を含んだ台詞だが、その声には1ミリの同情も含まれていない。臨也はサッカーゴールのポールを軽く蹴ると、直後に弾丸のように飛んできたサッカーボールをひらりと躱した。ボールが飛んできた場所には両手にサッカーボールを持って仁王立ちする静雄がいる。臨也は軽く肩を竦め、呆れたように目を伏せた。

「シズちゃん、サッカーのルール知らないの?」
「あァ…?」
「サッカーはね、手を使っちゃダメなんだよ。つまり今の君はハンド、イエローカードだ」
「……知ってんだよ、そんなことは」
「あれ、そうなの?てっきり化け物のことだから知らないのかと思ったよ」

にこやかに告げられた言葉に静雄のこめかみからピキリという音が鳴る。血管を浮き上がらせ、静雄の右手に捕まれていたサッカーボールが勢いよく破裂した。バァンという大きな破裂音に臨也は思わず目を瞑り、片耳を押さえる。

「貴重な備品をまた一つ破壊しちゃったね。サッカーボールの値段なんか君は知らないだろうけど、検定基準があってそれをクリアしているものは五千円から一万円近くするんだよ。どうせ安いものだと思って握り潰したんだろうけど…」
「……手前が、俺を煽るせいだろうがァああああああ!!」
「おやおや責任転嫁かい?実にかっこ悪いね」

静雄は左手に持っていたサッカーボールに力を込めかけたが、潰すように思えたそれを臨也に向かって思いきり投擲した。剛速球で飛んできたそれを焦る様子もなく再び回避し、静雄が向かってくる前に臨也は背を向けて走り出す。グラウンドを抜けて人のいない旧校舎へ向かい、テニスコートを突っ切り、螺旋階段を駆け上がる。静雄は苦手な螺旋階段を見て舌打ちをしたが、この階段を外したり破壊するのはまずいと判断する理性はまだ残っていた。仕方なく臨也を追って螺旋階段を上るが、やっと辿り着いた屋上には誰の姿もない。鼻を動かしても臨也の嫌な臭いは感じ取れず、怒りと疲労の入り混じった重い溜息を吐き出す。上ったと見せかけて再び下に降りたのかもしれない、と屋上から身を乗り出した瞬間だった。隣の棟から僅かに誰かの話す声が聞こえてきた。

「ッ、…!」

静雄が勢いよく顔を上げると、隣の棟の屋上―――その端に一瞬だけ黒い布が見えた。見間違えようもなく、それは臨也の短ランだった。静雄は凄まじい勢いで走り出すと、助走を生かして宙に跳ぶ。隣の棟の壁にしがみつき、腕の力だけで這い上がる。途中でコンクリートがボロボロと崩れ落ちたが、気にしている暇などなかった。

「臨也ァアアアアアア!!」

静雄は怒りに満ちた表情で屋上へ這い上がり、仇敵を探して視線を彷徨わせる。一番高い給水タンクに座ってナイフを弄ぶ臨也を見つけた途端、その怒りは頂点を突き抜けた。臨也の視線はタンクの下に向けられており、その先には誰かが居るようだったが、太いパイプの陰になっていて静雄からは判別できない。しかし鬼神と化した静雄にそれを気に掛ける余裕など幾許も残っているはずがなかった。静雄はタンクに思いきり拳をぶち込む。衝撃にタンクがぐらりと揺れ、それによって臨也は体勢を崩してコンクリートの地面に落下する。臨也は一瞬だけ驚きに目を見開いたが、すぐに空中で体勢を整えて綺麗に着地した。タンクは大きく揺れて側面に巨大な凹みを作ったが、倒れることなくその場に留まる。静雄の拳には大きな衝撃が走り、骨と筋肉を激しい痛みが襲う。さしもの静雄も思わず右の拳を庇い、その場に膝をついた。パイプの向こうでは臨也が誰かと会話している。それを耳にして拳を襲う痛みよりも怒りの方が上回り、静雄はパイプを掴んで乗り越えた。ダンッと地面を踏み鳴らして着地すると、そこには臨也ともう一人男子生徒の姿があった。臨也は静雄が来るのを予期していたように着地した体勢のまま、ゆっくりと視線を上げる。緋色の瞳は冷たく輝き、短ランの胸元に這わせた指にはナイフが握られているようだった。その隣にいたのは門田で、落下してきた臨也を心配して声をかけていたらしい。門田は静雄の登場に驚きながら後退る。

