病熱に滲む



電子音が知らせたメールの受信に波江は足を止めた。彼女は道の端に寄ると、ショルダーバッグから自らの携帯を取り出す。画面を開くと、新着メールを知らせるメッセージ。促されるままに届いたメールを開くと、短い文章が羅列されている。

『今日は休みでいいよ』

簡潔すぎる文章を目にした波江は、眉間に皺を寄せる。細い指先で素早く返信を打ち込むと、それに対する返信はすぐに戻ってきた。

『急にどういうこと?』
『何かトラブルでも起きたの?』

『そうじゃなくて、少し体調が良くないんだ』
『給料は払うよ。有給休暇にしてくれ』

その返信を見た波江は軽く目を瞠った。メールの送信者と体調不良という単語があまりにも結び付かなかったからだ。波江の雇い主―――折原臨也は、地雷原である池袋に踏み込んだり、自らが振り撒いた悪事の種が原因で怪我をして帰ってくることは今までにも何度かあった。しかし、波江を秘書として雇ってから体調不良を訴えるのはこれが初めてだった。食事に関しても、調理者の個性が見える料理が好きだと言って、波江の勤務内容に料理まで組み込んでいる。缶詰やレトルト、ジャンクフードの類いは嫌いでコンビニに行くことは滅多にない。行きつけの個人料理屋や寿司屋のテイクアウトを利用したり、休日はフレンチトーストや簡単な料理を自分で作ることもあった。波江も何度か彼の作る料理を食べたことがあるが、男の作る料理とは思えないほど味付けや調理方法が丁寧で驚いたものだ。同時にそんな器用すぎる臨也が妙に気持ち悪くもあったのだが。しかし、それほど食事にも気を遣い、体重や身の回りのことにも気を遣う彼がどうして体調を崩したのだろうか。ここ数日のことを思い返してみても、睡眠不足だったりという異変は見受けられなかったはずだ。

「……驚天動地とはこの事かしら」

知り合いの闇医者のように四文字熟語を呟きながら、波江は携帯をぱたんと閉じた。通勤ラッシュ真っ只中のオフィス街は依然慌ただしい。休みだと言われたのだから、もう出勤する必要はないだろう。しかし、波江の泊まるホテルと勤務先ではもう勤務先の方が遥かに近い距離まで迫っている。それに今日は書類仕事が溜まっているはずだ。臨也が今日一日動かないのだとしても、明日になれば波江は二日分の仕事に追われることになる。そう考えると、波江の足は自然と勤務先へと歩き出していた。雇い主ならもっと早く連絡しなさいよ。そう低い声で呟きながら。


×


勤務先へ着いた波江は、雇い主から渡されていた合鍵で扉を開けた。センサー感知で玄関には灯りがつくが、部屋の奥からは何の物音も聞こえない。普段であれば、波江が出勤してくる時間には臨也の淹れる紅茶の香りが漂ってくる。その香りもなく、室内はただ静寂で満たされていた。波江はタイムカードを押すと、ヒールを脱いで廊下を歩く。リビング兼オフィスの扉を開け、中を覗くがソファーにもオフィステーブルにも臨也の姿はない。どうやら彼は自室に居るらしかった。

「……臨也?」

扉越しに声を掛けてみるが、返事は戻ってこない。仕方なくドアをノックすると、数秒遅れで返事が聞こえてきた。

「だれ?」

少し舌っ足らずな声は寝起きのようだった。波江がドアノブを回すと、鍵はかかっていない。自室に籠っている際は鍵をかけているのが常だったはずだ。いつでも入念なはずの彼が注意を怠るのは珍しい。扉を開けると、臨也はベッドの上で上体を起こしてこちらを注視していた。警戒していた表情は波江の顔を見た途端に緩められたが、同時に赤い瞳が不思議そうに丸くなる。

「波江?どうして来たんだい」
「どうして、って」

咄嗟に答えが出て来なくて、波江は所在なくショルダーバッグを撫でる。部屋の中に入り、電気をつけると薄闇が消えて臨也の顔がはっきりと見える。頬が僅かに朱く、額にはうっすらと汗が滲んでいた。

