のどぼとけにさくはな



どうしてこんなことに!混乱と焦燥で腹の底から思いきり叫びたい気分だった。今すぐにでも全力で走り出したいのに、それを実行することは不可能だ。背後から確実に近寄ってくる気配を感じながらも、歩を速めることができずに俺は俯く。変わらぬ歩幅を意識しながら慎重に歩いていると、コートのポケットで携帯が震えた。背後を意識しながらゆっくりとポケットに手を入れる。背筋を冷たい汗が流れていくのを感じつつ、なるべく自然な所作を心掛けて携帯の画面を開いた。液晶の画面に表示されているのは無機質な文字列。その名前を見た瞬間、得も言われぬ感情の波が押し寄せそうになる。俺は震える手で携帯を耳に押し当てた。通話ボタンを押した瞬間に流れ込んできたのは、状況にそぐわないほど爽やかな―――折原臨也の声だった。

「やぁ奈倉くん、仕事は順調かな?」

ぐっと奥歯を噛み締めるとぎりっと嫌な音が鳴った。耳聡くそれを聴き取った臨也は、愉しげに笑いながら言葉を続ける。

「おや、歯軋りなんて珍しいね。随分と焦っているようだけれど?」
「焦るに、決まってるじゃないですか…!」
「俺の忠告は役に立ったようだね。落ち着いて。もう少しだから、さ」
「……はい」
「突き当たりを右に曲がれば倉庫がある。入ったらすぐに身を隠すんだよ」
「分かりました」

必死に紡いだ声は精一杯潜めている。俺の言葉を聞いて、臨也は尚も笑みを含んだ肯定の言葉を吐き出した。あっさりと無慈悲に切られた携帯からは、もうツーツーという電子音しか聞こえてこない。俺はゆっくり重い息を吐き出すと、前方に視線を送った。4メートルほど先はT字路になっていて、左右に道が分かれている。自然と速くなりそうな足を叱咤しつつ用心深く歩いていく。背後の不穏な気配は数を増しているようだった。込み上げる吐き気を堪えながら歩き、T字路を右に曲がった。シャッターが半分ほど不自然に降りている廃工場を見つけた俺は、ゆっくりとそこへ近付いていく。工場へ一歩踏み入れた瞬間、俺は中にあったドラム缶の陰に素早く身を隠した。薄闇の中で必死に目を凝らすが、工場の中には他の人間がいるようには感じられない。もしかして騙された―――?嫌な予感が脳裏を掠めた瞬間だった。くぐもった殴打音が複数回響き渡り、俺を追っていた気配が掻き消える。俺は零れそうになる悲鳴を必死に堪え、息を潜めて沈黙を貫いた。やがて一人分の靴音が工場の中へ侵入してくる。硬質な足音は俺が隠れるドラム缶の前で止まった。じっとりとした汗が額に滲むのを感じながら、俺は恐る恐る顔を上げる。

「―――奈倉ってのは、アンタか?」

低い男の声だった。尋ねられた俺は俯き加減で肯定を紡ぐ。瞳が薄闇に慣れていないせいで、顔までは視認できなかった。相手は静かにそうかと呟くと、手にしていた武器らしき物を肩に担いで俺に背を向ける。

「無事っすよ、ここに隠れてました。……臨也さん」

男が工場の外に向かって口にした名前を耳にし、俺は反射的に顔を上げる。暗闇からゆっくりと姿を現したのは、見間違えようもなく臨也本人だった。

「賢明な判断だよ。きちんと隠れていたんだね」
「い、臨也さん……」
「大丈夫だよ、もう安心していい。君を追っていた人たちはもう居ないよ」
「居ないって」
「折原さん、こいつらどうしますか」
「外に偽装トラックを手配してある。全員指定の場所に送ってくれるかな。別の業者が居るから、これを渡せば分かるはずさ」

臨也は男に名刺のような小さなカードを渡し、ひらひらと手を振って見送る。それから視線を俺へ戻すと、いびつな笑みを浮かべて両手を広げた。外からはトラックのエンジン音が鳴り響き、次第に遠ざかっていく。

「奈倉くん、出ておいで。もう安全だから」
「…………」

ともすれば膝から力が抜けそうだった。手を広げたまま立っている臨也の胸に、俺は半ば倒れ込むように抱き着く。俺よりも随分と華奢なはずなのに、抱き着いても臨也はびくともしなかった。臨也は俺の腰に手を回すと、するりと腰から首へと手を滑らせる。俺のフェイスラインを辿るように手を這わし、じっと俺を見上げた。紅玉に似た燃えるような虹彩が俺を射抜くように見つめる。薄闇の中でも爛々と輝くそれに、囚われてしまいそうな錯覚に陥った。