「し、静雄…」
「よぉ門田。ノミ蟲野郎が邪魔したようですまねぇな」
「ちょっと、なんでシズちゃんが謝るわけ?俺はドタチンと話してたんだよ。邪魔してきたのはそっちでしょ!」
「あぁ…?喧嘩の最中で逃げ込むなんて迷惑かけてんのは手前の方だろうが!」
「逃げ込んだわけじゃな―――、ッ…!」
「臨也!」

臨也の頑なな態度に怒りを煽られたのか、門田の目の前ということも構わずに静雄は拳を繰り出した。至近距離な上に屈んだ体勢だったため、臨也は地面を転がって回避する。臨也は静雄の拳が地面にめり込んでいる隙に立ち上がって走り出す。しかし静雄も素早く拳を引き抜き、反対側の腕を伸ばして臨也の襟首をがしりと掴んだ。首が締まって臨也は軽く嘔吐くが、掴まれているのは短ランだと気付いて器用に肩を回す。臨也は短ランから腕を抜いて逃れ、地面を転がる。しかし、立ち上がった瞬間に静雄の拳が真横から飛んできて細い身体はぐらりとバランスを崩した。少し距離があったとはいえ、まともに拳を食らった臨也はそのまま吹っ飛ばされて硬いコンクリートに叩き付けられる。

「っ、う」

門田はドンッという衝撃音に目を見開き、慌てて臨也に駆け寄った。臨也は痛みに震える手で脇腹を庇っていたが、出血はしていない。僅かに安堵して息を吐いた瞬間、臨也がはっと息を呑んで門田の背後に視線を向ける。ぞわりとした悪寒を感じた門田が振り返ると、屋上の乾いた風を受けて静雄が立ち尽くしていた。すっかり色を失った瞳が臨也を見下ろし、門田の存在など目に入っていない様子で硬く握った拳を振り上げる。臨也は大きく目を見開き、紅玉の瞳がゆらりと揺らぐ。それを目にした瞬間、門田の身体は反射的に動いていた。倒れ込んだままの臨也の肩を掴んで転がす。脇腹を庇ったままの臨也は衝撃と痛みに軽く呻いたが、静雄の拳は寸前で回避することができた。凄まじい轟音とともに静雄の拳は先ほどまで臨也が居た場所に埋まっており、パラパラと乾いた音を立ててコンクリートが崩れていく。静雄は黙ったまま拳を引き抜き、何の手応えも感じられないことでようやく門田の存在に気付いたらしい。金の髪を靡かせたまま、ゆっくり顔を上げて門田を睨みつけた。鳶色の瞳に浮かんだ剣呑さを目にし、思わず喉がごくりと鳴る。なんとか上体を起こした臨也が後ろから学ランの裾を引っ張っているのを感じたが、門田は既に逃げられるような状況にない。

「ドタチ―――」
「いいから黙ってろ」
「でも…っ」
「門田……お前、なんで臨也の野郎を庇ってんだァ…?」

地を這うような低い声に否応なく身体が硬直しそうになる。門田は今までに感じたことのない恐怖を感じていることを実感し―――拳を強く握り込んで、それを振り払った。もう今更逃げられる場所など存在しない。そう理解していたからこその判断だった。右手を真横に伸ばし、背筋を伸ばして静雄を見上げた。夕陽が逆光になって静雄の表情は判別しにくい。赤銅色に輝く金の髪が場違いなほどに美しく輝いている。

「これ以上やれば臨也は病院送りだ」
「そりゃ俺にとっては願ったり叶ったりだ。ノミ蟲野郎に俺の平穏を乱されないで済むんだからな」
「……平穏にはならないんじゃないか?」
「あァ?」
「今まで臨也が怪我をしても岸谷が治療していたから大ごとにはならなかった。でも骨折でもして病院送りになれば、お前は…」