「……書類仕事が溜まってるのよ。だから処理してしまおうと思って」
「波江は真面目だね」
「貴方はどうしたの?その様子じゃ風邪?」

臨也は波江の問いに頷くと、何かを言おうとして咳き込んだ。ベッドサイドに置いてあったペットボトルからミネラルウォーターを煽ると、軽く息を吐く。

「そうみたいだ。昨日の夜から喉の調子がおかしくてね」
「……貴方は風邪なんてひかないと思っていたわ」
「どうして?俺だって人間だよ」

人間を愛しているなどと嘯きながら引っ掻き回して愉しんでいる悪魔のような臨也が言うと、言葉の説得力は皆無に等しい。馬鹿は風邪をひかない―――そう言ってやろうと思っていた波江だったが、覇気のない雇い主を相手に言う気になれなかった。波江が顔を顰めるのを面白そうに眺めながら、臨也はペットボトルのキャップを捻る。

「波江は仕事するんでしょ?俺のことは放っておいていいよ。熱も高くないしね」
「……何度あったの?」
「熱?早朝に測った時は37度ちょっとだったかな。今は分かんないけど」
「もう一度測った方がいいわ。顔が赤いわよ」

臨也はぱちぱちと目を瞬かせ、不思議そうに首を傾げた。ショルダーバッグを抱え、
部屋を出ていこうとする波江に声を掛ける。

「心配してくれてるの?」

振り返った波江は形容し難い表情をしていたが、やがて溜息を一つ零すと静かに頷いた。そういうことにしておいてあげるわ。淡々とした声色を崩さぬまま呟き、波江の細い指先が電気を消す。


×


波江は臨也の部屋を後にし、自分のデスクで書類の整理をはじめた。案件ごとに書類を分けてから目を通していく。特段、面倒な業務はなさそうだが数が多いので時間がかかりそうだ。正午まで3時間以上あったが、それもあっという間に過ぎ去ってしまう。波江がふと時計に目を遣ると、時刻は既に正午を回っていた。

「あら、もうこんな時間」

臨也はといえば、一度トイレに行った以外は部屋からは出ていない。あの様子だと朝食も摂っているかも怪しいものだ。自分で料理をすることもある臨也だが、妙なところで面倒くさがるきらいがある。波江が居る時はきちんと食事を摂っているが、おそらく一人だと煩雑になるのだろう。いつの間にか雇い主の生態を把握してしまっている自分に嫌悪感を覚えつつ、波江はデスクを立った。キッチンの戸棚を開くと、米も麺類も十分にストックが残っていた。普段からネットスーパーを利用し、多めに購入しているのだ。風邪といえばお粥だろうと冷蔵庫を開き、卵や葱があることも確認した。

「……臨也、起きてる?」

扉越しに声をかけるが、返事はない。静かに扉を押し開くと、薄闇の中で穏やかな寝息を立てる臨也が見えた。波江は足音を立てないように近付き、ゆっくりとその顔を覗き込む。汗一つ掻きそうにない綺麗な顔には、額や首筋にうっすらと水滴が滲んでいる。呼吸に不自然な点はなく、狸寝入りとは思えなかった。眉目秀麗と称されるだけあって、見事に整った美しい顔だ。作り物めいていると感じていたが、こうして表情に寧静が浮かんでいると普通の人間に見える。ベッドサイドに視線をずらすと、ペットボトルのミネラルウォーターは半分近くまで減っていた。何度か起きて水分補給はしているようだ。そのペットボトルの下にはメモ用紙が一枚あった。波江は手を伸ばしてメモを手に取り、薄闇の中で目を凝らす。メモには少し乱れた筆跡で何かの数字の羅列が記されていた。6:30 37.2℃、8:40 37.8℃、10:45 38.2℃―――どうやら波江に言われてからきちんと体温を測ったらしい。どんどん上昇している体温を目にし、波江は溜息を吐く。変わることのない穏やかな臨也の寝顔を眺めながら、脳裏に浮かんだのは彼の唯一の友人だという闇医者の顔だった。


×


「もしもしー?あ、その声は矢霧波江さんかな?まだ生きておられたんですね。ご健勝そうで何よりです。また整形手術のご依頼ですか?え、違う?臨也が……どうしたんです?あいつまた刺されました?それとも撃たれた?え、それも違う?―――あぁ、そういうことですね。あいつ、ちょっと扁桃が弱いみたいで。高校の時も溶連菌で炎症を起こして……今回は風邪ですか。少し多めに渡している薬があるはずです。リビングの棚に救急箱がありますよね。そこに入れてる薬があるので、食後に飲ませてください。熱が高ければ頓服薬も一緒に。いやぁ貴女が居てくれてよかったですよ。今日は外出していましてね、夜まで池袋にも新宿にも戻れそうにないので。え?その口ぶりだと心配なんてしてないだろうって?そんなことないですよ。あんな奴でも私にとっての数少ない友人であることに代わりな―――あっセルティ、ちょっと待って!それは…」