「臨也さん……」
「泣きそうな顔をしているね。そんなに怖かったかい?」
「あ、当たり前です……あいつら、一体なんだったんですか。俺、なんかヘマやっちまったんですか…っ!」
「いいや?君は何も失敗してないよ。それどころか上手く立ち回ってくれた」
「じゃあ、なんで……」
「危ない橋だったってだけさ。君に渡らせるには少しばかり危険だった」

臨也はそう言うと、細い指先で俺の髪を梳いた。安価なカラー剤のせいで荒れた髪は手入れもしていないせいでパサついている。艶やかな絹糸のような臨也の髪とは雲泥の差だろう。俺の髪を指先で器用に摘みながら、臨也は酷薄な笑みを浮かべる。

「心配しなくてもヤクザじゃない。ちょっとした組織の諜報員さ。少し寝ていてもらっているだけで、殺してはいないよ。まぁ目覚めた時には彼らは海の上……国外に輸送されているけど。君が気に病むことは何もない」

臨也は俺の腕を引いて立たせると、床に転がっていたマッチ箱を靴先で蹴飛ばした。箱はすっかり湿気り、中のマッチ棒も劣化でボロボロになっている。踵で容赦なく箱ごと踏み潰し、臨也は横倒しになっていたドラム缶に飛び乗った。器用にバランスを取りながら俺を見下ろして、唇をいびつに歪める。

「今回の君はよく働いてくれた。それは事実さ。そうやって怯えながらもきちんと俺の言ったことを忠実に守っている。並大抵の人間が出来ることじゃないよ」

ドラム缶から飛び降りた臨也は、俺の手を掴んで歩き出す。工場の裏口から外に出ると、一台の黒塗りの車が停めてあった。助手席の窓を叩いて窓を開けさせ、臨也は初老の運転手に行き先を告げる。聞き覚えのある住所を耳にし、俺は掴まれたままの手を軽く引いた。

「あの、俺は……」
「直帰していいよ、って言うつもりだったけどね。その様子じゃ無理でしょ。一緒においで」
「で、でも」

臨也は車の後部座席に乗り込み、戸惑っている俺の腕を引っ張った。バランスを崩しながら俺が乗り込むと、音もなく扉が閉まる。運転席と後部座席の間には仕切りがあり、開閉可能な小窓がついていた。低いエンジン音の唸りとともに車が走り出し、しばらくすると臨也は後部座席の黒いカーテンを閉める。

「俺も今日は一段落ついたからね。家で少し休憩しよう。腹は減ってない?」

今まで命の危機に瀕していたのに空腹など覚えるはずもない。俺が力なく首を振ると、臨也は意外そうに目を見開いた。

「そうか。じゃあ、後で何かデリバリーでも頼むとしよう」
「あの、大丈夫です。俺もう……」

家に帰ります、という言葉は臨也の指先に塞がれてしまう。臨也は俺の腕を掴み、シートに身体を押し付けた。猫のようにしなやかな動きで俺の膝に乗り上げると、薄汚れた俺の頬を手の平で撫でる。

「い、ざやさ」
「口答えするつもり?」
「……そういう、わけじゃないです…けど」

反論は許さないと赤い瞳が告げていた。俺の言葉に満足げな笑みを浮かべ、臨也は狭い車内だというのに器用に俺のコートを脱がしていく。薄いインナーの上から俺の鎖骨を指先で辿ると、襟ぐりを広げて口づけを落とした。臨也が身を屈めたことでさらさらとした髪が首元に触れて擽ったい。臨也は何度も俺の鎖骨に口づけを落とすと、やがて俺の喉に強く吸い付いた。チリッとした痛みとともに生まれた鬱血痕を嬉しそうに白い指先でなぞって、臨也はうっそりと微笑む。

「よく似合ってるよ」
「……痕は残さないでくださいって言いませんでしたっけ」
「おや、これはご褒美だよ」

そう微笑むと、臨也は俺の膝から降りてカーテンを抉じ開けた。暗い街を照らし出す街灯の光が眩しくて、俺は思わず目を細める。

「―――褒美……それは仕事が出来たことに対して…?」
「いいや、そうじゃない。君が上手に言えたことへの……だよ」

意味を十分に理解できなかった俺は、疑問に首を傾げる。そんな俺をじっと見つめながら、臨也は薄い唇をゆっくりと開いた。不自然なほど赤く見える唇は、まるでルージュを引いているかのように映る。錯覚だと理解しているのに、その唇から視線を逸らせない。

「俺が忠告した時に、可愛くオネダリできただろ?」

助けてくださいって。臨也はそう嗤って瞳を眇めてみせる。虹彩の奥では、愉悦が煌々と輝いていた。


end.



title by moss




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