最悪、少年院へ行くことになる―――と言えなかった。しかし口籠った門田を見て、静雄もその先の言葉を察したのだろう。再び振り上げようとしていた拳を下ろして門田を見つめた。荒れ狂うように激しい感情が渦巻いているのを必死に抑えつけているようだった。永遠とも思えるほどの長い沈黙の後、静雄は重い溜息を吐き出す。がりがりと頭を掻き、踵を返して門田と臨也に背を向ける。

「……今日はここまでにしておく。門田に免じてな」

そうとだけ言うと、静雄は金属の扉を開けて校舎内へ消えていった。バタンと大きな音を立てて扉が閉まり、門田は重い息を吐く。緊張していた全身の筋肉から力が抜け、地面に手をついてこのまま倒れ込みたい気分だった。いつの間にか裾を掴んでいた手が離れていることに気が付き、門田は背後を振り返る。臨也は脇腹を抑えたままで僅かに俯き、黙り込んでいた。表情が窺えずに不安になり、門田は細い肩を掴む。それだけで臨也の身体はふらつき、門田は慌てて臨也の顔を覗き込んだ。臨也は端正な顔をくしゃりと歪め、痛みに耐えているようだった。

「痛むのか?臨也、ちょっと見せてみろ」

臨也が脇腹から手をどかしたのを見て、門田は赤いインナーを捲り上げる。静雄の拳を食らった箇所には内出血が大きく浮かび上がり、白い肌に対比して赤黒い色が禍々しい。あまりの酷さに門田は絶句し、臨也から見えないようにインナーを戻すと触れないように諭した。尻ポケットから携帯を取り出すと、アドレス帳から新羅の電話番号を選択する。2コール目で出た新羅に状況を説明すると、学校を出たばかりなのですぐに戻ると言ってくれた。校門まで臨也を連れて行くと伝え、門田は通話を切る。

「歩けるか?」
「……分かんない」
「そうか。じゃあ、俺が肩を貸すから…」
「……なんで……」
「え?」

俯いたまま臨也が呟いた小さな声に門田は首を捻る。ゆっくりと顔を上げた臨也の赤い瞳が真っ直ぐに門田を見つめる。揺らぐことのない真剣な眼差しの前に晒され、門田は無意識の内に唾を嚥下した。

「なんで庇ったの?」

臨也の言葉は驚くほどストレートで、だからこそ門田は返答に詰まってしまう。臨也の視線から逃れるようにコンクリートへ視線を落とす。言い淀んでいると、臨也の細い指先が手の甲に這わされた。ぎょっとするほど冷たい指の感触に門田の肩がびくりと跳ねる。

「そんな顔するなら庇わなきゃよかったのに」

冷たい響きを伴って告げられた言葉に門田は顔を上げる。見上げた先の臨也はふっと瞳を細め、口の端を吊り上げた。門田の手の甲に整えられた爪が軽く突き立てられる。ちくりとした痛みの訪れに、門田は反論の余地を失ってしまう。

「ひどい顔してるよ。顔は青褪めてるし、目は充血してる」

臨也の手がすんなりと伸びて門田の頬を挟み込む。冷たい手がひたりと添えられ、逸らしていた視線が強引に合わせられてしまう。臨也は苦笑しながら門田をじっと見上げた。

「そんな顔を、しているか。俺は」
「うん。俺より君の方が病院送りになってもおかしくないよ」
「……そうか」
「なんで庇ったの?…俺が、言ったから?」
「何を」
「ドタチンに、俺たちのこと止めないだろって言った」
「いや……それが原因じゃない」
「じゃあ、どうして?」

あの時は"こっちが無事じゃ済まないから止めない"と、自分の身の方が大事だと言い切ったのに。そう言いたげな臨也はいつもの人を食ったような笑みを消し、複雑そうな表情で門田を見上げる。

「どうして、なんだろうな……。俺にも分からない」

臨也を見下ろした門田は曖昧な笑みを浮かべてそう呟いた。黒い瞳はもう逸らされることはなく、それが本心なのだと言外に告げている。臨也はそれを聞いて軽く目を伏せ、自嘲気味に唇をゆがめる。