ツーツーツー。唐突にブチリと切れた携帯からは無機質な音だけが聴こえてくる。波江からの電話にほぼ一方的に喋り倒した岸谷新羅は、恋人と話しながらフェードアウトしていった。波江は苛立ちを感じながら携帯の電源を落とし、リビングの棚から救急箱を取り出す。定期的に闇医者が中の消毒液などの取り替えをしているのは知っていたが、風邪薬まで常備されているとは思わなかった。ガーゼや包帯の横には確かに白い薬袋が2つ入っていて、それぞれ喉の薬と頓服薬だ。昨夜から喉が痛いと言っていたので、闇医者の読みは当たっているのだろう。波江は2つの袋を手に取って救急箱を片付けると、キッチンへ戻った。火にかけている卵粥はあと数分で頃合いだろう。テーブルを片付けて布巾で拭くと、テーブルの端に薬袋を置いた。臨也の部屋の扉を数回ノックすると、欠伸交じりの返事が聴こえてくる。

「起きなさい。昼食を作ったわよ」

波江は扉越しに声を掛け、キッチンに戻ってコンロの火を止める。蓋を開けてお玉で粥を掬う。適度なとろみがついていて卵もふんわりとしていた。深皿を2枚取り出して波江が粥をよそっていると、臨也がリビングへ現れた。洗面所で顔を洗ったらしく、頬は赤いながらも少しすっきりした様子だ。緑茶も淹れて卵粥と一緒に盆に乗せ、臨也が座るテーブルへ運ぶ。れんげと一緒に目の前に置くと、臨也は眠そうな瞳で波江をじっと見上げた。真っ赤な瞳が熱で潤んでいて、まるで飴玉のようだと思う。

「作ってくれたの」
「貴方のことだから朝食も食べてないでしょう」
「やだなぁ波江、心外だよ」
「じゃあ食べたの?」
「……食べてないけど。食欲、あんまりないんだよね」
「食べないと治るものも治らないわよ。熱上がってるんじゃないの」

波江の指摘に臨也は反論しなかった。ぼうっと卵粥を眺めている瞳は少し虚ろだ。波江は自分の食器もテーブルに並べると、臨也の額に手を触れた。38℃を超えているだけあって、触れただけでその熱さがよく分かる。

「波江さん、手つめたいね」
「私は平熱よ。貴方の熱が高いだけ。……頭痛や関節の痛みは?寒気とか倦怠感はない?」
「うん、ちょっとくらっとするけど、それぐらいかな。身体はちょっと怠いけど、痛みはないから……インフルエンザではない、と思う」

波江は最近接触したクライアントを思い返してみるが、自分が知る限り風邪やインフルエンザに罹患しているような人間はいなかった。やはり闇医者の言う通り、単純な風邪なのだろうと判断して波江は手を離そうとした。しかし、それを阻んだのは臨也の手だった。波江の細い手首を掴み、ゆっくりと目蓋を閉じる。

「ちょっと、臨也」
「もうちょっと……このまま……波江さんの手、気持ちいい」

甘えるように擦り寄ってくる臨也に波江は目を丸くした。子どもっぽい一面のある男だとは思っていたが、こんなにも素直に感情をぶつけてくるのは初めてだ。波江がじっとしていると、臨也の頭は僅かに揺らぐ。熱のせいでふらつくのだろう。軽く溜息を吐いて波江は手に力を込め、臨也の額を押し返す。

「その調子だと頭から粥に突っ込みかねないわよ」
「え?」
「救急箱に冷却ジェルシートがあるから、食べ終わったら貼りなさい。私も空腹なのよ。手を離してもらえるかしら」

波江の言葉に臨也は次第に手の力を緩めていく。波江は手を引っ込めて臨也の前に薬袋を差し出した。波江が新羅に連絡したことを察したのか、僅かに表情が歪む。

「薬も飲まなきゃいけないんだから、まずはきちんと食べなさい」
「……はーい」

波江は臨也の向かいに座り、静かに手を合わせた。臨也もそれに倣って手を合わせる。僅かに不満そうな臨也を見て、波江はそっと忍び笑う。そんな風に不機嫌を滲ませていても素直にいただきますと口にする男が、少し可愛らしく思えてしまったのは気のせいだと思いたい。