「俺は……君のそんな顔を見たかったはずなんだ」
「…え?」
「超がつくほどお人好しなドタチンが、俺を心配する顔。きっと君はこんな時、俺を怒るんだろうと思ってた。……なのに、予想とは全然違った。つくづく、君も俺の予想を上回ってくれる。これだから人間は好きだよ」

饒舌に語る臨也を見つめる門田の表情から次第に色が消えていく。怜悧なナイフを心の底に突き入れられたように、一気に感情が熱を失っていった。吐き出した声の冷たさに、門田は自分でも驚くことになる。

「―――予想が外れて、お前は嬉しいか?」

臨也は焦れるほどゆっくりと顔を上げ、艶然と微笑む。形だけの笑顔だった。

「嬉しくないんだ。おかしいだろ?」

夕陽はやがて地平線へ沈もうとしていた。夜の気配を孕んだ冷たい風が屋上を吹き抜けていく。臨也の言葉に返事をすることなく、門田は細い腕を掴む。大人しく体重を預けてくる臨也の痩身を抱き上げながら、少しでも早くこの場所を離れたいと思わずにはいられなかった。


×


ぐったりした臨也を抱えて姿を現した門田の顔が随分と青褪めていて、新羅は少なからず動揺した。部活動を終えて帰宅する生徒たちの目を逃れ、茂みで臨也の傷を確認する。痛がる臨也を叱りながら触診したところ、骨は折れていなかった。一先ずは安心だと告げると、門田は血の気の引いた顔のままで頷く。セルティに迎えを頼むと余計に目立つだろうと考え、新羅は携帯でタクシーを呼ぶ。父の仕事の関係でよく利用する会社は5分程度で来てくれるらしい。―――高いタクシー代は全額臨也に請求してやる。そう思いながら新羅は携帯を閉じた。

「タクシーを呼んだから、うちに運んで治療するよ。骨が折れていないのは不幸中の幸いだ。しばらく静養させるよ。臨也の両親は当分不在だしね」
「……そうか」
「双子の妹たちにも連絡しなきゃいけないけど……まぁ臨也本人から連絡させるよ。仕送りがあるはずだし、数日ならあの子たちも外食で上手くやれるだろう」
「あぁ」
「それより門田くん、随分と顔色が悪いよ。静雄と臨也の喧嘩に居合わせたんだよね?何かショックなことでもあったかい?……気休めかもしれないけど、気付け薬ぐらいなら僕が処方できるから、門田くんも一緒に」
「いや、遠慮する」

食い気味に返された返事の頑なさに新羅は軽く目を瞠る。門田はぐっと拳を握り、それをゆっくり解いて力なく首を振った。それから新羅に背を向けると、挨拶もそこそこに帰ってしまう。臨也は門田から目を逸らすことなく見つめていたが、当の門田は一度も臨也に視線を遣ることはなかった。ただならぬ空気を察した新羅は溜息を吐き、指先で臨也の額を軽く押す。

「……何があったんだい」
「別に、何も」
「嘘を吐くのはやめなよ。温厚な門田くんがあんな風に怒るのは初めてだろ」

新羅の言葉に臨也は顔を顰め、ふいと顔を背けてしまう。新羅は呆れながら手中の携帯を弄び、遠ざかっていく門田の後ろ姿を眺めた。夕陽を浴びて濃い色になった制服の背中は、誰も寄せつけない雰囲気を放っている。

「臨也、門田くんを巻き込んだ?」
「巻き込んだなんて言い方は心外だな。……言うなれば、ただの事故さ」
「事故なんて言い方もおかしいだろ?君たちに巻き込まれる以外に門田くんが居合わせる理由がない」

新羅がそう言うと、何がおかしいのか臨也は狂ったような笑い声を上げた。脇腹を庇いつつ、くつくつと喉を鳴らして新羅を見上げる。

「新羅もそう思うだろ?……でも、ドタチンは違った」
「どういう…もしかして、門田くんが君を庇ったってこと?」
「流石は新羅。察しがいいね」
「どうして」
「さぁ?それは俺が一番知りたいよ。自分の身が一番可愛いはずだった人間が、急に身を挺す理由なんて―――正直言って興味しかない」