×


結局、食欲がないと言っていた臨也は2杯の卵粥をぺろりと平らげた。朝食を摂っていないこともあるだろうが、熱で汗を掻いて体力を消耗していたせいだろう。薬を飲んだ臨也はリビングのソファーに座っていた。額には冷却ジェルシートが貼ってあり、マスクをして大判のブランケットに包まっている。波江が夏場のクーラーによる冷え防止のために使用していたものだが、ちょうどよかったらしい。波江は部屋に戻るように促したが、昨夜からずっと寝ているせいで眠くないと言い張られてしまった。

「今日の貴方、まるで子どもみたいね」
「……うるさいなぁ」

波江に揶揄され、臨也は面白くなさそうに鼻を鳴らす。目を使うと負担がかかるからとパソコンやテレビを禁止すると、臨也は大人しく書類仕事をする波江を眺めるようになった。ずっと視線を浴びていると気が散るが、邪魔されているわけではない。どうにも注意する気になれず、波江は珈琲が入ったカップに口をつける。香ばしい珈琲の香りを嗅ぐだけで集中力が高まっていく気がした。予定していた仕事は既に半分以上終わっている。定時まで時間はあるが、それよりも早く終わりそうだと少し安堵した。普段であれば波江の仕事中に別の仕事を何件も突っ込んでいく男が大人しいお陰だろう。ふと臨也に視線を移すと、眠気に襲われているのか俯き加減の頭がゆらゆらと揺れている。波江はカップをソーサーに戻し、大きく背伸びをしてソファーに歩み寄った。

「眠いなら部屋に戻りなさいよ」

細い肩を掴んで揺さぶるが、臨也の反応は芳しくない。呆れた波江がもう一度肩を揺すると、臨也はソファーの肘置きを枕にして寝ようとしはじめる。言うことを聞きそうにない雇い主に溜息を吐き、波江は臨也の胸元に手を差し込んだ。半ば無理矢理に体温計を脇に挟ませ、乱れたブランケットを掛け直す。正直、幼少期の誠二よりもよっぽど手がかかる。額に滲んだ汗をタオルで拭ってやっていると、ピピッと体温計が音を立てた。臨也が差し出してきた体温計を見ると、熱は食事前とあまり変わっていない。

「これじゃいつまで経っても良くならないわ。ほら、立って」

腕を掴んで引っ張ると、臨也はゆっくり立ち上がった。しかし、ふらついて倒れ込んできたせいで波江は慌てて受け止める。成人男性らしからぬ痩身のせいで、受け止めた身体は予想よりもずっと軽い。天敵である平和島静雄に対抗するためにパルクールや体術を会得しているが、その割には筋肉量が少なすぎる。体重計に乗るのが日課だといつか言っていたように、余計な筋肉をつけたくないのだろう。しかし、そのせいで風邪をひきやすければ元も子もない。こんな時に静雄が押し掛けて来れば一巻の終わりだと容易に想像がつく。

「ちゃんと自分で立ちなさい。……臨也、」

臨也は波江にしな垂れかかったまま動こうとしない。肩を掴んだ手に力を込め、ぐっと押し返す。私に風邪をうつす意図があってしているのであれば殴ってやろう。波江はそう思いながら臨也の顔を覗き込んだ。熱で潤んだ瞳がじっと波江を見つめる。白目は僅かに充血しているが、焦点は定まっていて意識が朦朧としているわけではなさそうだ。熱くなった頬に触れながら波江は名前を呼ぶ。

「臨也」

叱るように、窘めるように。何度か緩慢に瞬きをして、臨也は薄く唇を開いた。声は至極小さかったが、掠れた声が応えるように波江の名を囁く。その瞬間、波江の心臓は大きく脈打った。どくり、と不自然な脈動に違和感を覚えながら波江は臨也の頬を軽く引っ張る。これといって柔らかいわけでもない頬は伸びることがなく、臨也は痛みに悲鳴を上げる羽目になった。

「いっ…!痛いよ、波江さん」
「いつまで私に体重をかけてるつもり?自分の足で立ちなさい」
「こんな時でも手厳しいなぁ」

参ったよ、と両手を上げながら臨也は身を引いた。新しいミネラルウォーターのボトルを手に持ち、ブランケットを波江に押し付けて部屋に戻っていく。その足取りは少しもふらついてなどいなかった。ブランケットに残る温もりを持て余しながら、波江は静かに閉まった扉を睨みつける。僅かに感じる頬の熱さに気付かないふりをしながら。

「…………やっぱり、むかつく」


end.




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