臨也は愉しげにそう口にしたが、唇は自虐的に歪んでいた。新羅の視線を遮るように腕を目の上に翳し、臨也は口を噤む。つくづく捻じ曲がった精神構造をしている奴だとは理解していたが、こうも分かりやすい態度を取るのは珍しい。新羅は臨也の頭に手を伸ばし、滑らかな黒髪を指先で梳いた。

「なに」
「そんな顔するなら遊ばなきゃよかったのに」

残酷なことを言っているだろうか。新羅の言葉に臨也は大きく目を見開き、それから泣きそうに表情を歪める。

「似たようなことを、俺もドタチンに言った」
「じゃあ因果応報だ。きっと君の行いが返ってきたんだよ」
「……そうかもね」

色濃くなった夕闇に包まれながら、臨也は膨れ上がりそうになった感情を押し留めるように瞳を強く閉じ―――力なく笑った。


×


目を覚ますと時刻は20時を過ぎていた。帰って来るなり部屋に籠ってしまった門田に家族は声をかけることなく放っておいてくれたらしい。部屋の電気をつけて椅子に座ったところで、ポケットに入れたままの携帯が震えた。画面を開くと新羅の名前が液晶に浮かんでいて、門田は思わず息を呑む。

「もしもし」
「あぁ門田くん?夜遅くにごめんね。臨也だけど、2、3日はうちで休ませることにしたよ」
「……そうか」
「うちには幸いセ……同居人がいるから、僕が学校に行っている間は様子を見ておいてもらえるし。双子の妹たちは心配だから僕が放課後に様子を見に行くつもりだよ」
「分かった。俺も行ける時は付き合う」
「ありがとう。……ねぇ、門田くん大丈夫?」

不意に掛けられた声に門田は返事をし損なった。少しの沈黙の中から門田の動揺を汲み取ったらしく、新羅は僅かに苦笑する。

「臨也に振り回されたんだろ」
「……そういうわけじゃ」
「いいよ、平気。分かってるから」
「岸谷は…慣れてるんだな」

言ってから門田は少し後悔する。まるで新羅を皮肉るような言い方になってしまった。しかし新羅は微塵もも気にした様子はなく、ただ力の抜けた笑みを零した。

「そうだね、慣れてる。喜ばしいことじゃないけど」
「……すまない、言い方が悪かった」
「僕は気にしないよ。臨也のやることに慣れてるのは事実だ。門田くんは慣れちゃ駄目だよ。ずっと付き合わされる羽目になるし、ろくなことにならない」
「嫌にはならないのか」
「なるに決まってるよ。……でも、僕には臨也を静雄と引き合わせた責任があるから」

それだけじゃないだろう、と問い詰めたい気持ちをぐっと堪える。中学時代の新羅と臨也に何かがあったのは門田にも容易に想像がついた。その出来事が二人の間に強い結びつきを与えていることも。しかし、それを知る権利は自分にはない。そう理解しているから門田は口を開かなかった。思い詰めないでね、と優しい言葉を残して新羅は通話を切る。乾いた電子音だけが流れる携帯の電源を落とし、門田は大きく溜息を吐いた。どんなに優しい言葉も、もう届かないほど心は冷めきってしまっている。階下から心配そうな母の声が聞こえる。門田はそれに返事をしながら、脳裏に浮かんだ臨也の薄っぺらい笑みを振り払った。


×


3日後、登校してきた臨也に普段と変わった様子はなかった。腹には包帯を巻いているらしく、体育は見学すると言っていたが松葉杖を使ったりふらついたりすることはない。しっかりとした足取りで新羅とともに登校してきた臨也は、教室に入るなりクラスメイトたちに囲まれていた。心配そうな女子生徒を軽くあしらい、大丈夫だよと言いながら臨也の瞳は教室の奥を見渡す。門田の姿がどこにも見当たらず、それを尋ねると女子生徒たちは不思議そうに首を傾げる。

「門田くんなら、さっきまで居たと思うけど…」
「今日の日直だし、早く来てたよね」
「折原くん、門田くんに何か用でもあるの?」
「ねぇ、それより怪我したんでしょ?また平和島くんと喧嘩したの?」

女子生徒たちの話が脱線しはじめたことを感じ、臨也は笑いながらその場を離れる。男子生徒たちにも話しがてら尋ねてみるが、芳しい返事は返ってこない。やがてチャイムが鳴り、臨也が自分の席に座ろうとすると門田が教室へ入ってきた。一瞬だけ視線が絡み合うが、門田はすっと視線を逸らしてしまう。臨也の視線を受けてもなお、教卓を見つめたままこちらを見ようとはしない。こうも明らかに避けられるとは予想していなかった臨也は苦笑を浮かべる。教師が話しはじめて朝礼が始める。その間も門田は真っ直ぐ前に向けた視線を一度も揺らがせることはなかった。


×


昼休みになった途端、門田は弁当箱を持って席を立った。それを見逃すことなく臨也もすかさず席を立ち、門田の背中を追う。廊下に出て門田が向かった先は立ち入り禁止の屋上だった。臨也は重く閉ざされていた金属の扉を押し開き、屋上を見渡してみる。しかし、近くに門田の姿はなくて首を捻った。臨也はできるだけ静かに扉を閉め、死角になっていた場所を覗き込む。そこにも門田の姿はなく、臨也は手にしていた水筒を所在なく振った。その瞬間、臨也の頭上から呆れたような声が降ってくる。

「ストーキングか?感心しないな」

見上げた先の門田の表情は逆光で窺えない。臨也が太陽の眩しさに目を細めると、門田は弁当の包みを手にしたまま飛び降りてきた。動かないでいると臨也が登ってくると思ったのだろう。

「あまり動かない方がいいんじゃないのか」
「平気だよ。走ったりしなきゃ痛んだりしないし」
「……そうか」

門田は臨也の頭上辺りに視線を泳がせながら静かに呟く。臨也は離れそうにないのを察したのか、軽く息を吐いて屋上の端へ座り込んだ。

「ドタチンが教室以外で食べるなんて珍しいね。もしかして、俺がいない間はここで食べてたの?」
「……あぁ」

臨也の問いかけに門田は曖昧な返事を返すだけだ。どうにも会話が弾みそうにないことを察して臨也が弁当箱を開けると、門田は僅かに安堵したように表情を緩める。それから臨也は静かに咀嚼をしていたが、門田に続いて食べ終わると箸を置いた。

「俺のこと、避けてた?」

臨也の言葉に門田はようやく顔を上げる。緋色の瞳をじっと見つめ返し、観念したようにふっと笑った。

「……そうだな」

門田と視線が合わさっただけで臨也の中に形容し難い感情が込み上げる。胸がざわついて、頬が妙に熱くなる。思わず俯いてしまい、顔を上げようとしない臨也に門田の手が伸びる。細い肩を掴まれただけでびくりと身体が跳ね、門田は驚いて手を引っ込めた。

「悪い」
「いや……別に、大丈夫…」
「どうした?やっぱりまだ怪我が痛むんじゃ…」
「違うよ。……本当に平気だから」

首を横に振りながらも、心配そうに覗き込まれてどくりと心臓が跳ねる。再び視線がかち合った瞬間、臨也は堪えきれずに手を伸ばしてしまっていた。宙を彷徨っていた門田の手をぎゅっと掴む。驚きに目を見開いた門田に構うことなく、掴んだ手を引き寄せた。

「臨也、何して」
「ごめん、平気だよ。もうちょっとだけ……」

門田の手を引き寄せ、それに額を押し付けるように臨也は俯いた。相変わらず臨也の手はひんやりと冷たく、指の細さには驚かされる。門田は黙ったまま臨也の白いうなじを見下ろす。まったく何を考えているのか分からない。前からそうだったが、今日は一段と読めない行動ばかりしている気がした。また弄ばれているのかもしれない―――そう思いながらも、門田は掴まれた手を振り払うことができない。永遠にも感じられる沈黙が終わり、臨也はゆっくりと門田の手を離す。それからにこりと微笑むと、弁当を片付けて立ち上がった。門田も慌てて弁当を片付けると、臨也の背中を追いかける。フェンスの近くを歩く臨也は普段と変わらない様子に見えた。しかし、門田の脳裏には先ほどの妙な雰囲気が掠めて仕方ない。不意に立ち止まった臨也は一瞬だけグラウンドを見下ろし、それから立ち止まってフェンスに凭れ掛かった。ぎしりとフェンスが軋み、一瞬だけ門田の肝が冷える。

「臨也、危ないぞ」
「大丈夫だって。ね、下見てみてよ」
「下…?」

言われるがままに門田がグラウンドを見下ろすと、一人の生徒が暴れている。金の髪は間違いなく静雄だろう。他校らしき制服の生徒を何人も投げ飛ばし、大きく肩で息をしている。

「馬鹿だよねぇ。ヤンキー校の生徒を殴ったらしくて報復だってさ」
「あれも、お前の差し金なのか?」

門田の問いに臨也はわざとらしく肩を竦めた。疎ましげに瞳を細め、口の端を吊り上げて笑う。

「まさか。俺はここ3日休んでたんだよ。どうせシズちゃんが自分で知らない内にヤンキー校の生徒を殴ったんでしょ。それで仕返しされたんじゃない?」
「……なるほどな」
「本当に馬鹿だよ。後先考えず、理屈の通用しない暴力を振りかざして―――知性も理性も持たないんだから、まさしく化け物だ」

憎々しく罵倒を吐き棄て、臨也は瞳に昏い色を浮かべた。その瞳がついと上を向き、給水タンクを見上げる。4日前に静雄が凹ませた痕跡を睨み、形の良い臨也の唇が一層ゆがめられた。

「本当に、あいつだけは好きになれない。なんせ人間じゃないんだから」
「人間じゃない…か」
「規格外だろ、シズちゃんは。人間なんて範疇に収まらない。イコール化け物さ」
「だから静雄はお前が愛す"人間"じゃないってことか?」

臨也は視線の鋭さを保ったまま門田を振り返る。冷たさを孕んだ視線が突き刺さるのも構わずに、門田は臨也を見つめ返した。臨也はしばらく何かを考えていた様子だったが、やがて笑みを浮かべて首を捻る。

「どうしたの?俺は前からそう言ってるよ。シズちゃんだけは嫌いだって」
「静雄以外の人間は―――お前の中で一律の存在なんだな」
「そうだね。等しく同じ"愛すべき人間"って存在さ」

何が言いたいの?臨也はそう言いたげに門田をじっと見つめた。門田は軽く俯き、臨也の目の前に歩み寄ると背後にあるフェンスを掴む。急に顔を寄せられても臨也は少しも動揺した様子を見せなかった。紅玉の瞳に煌々とした光を宿したまま、愉しげに微笑んでさえみせる。

「じゃあ質問だ、臨也」
「なに」
「愛すべき人間の行動を予想して、その予想が外れた時にお前はどう思う?」

門田の太い指がフェンスを強く掴む。ガシャリと音を立ててフェンスが揺れても、臨也は瞬きひとつしなかった。代わりに笑みを深くしながら歌うように話し出す。

「随分と簡単な質問だね。予想を裏切られても、きっと裏切られたことを喜ぶよ。この俺の予想を覆すほどの人間がいるなんて喜ばしいことだからね」
「じゃあ、予想を裏切られて嬉しくないのはどんな場合だ?」

フェンスが再び軋む。今度は臨也の瞳に僅かな逡巡が浮かんだ。少しの間言い淀み、臨也は苦笑気味に口を開く。

「……その人間が俺にとって範疇の外にいる場合かな」
「もっと分かりやすく言え」
「やだ、って言ったら?」
「駄目だ。言えよ」
「やけに強引だね」

非難するような口振りだが、臨也は笑みを崩さなかった。迫る門田の頬に指を這わせると撫でるように触れる。門田の首に手を回し、鼻先が触れ合う寸前で臨也は唇を開いた。

「多分、好きなんだと思う」

囁くように答えが返されたが、その曖昧さに門田は眉を顰めた。

「……多分?」
「そう」
「分かりやすく言えって言ったろ」

強引さを隠しもしない門田の態度に臨也は思わず苦笑した。首に回した手に力を込め、門田の身体が僅かに傾いた。背伸びをする間でもなく近付いた唇同士が触れ合う。柔らかな感触に門田は目を瞠り、臨也は満足そうに目を閉じる。

「満足した?」

唇を離した瞬間、臨也はそう悪戯っぽく微笑んだ。フェンスから手を離して後退った門田は、口元を手で覆いながら肩を落とす。その耳元が朱く染まっているのを見て、臨也はにやにやと笑うばかりだ。力なく臨也を睨みながら門田はようやく口を開く。

「……言葉で言え」
「言葉より分かりやすいでしょ?」
「屁理屈を…」

溜息を零して門田は言葉を切る。臨也はといえば、にやついた笑みを絶やすことなく門田の頬を指先で撫でた。愛でるというよりも煽ろうとする手つきだ。細く長い息を吐き出しながら門田は臨也の手首を掴む。悪戯をするなという意味を込めて軽く睨むと、臨也は反省した様子もなく肩を竦めた。

「そう?言葉より分かりやすいのもたまにはいいでしょ?暴力でもないし」
「……暴力とさして変わらない気がするんだが」
「えー?そんなに乱暴じゃないよ」

なおも臨也は言い逃れをしようとしたが、薄い唇が開かれる前に門田は掴んでいた手首を引き寄せた。細い身体が傾いた瞬間に腰を抱き寄せる。臨也が抵抗しないのを確認して唇を寄せた。再び触れた唇は柔らかく、先ほどよりも熱を孕んでいた。何度も触れ合うだけの口づけを繰り返していると、臨也の手が縋るように門田のシャツの胸元を掴む。こちらから仕掛けているのに遊ばれているような気分になって門田は面白くない。隙を見て舌を割り込ませると、臨也の肩が軽く震えた。その反応に気を良くして口づけを深くすると、臨也の唇からは吐息混じりのあえやかな声が漏れる。

「っ、ふ……ぅ」

甘い声に脳髄が痺れた。緋色の瞳が飴玉のようにとろけたまま門田を見上げる。もっと。そう強請るように回された手に応えるべく、門田は臨也の舌を絡め取り、甘く吸い上げる。わざと歯を立てると臨也の身体が小さく震え、瞳が恍惚の色に染まっていく。呼吸さえも奪おうとするキスに酩酊が深まり、臨也は酸欠でぼんやりとしてくる。ようやく解放された時にはすっかり息が上がっていて、まだ余裕のある門田に対して臨也は肩で息をしていた。

「俺の勝ちだな」
「……いや、勝ち負けじゃないでしょ…」

臨也はその場にへたり込み、呆れきった顔で得意げな門田を見上げる。門田は屈み込んで臨也の額を軽く小突き、にかりと笑みを浮かべる。

「俺よりドタチンのが乱暴じゃん」
「お前にだけは言われたくない」

そう言いつつも満更ではなさそうな門田を見上げて臨也は笑う。珍しく邪気のない笑顔に門田は少し安堵した。艶やかな黒髪をそっと指先で梳く。ゆったりと目を細め、擦り寄ってくる様はまるで猫のようだった。気まぐれで狡猾な誰にも懐かない猫―――そう思っていたのに、今ではすっかり門田に懐いている。いつか新羅が言っていた言葉の意味が少し判ったような気がした。懐かれてしまったからには、飼い主には相応の責任がある。移り気な愛らしさに絆され、餌付けをしてしまったのは間違いなく自分なのだから。

「ねぇドタチン、満足したでしょ?」

苦笑しながら見下ろすと、臨也はそんな門田の心境を理解しているように微笑む。見透かすような視線の強さに辟易していた頃が嘘のようだ。しかし門田も甘やかしてばかりではいられない。

「お前がもうちょっと素直になればな」

滑らかな髪をわざと粗雑に掻き乱され、臨也は憤慨の声を上げる。不機嫌さを露わにした緋色の瞳にじっとりと見上げられても、門田の心に冷たい感情はもう湧き上がってこなかった。

end.


title by moss




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